8・清朝宝物の運命(終)
8・清朝宝物的命运(终)
中華史上最高の名君を論ずる時、民族感情もあって一概にはいかぬが、清朝の康煕帝を挙げる者が最も多いという。ツングース族の黒水靺鞨は十一、二世紀の交に族称を女真と称えて歴史に顕れたが、完顔部の首長阿骨打が契丹族の「遼」を滅ぼして一一一五年に帝位に就き、国号を「大金」と称した。折しも日本は平安末期で、源平両氏が軍事力を以て朝廷で頭角を顕していた頃である。
「金」は契丹族の「遼」、漢族の「北宋」を亡ぼして中華本部の北半を支配し、漢字と契丹文字の影響で女真文字を作った。西北異民族が建てた征服王朝は漢字に倣った独自の文字を創るのが慣例で、突厥文字を初め契丹文字・西夏文字・蒙古文字・満洲文字などを考案したが、所詮民族文化を誇るだけに止まり、中華文明の芯核たる漢字を超克することは出来ず、徒に文化遺物と化した。共産主義革命で成立した中華人民共和国が用いる簡体字も見方によっては西北文字の一種で、後代には「中共文字」などと呼ばれることもありえよう。これに対し仮名やハングル(諺文)は、漢字そのものを民族語の文法に適合させるために表音文字を創ったもので自づから性格が違う。大韓民国が漢字の使用を排したのは短慮に過ぎると思うが、その代わり金正一を正日に変えたり、金正銀を正恩に変えることが可能となった。
当谈论到中华历史上地位最高的名君时,虽然因为民族感情,无法一概而论,但据说一般而言,举出清朝的康熙皇帝的是最多的。通古斯族的K水靺鞨在11、12世纪之交时称族称为女真出现于历史舞台,而完颜部的首长阿骨打灭了契丹族的“辽”,并在1115年就帝位,称国号为“大金”。正当此时,日本在平安末期,源平两氏以军事力量在朝廷崭露头角。
“金”灭了契丹族的“辽”、汉族的“北宋”,统治了中华本土的北半部,在汉字与契丹文字的影响下制作出了女真文字。西北的异民族所建立的征服王朝有一传统,是模仿汉字创作文字,以突厥文字为代表,他们想出了契丹文字、西夏文字、蒙古文字、满洲文字等等,但也不过仅止于夸耀民族文化,无法超克中华文明的精髓汉字,徒然化为文化遗物。也有观点认为,共产主义革命创立的中华人民共和国使用的简体字也是西北文字的一种,在后代被称为“中共文字”的也可以认作如此吧。与此相对,假名与朝鲜文字(谚文)是为了让汉字适应民族语法而创造出的,自身性格不同。大韩民国排斥使用汉字,这是过于肤浅的行为,另一方面,金正一有可能变成正日,而金正银可能变成正恩。
さて阿骨打の大金帝国が新興の蒙古帝国に滅ぼされて、華北に入っていた女真族は漢族に紛れたが、満洲に残った女真族は「元」の支配下で隠忍自重、「明」代には部族に分れて朝貢していたが、やがてマンジュを称する建州女直の首長ヌルハチが一六一六年「後金」を建て、満洲部族連合の王として「金国大汗」を称した。二代目皇太極は一六三五年、蒙古のチャハル部を征した時、「北元」皇帝の末裔が大元皇帝のレガリアたる玉璽を献上したのを機に女真・蒙古・漢から推戴され、天命を感じて国号を「清」と改める。三代目が山海関を越えて中華本部に入り、中華帝国大清の初代皇帝になった。すなわち康煕皇帝で康煕以後、雍正・乾隆と続く清初三代は中華史上でも空前絶後の最盛期であった。
话说阿骨打的大金帝国为新兴的蒙古帝国所灭,进入华北后女真族混迹于汉族中,留在满洲的女真族在“元”的支配上隐忍自重,“明”代分为不同部族朝贡,后来称作manju的建州女直首长努尔哈赤于1616年建立“后金”,作为满洲部族联盟的王称“金国大汗”。二代皇太极于1635年出征蒙古察哈尔时,“北元”皇帝的后裔以献出代表大元皇帝威权的玉玺为契机,为女真・蒙古・汉族推戴,感受到天命,改国号为“清”。第三代跨越山海关,进入中华本土,成为了中华帝国大清的首位皇帝。即在康熙、雍正、乾隆即使在中华历史上也是空前绝后的最盛期。
