6・清朝宝物の運命(その4)
6・清朝宝物的命运(其4)
世界近現代史における満洲(現在は中華人民共和国の東北地区)の意義について本稿が述べた先月号に、奇しくも山浦嘉久も之に触れている。三月二十六日の韓国海軍哨戒艇「天安」の沈没事件に関して国際軍民合同調査団が発表した「百三十トン級の小型潜水艇から発射された大型魚雷による」との見解に対し、「北朝鮮がその種潜水艇を保有しているとしても、かかる大型魚雷を発射するのは不可能で、人間魚雷か某国の最新技術を使うしかない」との某軍事筋の指摘を挙げつつ、真相不明のこの事件により、アメリカの国際戦略が一歩進んだと説いた(『満州のイスラエル(誰が「天安」を沈めたか)』)。
本稿前文中已经论述了在世界近现代史中的满洲(现在是中华人民共和国的东北地区)的意义。在上月号中,奇异的是,山浦嘉久也提到了这一点。对于在3月26日韩国海军哨戒艇“天安”的沉没这一事件,国际军民合同调查团发表见解说,“是由一百三十吨级的小型潜水艇所发射的大型鱼雷所导致的”。针对以上见解,作者山浦嘉久举出了某军方的意见,“虽然北朝鲜保有那种类型的潜水艇,但也不可能发射那样大型的鱼雷,这要么就是人类鱼雷,要么就是用了某国的最尖端技术”,并且,根据这件真相不明的事件,说明美国的国际战略是更加进步的。(《满洲的以色列(是谁让“天安”号沉没)》)。
確かに、国際軍民合同調査団が事件の元凶と看做した北朝鮮では、事件直後の五月に金正日総書記が倉皇として訪中し最新鋭戦闘機の供与など軍事援助を要請したが、拒否された。また、北朝鮮が韓国に向けて頻りに事件の合同調査を呼び掛けているのも、不意討ちをした側としては極めて不自然な対応というしかない。因みに、第三国のロシアも真相不明との立場で、韓国との合同調査を望んでいることも、事件の複雑さを暗示している。
的确,北朝鲜把国际军民合同调查团看作了事件的元凶,在这个事件之后的五月,金正日总书记仓皇访问中国,请求了最尖端战斗机的供给等军事援助,然而,却遭到了拒绝。并且,北朝鲜还向韩国频频提出对该事件的共同调查,但这对于遭到突然袭击的韩国一方来说,是极其不自然的对应。还有,作为事件第三国的俄罗斯也处于真相不明的立场,期望与韩国的共同调查,也暗示了该事件的复杂性。
ところが、真相不明の本事件により自国の安全保障の切実さを眼前に見せ付けられた日本では、日米軍事同盟上の懸案たる普天間問題が一瞬で吹き飛び、従来標榜してきた下級メーソン的夢想が破綻して鳩山首相は辞任を余儀なくされた。逆に韓国では、北朝鮮の関与を疑問視する声が高まって対北強硬路線の李明博政権が統一地方選で敗北し、米朝野合に対する現政権の障碍性が大幅に減じることとなった。
米朝野合の目的は、謂うまでもなく中華帝国の封じ込めにあるが、その先に「新満洲国」の建設という遠大な計画があり、中東問題の根本的解決としてイスラエル共和国の満洲移設を果たすための橋頭堡が北朝鮮だと、山浦は説くのである。
但是,因为这次真相不明的时间,日本得以在眼前看到了本国安全保障已经迫在眉睫,日美军事同盟历史上的悬案——普天间问题一瞬间消失得无影无踪,而鸠山首相一直标榜的下级梅森梦想也破碎了,不得不落得辞职的下场。而相反的,在韩国,对与北朝鲜的干预的疑问声浪愈加强烈,采用对北朝鲜强硬路线的李明博政权在统一的地方选举中败北,现政权中对美朝野合的障碍性也得到了大幅度的减少。米朝野合的目的不用说,是为了封锁中华帝国,而其将来的目标,是建设“新满洲国”这一远大的计划,山浦解释说,为了中东问题的根本解决办法,即以色列共和国的满洲建设,其桥头堡就是北朝鲜。
