4・清朝宝物の運命(2)
4・清朝宝物的命运(2)
ここまで三回に亘り、奉天宮殿の清朝秘宝について述べたが、実はこの他に、成立の経緯を異にする宝物が奉天にあった。それは乾隆皇帝が極秘に隠匿秘蔵した数千点に及ぶ各種美術品で、その成立の時期を「四庫全書」が完成した乾隆四十七(一七八二)年と推定する根拠は、乾隆帝がこの年に奉天に文遡閣を建て、宮殿の改装など大工事を行っているからである。つまり、奉天宮殿の大工事に紛れて宮殿外の数か所に宝物の秘納庫を設けられたものと推量するわけである。
到上月为止连续两次讲述了关于奉天宫殿的清朝秘宝的事情。实际上除了这些还有其他一些经过。宝物在奉天,那是因为乾隆皇帝极其秘密的将数千件各种美术品藏匿在那里。成立的时期据推测应该是和《斯库全书》完成的时间一样在乾隆四十七年(一七八二年)。因为乾隆帝于这一年在奉天建造了文遡阁,还大规模的改造了宫殿。所以说大致可以推测为,借大规模奉天宫殿改造之际从数处迷藏库中将宝物转移到了奉天。
その正確な場所は分からないが、大正五年暮れから六年二月にかけてその宝物を接収した奉天省長兼督軍の張作霖が、一部を奉天軍司令部(張氏帥府)に移したものの、残りを北陵内の番小屋に保管していたことから見て、秘納庫は元々広大な北陵の中に、数か所に分けて設けられていたものではないかと思う。奉天北陵は清朝第二代皇帝皇太極の廟所であって、清朝時代には番兵が常駐して厳しく警護していた。例えば紀州藩が下津長保寺を、金沢藩が卯辰神社を御家重代の宝物の秘庫としたように、古今東西に亘り、秘宝の隠し場所は古社寺と相場が決まっているが、蓋し北陵は宝物隠匿に最も相応しい施設であった。
虽然具体的地方并不明确,但是通过大正五年晚期一直到大正六年二月接收宝物的奉天省长兼督军的张作霖除了将一部分转移到司令部(张元帅府)外,剩下的全部转移到北陵内的警备室内保管这一点来看,笔者认为秘藏库应该是在面积很大的北陵中分设了数处来安置。奉天北陵是清朝第二代皇帝皇太极的陵墓,清朝时期一直有守卫严格的守护。举个例子说,就像纪州藩把下津保寺、金泽藩把卯辰神社作为家族历代财宝的秘密仓库一样,纵观古今东西,秘宝的藏匿场所一般都是在古寺社。所以说北陵也是藏匿宝物最适合的地方。
宝物の倉庫として既に奉天宮殿を利用しているのに、乾隆帝がわざわざ隠し蔵を設けた理由を、皇帝が漢民族の意識に染まったからだと、吉薗周蔵は説明している(『周蔵手記』)。則ち、表面に見せる何倍もの財貨を隠すのが漢族富豪の一般的風習で、貴重な財物は他人に見せないが、それにも法則がある。所有財物を四級に分け、A級は絶対に他人に見せない。B級は、必要に応じて敵の上使(交渉相手)にやや見せる。相手に褒めさせて強引に押し付けるという巧妙な贈賄が目的である。C級は応接間に飾るもので、D級のごときは居間に転がしておいて、客の目に留まったら躊躇せずに与える。清朝の支配者満洲族も、永年漢族社会に暮らすうちに漢族の気質に染まり、紫禁城にはB級宝物を秘蔵し、C級を日常に飾り、A級宝物にあっては存在そのものを隠す癖が付いた、と云うのである。