ルネッサンスにより物質科学的精神を解放した西欧文明が、その物理力を以てインド亜大陸・東南アジア圏に浸攻の勢いを示し、更に中華大陸を窺う勢いを示したのに対し、物理力では十二分に対抗できた筈の中華帝国が、殆ど手を拱いた形で終始した。中央アジアでは回・蔵の地を中華帝国の辺境として編入し、すなわちチベットを藩属せしめ、ウイグル族の故地を領土に編入して新疆(ニュー・テリトリー)と称したが、その間に、西欧による西南・東南アジア・シベリアの占領が進む。之をもたらした要因を、一説には支配級の満洲族が中華本部の護持に汲々として対外発展の気力を自ら封じたとするが、蓋し満洲を「封禁の地」として過疎のまま維持したことは、朔北シベリアをコサックの蹂躙に任せ、ロシア帝国の成立を助けたわけで、肯綮に当たるものがある。
西欧文明因文艺复兴解放了物质科学的精神,以其物理能力,对印欧大陆、东亚圈显示了其进攻的气焰,更显露出了窥视中华大陆的势头。在物理力量方面有绰绰有余力量对抗的中华帝国结果基本只是袖手旁观。在中亚,回藏之地作为中华帝国的边境被编入,即以西藏为藩属,将维吾尔族故地编入领土称作新疆(新区域),在此期间,西欧对西南、东南亚洲、西伯利亚的占领不断推进。对于引起这种情况的要因,一种说法是支配阶层的满洲汲汲于中华本土的护持,自己封闭了其对外发展的气力,但从另一个角度看,把满洲作为“封禁之地”维持其人烟吸收这一点,也有助于哥萨克民族蹂躏朔北西伯利亚和沙俄帝国的成立。
このアジア的停滞は、漢族の明朝によって明確化した傾向であって、異民族のせいにするのは如何なものかと思うが、折角漢族支配を恢復した中華本部が、世界史の分岐点に当たるこの時期に再び異民族支配に戻ったのが、偶然か或いは必然的要素があるのかは、中華史の一大問題であろう。
这样的亚洲的停滞,因汉族的明朝而有了明确的倾向,把其归为异民族造成的恶果是不对的。但难得恢复了汉族支配的中华本土,站在世界史的分歧点的这个时期重新变为异民族支配,这是偶然,抑或尤其必然性的要素,是中华史上的一大问题。
さて、乾隆帝は乾隆四十七年(一七八二)四庫全書の完成を見るや、奉天宮殿を大改装して文遡閣を設けるが、恐らくこれに紛れて皇太極を祀る北陵(正式名称は昭陵)にも改装を施して秘密倉庫を造り、紫禁城に秘蔵していた歴代の古陶磁に康煕・雍正・乾隆三代が特命で設けた御器厰の御庭焼を併せ、厳秘裡に奉天に送って秘密倉庫に隠匿させた。「奉天古陶磁」これである。
话说,乾隆皇帝在乾隆47年(1782年)见到了四库全书的完成,对奉天宫殿进行了大改装,设置了文溯阁,恐怕在此隐蔽下对祭祀皇太极的北陵(正式名称是昭陵)也施行了改装,制造秘密仓库,把秘藏于紫禁城中的历代古陶瓷与康熙、雍正、乾隆三代特设御窑的御庭烧一起绝密送入奉天,隐匿在秘密仓库里。这正是“奉天古陶瓷”。
大正初年に二代目醇親王から「奉天古陶磁」を譲り受けた堀川辰吉郎は、これを張作霖支援の原資とするため、大正六年初にひとまず張作霖が強奪した形とし、大正十四年初頭に紀州徳川家が七百五十万円を張作霖に渡して奉天兵工廠の拡充資金となる。日本に渡来した「奉天古陶磁」は、大谷光瑞師の指示で間もなくその一部が流出して世界各地の美術館の目玉となり、日本に残ったものは多くが重要文化財に指定された。流出品は全てオリジナル品で、清初三代皇帝の御庭焼は最後まで紀州徳川家に残った。私見によれば、御庭焼を選んで残したのは意図的で、それは御庭焼が特殊な性格のものだったからである。