日本陸軍の「河豚計画」は、欧州のユダヤ難民を満洲に迎え、以てソヴィエト・ロシアに備えることを目的としたが、結局実行に至らず、欧州のユダヤ難民は、バルフォア宣言によりパレスチナの地を与えられて現在のイスラエル共和国を建てた。そこが原住アラブ族の居住地だったために生じたパレスチナ問題は、時間の経過とともに問題は悪化するばかりである。翻って「河豚計画」を診れば、当時の北満黒龍江省の地は元来満洲族の土地で原住人口が少なく、漢族の移住者も未だ希薄であった。満洲政権が当地に漢族を移住させたのは、やはり帝政ロシアに備える住民の壁を意図したものだから、当地に新イスラエルを建てる計画は、パレスチナへの強制的移住に比べて格段の合理性があった。要するに「河豚計画」とは、満族政権に替わった日本が、漢族に加えてユダヤ族をも誘致しようとした案である。今日の論者は「河豚計画」を日本陸軍の立場からのみ論ずるが、根底にグレイト・ゲーム即ち地政学的発想があるのは当然のことで、しかも一神教内の対立を絡めた発想者は、どうみても海洋勢力の本宗たる在英ワンワールド以外には有り得ない。
日本陆军的“河豚计划”的目标是,把欧洲的犹太难民迎接到满洲,由此以对抗苏联・俄罗斯,但是,这一计划最终也未能得到实行。欧洲的犹太难民,依据贝尔福宣言的巴勒斯坦地域,就在这块地上建立了以色列共和国。因为那里原本是原住阿拉伯民族的居住地,于是就诞生了巴勒斯坦问题,事件推移,问题一直恶化。反过来考虑“河豚计划”,可以发现,当时的北满——K龙江省所在的地方是原来满族的土地,原住人口稀少,而汉族的移居者也还是很稀薄。满洲政权之所以当时让汉族人移居于此地,还是考虑到对于当时的帝政俄国,想要筑起一个住民的墙壁,而在当地建立新以色列的计划,这比之向巴勒斯坦地区的强制性的移居,要多好几分合理性。简而言之,所谓的“河豚计划”,就是代替了满族政权的日本,想出了在汉族之后再引入犹太族的计划。今天的论者对于这一事件,都仅仅是从日本陆军的立场来论述“河豚计划”,其根本初有着大英帝国与俄罗斯帝国间的“大角逐”,即地政学式的构思,这是理所当然的。并且,力图避免一神教内的对立的构思者,不管从那个角度看,除了海洋实力的本宗,即在英世界政府之外,别无他人。
在英ワンワールドの傘下で世界政略の一翼を担った明治日本は、東アジアにおける対露防衛を担当し日清・日露両戦役で見事その重責を果たした迄は良かったが、その後は海洋勢力内での軋轢が生じ、米英両国と対立することとなった。折から重工業化に向けて進み出した日本資本主義は、地下資源が豊富な満洲を自家薬籠化することを熱望する一方、農業社会からの脱皮の過程で発生する過剰人口を送りこむ植民地の必要を感じていた。由来、交易と投資を以て植民地を商業主義的に間接統治する海洋勢力の本筋に対し、大量の殖民により原住民を同化・消滅せしめ、その土地を奪って直接支配するのが大陸勢力の伝統的戦略で、その本宗がロシアと黄河流域の農牧勢力である。日本が満鉄によって南満洲を間接統治したのは、海洋勢力の本家イギリスのインド支配に範を採ったもので、児玉源太郎の命により其の青写真を描いたのが上田恭輔であった。
