7・清朝宝物の運命(5)
7・清朝宝物的命运(5)
先次大戦後、満洲国は中華人民共和国東北地区となり、辰吉郎と醇親王の謀った満洲経略は満洲国建国だけの線香花火に終わったかに見える。此処までの経緯は畢竟在英ワンワールドの意図に沿ったものと思われるが、彼らの建てた「河豚計画」(ユダヤ教徒の満洲移住計画)は未だ全く終っていないから、満洲問題はパレスチナ問題の今後の推移を観てから結論すべきであろう。
在上次的世界大战之后,满洲国变成了中华人民共和国的东北地区,而辰吉郎与醇亲王所谋划的满洲计划看起来仅仅止于满洲国建国这点小小的火花。到此时的进展,似乎都是依据了在英国的“寰宇一家”的意图,然而,他们所谋划的河豚计划(犹太教徒的满洲移居计划)还尚未完全结束,所以,要给满洲问题下结论,还得要看巴勒斯坦问题在今后的发展。
前月稿に続き、満洲族の漢族潜入仮説を略説する。その前に「満洲」(マンジュ)の語源を述べると、元来仏教の文殊師利菩薩を指す満洲語で、文殊を信仰した建州女直族の総称でもあるが、族称に「文殊」の文字を使うのを避けて「満洲」又は「満珠」を当てたものである。この語はまた民族の発祥地(現在の中国東北地区)を指す地名としても用いられた(同地区は英語でマンチュリア)。今日の史家やマスコミは「満州」を常用するが、これは戦前の庶民が頻繁に用いるために簡略化した表記を、上記の由来を知らず、或いはマンチュリアを中華本部の一地方名(州)と看做した誤用で、漢字制限のためと強弁する者もいるが、それならば八重洲も「八重州」と改むべきことになる。
话承前文,略去满足的汉族潜入假说不提。在前文中,解释了“满洲”(manshu)的语源。这本是指代佛教中的文殊师利菩萨的满洲话,也同时是信仰文殊菩萨的建州女直族的通称,在这种情况下,也有为了避免在族称中使用“文殊”二字而使用“满洲”或者“满珠”二字代替的情况。并且,这个词也可以用来表达民族发祥地(现在的中国东北地区)的地名。(同地区在英文当中是manchuria)。今天的史学家和大众传媒一般用“满洲”,但这是一种误用,这种误用源于战前的庶民频繁使用这个简略化的表记方法,或者是把manchuria看作是中华本部一个地区的名字(州)。也许有人会强词夺理说,这是因为汉字的局限性,但如果是这样的话,也八重洲也应该改正为“八重州”。
中華人民共和国において「満族」と呼ぶのは、現支配層を構成する漢族が満洲族の民族的覚醒を警戒してマンジュという言葉に敏感なためだという。二〇〇〇年の人口調査で一〇六八万人しかいない満族は、清朝期の支配階級だったために今日でも漢族に比べて教育水準が高く、一九九〇年の調査によれば人口一万人当たり大学進学者数は一六五二人で、全国平均の一三九人、漢族の一四三人より遥かに高い。また文盲・半文盲率も僅か一・四%で全国平均の二二・一%、漢族の二一・五%とは比較にもならない。辛亥革命で満洲に追放される筈だった満洲族は、革命後も満洲を漢土に編入した漢族のために抱えられ、国家中枢から排除された少数民族となったが、如上の教育水準を観れば、満州族が今日でも一種の貴族・士族的立場にあることが窺える。
中华人民共和国用“满洲”来称呼,据说是因为构成现在的支配阶层的汉族十分警戒汉族的民族觉醒,于是对manju这个词很敏感。在2000年的人口调查中只有1068万人口的满足,由于在清朝时是支配阶层,所以即使在今天,在教育水准上也比满足要高,根据1990年的调查,平均一万人当中有1652个大学生,远远高于全国平均水平的139人,以及汉族的143人。同时,文盲・半文盲率也仅仅只有1.4%,和全国平均的22.1%和汉族的21.5%无法相提并论。在辛亥革命后本应被流放到满洲的满族人民,由于汉族在革命以后把满洲也编入了汉土,所以也融入中华民族,成为被国家中枢所排挤的少数民族。但是,从如上的教育水平来看,满族在今天也在一种贵族或士族的立场上。
