常陸国陰陽石考     落合莞爾

 一・水戸義公と巨石文明遺跡

 古神道に傾倒して神仏分離を推進し、名社に厚い庇護を加えて神道興隆に力めた水戸義公が、傍ら巨石信仰に並々ならぬ関心を寄せたのは、仏教の影響を受けていない縄文時代の巨石太陽文明の遺蹟を尊重したのである。

阿武隈山中の竪破山(たつわれさん)の磐座を見て「最も奇なり」と感銘し、太刀割石と命名した義公は、鹿島神宮の神体の要石の正体を見極めるようにと、カナメ石の周囲を七日七晩掘らせた伝承もあるらしい。

以下は私(落合)がある筋から仄聞したことである。

義公は早くから仙台藩ほか諸藩に命じて領内の要地を数尺を掘り下げさせ、巨石遺跡及び古碑を探究せしめたが、果して仙台藩領多賀城の遺跡の中から「多賀城之碑」が発現した。

発現場所は土中とか草叢の下とか諸説あるが、発現の時期は新井白石が「同文通考」で考証して万治寛文の間(一六五八から一六七三)としている。義公三十一歳から四十六歳にかけての頃である。

石碑発現の報は直ちに仙台藩主から義公に届けられた。仙台藩では正宗(政宗)の孫綱宗が万治元年に藩主に就いたが、不行跡を理由に万治三年二十一歳で隠居させられ、綱宗の長男でわずか二歳の綱村が家督を継ぐ。以後の藩政は綱宗の叔父宗勝が壟断し、綱宗自身は高輪藩邸に籠って作刀など芸術文化に傾倒したとされている。後西天皇と血縁の綱宗の隠居に就いては古来臆説が多いが、真相派まだ明らかでない。

光圀が石碑探求を命じた相手も、綱宗か先代の忠宗かはっきりしないが、発現時期は綱宗の隠居時代であろう。ともかく、石碑発現の報を聞いた義公は、これを厚く保全するように仙台藩に命じたという。

二・多賀城碑

仙台藩四代藩主綱村の時代に領内の数々の歌枕の地を考究した大淀三千風が、「松島眺望集」の中でこの石碑を「壷の碑」として紹介した。

そもそも「壺の碑」は古来有名な歌枕で、西行や藤原清輔・右大将源頼朝により陸奥を忍ぶよすがとして和歌に詠まれているが、やがてその所在が知れなくなった。

陸奥のおくゆかしくぞおもほゆる壷の碑外の浜風        西行「山家集」

石ぶみやつかろの遠(おち)に有りと聞くえぞ世中を思ひはなれぬ 藤原清輔「家集」

陸奥の磐手忍はえそ知ぬ書尽してよ壷のいしぶみ        右大将頼朝説明: http://www.bashouan.com/images/kten0.gif「拾玉集」 

歌枕「つぼのいしぶみ」の成立過程は定かでないが、文治年間(一一八五〜一一九〇)に藤

原顕昭が著した「袖中抄」には次のように言う。

顕昭云、いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有。日本の東のはてと云り。但田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に日本の中央のよし書付たれば石文と云と云り。信家の侍従の申しは、石の面ながさ四五丈計なるに文をゑり付たり。其所をつぼと云也。私云、みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて千嶋とも云ば、陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ。(袖中抄)

 右に拠れば、碑面には「日本中央」の字が刻まれ、日本の東の果ての「つぼ」という地に存在するとしている。しかし多賀城碑にはそのような文字はなく、発現場所の多賀城も日本の東の果てとは到底言い難く近隣に「壺」という地名もない。

そこで、辻褄合わせに、「其所をつぼと云」とある其所を「(石面に)文をゑり付た」箇所の意味と強弁したのは御用学で、今でもよくあることである。

碑面には百四十一の文字が彫り込まれ、中央上部に「西」の一字があり、その下に百四十字が十一行に配されている。碑文は前半に、京・蝦夷国・常陸国、・下野国・靺鞨国から多賀城までの距離を記し、後半は神亀元(七二四)年に大野朝臣東人が多賀城を設置したこと、天平宝字六(七六二)年に藤原恵美朝臣朝猲が改修したことを記し、最後に同年十二月一日と碑の建立年月日が刻まれている。

大淀三千風の「松島眺望集」の刊行は天和二(一六八二)年の事で、同書で「壺の碑」の発現を知った松尾芭蕉が、「奥の細道」の旅を思い立ち、三千風に会いに仙台に来訪するのが元禄二(一六八九)年のことである。

芭蕉に同行した曽良が幕府隠密であったことは既に明らかにされており、その仙台藩探索の旅に便乗したものである。芭蕉の目的は、三千風が「壺の碑」と信じた「多賀城碑」の実見もその一つであるが、最大の目的は商業人のネットワーク作りであった。芭蕉が酒田で財閥本間家の基礎を建てたことを、知る人は知る。

