5・清朝宝物の運命(3)

  5・清朝宝物的命运(3)

 

 明治末期、海洋勢力と大陸勢力の地球的規模の角逐、即ち「グレートゲーム」が織り成す世界史は、従来両勢力の緩衝地帯であった中近東を統治していた中世帝国オスマン・トルコの解体に向かっていた。複合民族国家オスマン・トルコの支配階級はトルコ種で、スラブ・アラブ・イランなどの諸種族を統治していたから、海洋勢力の本宗イギリスは、民族自決を標榜してこれら諸民族にトルコからの独立をけしかけ、封建領主に対する露骨な軍事援助により、多くの民族国家を樹立せしめた。

 

明治末期,由海洋力和大陆势力在全球的角逐,也就是由“大制的世界史中,一向被作种势力的冲地的中近地区的治者——作世帝国的奥斯曼土耳其帝国面解体。多民族国家的奥斯曼土耳其帝国的支配阶级是土耳其人,治着斯拉夫、阿拉伯、伊朗等多民族。所以作海洋力本宗的英国,以榜着民族自决的名动诸民族从土耳其人手中独立。于封建主有着很明事援助,成立了多的民族国家。

 

同じく複合民族国家の大清帝国は、支配階級は満族及び縁戚関係にある蒙古族であったが、領土領民の大部分は漢土・漢族であった。客家の孫文が革命を指導し漢土(中華本部)における漢族の自決を実現したが、旧清国はあたかも乗っ取り合併に因って成立した企業集団を再分割するにも似た状況となり、漢族自治から排除される側の満蒙族の故地と人民に対する統治権の帰趨が重要な問題となった。

 

为复合民族国家的大清帝国,支配阶级族以及有亲缘关系的蒙古族。土的国民大部分是中原族。作客家人的中山指了革命,并中原(中本土)族有了自己管理自己的意。但是旧清帝国的分割就如同是和经过强并后合并成的企的情况似,族自治之后被排除在外的蒙族的故地和人民的权归属是一个重要的问题

 

矢田行蔵『満蒙独立秘史・紀州出身軍人の功績』によると、辛亥革命から三カ月経った明治四十五年の初春、北京では川島浪速粛親王を擁し、満蒙を打って一丸とする新国家建設の計画を建て、蒙古王族のカラチン王パリン王と往来して議を進めていた。粛親王の義弟カラチン王の所論は、「元来蒙古は支那の一部ではない。清朝そのものから恩顧を被った為、その統治に服したのであって支那の国家そのものとは何らの関係はない。今、清朝が亡びた以上、蒙古は当然支那とは関係なしに、独立すべきものである。しかしながら、蒙古にはその実力がないから、日本の支援によって、それを実現しなければならない。仮に民国が満洲朝廷を倒して、漢人の土地を恢復するのは当然とするも、その為に蒙古まで自国の領土と見るようなことは、丁度他家の遺産を自分の所有とするも同様で、甚だしい誤りと云わねばならない」と謂うもので、パリン王も之に共鳴し、また自領が満洲に接していたヒント王も同様であった。

 

根据矢田行藏的《蒙独立秘史・州出身人的功》来看,辛亥革命三个月之后的明治四十五年初春,在北京拥护肃亲王的川浪速提出了将蒙合并打造一个新的国家的划,并建和蒙古王族的喀喇沁王以及巴林王往来。肃亲王的弟喀喇沁王主:“蒙古本来就不是中国的一部分。因受到了清朝的恩而臣服于清朝,但是本身和中国没有任何系。在,既然清朝已经灭亡,蒙古当然和中国毫不相干的保持独立。但是因蒙古并没有那个力,因此必借助日本的支援实现独立。假民国推翻了洲朝廷而收人的土地是理所当然的事情。但是想要把蒙古都看成自己的土,那就如同是把遗产看成是自己的,不得不是非常大的错误。”一点上巴林王也有同看法。另外,地和洲接壤的幸特王也是一的主

 