在大正初年自二代醇亲王处继承“奉天古陶瓷”的堀川辰吉郎为了把其变为支援张作霖的原始资本,于大正6年初暂且以张作霖强行夺取的形式,在大正14年初从纪州コ川家取走750万日元给张作霖作为奉天兵工厂的扩充资金。来到日本的“奉天古陶瓷”在大谷光瑞师的指示下,不久其中的一部分就流出国外,成为了世界各地美术馆的珍宝,残留在日本也大多被指定为重要文化财。流出品全是原品,清初三代皇帝的御庭烧最终留在了纪州。愚见以为,选择留下御庭烧是有意为之,正是因为御庭烧有着特殊的性格。
清初三代の皇帝が景徳鎮官窯の振興を命じ、官窯品の品質向上に執着したことは記録にも残り、遺品も多い。殊に第二代雍正帝はその短い治世の間、政務に寧日無き中で、唯一の趣味は陶磁器の製作であった。官窯製品は紫禁城・円明園離宮・熱河避暑山荘で装飾・実用など宮廷生活に用いられ、或いは皇帝蒐集品として保管されたが、他に十万余件が予備品として奉天宮殿に秘蔵された。ところが、乾隆帝が奉天北陵に隠した「奉天古陶磁」の中に在った清初期の御庭焼は、並の官窯とは異なる特設の御器厰で造られ、その製作動機は主として倣古を目的としたものであった。倣古品は一般の官窯でも宣徳・成化の明代窯業最盛期のオリジナル品を模倣して、大いに造ったが、御窯の倣古品はそれらとは全く異なっていた。
清初三代的皇帝下令振兴景コ镇官窑,执着于官窑品品质的提高留在了历史记录里,遗物也很多。特别是第二代雍正皇帝在其短暂的治世期间,政务全无宁日,唯一的兴趣就是制作陶瓷器。官窑制品在紫禁城、圆明园离宫、热河避暑山庄的宫廷生活中用作装饰、实用,或是作为皇帝的收集品得以保管。其他有十万余件作为预备品秘藏于奉天宫殿。然而,乾隆皇帝隐匿于奉天北陵的“奉天古陶瓷”中的清朝初期的御庭烧与一般的官窑不同,是在特设的御窑中制作出的,其制作动机主要是以仿古为目的。在一般的官窑中,模仿宣徳・成化这类明代窑业最盛期原品的仿古品也得到大量制造,但御窑的仿古品与它们是迥异的。
中華文明の本質は陶磁文明である。当時それを最もよく知る者が清初三代の皇帝で、この故に官窯を振興させて新作と復古を進めたが、同時にオリジナル品を上回る倣古品の製作をも秘かに試みた。それが御庭焼で、意匠・作行において已にオリジナル品に勝り、もはや倣古品を超えて、古作を超克した「克古品」の域に達していた。乾隆帝はおそらく、之を大元の玉璽と同じく満州族・漢族・蒙古族が推戴する複合民族国家中華皇帝のレガリアとして奉天に送り、北陵に秘蔵せしめて学者家系の孫氏に管理を命じたのである。
中华文明的本质是陶瓷文明。最了解这点的是清初三代的皇帝,因而振兴官窑,制作新作和复古品,同时也悄悄尝试超越原品的仿古品制作。那就是御庭烧,在其设计、制作上都已经胜过原品,不久又超越了仿古品,达到了超克古作的“克古品”的领域。乾隆皇帝大概是把其当作与大元的玉玺一样当作满汉蒙三族推戴的复合民族国家中华皇帝皇权标记送去奉天,秘藏于北陵,命令学者家族的孙氏管理。
紀州徳川家の購入資金七百五十万円のうち五百万円を肩代わりした大谷光瑞師は、資金回収のため一部を売却するが、売却対象に歴代の古陶磁と清初官窯の新作品を選び、御庭焼は紀州家に留めたのは、醇親王から(辰吉郎を通じて?)乾隆帝の素志を聞いていたからであろう。本稿を書きながら思い出したのは、本願寺忍者の斎藤氏が接近してきて、「奉天古陶磁」に興味を示したが、暫くしてから「張作霖はこれを持った因縁で満洲王となり、手放したので落命した。これは滅多な扱いをしてはいけません」と申し起こしてきたことである。恐らく「九龍の壷」が中華皇帝のレガリアであるとの注意を喚起するための、本願寺からのメッセージであろうか。
