紀州の後南朝勢力
紀州は元来南朝の地盤であって、例えば、陸軍中将貴志彌次郎の菩提寺である海部郡梅原村(現在和歌山市梅原)の浄土真宗徳號寺には、紀北土豪連盟の名簿たる『三拾六坊名前帳』が伝わるが、その巻頭に「雑賀三十六坊は楠木正成に味方したことが起源」と明記する。
しかく南朝勢力が潜在する紀州に、真宗興正寺末の二寺院が注目される。
和歌浦中番の性應寺は、和田楠木氏の一族の安満右馬丞明武が吉野の御所で後醍醐天皇から阿弥陀仏を賜り、法号了願として開山した。初め天台宗であったが、本願寺の実質的開祖覚如上人の教化により、南北朝時代に一向宗に改宗、天文年間に性應寺と改号した。爾来、西本願寺下の興正寺派の中本山として紀州藩領に末寺六十二寺、河内・摂津にも末寺を擁したが、明治十年に至り、維新後に真宗解禁となった鹿児島に移転した。
和歌山城下の新中通りにあった真光寺は、大楠公の甥和田新発意源秀を開基とし、後醍醐天皇の時に真言密教の道場として泉州に創立したが、南北朝の康永年初(南朝興国年間)に一向宗に改宗、天文年間紀州に移り来り、藩内に三十五寺、泉州にも三寺を擁する大寺院となった。
和田楠木氏が開山した両寺は紀州領内、それも和歌山城下の周辺に、併せて百に近い末寺を有するが、檀家総数は無慮一万戸、信徒数は当然その数倍になる。かくて付近住民の大多数を檀家とした両寺は、南朝勢力が紀州西北部に張った宗教ネットワークであり、住民自治の拠点になったのである。してみると、両寺が密教から一向宗興正寺派へ改宗したのは、南朝勢力を真宗内に扶植する目的との推察も成り立つ。
南朝勢力が根を張る紀州領に、楠公社の存在を聞かない理由を、次のように思う。
『南紀徳川史』寛永七年(一六三〇)条に「是歳由比正雪、来遊於藩」とあるように、藩祖徳川頼宜は大楠公の衣鉢を継ぐ由比正雪(一六〇五〜五一)を紀州に招いた。正雪は大楠公の末裔を称した楠木不伝に軍学を学び、婿養子となって橘姓を称し、楠氏代々の通字「正」を名乗る気鋭の軍学者であった。
正雪は楠木流軍学の道場を江戸に開き、紀州侯との関係をひけらかして門弟を集め、その数三千人と称したが、慶安の変後遺品中に徳川頼宜の自筆書状が発見される。このために重大関与が疑われた頼宜は、辛うじて幕閣の追及を逃れたものの、終に失脚したので、以来紀州藩では、大楠公が暗黙のタブーになったものと推察される。
右に見た通り、幕末維新の諸事多端の中で、雄藩が先を争って楠公社創建の許可を求めたのは、当時最重要の政治事項と考えたからである。大政奉還と南朝復元の同時実現を目の当たりにして、「楠公顕彰」の本質は「南朝復元運動」であったので、これぞ維新の真の目的と覚った雄藩は、新政参加の意思を表すために楠社の設立を急いだのである。楠公祭祀は尾張・薩摩・水戸藩の競願となったが、これを国家の重要事業と判断した太政官は、明治初年に神祇事務局に命じて湊川神社を創建した。
水戸藩の南朝正統論は決して空論ではなく、朱子学の名分論からくる南朝復元を陽明学の知行合一精神で実現せんものと図っていたのである。南朝の後裔を探した光圀が、後亀山天皇の三世孫の熊野宮信雅王の末裔を見つけ出し、会津領澤村に秘かに庇護して、所謂熊沢天皇とした目的は正にそこにあった。