明治日本在英国的世界政府这一大伞下,担任了其世界政略的一个角色,担当了在东亚的对俄防卫功能,并且在中日甲午战争・日俄战争两次战争中起到了重大作用,但其后,在海洋势力内起了纷争,日本开始美英两国对立。正当此时,日本资本主义正向着重工业化发展,一方面热切渴望着自如利用地下资源丰富的满洲,另一方面,日本在脱离农业社会的过程中产生了过剩人口,由此感觉到必须将它们送去殖民地。本来,相对于以交易与投资这样的商业主义方式来间接对殖民地进行统治的海洋势力的本宗而言,大陆势力的传统战略则是,由大量的殖民去同化、消灭原住民,夺取土地,并且进行直接的支配,这方面的本宗是俄罗斯与黄河流域的农牧势力。日本通过满铁进行的对南满洲的间接统治,是模仿了海洋实力的本宗——英国的印度支配,依据儿玉源太郎的命令来绘制这幅蓝图的,正是上田恭辅。
台湾政策においても、総督制による植民地制を採りながら現地民の甘薯栽培を保護したのは、そもそも台湾政策の根本を建てた高島鞆之助と樺山資紀が、在英ワンワールドの伝令使杉山茂丸を通じて海洋勢力的統治策の根本を理解していたからであるが、その知識と知恵は朝鮮半島経営には生かされなかった。その原因は幾つかあるが、一つは朝鮮総督府を独占した長州陸軍閥の総帥たる山縣有朋が、親露的かつ親大陸勢力的性格が濃かったことであろう。之が陸軍の悪しき伝統となり、満洲事変後の満洲政策を左右して、石原莞爾が折角建てた海洋勢力的構想を変改・破壊してしまったのである。
在台湾政策方面,日本根据总督制度去殖民地制度,并且保护当地民众的甘薯栽培。这是由于建立台湾政策根本的高岛鞆之助与桦山资纪通过在英世界政府的传令使杉山茂丸来理解海洋势力型统治政策的根本,所以其知识与智慧没有运用到朝鲜半岛的经营上去。其原因有好几点,其中一点是,独占朝鲜总督府的长州陆军阀总帅山县有朋有浓重的亲俄、且亲大陆势力性的性格。这成为了陆军的恶劣传统,也左右了满洲事变的满洲政策,石原莞尔更改并且破坏了好不容易建立的海洋势力构想。
時制を辛亥革命に戻す。時の陸軍参謀総長奥保鞏大将(小倉)が、長州人事により翌年一月に長州の長谷川好道大将に交替した。参謀次長福島安正中将は信州人だが長州閥に近く、部下で欧米情報と支那情報を管轄する第二部長が肥前出身の宇都宮太郎少将であった。
近来発表の『宇都宮太郎日記』が明らかにしたのは、「明治三十年、大尉参謀の宇都宮が、来るべき日露戦に備うべく高島鞆之助中将を参謀総長に就ける目的で橋口勇馬大尉と「起高作戦」企て、陸士四年先輩(旧制三期)の上原勇作大佐に参謀総長に就任さすべく協力を仰いだ」事である。下って明治四十四年八月、参本第二部長宇都宮少将は、長州人ながら陸軍改革に熱心な陸士一年後輩の田中義一少将と組んで上原陸相の実現を図り、ほぼ成功を信じていたものの、寺内陸相が側近石本新六を陸相に就けてしまう。ところが石本が急死、いよいよ上原に陸相の座が回ってきた四十五年四月、宇都宮は、同志で親友の上原が陸相に就き陸軍が長州支配を脱したと歓喜の声を挙げている。
时间回到辛亥革命。当时的陆军参谋总长奥保巩大将(小仓)根据长州人事,在翌年一月交替了长州的长谷川好道大将。参谋次长福岛安正中将虽然是信州人,但与长州阀亲近,其部下、肥前出身的宇都宫太郎少将是管辖欧美情报与中国情报的第二部长。
