(あい)(ざわ)正志斎の『時務策』

 

 「堀川政略」を推進した中心人物の一人、一橋慶喜は維新後の人物月旦において、誤った評価を受けて今日に至っています。慶喜の師事した会沢正志斎が慶喜に与えた『時務策』を下に掲げ、当時の情勢がいかに今日と似ているかをお考えいただきたいと思います。

 なお、この一節は、平成24年11月公刊の落合莞爾著『明治維新の極秘計画』(成甲書房)から抜出したものです。

 

 

會澤正志斎(1782〜1863)は水戸学を代表する学者で、しかも当時の日本を代表する思想家でした。吉田松陰(しょういん)などの思想家・志士は直接し、または著作などを通じて、大きな影響を受けています。

文久二(一八六二)年、正志斎が将軍後見職一橋慶喜に献上した『時務策』の大意は以下のようです。

 

家康公が鎖国を定められたのは、耶蘇(やそ)教が人心に大害あることを洞察(どうさつ)されて信徒を根絶やしにしたのであるが、その根柢(こんてい)が残っていて島原の乱が起ったから、以後外国を厳しく拒絶して今に至る。

しかるに近時、外国がしばしば来航して通信を求め、幕府は通信の弊を知りながらも時勢を斟酌(しんしゃく)して方便を用いているらしい。天下を治めるには時勢を知る必要があるのである。

家康公の時はわが国力は強大であって、外国はそうでなかった。耶蘇教徒も人心を惑わすだけで、反乱には及ばなかった。したがって外国をすべて拒絶するのではなく、通信を結ぶ国々もあった。

島原の乱が起って、外国の介入が天下の大害となることを洞察し、家康公の禁制をいっそう強化して、すべての外国を拒絶した。これは時宜を得て変通したものである。

近年のごときは、外国が甚だ強大になり諸国が同盟を結んでいて、一国と事を構えれば諸国が敵に回るから、寛永時代とは形勢一変して外国との通好はやむを得ない時勢となった。

然しながら、通好を続けて外患に遭わないならば、人心が平和ボケして兵力弱まり、外国がわが国を軽侮(けいぶ)して、その心の(まま)にいかなる無理を要求してくるか予測が付かない。

富国強兵政策を実行して士気を励まし、相手から平和を破ることがあれば迅速に打破するべしとの気概があれば、相手の恫喝(どうかつ)を恐れず、天下が衰弱する前に不慮の変に応じることができる。

(中略)

或る人の問いに、国法に背いて開国するのは神国の恥であり、死ぬ覚悟で国法を守るべきである。文永・弘安の役も、蒙使(もうし)を斬り国中(くにじゅう)必死に決して、遂に撃退したではないか。

答えて曰う。外国全面拒絶は寛永年間の良法ではあるが、朝廷の律令にもなく家康公の祖法にもない。寛永時代の時宜に応じた臨機の法令であるから後世も改正できない重要法令とは言っても、内外の大勢が一変したからには、やむを得ず変更することが一概に悪いとは言えない。この一条だけを護ろうとして、国の存亡(そんぼう)を度外視し、その他を顧みず、ただただ固守を主張するのは偏った論である。

文永の蒙古襲来の時は、蒙古がその強大を誇って来寇(らいこう)しただけであって深刻なものではなかったから、一時的に対抗しただけで済んだ。しかし、現在は海外諸国がすべて平和的に通好する中で、日本だけが孤立して鎖国する時は、諸国の兵を一国で引受けることになり、国力も耐え難いこととなる。時勢を無視し、寛永以前の政令をも考えず、それ以後の時変も察しないのでは、明識とは言えないのである。

若者の中には、「義に当りては国家の存亡は論ずるに足らず、(ただ)其の義を行うべし」などと唱える者が在ろうが、「天下は天下の天下にして一人の天下に非ず」というべきで、臣下の身を以て天下を一己(いっこ)の私物の如く、軽々しく之を放擲(ほうてき)せんとするのは、臣子の精神と言えない。いわんや日本は皇統正しき万国に比類なき国なので、国家の重さは他国と同日の談ではない。

(後略)

 

 さすがに一流学者の見解は、時代を超えて今日でも十分通用することに驚嘆させられます。ことに、私が勝手に太字にした文中の二箇所を再読して下さい。前者は、わが国の戦後状況とこれに対する中華人民共和国の動静に、また後者は憲法九条の論議にそのまま適用できます。

 

正志斎壮年の著である『新論』が三十七年を経てこんなに変化したのですが、『新論』が外国との通好に潜む危険性を訴える警世の書であるため、そのジャーナリステイックな性格に鑑みると激語とて不自然ではなく、これに対して『時務策』は、為政者たるべき一橋慶喜公に献策する帝王学の理論ですから、自ずから矯激(きょうげき)に走らず悠長(ゆうちょう)に陥らず、坦々と貴人に上申する口調なのです。

誰にせよ『時務策』を(つぶさ)に読めば、慶喜がこれを徹底的に理解して自らの指針とし、果たすべき時務をこの通りに実行したことが判るでしょう。

しかるに、巷間正志斎と言えば『新論』ばかり俎上(そじょう)に載せられ、『時務策』が一顧だにされないのは極めて不可解な事です。慶喜が常に座右に置いたとみられる『時務策』の内容を知れば、維新以来の慶喜に対する偏った批評が成り立たなくなるのを、史家たちが恐れたのでしょうか。

因みに、安政六年孝明天皇から水戸藩に()()(みっ)(ちょく)が下された際、水戸藩内では佐幕意識により返納を唱える門閥派が復活し、これに反対する天狗党との間で抗争が再燃します。さらに天狗党内でも過激派(激派(げきは))と返納派((ちん)())の対立が生じますが、正志斎は密勅の返納を主張して、両派の対立の収拾に努めました。その見識の高さは謂うまでもありません。