海洋勢力の傘下に入り、大陸勢力の本宗たる帝政ロシア及び黄河流域勢力に対抗して、極東を確保する責任を担った日本は、漢族革命後に対処するため同年一月、参謀本部が高山公通大佐を参謀本部附に補して北京に派遣すると、川島浪速が右の計画を明かしてその賛意を取り付けた。ここに日本は、中近東におけるイギリスの相似象を成すこととなったのである。高山大佐の指揮下に入った多賀宗之少佐松井清助大尉は、宣統帝の熱河蒙塵の噂を聞き、身柄を途中で奪取して満蒙新国家の君主と仰ぐ計画を立てたが実行できず、代案として世襲親王家の粛親王を二月六日に旅順に落とし、之に応じて奉天将軍兼東三省総督趙爾巽が起つことになった。高山大佐は参謀本部次長福島安正中将に「粛親王兄弟は満洲蒙古において勤皇軍を起し、祖先の地に拠り他日民国の離散するを待たんとす。この北方に興る一国は一に我国の援助によるに至らんとす。右につき内地当局にたいし適当の御尽力ありたし」と電報したので、福島次長高山らを奉天に移転させて、配下の人数も増やした(これを以て「奉天特務機関」の嚆矢とする説がある)。

 

经进入了海洋力的下,要担起和大陆势力的本宗沙俄帝国以及黄河流域抗,确保远东平衡的日本,在族革命后了采取对应措施于同年一月,参本部把高山公通上校派往北京行参部工作。川浪速公了右划并得到了赞赏。在里,日本了和在中近英国一的角色。投入高山上校麾下的多宗之少校和松井清助大尉听到了宣帝在河逃亡的消息后,划中途劫持他作建立蒙新国家的君主但是最没有施。作替代方案,将世袭亲王家的肃亲王于二月六日送往,并起用了奉天将督的赵尔巽。高山上校向参本部次官福安正中将了如下的电报:“肃亲王兄弟在洲蒙古建立了踞祖先地,等待他日从民国独立。个北方国家的建立需要我国的援助。希望如同右记对内地当局尽一些力。”福次官把高山等移到奉天,揄チ了其配属的人数。(有一种说就是奉天特的起源)

 

漢族の養子だが祖先が満洲族であった趙爾巽は、国体堅持を主張して清朝支持を明確にし、歩兵統領張作霖・呉俊陞らに命じて革命派と対峙させたので、満洲の革命派はほとんど消滅した。ところが二月十二日宣統帝が退位し清朝が崩壊すると、趙爾巽は機敏に袁世凱支持に回り、新政府の奉天都督(東三省総督の後身)に就いた。呉俊陞・張作霖も軌を一にして、の新体制を維持したので、粛親王・川島らは一挙に孤立した。

北京では松井清助大尉と木村直人大尉が蒙古独立工作を画策していた。カラチン王・パリン王・ヒント王ら蒙古王族を主体にして蒙古軍を結成し、曰本から運んだ武器で蜂起させ、各王の領地を中華民国政府から独立させて新政権を建てる計画で、新たに派遣された貴志彌次郎中佐が多賀少佐と協同して曰本での武器調達を担い、松井大尉が武器の秘密輸送計画を練り、これに曰本人馬賊薄天鬼(益三)が加わった。五月二十五曰に武器輸送を開始し、支那荷馬車四十七台からなる輸送隊が、松井大尉の指揮下で薄天鬼に護衛されて公主嶺を出る。多賀少佐も追って公主嶺を出発、途中奉天に立ち寄り、高山大佐貴志中佐に会って画策した。

 

然是族的子但是祖上是洲族的赵尔巽主保持国体明确了其支持清朝,并命令统领张作霖和吴俊升与革命派峙。因此洲的革命派基本上都被消了。但是二月十二日宣帝就宣布退位,清王朝终结赵尔巽非常机智的而支持袁世,就任了新政府的奉天都督(原三省督)。吴俊升和作霖也一持了袁世赵尔巽的新体制。因此,肃亲王和川一下子得孤立了。

在北京,松井清助大尉和木村直人大尉在策划蒙古独立工作。成以喀喇沁王、巴林王、幸特王等蒙古王族主体的蒙古,从日本送武器叛乱。以期使各王的地从中民国独立出来建立新的政。因此新派遣了志弥次郎中校和多少校帮助他日本配武器,松井秘密研究武器运,日本人马贼的薄天鬼(益三)也加入了他。五月二十五日武器运输开始,以四十七台中国马车编成的运输队,在松井大校的指下由薄天鬼护卫从公主。多少校也追随他从公主,途中道奉天,和高山大校以志中校会面。

