ここには、本会の代表落合莞爾(落合莞尔)が月刊誌『ニューリーダー』及び『月刊日本』に掲載したものから、幾つかを選んで諸賢の御笑覧に呈する予定です。本会HPの開設記念として、中国の閲覧者のために、特に中文訳を加えました。
1.キッチナー元帥と奉天の古陶磁
希基拉元帅和奉天古陶瓷
近来、中国政府は流出文物の回収に血眼である。新興財閥を使い、蒐集した文物を政府に寄贈した場合に税制の恩典を与える仕組みで、政府が労力を煩わさずに済むが、評価の公正を確保するために公開オークションによることが条件らしい。そこで各財閥は続々と独自のオークション会社を設立している。
近来,中国政府非常执着于流失文物的回收。利用新兴财阀收集文物并赠送给政府,然后政府回报以税收的优惠这样的方式来进行着。虽然政府不需要自己出力,但是为了确保评价的公正性似乎附加了需要公开拍卖这一条件。于是,各财阀相继设立了自己的拍卖公司。
中国からの古文物の流出は一九一一年(わが明治四四年)十月十日に起きた辛亥革命により本格的に始まった。元来恒常黒字国であった清国の貿易収支は、アングロ・ユダヤ商人が持ち込んだアヘンにより逆調化し、一九世紀の後半は完全に赤字になった。以来貧窮化した民間から家什民具の如きは流出したが、古文物の目ぼしい物は悉く清朝皇室に集中していたから、日清戦後の列強侵略に遭った期間も、辛亥革命前では離宮が外国軍に襲われた義和団事件だけが例外で、目立った流出はなかった。
中国的古代文物流失是从1911年(我国明治44年)十月十日发生的辛亥革命起才真正开始的。本来在贸易收支中一直是顺差国的清朝,在英犹太商人把鸦片带进国内后发生了逆转, 19世纪后期完全变成了逆差。之后变得贫穷的民间卖出了家具之类的东西,但是古代文物大多都集中在清朝皇室,因此即使在中日甲午战争后,辛亥革命前,除了被外国军队袭击了离宫的义和团事件外,没有明显的流出。
明治四十二年、イギリス国王エドワード七世は、同盟国日本が宇都宮で陸軍大演習を行うに際し、皇族の名代としてインド軍司令官キッチナー元帥を派遣した。中国陶磁の蒐集家であったキッチナーは、その機会を利用して北京に立ち寄り、次いで戦史研究の目的で旅順・南山・遼陽の日露の激戦地を視察するため、駐満第十一師団長伊地知幸助中将の遼陽の宿舎に泊った。接伴の任に当ったのは満鉄総裁特別秘書の上田恭輔である。
明治四十二年,英国国王爱コ华七世在同盟国日本于宇都宫进行陆军大演习之际,派遣印度军司令官希基拉元帅作为皇族的代理参加。作为中国陶瓷收藏家的希基拉利用这个机会去了北京,以战争史研究的目的去旅顺、南山、辽阳等日俄战争中激战的场所视察,并暂住在驻满第十一师团长伊地知幸助中将在辽阳的住所。接待他的是当时任满铁总裁特别秘书的上田恭辅。
上田は『支那陶磁雑談』で当時を追憶する。アメリカに留学して博士号を取り、パリにも遊学した上田は美術に詳しかったから、奉天宮殿の磁器庫に康煕以後嘉慶までの歴朝官窯の御窯品が千六百六十種類、数量にして一万個を超すことを元帥に話した。すると元帥は興奮し、見学が許されるか、と聞くから、遠来の貴人を断る筈はないと上田は答えた。重ねて元帥が、「もし見学に行ったら一点位は呉れるだろうか」と問うので、「歴代の御物ですから、それは無理でしょう」と上田は答えた。それが常識だったのである。
