南方熊楠と豪商雑賀屋


十数年も前のこと、東京を落ちて紀州へ戻ることとなった私の寓居が決まり、愈々乗り込むこととなった私は、和歌山駅からタクシーに乗った。寓居まで十分かかるかどうかという距離である。
色の黒い痩せ面の運転手が一人で喋りだした。「わしらは雑賀衆です。それもオモテ雑賀で、天皇さんを大和へお連れしたのはワシらの先祖ですわ。奈良から京都へお連れしたのは、ヤサカの衆です」。
四十年ぶりで紀州へ戻ってきた日に、思いもかけず初めて聞く、珍しい話である。聞きもしないのに運転手は話を続ける。「オモテ雑賀のカシラは川端です。深い意味はありません。宮井川の川端にあるから川端言うだけですわ。オモテ雑賀は昔も今も、四百六十三軒(正確な数字は忘れたが、感じとしてこんなものであった)です。不思議なことに今も昔も変わりませんわ」
反問したいことが山ほどあるが、もう近くに来てしまった。「オモテ雑賀は決してオモテには出られんのですわ。水戸さんの世話になって、みな水戸に行ってしもうて、和歌山には残っておりませんわ。ワシも高知へ行ってたんやが、問題起こして今はこうしてタクシー乗っとうんですわ」。
そこまで聞いた時に、玄関に着いた。又の機会と思い名札を見たら、外してあった。五百円ほど払って車を降りた。以来、二度とその運転手に遭わない。もっと聞いとけば良かったと思う。
後日知ったことだが、和歌山市和佐井ノ口に、たしかに宮井川の取水口があり、川端と謂う旧家がある。この家がオモテ雑賀の頭領ということになる。
先日この話をさる筋にしたら、「その運ちゃんはヤタガラスや」と謂われた。

紀伊国名草郡大野荘幡川村にある幡川山禅林寺は、聖武天皇(七〇一〜七五六・在位七二四〜七四九)の勅願により、天平年間(七二九〜四九)に長安青龍寺の為光上人が開山した寺である。高野山真言宗ながら薬師如来を本尊とし、同寺の関係HPでは「民衆型の寺院」と紹介しているが、民衆型寺院とは、南北朝時代に西大寺流律宗の影響下にあった寺院のことで、非人(非農業民)救済を宗是とするから、本尊薬師如来とあれば病院を意味すると観て良い。信者はほとんどが海人系で族種南朝の人々であった。
因みに、史上、紀伊国名草郡にしか足跡を残していない為光上人は、禅林寺の外に下記の二ヵ寺を郡内で開山している。大野荘井田村の井田山地蔵寺は、禅林寺と同じく聖武天皇勅願で且つ春日大明神の奥ノ院である。もと真言宗で浄土宗鎮西派に転じたというのは、創建当時は一つの寺だったが、浄土思想の勃興に対処して幡川薬師と井田地蔵に分けたのである。
今一つは、名草郡神宮下郷紀三井寺村の紀三井山金剛宝寺、すなわち西国三十三か所で有名な紀三井寺である。所在地の紀三井寺村は、幡川・井田からは直線距離にして三〜四キロしか離れていない。
紀三井寺の開山は宝亀元(七七〇)年で、禅林寺・地蔵寺から四十年も後である。しかも勅願でないなどの諸事情から洞察すると、願主は今も当地でメリヤス業を営み繁栄している南方一族と観て良い。
紀伊国名草郡で、雑賀荘と隣接する神宮下郷紀三井寺村は、もとは住民の多くが雑賀衆であった。表雑賀衆とは大陸渡来のトルコ系族種の鉄勒の末裔で、世界最初の製塩・製鉄民族だという。また、裏サイカとは、朝鮮半島のソシモリから牛頭天王を奉じて渡来してきた八坂連と聞く。
南方熊楠によれば、先祖は日高郡川上荘の領主川上采女であったが、元弘元年に争乱始まるや大塔宮に心を寄せたため、玉置山神社社司の末裔で鎌倉幕府に通じた玉置庄司盛高に、川狩りの最中を討たれた。采女の子孫が熊楠の父弥兵衛で、奉公先の豪商雑賀屋の娘婿となって南方姓を冒したと熊楠は謂う。
ところが、紀州藩政と密着した豪商の雑賀屋は実は安田姓である。
本来は廻船問屋で板問屋・塩問屋も兼ねた当時の総合商社の四代目の長兵衛は、元文四(一七三九)年に本州で初めてでサトウキビを栽培し、製糖に成功するが、気象条件の差で琉球に敗れた。安田氏はおそらく、紀州熊野に発祥した族種タチバナ姓の海洋民で、廻船問屋から塩問屋に進出した際に、屋号を雑賀屋としたのである。
信濃国下伊奈郡大鹿村で、「本諏訪社」こと葦原神社を拠点に、塩泉から「鹿塩」を製していた諏訪族の分流が、古墳時代から海水直煮法による製塩が盛んな当地に来住し、祖神建御名方(タケミナカタ)に因む南方氏を称した。
当地の製塩業で大いに儲けた南方氏が願主となり、幡川禅林寺で高僧との評判が高い為光上人を招いて開山としたと観るべきものである。製塩業者として安田氏の配下になった南方衆の一人で、暖簾分けを受けて名乗った雑賀屋に奉公した熊楠の父弥兵衛が、その養子になったと観れば筋が通る。


平成25年4月1日