 

しかしながら、松井らの軍事行動は早くも民国官憲の注意を引き、奉天都督趙爾巽の知るところとなった。蒙古独立軍は、趙都督から武力阻止命令を受けた鄭家屯の歩兵統領呉俊陞とタイシャポーで衝突し激戦となるが、奮闘空しく松井たちは民国官兵に捕縛される。この時貴志高山が、時計その他貴重品を売り払って仕入れた阿片を賄賂にして、ようやく薄天鬼たち捕虜を救出することができた。銃殺寸前、九死に一生を得た松井らは六月二十六日生還し、その後も独立工作を続けたが、九月二十八日に関東都督福島安正中将から突然中止の命令が下り、奉天特務機関長・高山大佐は同日付で守田大佐に更迭された。中止の理由を福島は、外交上の必要から蒙古工作中止の閣議決定がなされたと説明した。

 

但是松井等人的事行在就被民国官僚上,奉天都督赵尔巽知道了件事情。蒙古独立和受到都督武力阻止命令的家屯总领吴俊升在台下坡激,最后松井等人被民国官兵拘捕。这时贵志和高山以出了其他重物品后到手的片作为贿赂,好不容易救出了被俘的薄天鬼等人。就在被决之前,九死一生的松井等于在六月二十六日生之后还继续独立做着工作。但是九月二十八日关东都督福安正中将突然下达了中止的命令。奉天特关长高山大校也于同日被守田大校替于中止的理由,福释说,由于外交上的需要,内决定了蒙古工作的中止。

 

右が第一次満蒙独立運勤(タイシャポー事件)のあらましであるが、陸軍中央が突然中止命令を出した背景について、巷間数説ある。その一は、漢・満・蒙の一体国家を望んでいた英国が満蒙独立を妨げるため誘導したもので、日本政府は日英同盟の下で海洋勢力(在英ワンワールド)の指揮に従わざるを得ず、支那通軍民の活発な活動も政府の外交方針に影響を与えることはなかったと謂う。その二は、陸軍中央が革命政府を支持しており内政干渉を避けたとの説であるが、革命により漢族主権を恢復した中華本部の安定が海洋勢力にとって望ましいにしても、元来中華本部に含まれない満蒙の独立は漢族自立にはむしろ資する筈で、その点で肯い難い。さらに、日本政府が日露協商に向けてロシア側に配慮したとの説は、一応理に適うにしても、所詮イギリスの意向を無視して出来ることではない。注目すべきは、海洋勢力は当時から満洲をユダヤ族の究極安住の地として予定しており、その大目的のために日本の関与による満蒙独立を排除したと謂う説で、その後イギリスがバルフォア宣言によりパレスチナにユダヤ国家を作ったのを観ると、あながち否定できない。

 

  前文述了第一次蒙独立运(台下坡事件)的大致经过陆军中央突然出中止命令的背景,坊种说法。其一是英国希望看到一个、蒙一体的国家,因诱导其妨碍蒙独立运。日本政府在日英同盟下不得不接受海洋力(在英世界政府)的指。中国民的活了政府方以影响。其二是陆军中央在支持者革命政府,想要避免内政干然革命之后恢族主的安定的中本土是海洋力希望看到的,但是本来就不属于中本土的蒙独立可以海洋应该是支持的才。所以一点上很可。而且日本政府由于日俄商的因素需要照到俄国方面的感受即使就算能的通,但是不可能会无英国的意向。应该注意的是,海洋力从当时开始就洲是最适合犹太民族安住的地方,个大目的,必要排除由日本主蒙独立。之后英国在《Balfour宣言》中于在巴勒斯坦建立犹太国家一点上来看,也无法完全否定一假

 

 高山は独断専行の咎めを受けて同年九月、歩兵第二連隊長として内地に召還され、多賀少佐が残って(表向きは九月付で福州駐在)蒙古諸王との連絡に任じた。多賀は弁髪に支那服を纏って賀忠良と名乗り、その後も大正二年十月から数カ月の第三連隊付少佐以外は、漢土に常在して軍政官や軍事顧問を務めた。正に「アラビアのロレンス」の相似象である。

 