しかしキッチナーは「いや、必ず呉れる筈だ」と自信ありげに云う。実は、北京では国賓待遇で幼帝溥儀主宰の宴会を受け、卓上に出た「桃花紅」の香合を褒めた世ころ、思いもよらず贈呈されて味を占めたからだが、上田はそれを知らなかった。
上田当时回忆了《支那陶瓷杂谈》。因为曾在美国留学取得了博士学位,并且有在巴黎游学经历的上田对美术十分了解,向希基拉元帅介绍了奉天宫殿瓷器库中有康熙以后直到嘉庆为止历代官窑的御窑品有一千六百六十种,数量超过了一万个等事项。于是希基拉元帅非常兴奋,询问是否可以允许参观。上田回答说“应该不会拒绝原来的贵宾的要求的”。于是,希基拉元帅又提出,“如果我去参观的话,是否会给了一件呢?”上田回答说:“因为是历代的御用物品,大概不可能吧。”。那当然是常识性的回答。但是希基拉元帅自信满满地说:“不会的,肯定会给我。”实际上,在北京以国宾待遇参加了幼帝溥仪主持的宴会上,在赞赏了桌上摆设的“桃花红”的香盒后,没有想到竟然就送给了他让其慢慢品玩。上田似乎并不知道那件事情。
元帥から、「見学に行けば必ず一点を頂戴出来るように交渉せよ」との要請を受けた上田は、困惑しながらも満鉄奉天公所長佐藤安之助中佐に斡旋を依頼し、旧知の奉天駐在英国領事ウイルキンソンにも頼んで、東三省総督兼管三省将軍事の錫良に一品下賜を懇請せしめた。
錫良としては、下賜はともかく、奉天政府の極端な財政難の折から、元帥の突然の来奉を賄う費用(現時の邦貨で二〜三億円)の目途が付かぬため、「北京に伺いを立てたが返事がまだない」との口実を構えて、おいそれと返事をしない。元帥は元帥で「頂戴出来ぬとあらば、見学には行かない」と不機嫌で上田に当たる。その場合には、一行は奉天の手前の蘇家屯駅から安奉線に乗り、朝鮮を経由して日本へ向かう予定で、明日は遼陽を立つと云う段になった。
“去参观的话请务必送给我一件。”从希基拉元帅那里接受了这样要求的上田非常困扰,但是依然去满铁奉天公所长佐藤安之助那里斡旋,也拜托了驻奉天的英国领事威尔金森。还恳求东三省总督兼三省将军事的锡良赐予其一件。在锡良看来,且不说赏赐的事情,在奉天政府财政极端困难的时候希基拉元帅元帅的突然到来,其招待费用目前都没有着落(以现在的货币计算需要二、三亿日元)。所以以“向北京请示了,但是至今没有回音”为借口敷衍了他们。希基拉元帅则非常不满的告知上田:“不给我的话,那么就不去参观了。”在这样的情况下,一行人预定从奉天的苏家屯站坐上安奉线,经由朝鲜前往日本,第二天就要离开辽阳。
何とか接待費の遣り繰りを付けた錫良総督は、急遽元帥一行の宿泊施設を奉天宮殿内に新設し、天津のアスターハウス・ホテルから多数のボーイを呼ぶ段取りを付け、北京からようやく一品贈呈の許可を得たと報じてきた。その吉報は、伊地知師団長主宰の送別宴会の席上に、奉天英国領事館と満鉄奉天公所の双方から、同時に電報でもたらされた。忽ち上機嫌になった元帥は、一行を引き連れて奉天に向かい、宮殿内域の商品陳列所を改造した俄か迎賓館に入ることとなり、独りで磁器庫の見学に向かった。