英国は謂うに及ばず、仏伊露などの上層階層にユダヤ種が潜入していると指摘されるが、ある民族が意図的に異族潜入を図る例は世界史上少なからず、その場合多数派民族への同化を装うのは当然である。わが史上にも例あり、本年発表の豊田有恒『世界史の中の石見銀山』によれば、安土城天守閣の完成の翌年即ち一五八〇年に、スペイン国王フェリッペ二世に滅ぼされて亡国となったポルトガルの貿易商人が大挙して秘かに来日し、各所に潜入したが、彼らの一部が石見銀山を驚異的に発展させた。当初の鉄砲鍛冶も実はポルトガル人で、余談だが、少年の頃に読んだ吉川英治『神洲天馬侠』に「鼻欠け幻斎」とかいう南蛮人の鍛冶屋が敵役で出てきた。巷間史書で戦国時代のイメージを形成していた私は、異人がそのような形でこの国に居住していることを信じられず、吉川の創作と視てその荒唐無稽を悪み、以後全く読まなくなった。ところが本年豊田説に接し、吉川が南蛮人鍛冶の口碑を確かに耳にしていたことを覚った。吉川が、さりげなく「鼻欠け幻斎」を重要人物として登場させてリアルに描いたのは、学校系の史家先生が彼の少年小説を荒唐無稽として嗤うことを計算した上で、嗤い返す心算があったのでないか。
英国自不必说,有人说在法意俄等国的上层阶层中也潜入了犹太种族。而一个民族计划性地潜入异族的情况在世界史上并不罕见,这种时候,他们自然会扮作被多数派民族同化的样子。在我们的历史上也有这种例子。本年度发表的丰田有恒的《世界史中的石见银山》中,提到安土城天守阁建成的次年即1580年,西班牙国王菲利浦二世亡国,葡萄牙贸易商人大量偷偷潜入日本各地,他们当中的一部分人惊人地发展了石见银山。当初的铁炮锻冶实际上也靠葡萄牙人。说句闲话,在我少年时所读的吉川英治《神洲天马侠》中,敌方有个叫做“缺鼻幻斋”的南蛮人锻冶店。通过坊间史书获取对战国时期印象的我不相信异邦人能够以那种形式居住在这个国家,于是觉得故事不过是吉川本人荒唐无稽的创作,不值一提,从此再也没有读过。然而,我记得吉川说过,他确实亲耳听到过与本年丰田说相联系的南蛮人锻冶口碑。吉川在作品中让“缺鼻幻斋”作为重要任务登场,并对其进行了极其真实的描述,这大概也是他预料到学院派的史学大师会把他的少年小说看作荒唐无稽而嗤之以鼻,心里暗自嘲笑他们吧。
当時東アジア来住のポルトガル人の大半は、一四九二年にスペインを追放された旧ユダヤ教徒の子孫であった。その九十年後再びスペインの追撃による危険を感じた彼らが、日本人となって永住するために日本女性と通婚し、乃至は「托卵」して、多数の混血児タカス(日本版マカイエンサ)を産ませた。種子島で刀鍛冶八板金兵衛がポルトガル人に娘を差し出して秘伝を受けた例は周知だが、タカスが外来の素性を隠して鉱山業、銃砲製造や絹織物など貿易関連産業に潜入した史実は、多数の邦人男女がポルトガル人奴隷商により輸出された史実と同様、学校系史家の黙殺と黙秘に因って未だ国民周知の歴史認識となっていない。伊集院で鉄砲鍛冶となったタカスは鹿児島城下に移り加冶屋町方限に住んだが、彼らが薩摩藩士として維新を主導し、明治政府の主要部分を占めた秘史を本稿は既に明らかにしてきた。
当时来到东亚居住的葡萄牙人中的大多数,都是在1492年自西班牙被流放的旧犹太教的子孙。在那九十年后,他们再次感受到了被西班牙追击的危险。他们为了变成日本人、永久居住在日本,就与日本女星通婚,乃至“托卵”,生出了很多的混血儿塔卡斯(日本版土生葡人)。众所周知,刀锻冶金兵卫在种子岛把女儿献给葡萄牙人,由此得到了密传。塔卡斯们隐去自己是外来人的身份,潜入到矿山业、枪炮业以及绢织物等贸易关联产业中去这一史实与许多日本男人被葡萄牙奴隶商出口的史实一样,都因为学院派史学家的抹杀和沉默而直到如今也没能成为国民周知的历史认识。在伊集院成了铁炮锻冶的塔卡斯移居到鹿儿岛城下,居住在加冶屋町方限,他们作为萨摩藩士主导明治维新,并且占据了明治政府的主要部分这一秘史在本稿中已经得以证实。
