紀伊国名草荘大野荘中村の春日明神に関する考察(1)

[1]奥ノ院幡川山禅林寺
大野荘中村の春日大明神の奥ノ院の幡川山禅林寺は大野荘幡川村にあり、大野荘の荘官団として輪番で管理していた大野十番頭の荘園管理事務所を兼ねていました。
禅林寺は聖武天皇(在位七二四~七四九)の勅願寺で、唐の長安から来日した青龍寺の為光(いこう)上人が開山しました。その時期は天平年間(七二九~四九)とされていますが、ここでは一応、七三五年と仮定しておきます。
東大寺大仏造立の詔が天平十五(七四三)年、大仏開眼はその九年後の天平勝宝四(七五二)年ですから、禅林寺建立の勅願は大仏造立に数年先駆けて行われたのです。
インド中期密教が唐に入った契機は、天竺僧の善無畏(六三七~七三五)による「大日経」の漢訳です。同じく天竺僧の金剛智(六七一~七四一)と、その弟子で西域人と謂われる不空(七〇五~七七四)が「金剛頂経」をもたらして、中期密教の経典を唐に伝来します。
 唐では当時、法華経に基づく天台教学などにより、仏教思想が既に確立し、現世利益的密教が普及していましたが、そこへ成仏を願うインド中期密教が入ってきたわけです。
 不空が仏教を鎮護国家思想と結びつけることで体系化した中期密教は、唐皇室の帰依を得て最盛期に達しますが、その中心が唐都長安(現在の中華人民共和国陝西省西安市)の青龍寺だったのです。青龍寺は隋の開皇二(五八二)年に創建された霊感寺の後身で、一旦廃された後、六六二年に再建されて観音寺と号し、景雲二(七一一)年に青龍寺と改号されました。
幡川禅林寺の開山為光上人の生れを、一応七〇〇年前後と推定しておきます。青龍寺で為光は、同年輩の不空の兄弟弟子として、金剛智(六七一~七四一)から「金剛頂経」を主とするインド中期密教を学んだものと見られます。
為光の来朝については朝廷側に記録がないらしいところから、朝廷の招聘によるものではなく南都仏教に勢力を有していた有志が招聘したものと考えられます。
 有志の招聘を受けて、おそらく七三〇年代に来朝した為光は、聖武天皇の勅願による幡川山禅林寺を開山します。為光を招聘した有志とは、おそらく当時南都仏教を支配していた渡来人阿刀氏の一族で、目的は仏教強化の新理論としての密教の移入と思われます。
 飛鳥時代(五九二~七一〇)にすでに密教が渡来していたことは、聖徳太子の遺品で判るそうですが、奈良時代に渡来したのも含めて、それらを「雑(ぞう)密(みつ)」と呼びます。
一方、不空に師事した恵果阿闍梨(七四六~八〇六)が不空が完成した体系的密教「純密」の第一人者として歴代皇帝の師となり、東アジア各地から長安青龍寺に集まった弟子たちに純密を授けていました。
不空と同年輩とみられる為光が来朝したのは、推定七三〇年頃ですから、恵果はまだ生まれて居ません。したがって為光が日本にもたらした密教は、まだ純密化されていない段階の現世利益的性格の濃い雑密と考えられます。青龍寺で倶(とも)に恵果に学んだ空海と最澄は、それぞれ純密を日本にもたらしましたが、前者を「東密」、後者を「台密」と呼びます。
大塔宮の紀州入りは、高野山や熊野大社に対する工作だけが目的ではありません。紀州全域に蟠踞する族種南朝の海人衆、すなわち和田楠木氏・井口氏ら族種橘氏の土豪勢力、荒川悪党らいわゆる悪党武士がむしろ本命でした。彼らに対する支援要請のための紀州入りだったのです。
 その一つが大野十番頭だったことは言うまでもありません。それは、大野十番頭がアマベ系海民の族種であることと、その蟠踞する大野荘の地が、やがて紀伊国守護の城館が出来る土地柄からです。

  「2」地名オオノの起源に関する試論
 大野荘が「オホノノ荘」と呼ばれたのか、それとも「オホノ荘」と呼ばれたのか、確かめる方法を知りませんが、私は後者ではないかと秘かに考えております。その理由は、この地が光明皇后の湯沐邑(ゆのむら)だったことです。
湯沐邑の語源は唐制にあり、中宮・東宮など特定の皇族にだけ、浴場を維持する財源として与えられた荘園と謂われます。「壬申の乱」の挙兵で有名な大海人皇子の美濃国湯沐邑は後に池田町と呼ばれますが、ここは紀氏が開発したようです。湯沐邑のカシラを湯沐令と書き、「ユノウナガシ」と読みますが、何だか早く入れと催促されているような気がします。
大海人皇子の湯沐邑の湯沐令(ゆのうながし)の名は多品(おほの)治(ほむじ)と謂いますが、実はこの姓の「オホノ」が「大野」の起源ではないかと思うのです。「壬申の乱」において、大海人の側近武官の村国男依という人は、名前から紀氏と察しますが、その下で活躍する和邇部(わにべの)君手(きみて)も大海人皇子の舎人です。
 舎人は地方豪族の子弟が使用人として貢進されますから、君手は本来、美濃国の豪族の子弟と考えるべきですが、それも、後年に美濃国揖斐郡池田(いけだの)荘(しょう)と呼ばれるようになる大海人の湯沐邑を管理していた豪族と思われます。
和邇氏が集住していた池田荘は明治時代になり、隣接する大野郡と合併して、今は岐阜県揖斐郡で池田町と称していますが、隣が同郡大野町です。郡内には春日村もありましたが、平成十七年に近隣町村と合併して揖斐川町の一部になりました。
これを見れば、「大野」と「春日」の関係は明らかで、旧は湯沐邑の荘官だった「多」氏と、春日氏(和邇氏)が共存していた地域だったのです。これを地元の池田町ではどう説明しているかというと、春日については、「明治二十二年に春日谷の六村が合併した際に春日村となったが、春日という日本語は微かに霞立つ険しい山が語源」などと、与太を言っています。大野郡となると、定めし「大きな野原だから大野だ」などと謂うに決まっていますから、解説を観る気もしません。
  ここで気になるのは、「壬申の乱」で大海人支援の先駆けをした湯沐令の村国男依(むらくにのおより)の名から紀氏を連想することです。紀氏には「オ」で始まる名前が多く、和歌山市の地名の「オノ湊」も、紀氏が支配していた「オ」という土地にある湊の意味と考えられています。
 ところが、この地の地名は、開発領主が和泉国池田村から来たので「池田」となったとされておりますから、もし池田村からやって来たのが紀氏だったならば、上手く説明が付きます。しかも摂津池田氏は、先祖と称する数ある姓の中に、紀長谷雄を入れています。
 紀州大谷古墳で見つかった馬冑からして、騎馬族の典型と観られる紀国造家と同族になる山城紀氏は、いつの間にか騎馬民から海洋民に族種が入れ替わり、その秘密を家系図に秘めているとのことです。宇佐から石清水に八幡神を勧請してきた善法寺別当の紀氏も、実際の族種は海洋民の橘氏で、「南朝」系だそうです。この血統入替えを解くカギは、紀長谷雄(八四五~九一二)に在るとされています。
 それなら橘系楠木氏を称したり、時には紀長谷雄系を称している摂津池田氏も、結局は同じところに帰するように思われます。
ともかく、紀氏こそは古代史最大の謎と言って良い、と思います。
       
             2013年6月12日
                 紀州文化研究会   落合莞爾