吉薗周藏认为,既然已经把奉天宫殿作为了收藏宝物的仓库,之所以乾隆帝还特意设置了秘密藏匿这一方式的理由是受到了汉民族意识的影响。(《周藏手记》)。也就是说汉族富豪的习惯是一般隐藏起来的财富数倍于表面上看到的。所有贵重的财物都不给别人看。但这也有一些约定俗成的规则。具体的说,把全有的财物分成四级。A级是绝对不给其他人看的;B级是必要的时候给一些重要的对象(交涉对象)看的。出于可以让对方赞赏自己收藏的一种目的;C级是装饰在招待室内的东西。D级之类的东西则是安置在卧室。如果客人喜欢的话可以毫不犹豫的赠送给客人。清朝的支配者满洲族因为常年在汉族社会生活也沾染了汉族的风气。紫禁城内秘藏了B级的宝物,C级则日常装饰。仅有A级宝物连放置的场所都要隐藏起来。
大正九年七月、奉天に派遣された吉薗周蔵に上記の説を吹き込んだのは、既に紹介した満鉄総裁秘書の上田恭輔であった。それを聞いた周蔵が、漢族特有の財貨隠匿の習慣だけに絞ったのは説明として不完全で、その根底にある面子意識を知らねば、完全な理解は無理だろう。識者によれば、面子の実質は、極度に形式化された虚栄心が固定化して漢族の根底的行動規範となったものらしい。虚栄心には様々な形態があるが、その最たるものは豪放磊落を気取る事で、要するに吝嗇の謗りを受けたくない。その結果として、「他人に所有物を褒められたら無条件で与うべき」との行動規範が固定化したが、上述したように形式化された虚栄心であって、本音では与えたくない。そこで、絶対に他人に与えたくないA級品は、その存在を絶対的に隠すことで、規範と本音の矛盾を回避したわけである。乾隆帝の如く一天万乗の主であっても、意識が漢族化したからにはその根底的行動規範に従わざるを得ず、因って自らA級品を選んで奉天城に送り、厳重に隠匿した。上田のそんな説明を、周蔵は単純化して理解したのである。
大正九年七月,向被奉天派遣去的吉薗周藏解释上述说法的正式满铁总裁秘书的上田恭辅。听到这些的周藏觉得,仅仅因为汉族特有的财富隐藏习惯来解释是不完整的,其中还有面子意识的问题。不理解面子意识的话是不可能完全理解的。据一些知情人分析说,面子的实质是固定化了的极度形式化的虚荣心。并已经成为了汉族人本质上的行为规范。虚荣心虽然是有各种各样的形态。但是最极端的情况就是豪放磊落的气魄。简单来说就是拒绝被称为吝啬。于是,“被他人称赞的话就要无条件的赠送”称为了固定下来的行动规范。但是,上述的仅仅是形式化的虚荣心而已,并非真心的。本质上就是不想给别人。于是,绝对不想给别人的A级品连其存在本身也要被隐藏。目的是为了回避行为规范和内心真实想法的矛盾。即使是像乾隆帝那样的万乘之尊,既然意识被汉族化了那么也必须遵守其根本的行为规范。所以,亲自挑选了A级品送往奉天城,悉心藏匿起来。上田的这些说明被周藏单纯化片面的理解了。
乾隆帝の奉天秘宝は秘密性に本質があるから、愛新覺羅氏の中でも、本流しか存在を知らされていなかった。明治四十四年辛亥革命で清朝が倒壊した時、その存在を知っていたのは幼帝溥儀の実父醇親王と僅かの側近だけであったが、前年に紫禁城に入り、内廷の小院に住んでいた堀川辰吉郎にその存在を告げたのは、愛親覺羅氏本貫の地たる満洲(清朝の東三省)の宗主権を確保するための原資として、その活用を委ねたのである。
乾隆帝的奉天秘宝本质上是机密,所以在爱新觉罗氏内部也只有本家才知道其所在。明治四十四年因为辛亥清朝崩溃后,知道其存在的仅仅是幼帝溥仪的亲生父亲醇亲王和极少数的心腹。所以将宝物的存在告知前一年才进入紫禁城住在内廷小院的堀川辰吉郎是为了作为确保爱新觉罗氏祖籍所在的满洲(清朝的东三省)的宗主权的运作资金,委托他妥善使用。
