貔貅相対論序説(その1)
平成二十四年五月二十日、常陸国那珂郡陰陽神社の貔貅奉献式を翌日に控え、予は出席の要請を受けて現地に赴く。これ奉献の碑文を撰せしが故なり。其の日、たまたま金環日蝕を視て翻然悟るところあり、其の要を以下に示す。
抑々日蝕は太陰の偶々太陽を覆う陰陽合体の奇蹟にて其の形象に二あり、皆既日蝕と金環蝕これなり。皆既日蝕の太陰の太陽を覆い尽くす凶兆なるに対し、金環蝕は太陰太陽を覆ふも太陰の径僅かに太陽に及ばず陽光を周囲に放射する吉瑞にして、陽徳の太陰の輔翼を得て却って際立つ、扶桑千年に一度の奇瑞となす。
嘗て禹域赤縣の朱氏明朝の滅亡に当り、宮闕守衛の貔貅忽ちその任を捨て、明帝の遺臣朱舜水を擁して扶桑に飛来し、義公水戸光圀の義侠を恃みて常陸国に留まる。その陰陽石に拠りし所以は中朝の守衛に任じ、以て扶桑の神国たるを明らかにするにあり。
後年朱舜水の門弟ら集い約して貔貅を刻し、陰陽神社に奉献して神前に置く。貔は牡にして貅は牝、陰陽を以て一対を成す。近年に至り貔の一部を欠損し貅また盗難の厄に遭ふ。これ蓋し貔貅飛来の故事巷間に隠滅し中朝守衛の意義殆ど忘却の淵に沈まんとするに当り、貔は自ら破損し貅は盗窩に隠遁して以て世人警めたると視るのほか無し。
ここに義公思慕の有志互いに羽檄し、微志円通して再建忽ち成るは近来の快事と謂ふて可なり。其の奉献の式に当り、前日の天候は陰陽合体の千年の奇瑞を顕す、これ豈何の偶然とせむ乎。
ここに不肖の翻然と覚るあり。陰陽は大極より別れその性は本来相対なりと。その詳細は稿をあらためんと欲す。
平成二十四年五月二十五日 成行庵主人 落合莞爾識