辛亥革命後の満洲族の動向に関する通説は「漢文化に馴染み過ぎて自ら漢族化し、満洲族としてのアイデンティティを失った」とし、所謂亡国の民と看做している。世界にはかかる例も少なくないが、ほとんどが被圧迫民族か少数化した先住民である。これに対し、満洲族は苟も清朝の貴族・支配層として権力・経済力と世界史的知識を有していたから、もしその気があれば、表向きの満漢通婚禁止令をかいくぐり、秘密通婚や「托卵」の形で漢族家系へ潜入するのは容易であった。地球上で漢族社会の存在が絶対に無視し得ない現実であることは、統治者の満洲族が一番善く知っていた。故に、世界史上稀なる政治力と統治能力を有した満州族は、清朝の初期から表向き満漢通婚を禁止しながら、実は意図的且つ積極的に漢族へ潜入し、或いは自ら漢族化を図ったとの推定が可能である(さもなくば、辛亥革命後の満洲族の無策ぶりは目に余る)。思うに、今日の中華人民共和国の政権中枢には、満洲族ないし満洲血統が漢族を装って多数参与しているのではないか。以上が、洞察史学により構築した「満洲族漢族潜入仮説」である。
关于辛亥革命后满族的动向,一般的说法是“对汉文化过于熟悉,自身也被汉族化,失去了作为满族的自我认同感”,把他们看作是亡国之民。在世界上这样的例子也不少,大多数要么是被压迫的民族,要么是被少数化的原住民。对于这点,满足作为清朝的贵族和支配曾拥有着权力、经济能力和世界史的知识,如果他们有打算的话,完全可以钻表面上的满汉通婚禁止令的空子,很容易就能以秘密通婚或“托卵”的形式潜入汉族的家系中。在地球上,汉族社会的存在是绝对无法忽视的,这点作为统治者的满族比谁都要清楚。因此可以推测,在世界史上拥有稀有的政治能力和统治能力的满足一面在清朝初期表面上禁止满汉通婚,实际上有计划性地、积极地潜入汉族,或者是谋划自身的汉化(若不如此,辛亥革命以后满族的手足无措就太过度了)。由此可以想见,今天的中华人民共和国的政权中枢,其实也有很多满族乃至满洲血统的人在伪装成汉族以便参政吧。以上就是基于洞察史学而构建的“满族潜入汉族假说”。
さて、乾隆帝が逸品を選んで奉天北陵に秘蔵した「奉天古陶磁」は醇親王から堀川辰吉郎に渡り、奉天特務機関長貴志彌次郎の仲介により大正十四年紀州徳川家に入った後、大半が昭和初期に流出して現在世界中の美術館に飾られている。大正九年に貴志支援の密命を受けて奉天に赴いた吉薗周蔵は、愛新覺羅氏の配下で「奉天古陶磁」を管理していた学者孫游から親しく教示を受け、現物を実写した図に蔵帳の記載と孫游の解説を加えた手作りの冊子(『奉天古陶磁図経』)をまとめた。この十数年来それを研究してきた私は、「奉天古陶磁」には乾隆帝の遺志が込められていることを痛感する。清初三代すなわち康煕・雍正・乾隆の三帝が倣古陶磁の製作に熱心した事は、史書に記され現物も遺されている。紫禁城伝来のオリジナル品と共に紫禁城・奉天宮殿及び熱河避暑山荘に蔵されていた清初倣古品は辛亥革命後に一部が流出したが、大部分は今も台北と北京の故宮博物院にあり、近年調査が進められている。その結果、従来オリジナル品と思われていた品の多くが倣古品であることが判明した。
话说乾隆皇帝选出逸品并且秘藏于奉天北陵的“奉天古陶瓷”自醇亲王之手到了堀川辰吉郎处,通过奉天特务机关长贵志弥次郎的中介与大正14年进入了纪州コ川家,此后,大部分在昭和初期流出,现在被展示于世界各地的美术馆中。在大正9年,吉薗周藏受支援贵志的密令ー往奉天,自爱新觉罗属下管理“奉天古陶瓷”的学者孙游处得到了亲切的教示,并且归纳总结了描绘实物的图像、藏账记载以及加上了孙游解说的手册(奉天古陶瓷图经)。这十几年来,我一直研究这个史实,痛感“奉天古陶瓷”中藏有乾隆皇帝的遗志。清初三代即康熙、雍正、乾隆三帝都热心于仿制古陶瓷这一事实被记载于史书中,也有遗物尚存。这些清初仿古品与紫禁城传来的原品一起被藏于紫禁城、奉天宫殿以及热河避暑山庄中。他们在辛亥革命后部分流出,大部分在台北和北京的故宫博物院中,近年正在得到调查。其结果是,从前被认为是原品的物品当中,有很多都是仿古品。
