月刊日本24年12月送稿 疑史96回 

  
歴史の相似象
今回だけは本稿の内容を例月と変えることをお許し頂きたい。
衆院選挙の公示日を明日に控えて書いた本稿を、諸兄がご覧になる頃には選挙結果が出ているが、今回の選挙を「改憲選挙」と高言する所以は、現下の情勢がワイマール共和国に似ているからである。各党間に顕在ないし潜在する「改憲勢力」は、果たして時局の要請に相応するだけの成果を得たであろうか。
ワイマール共和国とは、第一次大戦の敗戦とドイツ革命によって崩壊した帝政ドイツを承けて、ドイツ国民が一九一八年に樹立した共和政体である。その国家理念は、連合国が押し付けたヴェルサイユ条約案を受諾した憲法制定国民会議が、一九一九年一月にヴァイマルにおいて制定し、初代大統領フリードリッヒ・エーベルトが八月十一日に調印したワイマール憲法に基づく議会民主主義で、国防・対外方針は弱兵・平和主義であった。日本国憲法は、これを祖形としたものである。ワイマール国の政権を担ったのは、共産主義の流入によって急激に進展する革命の阻止を計った中道左派のドイツ社会民主党であった。戦後日本でその役割を果たしたのが自由民主党である。
帝政ドイツの軍事侵略を受けた隣邦フランスの同国に対する関係は、恰も中華人民共和国の戦後日本に対する関係を思わせ、また帝政ドイツの政治的支配下にあったポーランドとベルギーと同国の歴史的関係は、朝鮮半島国家および台湾の戦後日本に対する関係と似ていた。
これら隣邦諸国は帝政ドイツに対する被害意識と報復心を露わにして、連合国がワイマール国に要求する講和条件を徒に過酷にした。その点、戦後日本に対する隣邦からの金銭的要求が少なくとも外見では穏健だったのは、第一次大戦の戦後処理の失敗を意識した連合国の意図を反映したものである。しかも台湾では、新占領者の国民党が反共政策から日本に特段の配慮を示し、原住民の間でも日本に対する好感が、新占領者との比較から維持された。
講和条件は一九一九年五月にヴェルサイユ条約として締結されたが、主として隣邦フランスの要求により、アルザス・ロレーヌ地方のフランスへの割譲を初めとする領土削減や軍備制限など極めて過酷なものになった。ことに賠償金とされた一、三二〇億金マルクは純金量で四七、二五六dになり、金本位制下の日本円で六三〇億円、今の物価感覚で見ると五百兆円にも上る天文学的な額であった。因みに、本日の金地金価格d当り四七・四億円なら二二四兆円にしかならないのは、この百年間の金価格上昇率が物価上昇率の半分しかないからである。
ともかく一、三二〇億金マルクは、当時のドイツ国内総生産の二十年分に相当する非現実的な額で、しかも年に二十億金マルク、かつ輸出額の二十六%以上の支払を求められたワイマール共和国がこれを拒否した場合には、ルール地方を占領するという通告(ロンドンの最終通告)がなされた。それでも条約を受諾したワイマール共和国は、その履行に勤めようとしたが、インフレ進行のために賠償金の支払は難しく、連合国側は一九二二年に入ると金銭賠償を断念して鉄・木材・石炭等の現物支払を求めた。
その現物支払が順調に進まないのを、ワイマール共和国側の故意によるものと謗ったフランスとベルギーは一九二三年一月、石炭とコークスによる支払を確保するためと称し、軍隊を派遣してルール地方全域の占領を敢行した。これに対し、実質的に軍備を解除されていたワイマール共和国は政府主導のストライキで対抗するが、労賃を保証した政府が「紙マルク」を増刷したので忽ちハイパー・インフレーションに陥り、一九一四年に〇・二四米ドルだった金マルクは、「紙マルク」となって一兆分の一に暴落し、給与と貯蓄に依存する実直な中産階級の生活は塗炭の苦しみに陥った。
この折しも、草莽の市民活動家アドルフ・ヒットラーに直接面会して金銭支援を申し出たのが、シドニー・ウォーバーグと称する金融家で、推測される本名はジェームス・ウォーバーグである。通俗史観ではユダヤ人とされるこの人物こそ、「ヴェネツィア・コスモポリタン」の一員たる「金融ワンワールド」の工作員と視るべきである。因みに、ワンワールドとユダヤの相違は戯曲『ヴェニスの商人』がおいて明確に描写し、作中の商人アントニオがヴェネツィア・コスモポリタン、シャイロックがユダヤ人であるが、詳しくは拙著『金融ワンワールド』(成甲書房刊)を参照して戴きたい。