高山因独断行而受到分于同年九月作兵第二连队长被召回内地,多少校留下来(表面上九月起在福州)被委任和蒙古联络。多留起了子穿上了中国的服装化名忠良,之后从大正二年十月始数月除了作第三连队的少校外,常在中国为军政官和顾问直就像“阿拉伯的劳伦斯”。

 

 手元に、昭和九年頃に作成された『粛親王家對川島家事件概略』と題する文書があるが、その書き出しは「明治四十四年清国の崩壊により、故粛親王は難を旅順に避け、密かに清朝の再興を謀りたり。大正四年に至り、当時の総理大臣大隈伯爵の斡旋により、大倉喜八郎より金百万円を借りて、いわゆる蒙古軍事件を起こしたりしが、不幸にして失敗に終れり。その後日本国軍部より粛王府に更に軍事費補償の意味で五十万元を支給せり」とある。第二次満蒙独立運動は大正四年、袁世凱の帝政復帰に反対する大隈内閣の方針を受けて川島浪速が企てたもので、関東都督府陸軍部(後の関東軍)を初め、現役・予備役の軍人と民間の志士浪人が多数加わっていた。入江種矩大尉指揮の下に粛親王の第七王子金璧東を奉じる馬賊隊が、打倒袁世凱の義旗を挙げる一方、青柳勝敏大尉が蒙古の英傑パプチャップの軍勢を指導して満洲に侵入、その虚に乗じて木澤暢大尉が一挙奉天城を占領するという計画で、これに先立って、袁世凱と通じる奉天督軍張作霖の暗殺を予備役少尉三村豊と民間志士伊達順之助・志賀友吉が企てたが、失敗した。

 

有昭和九年左右写成的题为肃亲王家家事件的概略》。开头部分就写到:“明治四十四年清朝解体,所以清王前往旅,秘密图谋清朝的再。直到大正四年,由理大臣大隈伯爵从中斡旋,大喜八郎男借与其金百万日元,引起了所的蒙古事件,不幸的以失,之后日本国王府五十万日元作为军补偿费”。第二次蒙运是大正四年,接受了反袁世凯复辟帝政制度的大隈内的方,由川浪速策划的。关东都督府陆军部(后关东军首,役和预备役的人以及民志士也大量参加了。入江矩大尉指下以肃亲王第七王子金璧东为首的马贼队起了打倒袁世的旗,另一方面,青柳敏大尉指了蒙古的豪杰巴布恰卜入侵洲,乘虚木泽畅大尉则计划一奉天城。在此之前,企图让预备役少尉三村丰和民志士伊达之助、志友吉一起暗与袁世有来往的奉天督军张作霖,但是失了。

 

 挙兵に先立つ六月六日の袁世凱の突然死により、大隈内閣は方針を一変して満蒙独立計画の中止を命じたが、パプチャップの蒙古義軍は既に活動を開始していた、七月二十二日に内蒙古の突泉県で洮南鎮守使呉俊陞麾下の民国官軍と衝突した蒙古義軍は、以後連日の戦闘の末、八月十四日に郭家店を占領したが、日本政府の変心により、進退谷まるに至った。参謀本部は閣議決定を受けて、支那課長浜面又助大佐を急遽現地に派遣し、蒙古軍を無条件で撤兵させる事を命じた。孤立無援となり武器もない蒙古義軍を素手で放置すれば、帰還の途上で民国官兵により殲滅されるのは必至と見た浜面大佐は、職を賭し独断を以て砲四門と小銃二千四百挺を義軍に与える。

 

兵之前的六月六日,袁世突然死亡,大隈内命令中止蒙独立划。但是巴布恰卜的蒙古义军经开始行。七月二十二日在蒙古的突泉洮南和守吴俊升麾下的民国军队冲突后,激数日,于八月十四日占了郭家店。但是由于日本政府政策的化,到了退两的地。参本部接受了内的决定,命令支那课长滨面又助上校急ー往当地,要求蒙古无条件撤兵。得孤立无援又没有武器的蒙古义军如果空手而,在途上必然遭到民国军队的伏而被歼灭预见个的面上校堵上自己的位,私自决定义军炮四和小两千四百挺。

 