大谷光瑞师承担了纪州家的购入资金750万日元中的500万元,为了资金回收卖出了一部分,而卖出的对象选择了历代古陶瓷与清初官窑的新作。御庭烧所以留在了纪州家,或许是因为自醇亲王(许是通过辰吉郎)处听闻了乾隆皇帝的夙愿。笔者在写着本稿的同时回忆起,本愿寺忍者某人曾接近我,表示了对“奉天古陶瓷”的兴趣,不久后说,“张作霖因为得到这批物品的因缘而成了满洲王,而又由于放弃了它们而丧命。这批东西可不能鲁莽对待啊。”
也许,这就是来自本愿寺的一个信息,是为了唤起对“九龙壶”其实是中华皇帝的皇权标记这一事实的注意。
私(落合)の想像では、光瑞師が上田恭輔に命じて満鉄窯で「奉天古陶磁」の倣造を始めたのも、日本人の手で「克古品」に匹敵するものを造ろうとしたもので、大正五年頃から上田恭輔に古陶磁研究を命じ、六年には小森忍を抜擢してその技量に中尾萬三の薬学知識を併せ、満鉄の予算を傾けて取り組んだ。謂わば「光瑞師御窯」であるが、日本人陶工の力量では窯業極盛期の官窯に到底及ばないことを悟った光瑞師は、早くも方向転換を図り、上田に自立して倣古品製作に進むことを命じた。自立を決意した上田は販路確保のために、満鉄の名義で関東軍参謀長浜面又助に接近したが、浜面は粛親王救済資金を造る目的で倣造工作への加担を陸軍中央に具申して認可を得た。
根据我(落合)的想象,光瑞师命上田恭辅开始仿造“奉天古陶瓷”,这是日本人初次试图自己制造匹敌清初御窑的“克古品”,约在大正5年,他命令上田恭辅进行古陶瓷研究,在6年提拔小森忍,利用他的技术和中尾万三的药学知识,倾注满铁的预算在此事业上。这就是所谓的”光瑞师御窑“,光瑞师后来领悟到凭借日本陶工的力量到底无法ー上窑业极盛期的官窑,便早早地改变方向,自上田处自立,命令其进行仿古品制作。决意自立的为了确保销路,以满铁的名义接近关东军参谋长浜面又助,浜面为了筹措肃亲王救济资金而加入仿造工作,并为此向陆军重要呈报并获取了认可。
紀州家に御庭焼を残したのは、辰吉郎か光瑞師の建てた基本方針によるもので、中華皇帝のレガリアを易々と流出させるわけにはゆかぬからである。「奉天古陶磁」の嵌め込み先として、財源が深い上に経済事業も消極的のため、多少の経済変動に煩わせられる心配のない紀州家を選んだのは、時機の到来するまでレガリアを安全に秘蔵せしむる主旨であったようだ。醇親王は正に満洲の将来を「奉天古陶磁」中の「克古品」と共に、堀川辰吉郎に託したのである。
之所以在纪州家留下御庭烧,是根据辰吉郎或光瑞師所立的基本方针,不能够轻易让中华皇帝的皇权标记流出。他们之所以选择财源深厚且对于经济事业消极,并且没有对于经济变动的烦恼的纪州家作为保管“奉天古陶瓷”的地方,似乎是因为他们的主要方针,即在时机到来之前安全秘藏皇权标记。醇亲王正是把满洲的将来与皇权标记中的“克古品“一起,托付给了堀川辰吉郎。
因みに、昭和七年建国の満洲国が標榜した五族協和は、皇太極を皇帝に推戴した満洲族・漢族・蒙古族に日本族・朝鮮族を加えた複合民族国家の理念を示すものであったが、醇親王の長男溥儀が就いた満洲国皇帝にレガリアは渡らなかった。恰も、満洲国の前途を危ぶみ反対の姿勢を示した醇親王が北京を動かず、満洲国と一線を画したのと軌を一にするものがある。満洲国では甘粕正彦が官窯の設置を計画し、昭和十八年吉林省の五万坪の地に新設した厚徳官窯の製陶所長を小森忍に委嘱して清初御窯の再現を図ったが、日本の敗戦と共に烏有に帰した。
而在昭和7年建国的满洲国所标榜的五族协和彰显了满族、汉族、蒙古族加上日本族、朝鲜族的复合民族国家的理念,但就任满洲国皇帝的醇亲王的长子溥仪也并未获得皇权标记。恰如醇亲王担忧满洲国前途,表现出反对姿态不离开北京,与满洲国划清界限的行为是一致的。在满洲国,甘粕正彦计划了官窑的设置,在昭和18年吉林省的五万坪地上新设了厚コ官窑,委托小森忍做制陶所长,试图再现清初御窑。而这一切都随着日本战败而化为乌有。