不況のどん底のワイマール共和国で無名の市民運動家だったヒトラーが、シドニー・ウオ―バーグの資金を活用して失業青年に食料・日当を与え制服を支給した結果、一夜にして誕生したのがナチス党員で、一九二三年十一月八日から九日にかけてミュンヘンでクーデターを起こすが未遂に終わった。ミュンヘン一揆、または首謀者の名前からヒトラー一揆と呼ばれるこの事件は、ワイマール共和国の一局面を象徴するもので、暴力と絶縁した戦後日本ならば、さしづめ「ヒットラー維新」とでも呼ばれ、選挙を通じた政治運動の形になるわけである。
中央銀行ライヒスバンクが本来の機能を喪失した異常事態に即応すべく、エーベルト大統領は早くも十一月十三日にヒャルマン・シャハトをライヒ通貨委員に任命する。ヴェルサイユ条約によって中央銀行総裁の任免権を禁じられていたワイマール政府が、シャハトのために急遽ライヒ通貨委員という新しいポストを作ったのである。シャハトは、金本位制を前提としてワイマール国の不動産や商工業資産を見返りにした補助通貨レンテンマルクを新たに発行し、十一月二十日から一兆紙マルクを一レンテンマルクと交換するとしたところ、これによりハイパーインフレは奇跡的に収束し、レンテンマルクは翌年には金本位のライヒスマルクに置き換えられた。
これに対し現下のわが国は、中央銀行の日銀がゼロ金利策を採りながら、国内貸出を事実上抑制しているため、国民の貯蓄は国内で活用されず、故に需要も盛り上がらず深刻なデフレに悩む一方、銀行の預貸率は五割を割り、預金は国外に流出して金融業者と外国を潤すばかりである。 
近来白川日銀総裁に対して自民党安倍総裁から政策積極化の要求がなされたが拒絶され、選挙後の総裁人事が取沙汰されるに至った。しかるに自民党総裁の態度が俄に一転して日銀総裁に一籌を輸したのは、中央銀行総裁の任免権が一国の政府にないことが顕在化したわけで、エーベルト大統領が、通貨改革を意図するシャハトのために新ポストを作った所以である。
小党濫立による機能麻痺から議会政治の危機に陥っていたワイマール政界は、創業大統領エーベルトが一九二五年に死去し、後継大統領に就いたヒンデンブルグ元帥の在任中は安定していたが、隣邦のルール占領により数十億金マルク(現価で数兆円)に相当する損失を蒙ったドイツ経済が世界恐慌に遭遇すると、ヴェルサイユ条約に対する国民の潜在的不満が顕れてナチス党の権力掌握を導くこととなった。
ヴェルサイユ条約が定めた巨額な賠償金は、一九二四年のドーズ案によって返済方式が緩和され、一九二九年のヤング案によって総額も低減されたが、直後に世界恐慌に突入したドイツ経済は再び深刻な危機を迎えた。そこで米大統領フーバーのモラトリアムにより一九三一年の支払が猶予されるが、その後もドイツ経済は一向に好転せず、一九三二年以降の賠償金支払を話し合うため、一九三二年夏にローザンヌ会議が行なわれる。同会議でワイマール共和国は、支払の再開が不可能として爾後の免除を求め、最終的にはこれまで賠償した金額(総額の一割強)に加え三十億金マルクを支払うことで協定した。
ナチス党の台頭に圧されたヒンデンブルグ大統領は、一九三三年ヒトラーを首相に指名し、ここにワイマール共和国は終焉する。その後のヒトラーがワイマール憲法を破棄して独裁を確立する過程は、語るまでもないであろう。例の賠償金は、ヴェルサイユ体制の打破を訴えるヒトラーが首相に就任したため結局支払われなかった。これがワイマール国の本来あるべき姿だったのである。
ヒトラーのもとにウォーバーグを派遣したワンワールドの目的は、ヴェルサイユ体制で余りにもフランス側に傾いてしまった独仏間のバランスをドイツ寄りに復元し、またポーランド人の持ち込んだ国際共産主義によって余りにも幻想的平和主義に傾いたワイマール憲法を国家主義に復元させるための方策であった。そのために市民運動家ヒトラーに資金を与え、ヒトラーによってドイツ人の民族的自覚を助長させ、対外方針を強化せしめた。ポーランド由来のユダヤ人対策の意味も本来はそこにあったが、行き過ぎたのである。
以上がワイマール国政治史の起承転結で、平成日本と似ている部分は本稿が例示したほかにも多々あるが諸兄姉のご想像に任せ、この際は現下の苦境の遠因がマッカーサー憲法に由来すること、これを脱するにはその改正しかないことを認識して戴きたいと願うばかりである。

本稿の内容をまとめた拙著『明治維新の極秘計画』が公刊されました。
内容は Kishu-bunka.org を観れば、紹介があります。