既に観たように、奉天宮殿と熱河避暑山荘の清朝什宝は、革命直後に、早くもその処置が列強の関心を呼び、陶磁器と文遡閣の書籍に対してはわが皇室も取得希望を漏らしたが、大正2年に大総統袁世凱が国務総理熊希齢に命じて北京に移送させ、終に放出されなかった。乾隆帝の奉天秘宝がその間も奉天北陵に静まり返っていたのは、それだけ秘密が保たれていたのである。大正三年欧州大戦が勃発、日本の対華二十一箇条要求や袁世凱の帝政復帰工作が進む中で、堀川辰吉郎の命を受けた大谷光瑞が乾隆秘宝を用いた工作を秘かに立案していた。この辺で堀川辰吉郎の正体を明かさねば、本稿はもはや諸賢に認めて貰えまい。辰吉郎は明治十三年、孝明帝の血統を享けて京都の堀川御所に生まれた。明治二年、西郷・吉井・大久保の薩摩三傑が宮中改革を図り、孝明帝の女官らを京都に留めたことは周知であるが、実はその女官たちは、維新後も京都に在って堀川御所に住した京都皇統に仕えたのである。堀川御所は明治天皇の京都行在所を名目に設けられた施設で、堀川通り六条の日蓮宗本圀寺旧境内にあった。本圀寺は足利尊氏の叔父日静上人が鎌倉本勝寺をこの地に移して皇室鎮後の霊場としたもので、元は本国寺と称したが、水戸光圀により本圀寺と改めた。昭和四十六年に山科区に移転したが、旧山内は実に広大で、現在の西本願寺もその一部を割譲されたものである。堀川御所は昭和三年に廃止されたと聞くが、京都皇統の本拠としての意義を果たし終えたからであろう。
就如同前面已经说过的那样,奉天宫殿和热河避暑山庄的清朝各式宝物在革命之后很快就被列强盯上,我国(日本)皇室也流露出想要购买陶瓷器以及文遡阁书籍的愿望。但是大正2年大总统袁世凯命令国务总理熊希龄转移宝物去北京,外界最终也没有能如愿得到。乾隆帝的奉天秘宝不久又被偷偷送回奉天北陵是因为那样可以继续保持这个秘密。大正三年欧洲大战爆发,日本对华二十一条条约和袁世凯的复辟工作进行时,接受了堀川辰吉郎命令的大谷光瑞开始准备秘密地使用乾隆秘宝。这个堀川辰吉郎的身份不明的话本稿也不会被诸位承认的吧。辰吉郎继承了孝明帝的血脉于明治十三年出生于京都的堀川御所。明治二年西乡・吉井・大久保这萨摩三杰图谋进行宫中改革。众所周知孝明帝的嫔妃都留在了京都,但是实际上在明治维新之后依然居住在堀川御所侍奉京都皇室血统。堀川御所是以明治天皇在京都行宫的名义设置的设施。位于堀川六条的日莲宗本圀寺旧址内。本圀寺是足利尊氏的叔父日静上人把镰仓的本胜寺搬迁到此地的皇室镇后的灵场,原来成为本国寺。但是因为水户光圀的缘故改为了本圀寺。在昭和四十六年转移到了山科区。但是旧山内实在太广大,现在的西本愿寺也是其割出的一部分。听说堀川御所在昭和三年被废弃。但是作为京都皇統后代居住的地方的意义始终还是存在的。
京都皇統の中核的人物として生まれた辰吉郎は、井上馨の実兄重倉の籍に入り、生地に因み堀川姓を称した。(重倉については未詳だが、玄洋社員と聞く)。幼くして玄洋社に預けられた辰吉郎は、上京して学習院に入る。皇族・華族の子弟教育の機関であって、一般民の入学は初等科に限られていた学習院に入学を許されたことは、辰吉郎の貴種たるを暗示する。