总算得到接待费的锡良总府,急急忙忙在奉天宫殿新设了希基拉元帅一行的住宿设施。并从天津的一家名为浦江饭店的宾馆临时调派了很多服务生,也终于从北京得到了赠送一件给元帅的许可。在伊地知师团长主办的送别宴会上,英国驻奉天领事馆和满铁奉天公所两边同时通过电报得到了这一好消息,突然变得心情十分愉快的希基拉元帅就急于带着一行人前往奉天,住在刚刚由宫殿内部的商品陈列所改造的迎宾馆,并独自一个人开始参观。
上田が同行しなかったのは、元帥一行の旅程を朝鮮総督府と打ち合わせることと、折から、ロシア蔵相ココツェフとの非公式の会談のためハルビンに向かう枢密院議長伊藤博文に随行していた満鉄総裁中村是公に(おそらく電報で)報告する必要があったためで、満鉄奉天公所に留まった。時に旧暦九月十三日、新暦では十月二十六日であった。午前九時に伊藤の乗った特別車両はハルビン駅に到着し、降り立ったプラットホーム駅でロシア儀仗兵を閲兵している時に伊藤は暗殺される。犯行は、伊藤に随行していた貴族院議員室田義文の証言を無視して、韓国人テロリスト安重艮によるものと看做されて、今日に至っている。
上田之所以没有通行是因为需要和朝鲜总督府商量希基拉元帅一行的行程问题,而且之后向满铁总裁中村报告(大概是用电报的方式),所以必须留在满铁奉天公所。而此时中村正陪同枢密院议长伊藤博文前往哈尔滨与沙俄财务大臣可可希夫等人进行非正式会谈。当时正是阴历九月十三,公历十月二十六日。上午九点伊藤乘坐的特别列车在抵达哈尔滨站,在站台上检阅沙俄军仪仗队时被暗杀了。陪同伊藤随行的贵族院议员室田义文的证言被无视,至今仍被认为是韩国恐怖分子安重艮犯下的罪行。
ところが、キッチナー元帥の如上の行動を、日本陸軍が偶然を装って伊藤博文と遭遇させ、互いに面晤させて伊藤の進める日露協商に対する海洋勢力側の意思を伝える目的があったとする解釈がある。国際協調主義の信念を強く保持していた伊藤は明治三十四年、後任首相桂太郎の策によって日露協商推進のためにペテルブルグを訪問中、突如日英同盟を締結されて政治的権力を失ったが、ロシアの蔵相兼首相(大臣会議議長)ココツェフとの非公式会見は後藤新平の周旋によるもので、日露戦後の満洲・朝鮮問題を話し合うためと推測されていた。
真相は分からないが、とにかくイギリスを本拠としたワンワールド海洋勢力系の意向には合致しないことは確かである。もし、偶々にせよ、キッチナーが奉天に滞在中なら、特別列車の運行予定を変更して短時間の表敬会見はむしろ当然で、その機会に率直な意見交換が有り得た状況であった。
但是,希基拉元帅上述的行动也有解释说是日本陆军想要伪装成偶然遇到伊藤博文,会面之后伊藤向其传达关于日俄协商的海洋势力方面的意思。国际协调主义信念很强的伊藤博文在明治三十四年,后任首相桂太郎的策划下为了推荐日俄协商正在圣彼得堡访问中。虽然因为突然日英同盟缔结丧失了政治权利,但是在后藤新平的斡旋下还是与沙俄财政大臣兼首相(大臣会议议长)的可可希夫举行非正式会谈。据推测谈话内容主要是关于日俄战后的满洲和朝鲜问题。虽然尚不知道真相是什么。但是总之和本部位于英国的世界政府海洋势力系的意愿不一致这一事实是可以确定的。不管是不是偶然,希基拉元帅在奉天滞留期间,伊藤博文当然可以更改特别列车的运行,短时间的会见他。那时候就可以直接坦诚的交换意见。
実際は、伊藤一行は一日違いで奉天駅を通過し、キッチナーが奉天に着いた時にはハルビン駅で襲撃された後であったが、或いはこれは、錫良が面子にこだわったために奉天宮殿の磁器庫見学が一両日遅れ、それにより生じた齟齬かも知れないし、この企みを事前に察知した伊藤が、奉天での元帥との邂逅を故意に避けたとの見方もあろう。