大正十一(一九二二)年の訪日時に仙台を訪れたアルベルト・アインシュタインは、十二月三日に高弟石原純に導かれて多賀城を訪れ、「多賀城碑」を実見した。二人の仙台行の隠れた目的は「壺の碑」の実見にあったと馬野周二博士から教わったが、実際に見たのは「多賀城碑」であった。二人はそのことを覚ったかどうか判らないが、世に伝わるのは仙台・松島の訪問ばかりのようだ。

群馬県の多胡碑、栃木県の那須国造碑とともに日本三古碑の一つに数えられてきた多賀城碑は、平成十年六月三十日に国の重要文化財(古文書)に指定された。文化財指定がこんなに遅れたのは、多賀城碑の偽造疑惑が立てられていたからである。

疑惑の理由は、書体は古風を模しているとはいえ生気が無く、集字体であり、文字の彫り方は近世以降にみられる「箱彫り」であるとされた。碑文の内容についても問題点が指摘されたが、ここでは省く。

ともかく、今日では「箱彫」とされていたのが「薬研彫」と見直され、その他のあらゆる疑惑は否定され、ないしは合理的に解釈し直されて、真作説が有力になり、文化財指定となった。

贋作説は、幕政当時、雄藩が藩威を誇るために古物を捏造した形跡があることも状況証拠とされたのであろう。それなら、この正反対のケースが国宝「志賀島金印」である。面白いのは、金印が薬研彫で漢〜三国時代に通例の箱彫ではないため、偽造説の理由となったことである。ともかく、「志賀島金印」は、黒田藩が高芙蓉(大島逸記)に依頼して作らせた偽物であることは、龍谷大学図書館二証拠があると聞く。

説明: ファイル:Tagajo Tsubo-no-Ishibumi.JPG

多賀城の碑

説明: http://kenbun55.web.infoseek.co.jp/_MG_3188.jpg

日本中央碑(坪の碑)

三・日本中央碑

昭和二十四(一九四九)年六月二十一日、青森県上北郡甲地村石文集落近くの赤川上流の雑木林で千曳村の川村種吉が、馬魂碑の土台を探していて、高さ一・五mの自然石に「日本中央」と刻まれているものを偶然発見した。この辺りの地名は「つも」と呼ばれる馬産地で、旧村名に坪村や二本柳村があり、日本中央競馬会の坪や二本柳を称する調教師が何人かいたが、もとは当地の出身であろう。

「日本中央」の字といい、場所といい、まさに「袖中抄」の記述に一致するから、「つぼの碑」であることを疑うべくもないが、呆れたことに偽造説があり、未だに文化財指定を受けていない。

偽造説の理由は、まず@ここを「日本中央」というのは常識に反するというが、これは中世以後の「日本」観念を当て嵌めるからである。その昔、列島の地域観念は東から、「ヒノモト」「やまと」「倭」に別けて認識されていた。その意味で、ここは蝦夷島と奥羽を併せたヒノモトの中央なので、津軽の安東氏は日之本大将軍を号した。

またA坂上田村麻呂がこの地に到来していないというが、坂上の名は石碑になく、ただ「袖中抄」に云うだけである。常識的に見て、「袖中抄」が、弘仁二(八一一)年にこの地へ来た文屋棉麻呂と混同したと観て善いのである。

さらにB字が一見して達筆とは言えないのが鑑定に影響を及ぼしているというが、それなら以下に示す山ノ上碑(奈良時代)はどうか。これは隷書を簡単にしたもので楷書に移行する過程の字体であるが、古拙極まるため観賞用文書には余り残っていない。李氏朝鮮の陶磁器にはこの文字を用いたものがある。達筆の観念が違うだけである。

説明: http://kankodori.net/japaneseculture/site/014/img/photo4.jpg

呆れるのはC多賀城碑が「壺の碑」の有力候補である、ということである。まるで本末転倒、「猿が仏を嗤う」ようなもので、こんなことを言い出す者が学者扱いされている国なのである。

文部省文化財保存課が調査を実施したらしいが、結論を出せず、その後論争がなされないまま、真偽不明とされている。

数十年後には真作とされるはずで、でなければこの国に文化はない。佐伯祐三絵画と同じことである。

 四・陰陽神社陰陽石

いよいよ陰陽神社の陰陽石であるが、巨石巡礼者・岡田謙二氏は次のように言う。

一般に陰陽石には、性信仰や性器崇拝の原始信仰の流れによるものが多いが、この陰陽石の形状は、むしろシンメトリーであり、陰と陽を対(つい)でとらえる中国思想の太極的な陰陽論に基づいて名付けられたものに思える。東側の陰石は高さ10m、横2.3m、厚さ2.5m。西側の陽石は高さ8.8m、横5.6m、厚さ1.9m。もともと一つの大岩が割れたもののようにも見える。 

 陰陽石としての定義やそれに基づく鑑定はさて措くとして、巨石文明に薀蓄のあった義公が重視したのは、「この巨岩が縄文時代の崇拝対象だったこと」である。

義公・芭蕉・アインシュタイン・石原純を結ぶ共通要素こそ、実は「縄文文化」なのである(了)。

                           平成二十四年五月十二日

                              紀州文化振興会  落合莞爾