作为京都皇统核心人物出生的辰吉郎入了井上馨的亲哥哥重仓的户籍,因此姓氏也改为堀川。(关于重仓,资料不详,但是听说是玄洋社的成员)。自幼开始就被安置在玄洋社的辰吉郎后来去东京进入学习院读书。专门为教育皇族・华族的子弟而设置的教育场所,一般民众子弟入学仅仅限于初等科。之所以辰吉郎可以进入学习院学习正是暗示了其贵族的血脉。
明治三十二年、清国の革命家孫文が日本に亡命した時、その支援を図る玄洋社は、実質社主の杉山茂丸の計らいにより、弱冠辰吉郎を孫文に付して、その片腕とした。ここに至り、杉山の本性も明かさねばならぬが、茂丸は実は福岡藩主黒田長溥の実子で、島津重豪の実孫に当たる。長溥が実子茂丸を杉山氏(竜造寺氏の男系)の籍に入れながら、藤堂家から養子を迎えて黒田家を継がせた深謀遠慮を解くには紙面がない。ともかく、常に伴う辰吉郎を日本皇子と称したことで、孫文の清人間に於ける信用が俄かに高まったのである。
明治三十二年,清国革命家的孙中山逃亡到日本时,为了向他提供支援,根据实际控制玄洋社的社主杉山茂丸的意见,让时值弱冠之年的辰吉郎跟随孙中山,作为其助手。说到这里,不能不说清楚杉山的情况。茂丸实际上是福冈藩主K田长溥的亲生子,也就是岛津重豪的亲孙子。长溥让亲生儿子茂丸加入杉山(龙造寺氏的男系)籍的同时还让其做了藤堂家的养子,最后还让其继承了K田家。其深谋远虑真是难以言语表达。总之,把常伴左右的辰吉郎称为日本皇子这一件事在孙中山周围的中国人中很有威望。
杉山は玄洋社の石炭貿易を通じて、明治二十五年から上海の英国商人と相識ることとなり、在英ワンワールド勢力の存在とその実体を深く認識し、海洋国日本としては彼らとの提携に賭ける他ない事を覚り、以後はその意向を日本政界に伝達すべく、渾身の力を注いでいた。近世史は、地政学でいう海洋勢力大英連邦と大陸勢力露西亜帝国によるグレート・ゲームの展開に他ならず、玄洋社の孫文支援は、正に海洋勢力の元締めたる在英ワンワールドの意向に沿うものであった。
杉山通过玄洋社的石炭贸易,从明治二十五年开始结识了在上海的英国商人,对在英的 “世界政府”的势力和存在的实体有深刻的了解。认识到作为四面环海的岛国的日本应该和他们合作,为了把这个意向向日本政界传达,使出了浑身的解数。在近代史上,从地政学上来看就是海洋势力的大英联邦和大陆势力的俄帝国之间的一场博弈。玄洋社给予孙中山的支援正是遵循了在英的世界政府的意愿。
日清・日露の戦争も正にその一環で、海洋勢力の戦略上其の不可避なることを知る杉山は、ややもすれば非戦主義に傾く長州閥を調略・分断し、これも在英ワンワールドの薩摩支社となった薩摩閥の三巨頭、松方正義・樺山資紀・高島鞆之助を側面支援して開戦に踏み切らせたのである。
日清・日俄的战争正是其中的一环。了解到作为海洋势力的战略上那是不可避免的之后,杉山就开始游说和挑唆倾向于非战主义的长州阀,这也是在从侧面支援作为在英世界政府萨摩支部的萨摩阀三巨头的松方正义・桦山资纪・高岛鞆之助。为走向开展做好准备。
愛新覺羅氏が日本に接近するのは、日本の実力を目の当たりに見た日露戦争の後である。接近は西太后の側近袁世凱を通じて行われたと聞くが、東京皇室は素より政体桂太郎内閣も敢えて対応を避けたのは、東京皇室と京都皇統の間に国務分担の密約があり、皇室外交と国際金融は京都皇統の分野だったからである。愛新覺羅氏の意を受けた杉山は、明治四十三年に辰吉郎を紫禁城に送り込むが、その前年中島比多吉が紫禁城に入り、幼帝溥儀に仕えたのは事前準備であった。