近来发表的《宇都宫太郎日记》中表明,“明治30年,作为当时大尉参谋的宇都宫,为了备战即将发生的日俄战争,要将高岛鞆之助任命为参谋总长,为了这一目的,就与桥口勇马大尉共同策划‘起高作战’,仰赖陆士四年前辈(旧制三期)的上原勇作的协力”。其后,到了明治四十四年八月,参本第二部长宇都宫少将与身为长州人士、热心于陆军改革的低宇都宫一届的田中义一少将协力,试图实现上原陆相,并坚信着成功。然而,寺内陆相却任命了其亲信石本新六为陆相。接着,石本突然死亡,终于,陆相这一位置还是到了上原手中,这是在四十五年四月,在这时,宇都宫为了其好友上原就任陆相,陆军由此摆脱了长州支配,表示了欢喜之情。
『宇都宮太郎日記』の解題で桜井良樹は、「宇都宮は、上原の政治的参謀の位置にあった」とするが、それ以上立ち入らないのは学校史学の限界であろう。宇都宮が上原の股肱として尽したことは、上原系事業のミノファーゲン製薬が、後に子息宇都宮徳馬に与えられたことでも分るが、その宇都宮にして、高島鞆之助と上原勇作との間の極秘関係をどの程度まで知っていたのか、分らない。ともかく『宇都宮太郎日記』の明治四十五年一月分は、前月号で述べた第一次満蒙独立運動を、当時の陸軍参謀本部が工作していたことを如実に示し、二月二日には不日蒙古へ派遣される旧友守田利遠大佐が來宅し、宇都宮は任務の大体を告げたとある。参謀次長福島安正の関東都督転任が四月二十五日に決まり、二十二日にその赴任を新橋駅に見送った宇都宮に、福島は「西園寺首相から、蒙古の事は自分が一切処理するようにとの内訓を受けた」と伝えた。満洲の事は当然関東都督の管轄だが、蒙古は参本が直接経営する方が良いと考えていた宇都宮も、政府の方針には従うと決めた。
六月八日、宇都宮は上原陸相を訪れ、「満蒙における承認条件の最低限(支那分割私案の追加条項)及び満蒙探検隊につき」具申し、同時に満蒙探検に派遣する日野強中佐に任務の概要を与えた。これより前の五月二十一日、参謀本部は歩兵中佐日野強を、蒙古人の宗社党領袖升允の許に密派することを確定し、その後宇都宮は日野に何回も会い、重要な訓示を秘密裏に与えたことが分る。
在《宇都宫太郎日记》解题中,樱井良树认为,“宇都宫是出于上原的政治参谋的位置”,学院派史学是不会再作进一步的探究的。宇都宫作为上原的股肱尽力,这点从上原一系事业的米诺发源制药后来交给了其子孙宇都宫コ马管理这点也能看出来。这样的宇都宫,在何种程度上了解了高岛鞆之助与上原勇作的机密关系,现在还不知道。总之,在《宇都宫太郎日记》的明治四十五年一月部分当中,如实显示了前月号中所述的第一次满蒙独立运动中,当时的陆军参谋本部进行了活动,在二月二日,不久就要被派遣到蒙古的旧友守田利远大佐来到宇都宫家里,告知了宇都宫其任务的大略。四月二十五日,参谋次长福岛安正转任关东都督被决定下来,宇都宫二十二日送福岛安正赴任到新桥站,福岛说,“我从四园寺首相处得到了内训,蒙古的一切事务都由自己处理”。满洲的事物自然是属于关东都督的管辖的,而宇都宫考虑,蒙古方面由参本直接经营比较好,但他也决定听从政府的方针。六月八日,宇都宫拜访上原陆相,汇报说了,“满蒙承认条件的最低底线(分割中国的个人方案)及满蒙探险队方面”,同时交给了当时被派遣至满蒙探险去的日野强中佐任务的概要。
在此前的五月二十一日,参谋本部确定了秘密派遣步兵中佐日野强去蒙古人的宗社党领袖升允的身边,在其后,宇都宫与日野见了很多面,秘密给予其重要训示。