实际上,伊藤一行在不同的日子路过了奉天站。希基拉到达奉天的时候已经是伊藤在哈尔滨站被袭击的后一天了。或者可能是锡良碍于面子把奉天宫殿瓷器库的参观推迟了一两天,并由此产生了一些分歧。事先察觉到这个情况的伊藤故意避开了在奉天和希基拉元帅的见面吧。
当時の人的配置を見れば、キッチナー一行の接遇に当たった伊地知中将は、紛れもなく薩摩ワンワールドの一員であった。当時、薩摩ワンワールドの総長は高島鞆之助で、その地位を間もなく上原勇作中将に譲ろうとしていた。満鉄総裁中村是公は、台湾総督府以来の後藤新平の腹心である。
後藤は、岳父安場保和が杉山茂丸の要請を受け、福岡県知事として石炭採掘権を玄洋社に払い下げてその財政基盤を創造したことから、当然玄洋社との関係が深く、また上原勇作とは、後の原敬暗殺に際して、手を取り合って玄洋社員を使嗾した仲で、さらには、後の大正十四年の事ながら腹心中村是公の五女愛子が上原勇作の長男七之助と結婚する間柄でもある。
看看当时人员的配置的话,负责街道希基拉一行的伊地知中将毫无疑问是萨摩世界政府组织的一员。当时萨摩世界政府组织的总长是高岛之助,不久就把职位让给了上原勇作中将。
满铁总裁中村是公是台湾总督府以来后藤新平的心腹。至于后藤,其岳父安场保和接受了杉山茂丸的要求,作为福冈县知事把石炭采掘权给了玄洋社,这成为了玄洋社成长的基础,当然和玄洋社的关系非同一般。还有上原勇作,在之后的原敬暗杀的时候,是指使玄洋社员执行的一员。另外,在之后的大正十四年,其心腹的中村是公的五女爱子和上原勇作的长子七之助成婚,成为了亲家关系。
上田恭輔は、日露戦中に陸軍大将児玉源太郎の奏任通訳となり、満鉄設立のためにイギリス東インド会社の研究をした事で知られているが、台湾総督府以来の後藤・中村ラインで、後藤の関与が濃厚とみられる児玉の急死により満鉄の初代総裁に就いた後藤が、二代目総裁に据えた中村是公の特別秘書となっていた。
伊藤を実際に銃撃したのは、韓国駐劄軍参謀長兼憲兵隊長の明石元二郎少将が選抜した狙撃手と見られる。明石は玄洋社系軍人で、上原勇作の股肱であった。こうして観れば、上田恭輔が中村是公の意を受けて、キッチナーの奉天訪問を企んだという仮説にも根拠はある。
上田恭辅在日俄战争中做过儿玉源太郎的御用翻译,在满铁设立的时候从事了英国东印度公司的研究而被大家所了解。在台湾总督府以来的后藤・中村这条线上,因为和后藤颇有牵连的儿玉的猝死,后藤成为了满铁的首位总裁,之后中村是公继任为第二代总裁,后藤成为了其特别秘书。一般认为实际上枪击伊藤的是,韩国驻劄军参谋长兼宪兵队长明石元二郎少将选拔的狙击手。明石是玄洋社系的军人,上原勇作的得力助手。这样看来的话,上田恭辅是受了中村是公的指使,安排了希基拉的奉天访问一说也是有根据的。
ともかく、伊藤博文が明石少将の指揮でハルビン駅頭に倒れたその日、キッチナーは単身奉天宮殿内の翔鳳閣の二階の磁器庫でほとんど半日を費やし、午後四時になると大きな箱を二つぶら下げて意気揚々と迎賓館に帰ってきた。