爱新觉罗氏亲近日本是在日俄战争中亲眼见到日本的实力之后的事情。听说主要是通过西太后的心腹袁世凯来接近日本的。东京皇室一反常态甚至连桂太郎内阁都避免与之接触是因为东京皇室和京都皇族之间有国务分担的秘密条约。皇室外交和国际金融领域是属于京都皇室负责的领域。接受了爱新觉罗氏的意愿杉山在明知四十三年把辰吉郎送入了紫禁城。之前一年中岛比多吉进入紫禁城辅佐幼帝溥仪是此事的事前准备。
辰吉郎を盟主と仰ぐ京都皇統の芯核は孝明帝の祖父光格帝由来の勢力で、その一は光格帝と実質同統の鷹司家を始めとする旧堂上の一部である。孝明帝の皇妹和宮が将軍家茂(紀州徳川慶福)に降嫁した公武合体に発する紀州藩・会津藩の勢力もあった。辰吉郎傘下の実行部隊は玄洋社だけではなく、京都に根拠を張った寺社勢力がそれで、東西本願寺が当時の棟梁格であった。
把辰吉郎视作盟主的京都皇族的核心是孝明帝的祖父光格帝的势力,其中有和光格帝同血统的以鹰司家为首的一些旧臣。孝明帝的皇妹和宮也公主也下嫁了将军家茂(纪州徳川庆福),于是有了公家和武家结合的纪州藩・会津藩势力。辰吉郎麾下的实行部队不仅有玄洋社,还有盘踞在京都的寺社势力。东西本愿寺就是当时的主要力量。
外郭の中で強大な勢力は前述の薩摩ワンワールドで、在英海洋勢力の支部として杉山茂丸の指示に従いながら、辰吉郎の経綸を実行していた。また丹波大江山衆は、光格帝の実母大江磐代(大鉄屋岩室氏)に由来する禁裏の外郭で、亀岡穴太村の上田吉松を頭として江戸時代から禁裏の諜報に携わっていたが、多くは玄洋社に誘われて満洲に渡って馬賊となり、或いは清国本部に潜入して国事に備えていた。彼らが創めた大本教が、玄洋社と並んで辰吉郎支援の実行部隊となり大正時代には民国に実質支部の紅卍会を建て、辰吉郎はその日本総裁となる。
外部势力中强大的有前述的萨摩世界政府。接受作为在英海洋势力支部的杉山茂丸的指示实行辰吉郎的政策。另外丹波的大江山众是由光格帝的亲生母亲大江磐代(大铁屋岩室氏)由来的宫廷势力。以龟冈穴太村的上田吉松为首从江户时代起就从内宫带出谍报,后来大多受到玄洋社的的引导前往满洲成了马贼,或者潜入清国本部。他们创建的大本教是和玄洋社并称的支持辰吉郎的实行部队。在大正时代在民国建立了实质上的支部红卍会,辰吉郎成了该组织的日本总裁。
上田吉松と結んで大本教を開いた綾部の出口ナヲの次男清吉は、高島鞆之助の計らいで近衛に入隊し、日清戦争後の台湾土民平定に参加したが、凱旋中の輸送船上で蒸発し、北清事変で軍事探偵王文泰として手柄を挙げた後、満洲に渡って馬賊に投じた。この王文泰が三歳年下の馬賊仲間の張作霖を指導、親日に誘導して日本陸軍の支援を取り付け、満洲の覇王に養成するのである。
和上田吉松联合开创了大本教的绫部的出口NAWO的次子清吉在高岛鞆之助的策划下加入了近卫,参加了中日战争后的台湾土著居民的平定。但是在凯旋的时候在输送船上失踪,北清事变中作为军事侦探王文泰取得了战功后,前往满洲投奔了马贼。这个王文泰在马贼中指导了比自己小三岁的张作霖,诱导期亲日成为日本陆军的支援力量,把他培养成了满洲的霸主。