九月二十一日、倉知外務次官を訪れた宇都宮は、満蒙事業につき交渉し、対支那処置に及んだ後、関東都督府事務所を訪れ満蒙処分案につき意見を述べた。内容は、既に上原陸相に提出したもので、満蒙における我が地歩を進めることと、鄭家屯(タイシャポー)事件の賠償と死傷損害に対する相当の処置の必要を述べた。同二十八日、関東都督福島安正中将から第一次満蒙独立運動中止の命令が突然下り、奉天特務機関長高山大佐は同日付で守田大佐に更迭された。中止の理由を福島は、外交上の必要から蒙古工作中止の閣議決定がなされたと説明したが、宇都宮日記には何の記載もない。革命直後は粛親王を担いで満蒙独立を画策した参謀本部も、中華民国の分割を嫌う英国の意志が外務省から伝わってくると、粛親王の計画を時に利あらずとの見方が生じ、折しも張作霖が奉天の軍権を握ったのを奇貨とし、之を支援して裏面から操縦しようとの発想が芽生えて奉天派を成した。
九月二十一日,宇都宫访问仓知外务次官,就满蒙事业进行了交涉,并且提及了对中国的处置,其后,访问了关东都督府事务所,就满蒙处分方案陈述了一件。其内容是上原陆相已经提出的,即我方要提高在满蒙的地位,以及对郑家屯事件进行赔偿以及对于死伤损害的相当处置的必要。同年二十八日,关东都督福岛安正中将突然发出了中止第一次满蒙独立运动的命令,在同一天,奉天特务机关长也从高山大佐变成了守田大佐。福岛说明说,中止的理由是基于外交上的必要,阁议决定中止蒙古活动。而宇都宫日记中并没有任何记载。在革命之后,参谋本部推戴肃亲王,策划满蒙独立,而这时,外务省传达来英国方面不欢迎分割中华民国的意见,有一种看法是肃亲王的计划是不合时宜的,正在这时候,有人对张作霖握有奉天军权这件事奇货可居,并且产生了支援张作霖,并且在背后操纵他的想法,由此,产生了奉天派。
京都皇統の中心で皇室外交を実践していた堀川辰吉郎は、弱冠にして孫文の秘書となったが、一方では張作霖にも慇懃を通じ、子息張学良と義兄弟の盟を交わした。孫文の漢族自立革命と、醇親王の張作霖利用による満洲保全策は、どちらも満漢分離を前提としたもので、本来少しも矛盾しない。そこで醇親王は、極秘扱いの「乾隆秘宝」の存在を辰吉郎に明かし、両人は之を張作霖の軍費に充てることを決断した。時期は恐らく大正三〜四年ころである。折から民国では北洋軍閥の総帥袁世凱が権力を掌握し、帝政を復元して自ら皇帝に即こうとしたので宗社党と関東軍内の旅順派を刺激した。袁世凱は五年六月六日に急死するが、裏では孫文革命党を支援する辰吉郎の手が動いたと言われている。
堀川辰吉郎在京都皇室血统的中心实践皇室外交,在弱冠之年便成为了孙中山的秘书,一方面与张作霖互通较轻,并且还和他的儿子张学良结为了义兄弟。无论是孙中山的汉族自立革命,还是醇亲王利用张作霖的满洲保全策略,都是以满汉分离为前提的,本来就没有丝毫的矛盾。而醇亲王则向辰吉郎明示了原本为机密的“乾隆秘宝”的存在,两个人共同决定将其重做张作霖的军费。这个時期大致是大正三〜四年左右。正在这时的中华民国,北洋军阀的总帅袁世凯掌握了权力,复原帝政,要自己即皇帝之位,于是刺激到了宗社党与关东军内的旅顺派。袁世凯于五年六月六日突然死亡,一般认为,这其中是在背后支援孙中山革命党的辰吉郎的活动所致。