「オヤ元帥閣下、あの電信には一品とあったじゃありませぬか?」と訝る上田に、キッチナーは、「ソーさ。支那古来の風習に因って一品と言へば一對のことであり、一個のことでは無いじゃないか」と即答したので、その厚顔ぶりに上田は二の句が次げない。
总之,在伊藤博文被明石少将指使下被害于哈尔滨车站的那一天,希基拉一个人在奉天宫殿内的翔凤阁二楼的瓷器库耗费了半天的时间,下午四点抱着两个大箱子意气满满的回到迎宾馆。上田惊讶的问:“元帅阁下,电报中不是说只给您一件的么?”。希基拉立即回答到: “是啊。但是中国自古以来的风俗所谓一件就是一对东西的意思,并不是一个啊。”对于厚颜无耻的他上田没有接得上第二句。
上田は、この事件でもう一度驚かされた。後日偶然に奉天宮殿の古陶目録の台帳のコピイを入手し、多大の興味を以て通覧していると、「江豆紅太白尊一百四十八件」の項目の下に細字を以て「内二件,宣統元年九月十三日に於て総督錫良、巡撫程徳全倫旨を奉遵して英国元帥希基拉将軍に送る」と記入してあった。ところが同頁の「江豆紅八道碼瓶二十八件」の下にも同じ文句が書いてある。電文をかざして、「一品は一対だから二個寄越せ」と強請したキッチナーに清国大官が便乗した。しかも「八道碼瓶」は「太白尊」より遥かに巨物で、その価値は計り知れないのである。正に、上には上があることを、上田は実感した。
对于这件事情,上田还震惊了一次。之后某日偶然得到了奉天宫殿古陶瓷目录台帐的复印件。抱着很大的兴趣浏览了一下,在“江豆红太白尊一百四十八件”的项目下有小字写着 “其中两件,宣统元年九月十三日在总督锡良、巡抚程コ全伦旨意下赠送给英国元帅希基拉将军。”但是在同一页的“江豆红八道玛瓶二十八件”下面也写着同样的句子。仗着电报强词夺理要求“一件就是一对,所以给我两个”的希基拉乘机从清朝大官手中夺取更多的文物。
而且“八道玛瓶”是比“太白尊”大的多的巨大物品,价值无可计量。上田真实的感到真是天外有天人外有人。
第一次大戦中の大正五年六月五日、特命を受けて装甲巡洋艦ハンプシャーでロシアへ向かったキッチナーは、ドイツ潜水艦によりバルト海で沈没し、幕僚と乗組員六四三名が死亡したが、キッチナーの遺体は発見されなかった。その後、元帥の遺言状に基づき、遺産を処分して幕僚の遺族に分配するため、中国陶磁のコレクションを競売に付した処、「江豆紅太白尊」一対が四千五百ポンドで落札された。金兌換停止の事で正確にはいかぬが、当時の英貨一ポンドは本位制下の金含有量で一〇・六五円に当たり、これを適用すると四万八千円になり、今日の物価では四億円を超すことになる。とすると、総督と巡撫が横領した「八道碼瓶」は(どんなものなのか私には分からないが)どれほどの価値があるのか。それが市場に出ないのは不思議である。
第一次世界大战中的大正五年六月五日,接受特命乘坐装甲巡洋舰前往沙俄的希基拉在波罗的海被コ国潜水艇击沉,幕僚官员和乘务员六百四十三人死亡,但是希基拉的遗体并没有被找到。之后,根据元帅的遗书,为了给幕僚的遗族分配只能变卖遗产。中国陶瓷器收藏也被拍卖。“江豆红太白尊”一对拍卖价为四千五百英镑。因为黄金兑换已经停止所以准确的数字难以估计,但是当时英国货币一英镑折合十点六五日元,折算后是四万八千日元。折算成现在的物价的话超过了四亿日元。于是,从总督和巡抚那里蛮横抢夺到的“八道玛瓶”(我也不知道到底是怎样的东西)到底值怎样的价格,非常不可思议的是并没有出现在市场上。