家康が定めた幕府の秘密憲法『公武法制』によれば、幕府の永世副将軍とされた水戸中納言の権能は、西欧中世の「選帝侯」に似ていて、自らは将軍に就くことなく、幕府の悪政に際して将軍を廃立すべきものとされた。これは、場合によっては徳川幕政に幕を引くこと、つまり政体の改変を意味する。
とすると、水戸藩が熊沢天皇を擁したのは副将軍とすれば越権になるが、政体改変の機会を利し敢えて南朝革命を実現するのが目的とも思われる。とすれば、歴代藩主が勤しんだ歴史研究も畢竟南朝復元に際しての理論武装を目的としたものか。
光圀と秘かに交流があった陽明学者熊沢蕃山(一六一九〜九二)は、自著に「我は高貴の生まれ」と述べているらしいが、播州池田侯(小楠公楠正行の末裔を称す)による異例の重用と、之に伴う幕府による厳重な監視の所以は、所詮蕃山自身の所論・学説に非ずして、その出自の南朝皇統たるに因るものと見るしかない。
覇者に大政を委任する天皇は、現実には生身の人間であるから、その即位・譲位を覇者が左右した例が史上珍しくない。覇者が新政体を樹てるに際して自前の天皇を擁した例を挙げれば、式家の藤原百川と山部親王(桓武天皇)、平清盛と安徳天皇、足利尊氏と北朝天皇である。『公武法制』の存在を知った雄藩は、「いつかは徳川氏に代わり、この手で天下を掌握せん」との大志から、秘かに「自前の天皇」を準備した。
譜代筆頭の井伊藩は、遠祖井伊道政が後醍醐の皇子宗良親王を遠州井伊谷に擁した故事で知られるが、江戸時代には宗良親王の兄尊良親王の末裔を、三浦天皇として三河国岡崎に隠した。
仙台藩もまた後亀山院の末裔小野寺氏を藩内に保護した。紀州藩では牟婁郡に南朝系朝里氏の蟄居を聞くが、詳細を知らない。ただし、藩士の書上を集めた「紀州家中系譜並に親類書」には、大塔宮護良親王の後胤が二家あり、何れも元弘元年(一三三一)に笠置山を落ちた親王が熊野に向かう途中、名草郡調月村の井口左近家に逗留して儲けた男子から始まる。
当初ごく微禄で召し抱えられた井口氏は、両家とも理由の判然としない異例の出世により、数代で大身になった。
維新の志士たちが天皇候補を「玉」と呼んだ例からすれば、水戸藩の熊沢天皇、井伊藩の三浦天皇、大和吉野郡黒淵の「堀の皇門」、紀州藩の井口氏、仙台藩の小野寺氏などは、定めし「隠し玉」であるが、現実に「堀川政略」に組み込まれたのは、毛利氏が周防国麻郷に保護した護良親王系光良親王の末裔である。もと長尾氏が匿い、次いで大内氏が庇護した光良親王を、毛利氏が引き継いで大室天皇としたが、その養子となった地家氏の寅之祐が孝明天皇の皇太子睦仁親王と入れ替り、「替え玉」となったのである。
万延元年(一八六〇)九月、水戸藩士西丸帯刀と長州藩士桂小五郎らの尊攘派が、長州藩の軍艦丙辰丸の上で結んだ「成破の約」は、藩士間の私的な盟約であって藩を挙げたものでなく、両藩内もいまだ尊皇攘夷派と開国佐幕派に別れていたから、直ちに具体的行動に結びつかなかったが、締約の背景には、それぞれ熊沢天皇と大室天皇を擁した両藩の激派が南朝復元で一致したことがあった。水戸藩の南朝復元志向は前述したが、長州藩でも桂小五郎(和田氏)が吉田松陰の南朝復元論を受け継ぎ、具体的実現を図っていた。因みに、当初松陰の指した「玉」は長州荻在住の大室寅助であったが、やがて本家の周防国熊毛郡麻郷大室家の養子寅吉(のち寅之祐を称す)に替ったとの説の詳細は未詳である。