日本の敗戦と時を同じくした中国の国共内戦が共産党軍の勝利に終わり、新たに生まれた中華人民共和国は、正に「後清」ともいうべき複合民族国家であったが、東西冷戦のために日中間の交渉は二十年に亘り閉ざされることとなった。「奉天古陶磁」を日中国交回復に活用しようと考えていた大谷光瑞師は、終戦直後に満洲で発病しソ連軍に抑留されたが、二十二年に帰国して翌年病没、光瑞師の八歳下で明治十七年生まれの醇親王も昭和二十六年に病没する。光瑞師の遺志は、東本願寺の大谷光暢師が夫人の智子裏方を通じて継承を申し出て、了承されたが、冷戦の影響で日中の国交回復は進まず、レガリアは空しく紀州家周辺の蔵で眠りながら、発現の時機を待っていた。昭和四十一年の辰吉郎の逝去に間に合わなかった日中国交回復は、四十七年に田中角栄・大平正芳によって達成され、「奉天古陶磁」は終に出番を得なかった。平成元年に智子裏方が薨去、次いで紀州徳川家の為子夫人も他界したので、「奉天古陶磁」は庇護者を喪い、稲垣伯堂画伯を介して紀州文化振興会に移ったのである。
日本战败的同时,中国的国共内战中共产党军火的胜利,中华人民共和国诞生,这正是可以被称为“后清”的复合民族国家。而由于东西冷战,日中间的交流间断了二十年。大姑光瑞师本来考虑在日中国交恢复中活用“奉天古陶瓷”,他在战争结束后马上在满洲发病,被苏联军扣留,并在22年归国,翌年病逝。比光瑞师小8岁、生于明治17年的醇亲王也于昭和26年病逝。光瑞师的遗志由东本愿寺的大谷光畅师通过夫人智子里方提出必须继承,并得到同意,但由于冷战的影响日中的国交恢复迟迟不见进展,皇权标记徒然沉眠在纪州家周边的仓库中,等待被发现的时机。昭和41年,辰吉郎没有等到日中国交回复就逝去了,而国交回复于47由田中角荣和大平正芳得以达成,“奉天古陶瓷”最终也没能登场。在平成元年,智子里方逝去,其后コ川为子夫人归西,“奉天古陶瓷”失去了其庇护者,通过道垣伯堂画伯转移到了纪州文化振兴会。
最近牽牛子塚古墳が八角陵と判明して、斉明天皇の御陵と確定したのは、斉明の属する天智天皇系の陵墓が悉く八角陵だからである。これに寄せた学校史家の見解は、仏教意識の高まりによる蓮華文とか、道教思想によるとするが、墓制は文化の芯核として最も保守的で、一時的な流行や思い付きを決して採用するものではない。ここに「八」こそは東北アジアの騎馬民族の聖数で、これを用いる処に天智系の皇統がその本質を顕しているのである。「八」が軍制に顕れるのは、蒙古族ないしツングース・チュルク族の「契丹八部」、女直族の「満洲八旗」、北朝の北魏・北周などの「八柱国」など枚挙に暇がなく、わが朝に於いても応神天皇を表す「八幡」は、正に騎馬系統に属する族種の概念と思われる。聖徳太子に所縁の法隆寺夢殿と広隆寺桂宮殿は正に八角堂で、祖形は騎馬民族が部族会議を催した八角の天幕で、高層化したものが奉天宮殿の主棟の大政殿である。
最近牵牛子冢古坟证实是八角陵,齐明古坟也得到证明是八角陵。之所以确认它是齐明天皇的御陵,是因为齐明所属的天智天皇一系的陵墓全部都是八角陵。在这方面学院派史学家的见解是,墓制是文化的核心,是最保守的,要么是采用由于佛教意识的高涨而流行的莲花纹,要么是依据道教思想,绝不可能因一时的流行或突发奇想而采用。在这里“八”是东北亚骑马民族的圣数,使用这个数字的地方正是天智系皇统的本质的彰显之处。“八”出现于军制之中,有蒙古族乃至通古斯・突厥族的“契丹八部”,女直族的“满洲八旗”,北朝的北魏、北周等的“八柱国”等等,不胜枚举。在我朝中表达应神天皇的“八幡“二字,正属于种族的概念。与圣コ太子有关的法隆寺梦殿与广隆寺桂宫殿正是八角堂,其祖形是骑马民族召开部族会议的八角天幕,高层化的则是奉天宫殿的主栋的大政殿。