前に、北京でキッチナーが、皇帝溥儀から「桃花紅合子」一対を頂戴したとの推測を述べたのは、細川護貞『怡園随筆』に以下の文があるからである。
之前,推测希基拉在北京从皇帝溥仪处得到的“桃花红盒子”一对,在细川护贞的《怡园随笔》上有如下的描述。
昭和三十一年十一月十日、パーシヴァル・デヴィッドと細川護貞は博物館の一室で会った。初来日のデヴィッドは護貞の父細川護立侯の蒐集品を見に来たのである。護貞が持参した父の遺品「桃花紅」の対の香合を眺めていたデヴィッドは語りだす。
「キッチナーはインド駐在から格下げの中国駐在を自ら希望した。ある時、清国皇帝の招宴に連なり、宮殿の名器に嘆声を発したところ、高官から≪何がお気に召されたか?≫と問われ、桃花紅の香合一対と花瓶一対が好みに合うと答えた処、それらを下賜されたので、二対の名品はキッチナーの所有となった。その死後、この二対はパートリッジ氏の所有となり、次いでワイドナー・コレクションに入り、現にアメリカのナショナル・ギャラリーの有に帰している。
昭和三十一年十一月十日,昭和三十一年十一月十日、帕西巴鲁迪比コ和细川护贞在博物馆的一个房间碰到了。第一次来日的迪比コ是来看护贞的父亲细川护立侯的收藏品的。看到护贞拿出来的父亲遗物的“桃花红”一对的香盒后迪比コ说:“希基拉自己要求从印度驻在降格为中国驻在。某一次,清国皇帝的招待宴会上,连声感叹宫殿的名器。高官询问‘您看上了哪一件么?’他回答说非常喜欢一对桃花红的香盒。于是皇帝赏赐给了他。于是这两对名品就成了希基拉所有。他死后,成为了帕特里吉氏的所有物。然后进入了怀特纳的收藏,现在是美国的国家美术品陈列馆所有。”
実は、上田が見た奉天の古陶台帳の写しは日本にもある。国立国会図書館アジア歴史センターの「清国革命動乱の際奉天宮殿宝物売却凡説一件」と題した記録の中に在り、上田の云う贈呈の記録もそのまま書かれている。他には、そんな記録はないから、北京ではともかく、奉天では余程の例外だった。その中に香合一対の贈呈記録はないから、元帥遺品の中に在る香合は北京でせしめてきたもので、両者をまとめた話になったのだ。
实际上上田见到的奉天古陶瓷台账的复印件在日本也有。在国立国会图书馆亚洲历史中心的题为《清国革命动乱之际奉天宫殿宝物买卖凡说一件》的中间是有的。而且也有关于上田所说的赠送的记录。其他并没有那样的记录。对于北京来说,奉天的这个事件是非常例外的一件事情。其中也并没有关于那一对香盒的赠送记录。比对两者的话之后只能认为在元帅遗物中的那对香盒是其通过各种方式占为己有的东西。
『怡園随筆』のこの項には間違いが多いが(例えば戦前も日本に来ているデヴィッドを初来日としたり、キッチナーが中国駐在になったり)、おそらく護貞の聞き誤りであろう。こうして訛伝が生じて世人を惑わすが、決して意図的ではないので、偽史ではない。むしろ史実を立体的に見る材料となるから、書き遺してくれたことを感謝すべきであろう。
《怡园随笔》中关于这一事项的记录也有很多的错误(比如把战前来过日本的迪比コ说成首次来日,把希基拉说成中国驻在),恐怕都是护贞的误听。于是产生了这样的讹传误导了世人,但绝不是有意而为之,因为并非伪史。甚至于可以把其看作是能更多方面的看待史实的史料,应该感谢其留给我们这些记录。