九月二日に郭家店を出発した蒙古義軍は、途中民国官兵と戦いながら林西城に至り、十月六日熱河都督麾下の林西鎮守使軍と交戦するが、この戦闘においてパプチャップが戦死し、第二次満蒙独立運動は終わりを告げた。この混乱の中、八月付で西川乕次郎少将に替わって歩兵二十五旅団長高山公通少将が関東都督府参謀長に補せられた。関東都督は二年前に福島安正から中村覺に交替したが、関東都督府を策源地として粛親王と同心の上満蒙独立運動を推進した彼らは、旅順派と呼ばれた。浜面又助もその一人で七年七月付で高山に替わって関東都督府参謀長となる(八年四月に関東軍参謀長と呼称変更)。

 

九月二日蒙古义军从郭家店出,途中和民国军队后到达了林西城,十月六日和河都督麾下的林西,在这场战役中巴布恰卜死,第二次蒙独立运宣告失

混乱中,八月中兵二十五旅团长高山公通少将接替西川乕次郎少将成为关东都督府参谋长关东都督在两年前由福安正和中村交接,关东都督府作策源地和肃亲王一进满蒙独立运,被称派。浜面又助也是其中一人。于七年七月接替高山成为关东督府参谋长(八年四月更称号为关东军谋长)。

 

 『粛親王家對川島家事件概略』には、満蒙独立運動の結果、粛親王府に残ったのは、政商大倉喜八郎からの資金と陸軍機密費を合計した百五十万円から諸費を引いた四十五万円であった。粛親王側ではこれを年八分で満鉄に預ける案を立てたが、川島浪速が反対し実弟の鉱山事業に投資すると称して費消してしまう。これを座視できない関東軍参謀長浜面又助は、粛親王ら宗社党の支援のために関東軍で裏金を作った。大正八、九年頃、関東庁殖産課長黒崎貞也と倶に関東軍司令官立花小一郎に談じて賛同を得たうえ、司令官より関東長官林権助に商議して貰い、大連の土地五万三千坪を粛親王に貸し下げ、それを商人に又貸しすることで粛親王に利益を得せしめるに至った経緯が述べられている。

 

肃亲王家家事件概略》中描述道,作为满蒙独立运果,肃亲王府残留下来的是政商大喜八郎那里得到的金和陆军机密一百五十五万,扣除诸项费用后剩四十五万日元。肃亲王方面建以年八分的利息借给满铁,但是遭到了川浪速的。被号称投资矿山事而由其弟弟花掉了此无法坐不管的关东军谋长浜面又助了支援肃亲王和宗社党,在关东军设了小金。大正八、九年左右,和关东厅K崎也一起和关东军司令官立花小一郎商量后得到同,由司令官和关东长官林助商后,把大的土地五万三千坪借肃亲王。他又将其借商人后得收益。

 

 粛親王を担いだ旅順派に対して、張作霖を支援したのが奉天派である。奉天派の頭領は明治四十五年四月から十二月まで陸相に就いた上原勇作で、一年余の病臥の後大正三年四月に教育総監、四年二月に参謀総長となり陸軍の中枢にいた。上原が奉天派たる所以は高島鞆之助の後を継いで在英ワンワールド薩摩支部のグランドマスターであったことにあるも、実効支配に重きを置く国際法からして国際社会が認めた民国政府を混乱させるのは得策ならずとする外務省も奉天派に与した。

 

和支持肃亲王的旅派相,支援作霖的被称奉天派。奉天派的首是明治四十五年四月始到十二月担任陆军大臣的上原勇作。因病床一年后于大正三年四月就任教育总监,四年二月就任参谋总长陆军的中枢。上原之所以奉天派是承高鞆之助之后担任在英世界政府摩支部的官。基于国家法的实际支配原和国社会民国政府的承认为制造混乱并非上策的外省也站在奉天派一

 

上原の上に京都皇統の堀川辰吉郎が居たのだが、それを知る者は極めて少ない。辰吉郎は、光緒帝の実弟で宣統帝溥儀の実父醇親王と秘かに結んでいて、ここから「乾隆秘宝」問題が生じ、奉天特務機関長貴志彌次郎少将が活躍するのだが、ここでの紙数は尽きた。

 

上原之上有京都皇室的堀川辰吉郎的存在,知道一点的人极少。辰吉郎和光帝的弟弟宣帝溥生父王秘密联结,从生了“乾隆秘宝”的问题。奉天特关长贵志弥次郎少将的活也可圈可点,但是本月字数限制,只能写到里了。