周蔵が「図経」に所載した逸品の多くは、購入資金の大半を賄った大谷光瑞師が資金回収のために売却した結果、今は世界各地の美術館を飾っている。美術館の時代考定ですべてオリジナル品とされ、「図経」の記載とも一致している。ところが紀州徳川家に残った品の中に、「図経」にはオリジナル品と記載される特殊な倣古品がある。当初は「図経」の記載通りのオリジナル品と信じていた私は、実物に即して研究するうちに、それらが倣古品であるのに気付き、陶技が史上絶頂に達した清初期の作品と考え直したことで、雍正倣古品の真の力量が初めて観えてきた。
出了大部分购买资金的大谷光瑞师为了资金回收,而将周藏在《图经》中所载的逸品中的大多数都卖出了,如今点缀着世界各地的美术馆。在考究美术馆时代时被认作原品,这与《图经》的记载是一致的。但是,在纪州コ川家中残留的物品中,有《图经》中被记载为原品的特殊仿古品。我当初也认为它们如《图经》所记载的一样是原品,但在接触实物的研究中,我注意到这些是仿古品,重新认识到这些都是陶技达到史上顶端的清朝初期的作品,初次看到了雍正仿古品的真实力量。
その代表例は「奉天古陶磁」の最高品とされる「青花釉裏紅九龍大酒會壺」で、当初は永楽品と見立てていたが、今は清初品と確信する。「図経」には、これに類する倣古品が幾つかオリジナル品に混じっている。中には明初の年款を書いた品もあり、「図経」にはオリジナル品と扱われているが、実際は倣古品である(ただし、上記九龍壺などは「図経」に年代記載がない)。つまり、蔵帳には元代や明代と記してあり、孫游先生もそれを信じていたが、実際には清初三代期の倣古品であった。そのいずれも、オリジナル品を凌駕する見事な出来栄えで、倣古年款を入れていない品の方が多い。
代表性的例子是被认作“奉天古陶瓷”最高作品的“青花釉里红九龙大酒会壶”当初被认为是永乐品,如今可以确信是清初品。《图经》中,于此类似的仿古品有几件都被混杂于原品当中。其中有写着明初年款的物品,在《图经》中被认作是原品,实际上是仿古品(不过,只有前述九龙壶中在《图经》中找不到年代记载)。也就是,藏账中记载了元代和明代,孙游老师也相信了这一点,但实际上是清初三代期的仿古品。而其中无论那一样,都有着凌驾于原品之上的精致,没有记载仿古年款的也很多。
この問題は、「図経」の作成の経緯を考察することで解決した。醇親王から辰吉郎が買い取った「奉天古陶磁」を、大正三年初に秘納庫から張氏帥府と北陵内の番小屋に移したのは、紀州家で換金して張作霖の軍資金にするためである。以前の秘納庫では整然と並べられて蔵帳(漢字だけ)により識別できた「奉天古陶磁」は、この移動で混淆してしまい、輸送の担当者が、同類と看做した品々を寄せ集めて並べたから、蔵帳と現物の厳密な対応が崩れた。そこで周蔵は、孫游先生の指導の下に、蔵帳を頼りに窯名・形態・寸法などを察して「図経」を作成したのであったが、幾つかの倣古品をオリジナル品と取り違えたのも無理からぬことで、この時に誤って記載したものと思われる。問題は、それら倣古品が通常の倣古品とは異なり、オリジナル品さえ超える見事な出来栄えであることで、おまけに年款を記さないものが多く、倣古品かオリジナル品かの断定が最後まで出来なかった。
それを、モデルとなったオリジナル品と比較しながら、倣造の仔細を推定することにより、倣古品と断定されたのは最近で、清初三代にこのような驚くべき倣古品が作られていたことを明確に認識するに至ったのである。
这个问题,我通过考察《图经》制作的经过得以解决。醇亲王自辰次郎处购得的“奉天古陶瓷”于大正3年初自秘藏库移入到张氏帅府与北陵内的番小屋中,这是因为在纪州家换取现金,以充作张作霖的军费。在从前的秘藏库中被整齐排列,根据藏账(只有汉字)得以识别的“奉天古陶瓷”因这次移动而被混淆,输送的担当者把认作是同类的物品集聚在一起,于是藏账与实物的严密对应崩溃了。而周藏在孙游老师的指导下,根据藏账考察窑名、形态、尺寸制作了“图经”,但也有可能把几件仿古品误认为原品,可能是此时错误记载了。问题是,这些仿古品与通常的仿古品不同,有着超越原品的妙处,并且大多没有记载年款,最终也没能判断是仿古品还是原品。最近才通过把这些物品与作为典范的原品加以对比,推定仿造的细节,从而断定其是仿古品,从而得以明确认识到清初三代有着如此令人惊叹的仿古品。