堀川辰吉郎は辛亥革命後、しばしば満洲に赴いて張作霖と慇懃を通じ、長子学良と義兄弟の盟約を交わしたと謂う。辰吉郎は、漢族自立を図る孫文、満洲保全を望む愛新覺羅氏の双方と親しく交わったが、毫も矛盾はなかったのは、蓋し双方とも満漢分離で一致していたからである。
堀川辰吉郎在辛亥革命后经常会前往满洲,和张作霖交往甚密,据说还和其长子张学良结义成兄弟。辰吉郎和图谋汉族自立的孙中山以及 保全满洲的爱新觉罗氏双方都有密切交往。但是丝毫都没有矛盾是因为双份在满汉分离这一问题上是一致的。
革命後の中華民国が民族独立に傾かず、旧清国領を保全して多民族の合衆国となった理由は良く解らないが、やはり在英ワンワールドの意向であることは間違いない。ここで、粛親王の宗社党と結び、満蒙独立を図った陸軍内の大連派は当てが大きく狂ったのである。新生中華民国は群雄割拠となり、中華の国情を知悉する袁世凱は、共和政は不可能として帝政復帰を図るが、これを孫文にとっての重大な障害と観た辰吉郎は、革命党に手を回して大正五年に袁を毒殺させた。
革命后的中华民国没有倾向于民族独立,而是保全了旧清帝国的领土成为了多民族合众国的理由虽然不是很清楚。但是肯定有在英世界组织的意向在里面。于是,和肃亲王的宗社党有联系,图谋满蒙独立的陆军内大连派非常的愤怒。新生的中华民国变成群雄割据,对于中国的国情十分了解的袁世凯认为共和政体是不现实的想要复辟帝政。辰吉郎认为这对于孙中山是重大的障碍,因为利用革命党之手与大正五年将袁世凯毒杀。
乾隆秘宝を用いた張作霖支援を企てていた辰吉郎は、袁の暗殺に先立って西本願寺の実質的法主大谷光瑞を語らい、秘宝中でも価値の高い歴代の古陶磁を用いた作戦を立てさせた。大連の文化人を配下に収めた光瑞師は、満鉄秘書役上田恭輔に古陶磁研究を命じ、これを受けた上田は大正五年の春、『明治紀要』に「支那陶磁ノ研究ヲ薦ム」を発表した。宗社党の満蒙独立運動を支援した大隈内閣が、袁世凱の急死と同時に方向を転換し陸軍内大連派に撤兵を命じたのは、在英ワンワールドの意向に基づくものと思われる。そのため、粛親王と宗社党を支援していた日本陸軍には方針転換による彼らの損害を補填すべき義務が生じ、参謀本部支那課長の浜面又助大佐は、その財源探しに四苦八苦していた。以上が、張作霖が乾隆秘宝を接収した大正五年十二月までの事情である。接収が強奪を装ったのは、大連派と宗社党に対するジェスチュアであった。
企图利用乾隆秘宝支援张作霖的辰吉郎在袁世凯暗杀之前就向西本愿寺实质的控制人大谷光瑞提议将秘宝中价值最高的历代古陶瓷变卖来作战。麾下有大连的学者的光瑞师命令满铁秘书上田恭辅研究古陶瓷器。接受了这个命令的上田在大正五年春与《明治纪要》上发表了《中国陶瓷的研究初探》一文。支持宗社党的满蒙独立运动的大隈内阁在袁世凯暴死后立刻转变了方针命令陆军内大连派撤兵。这也可以认为是根据在英世界政府的意向而为之的事情。因此,支持肃亲王和宗社党的日本陆军因为突然转变了方针,就产生了弥补他们损失的义务。参谋本部的支那科长浜面又助上校为了寻找财源历尽艰辛は。以上是张作霖在大正五年十二月接收乾隆秘宝为止之前的情况。接收看起来被伪装成强夺,实际上是对大连派和宗社党的回应。
平成23年(2011)9月7日
落合莞爾