大正五年年末から六年初にかけて、張作霖が奉天北陵の秘納庫を襲い「乾隆秘宝」を強奪した・・・ことが演出されたが、強奪でない証拠は、接収が七回に分けて行われ、満鉄調査役兼総裁特別秘書上田恭輔がその都度立ち会っていることである。上田は接収の都度、満鉄製図技師の三井良太郎に四百五十点もの古陶磁の克明な絵を描かせたが、強奪ならばそんな悠長なことをする筈がない。絵を描く時間が必要で、接収に七日も掛けたのである。大正三年以来大連に住んでいた大谷光瑞師が、手下の上田恭輔に立会を命じたわけで、目的は「乾隆秘宝」の中でも価値の高い古陶磁のカタログ作成と、「乾隆秘宝」の預け先となった張作霖の監視であろう。大谷光瑞師は西本願寺の実質法主ながら、京都皇統の辰吉郎を補佐する立場として、この工作を企画したのである。張作霖が強奪した形の「乾隆秘宝」の中の「奉天古陶磁」を、上田恭輔が寄生先の満鉄を利用して倣造を始めたのは接収直後の大正六年で、九年春になり関東軍参謀長浜面又助が倣造陶磁を関東軍の戦略として利用することを立案した。六年に粛親王と宗社党を担いで第二次満蒙独立事件を企てた関東軍旅順派は、粛親王に対して戦費補償の責任を負い、その履行に腐心した浜面が、たまたま満鉄の倣造工作を知り、それなら宗社党にも幾分か権利があると考えて、倣造工作の分け前に与ることを陸軍中央に具申した。参謀総長上原勇作も表向きは賛成し、九年春に陸軍中央で正式に認可されたが、奉天派の上原参謀総長は、奉天特務機関を新設して腹心の貴志彌次郎少将を機関長に補し、張作霖との懇親と「奉天古陶磁」の換金による張作霖の軍資金作りを命じた。その際、個人付特務の吉薗周蔵に、浜面案の妨害を秘かに命じたのは、浜面の真の狙いが倣造品よりも「奉天古陶磁」そのものにあると察したからと考えられ、元々は光瑞師の示唆ないし要請と思われる。(この項続く)
自大正五年年末到六年初位置,张作霖伪装强行袭击奉天北陵的秘密仓库并且夺取其中的“乾隆秘宝”,而证明这不是真正的抢夺的证据,就是接收一共分为了七次,而每次张作霖都见了满铁调查负责人兼总裁特别秘书上田恭辅。上田在每次接收的时候,都让满铁制图技师三井良太郎精细绘制了450件古陶瓷的画像,如果是抢夺的话,不可能从事这样需要长久时间的工作。绘画,是需要时间的,接收也花了整整七天。大谷光瑞师自大正三年以来就一直住在大连,他命令上田恭辅来参加会见,其目的是,为了制作在“乾隆秘宝”当中也属于价值高的古陶瓷的商品目录,以及监视保管“乾隆秘宝”的张作霖。大谷光瑞师是西本愿寺的实质上的法主,而同时又站在辅佐京都皇统辰吉郎的立场上,计划了这些活动。上田恭辅利用其寄生的满铁来对张作霖伪装抢夺的“乾隆秘宝”当中的“奉天古陶瓷”加以仿造开始于张作霖接收之后不久的大正六年,到了九年春天,关东军参谋长滨面又助计划将仿造陶瓷作为关东军的战略加以利用。大正六年,一直拥戴肃亲王与宗社党、并且计划第二次满蒙独立事件的关东军旅顺派承担下了对肃亲王进行战争经费补偿的责任,而绞尽脑汁要实行这点的滨面又助恰巧在此时得知了满铁的仿造工作,就考虑道,那么的话宗社党也该有几分权利,就此向陆军中央申报要参与仿造工作的分配。参谋总长上原勇作在表面上表示赞成,并且在大正九年春天从陆军中央获得了正式认可,而奉天派的上原参谋总长新设了奉天特务机关,将其心腹贵志弥次郎补升为机关长,并且命令他去与张作霖搞好关系,并且将“奉天古陶瓷”充作张作霖的军费。在那时候,上原命令作为个人特务的吉薗周藏去妨碍滨面又助的活动,大概是考虑到了滨面的真实目的与其说是仿造品,不若说是在于“奉天古陶瓷”本身点。而这些行动原本应该都是出自大谷光瑞师的暗示或者要求。(此项待续)