因みに両故宮博物院蔵の倣古品には、@実際製作期の年款を入れたものと、A倣古対象期の年款(倣古年款)を入れたものと二通りあるが、それらを区別した基準は善く分っていない。ただ、倣古品には大別して二種類あり、古拙性まで含めて古物を忠実に写そうとしたものと、古代の精神を汲み取りながら当代の好尚に即し当代の技術で作ったものがある。古物そのものを写そうとした前者は「倣古品」で良いが、古代の精神・感覚を尚びつつ、当代の技術で再現を図った後者は、「尚古品」とでも称すべきであろう。
另外,两个故宫博物院中的仿古品中有@记载着实际制作期年款的物品与A印有仿古対象期的年款(仿古年款)这两种,还没能完全了解区别这二者的基准。然而,仿古品大致可以分为两种,即忠实仿制古物,甚至包其古拙性,另一种则是吸取古代精神并且根据当代风尚和技术制作的。前者仿制古物,可以作为“仿古品”。而后者保持古代的精神、感觉,并且试图再现当代技术,应称作“尚古品”。
ところが「図経」所載の倣古品は、両故宮博物院蔵の倣古品とは作行きが全く異なり、ここに「窯の性格の違い」、即ち通常官窯とは異なる御窯の存在が実感される。要するに、清初三代の皇帝が自ら指導して漢文化の精粋たる古陶磁を再現したものである。乾隆帝にとって、それら御窯品は祖父康煕と父雍正および乾隆自身が、眼前の漢文化を超克するために精魂を込めて造ったものであった。単に古物の模造に成功した「倣古品」ではなく、栄光に満ちた漢族の古文化を満州族が超克したことを証する「克古品」であったから、満洲族のレガリアとして乾隆帝が奉天に隠したと考えるべきで、そこにこそ紫禁城に遺された通常倣古品との違いがある。固より乾隆帝は、表向き満漢平等を謳う清朝社会にそれを公開して誇るがごとき稚気は微塵もなく、大人の知恵を以て奉天に運ばせ、厳重に隠したのではあるまいか。
然而,《图经》中所载的仿古品与两故宫博物院所藏的仿古品的做法完全不同,在这里可以感觉到“窑的性格不同”,即与通常官窑不同的存在。简而言之,清初三代的皇帝亲自指导并再现了汉文化的精粹。对于乾隆皇帝来说,这些御窑品是其祖父康熙与父亲雍正以及乾隆皇帝本人为了超克眼前的汉文化而倾注精魂而制作的物品。他们不仅仅是成功模仿古物的“仿古品”,更是能够证明满族超克光荣的汉族古文化的“克古品”,因此,应该考虑到乾隆皇帝作为满族的豪权者将物品隐藏在奉天,这些物品才是与紫禁城中遗存的通常的仿古品不同的。当然,乾隆皇帝在当时表面上讴歌满汉平等的清朝社会中并不会幼稚地公开R耀这些原品,而是以成人的智慧将其运送到奉天,严密地隐藏起来。
辰吉郎から「奉天古陶磁」の管理処分を任された光瑞師は、奉天で実物を観た時に乾隆帝が克古品に懸けた思いを覚ったのであろう。日本渡来後に換金するに当たり、売却対象にはオリジナル品を選び、「御窯克古品」をすべて紀州家に遺したのは無論意図的で、乾隆帝の遺志を汲んだのである。或いは醇親王が辰吉郎に「奉天古陶磁」を譲与した時の条件ないし要請だったのかも知れない。
上田・小森の倣造工作の謎もこれで解ける。光瑞師は清初三代皇帝の顰に倣って、日本人による克古品を企てたのである。しかしながら清初御窯との力量の差は大き過ぎて同等品の製作は到底無理と分った光瑞師は、目的を販売用に転じたものと考えられる。
光瑞师自辰吉郎处得到“奉天古陶瓷”的管理处置权,他在奉天看到实物时,大概是感觉到了乾隆皇帝在克古品上倾注的心血。到了日本以后,他为了换取现金,在选择贩卖对象时,选取了原品,他把“御窑克古品”全部遗留给纪州家,无疑是刻意如此汲取了乾隆皇帝的遗志。上田、小森的仿造工作之谜也由此揭开。光瑞师效颦清初三代皇帝,计划了日本人的克古品。但是可以想见,与清初御窑的力量差距过大,同等品的制作到底无法达成,于是光瑞师将目标转移到贩卖用上了。