フルベッキ群像写真と小栗上野介

評論家 落合莞爾

南朝の末裔で長州奇兵隊士だった大室寅之祐は、睦仁親王として、慶応三年一月九日に践祚の儀を行い皇位を継ぐ。以後一部の公家から「寄兵隊天皇」と呼ばれていたらしい。

修史館の編集になる『明治史要』は、徳川慶喜が大政奉還を奏上した慶応三年十月十四日を以て始まるが、その記載から新天皇の動静を窺うと、新天皇は同年十二月二十七日に御所の建春門に御して薩摩・長州・土佐及び安芸の四藩兵の操練を 覧 ( み ) た後、大晦日の除服と元旦の四方拝の儀式を行うが、節会は停止した。

新天皇は慶応四年の年頭に起った戊辰戦役には関知せず、正月十五日を以て元服し、二月三日に至り、二条城に移された太政官代に臨御して親征の詔を発し、列藩に軍備を命じた。二月二十八日天皇は諸侯を便殿に召し、親諭して同心協力・国事勉励を命じる。

同月晦日に各国公使が、さらに三月三日には英国公使パークスが朝見した。同九日、天皇は太政官代に臨んで蝦夷地開拓の得失を諮詢し、十四日には紫宸殿に御して「五箇条の誓約」を行う。

三月二十一日、天皇親征の車駕が京都を出発して大坂に至り、本願寺別院を行在とし、同二十六日に天保山に 幸 ( みゆき ) して海軍の操練を見る。さらに四月六日に大坂城において諸藩兵の操練を見るが、徳川慶喜が四月四日に服罪したので京都二条城に移り、次いで大阪に臨んで八日に京都に還御した。その後、天皇の動静が記されるのは八月九日の賀茂社参詣である。同二十七日に紫宸殿で即位式を行った天皇は、二十九日に山階陵と後 月 ( がち ) 輪 ( りん ) 東陵に詣でた。

明治元年(慶応四年を九月八日改元)九月二十日を以て京都を発した天皇車駕は、十月十三日に東京に着き、江戸城を以て皇居とした。二十日には城内の小御所において「資治通鑑」の講義を聴き、二十七日大宮の氷川神社に参詣し二十九日に東京に還る。

十一月二日、東征大総督有栖川宮を賞してその任を解き、同十六日に浜離宮で海軍を見て、同十八日に遥拝の形で新嘗祭を行う。同二十三日には各国公使が朝見、二十八日に浜離宮で軍艦に乗る。十二月八日に至り、車駕は東京を発して同二十二日に京都に帰還、二十五日には孝明天皇祭を紫宸殿に行い、山陵に詣でた。

以上が、明治元年と改元された慶応四年における新天皇御自身の動静であるが、これをわざわざ掲げた意味は、例の「フルベッキ写真」について、一応考えてみたからである。

本年(平成二十四年)二十日公刊の斎藤充功著『「フルベッキ群像写真」と明治天皇“すり替え"説のトリック』は、宣教師フルベッキを囲む有名な群像写真の中心に座して、深重の眼差しを右前方に投げかける若者は従来一部で大室寅之祐とされてきたが、明治天皇とは別人であることを学者の鑑定書を付けて立証した。

この群像写真は、明治元年旧歴十月頃の撮影と考えられるが、その時期の明治天皇の動静は右に挙げた通りであって、長崎に現われることは有り得ないと断じて良い。

フルベッキ群像写真には、東山道鎮撫軍総督と副総督に任じた岩倉具視の子息両名と、同軍参謀宇井淵(号は栗園)および、総督随行を命ぜられて兄弟の護衛にあたった原保太郎、さらに薩摩藩士折田彦市が写っている。藩命で岩倉具視の護衛となった折田は、戊辰戦役中は岩倉と東山道鎮撫軍総督府との間の連絡将校となった。

小栗偽装処刑の関係者がこれだけ揃って、後世に証拠を残したのは、蓋し珍しい。史家がこれまで気付かなかったことも稀有の例と言うべきか。

それはさて、講談社『大日本人名辞書』は、小栗忠順の末期につき、下記のように言う。

「明治元年罷免の後、その 邑 ( ゆう ) 上州高崎に帰り、練兵一隊を養い自ら守る。官軍の将 某 ( ぼう ) 来りて之を召す。忠順単騎之に逝く。人或いは之を 諫 ( いさ ) む、聞かず。至れば即ち 戮 ( りく ) せらる」と記す。

右の記述は、正確な史実とは謂えないが、表面上の記録とはこんなものだろう。

「官軍の将某」とはむろん総督随行原保太郎のことである。巷間伝承では、参謀宇井淵が聞き込んできた小栗武装説を不安がる総督岩倉具定のために、様子を見てくると云って出かけた原が丸腰で出頭してきた小栗を、閏四月六日早暁に烏川の河原で斬首したとされている。

いずれにせよ、小栗の偽装処刑は秘密裡に行わるべきもので、わざと河原で公開処刑する必要は全くない。ゆえに、地元に従来伝わる伝承は、芝居に騙されたか流説に基づくものか分からないが、ともかく正確とは思えない。

岩倉具視は明治三年に子息具定・具経の兄弟をフルベッキの母校ラトガーズ大学に留学させるが、翌年に原保太郎を同大学に送った目的は、東山道鎮撫軍以来岩倉兄弟を護衛してきた原に、米国での兄弟の後見役を命じたほか、小栗偽装処刑の口止めと人証の隠匿を図ったものとみて善い。

因みに明治四年のラトガーズ日本留学生の集団写真には、原保太郎と岩倉具経が写っているが、具定の姿がないのは病気の為らしい。

平成二十四年十二月二十日