当今陛下のお言葉について

下記の一文を諸兄に呈上する所以は、一つには七月二十一日に橿原神宮を御参拝された皇太子ご一家が京都御苑内の京都学習院址を訪れられて、愛子内親王に京都学習院が明治維新に果たした意義を教えられたことです。
京都御所の建春門外に在った京都学習院は大規模な施設ではありません。実は、これをアリバイにして実質的な (ウラの)学習院を粟田口の青蓮院の境内に創っていたのです。青蓮院境内は当時五万坪もあり、幕吏も入れなかったので、維新を推進する勢力にとっては恰好のアジトだったのです。
このような京都学習院の実情とその意義を論じたものは、明治維新以来、拙著の外には一冊もありません。京都学習院の意義を明らかにすれば、吉田松陰の松下村塾の意義が半減し、坂本龍馬に至っては単なる走り使いであった真相がばれてしまいます。、戦後になっても史家が誰一人として京都学習院を研究しなかったのは、根本的には不注意ですが、潜在意識では、戦後史観に敵対する史実に近寄るのを怖れたからだと思います。
もう一つは、八月八日の当今陛下の御言葉です。陛下が十一分の間に七度も「務め」と言われ、また一言だけ「家族が」と言われたことを、わたしは次のように拝察しました。
天皇には憲法が定める「国事」の他に公開しない重要な「務め」があり、これを「家族」が行なっている事を、言外にお示しになった。
日本には太古から政体と國體があり、平安朝の中期以後に成立した院政により、上皇が國體事項を分担していたのですが、南北朝に至ってこの形が変わりました。明治憲法も現行憲法も政体を定めただけで國體天皇に及ばないため、國體天皇について国民はおろか政体の首脳もごく少数しか知らぬのが現状です。
わが国に政体と國體が両立併存してきたことを唱えたのは、太古以来拙著だけですから、今回のお言葉は、切にわたしの心に沁みます。
因って、僭越ながら陛下のお言葉を拝察してお伝えし、わたしの史的洞察の形成過程を、明らかにしたいと存じます。

                記
下記は、本年七月三十日に発売した拙著『ワンワールドと明治日本』の自序部分の原稿に若干書き足したものです。同著の自序とは細部だけ異なっています。

始まりは佐伯絵画の調査依頼
ちょうど一年前の平成二十七年三月下旬のことです。
年来わたしを支援してくださる一読者が紀州の寓居を訪ねてこられました。その読者は風貌魁偉な僧を伴っていて、「比叡山で修業された阿闍梨の東光院智應大僧正」と紹介されました。
智應阿闍梨は、名古屋市にある八事山興正律寺の来歴の調査をわたしに依頼するため、わざわざ紀州に来られたのです。これが日本古代史およびワンワールド(国際秘密勢力)の謎が解けるきっかけとは、その時のわたしが思うはずもありません。
智應阿闍梨の依頼を引き受けたわたしは、その調査を進めるにあたり京都皇統のご教示を仰いだところ、図らずも「出雲の国譲り」の真相を教わり、古代史の世界が豁然と開きました。これまで何度も解明を試みたものの、ついに真相に迫れなかった古代日本史を覆っていた分厚い霧、すなわち「欠史八代架空天皇説」が、これによって完全に取り払われたのです。
これをきっかけに数多くの歴史事実を知ったわたしは、それらの相互関係を洞察することで、日本古代史はもとより、世界史全体を覆っていた闇に光を当てることができたのです。これを偶然というには余りにもデキ過ぎていて、「釈迦の説かれた因縁とはこういうものか!」とつくづく感じざるを得ません。
わたしの歴史研究は、平成七(一九九五)年九月に来訪された吉薗明子さんから、家蔵の佐伯祐三絵画の真贋調査を頼まれたことから始まりました。
浄土真宗西本願寺の末寺で大阪市中津に在る光徳寺の次男佐伯祐三が明治四十四(一九一一)年に大阪きっての秀才校北野中学に入学し、生来好きな絵画の勉強を始めますと、これに注目した西本願寺の法主大谷光瑞師は、佐伯を一流の画家に育てて本願寺忍者として活動させるため、上野の東京美術学校(美校)に入学させることを光徳寺に命じます。
学力不足で美校入試に落ちた佐伯を、裏口入学させることを光瑞師から依頼された陸軍大将上原勇作は、配下の吉薗周蔵にその工作を命じます。祖母ギンヅルが親しい元首相の海軍大将山本権兵衛に依頼して佐伯の美校入学作に成功した周蔵は、これを契機に佐伯祐三の美校生活の支援を引き受け、池田米子との学生結婚からパリ留学までも面倒を看たので、その代償として、佐伯が描き遺した絵画やデッサン・下描きの類いが祐三から吉薗家に渡されたのです。
光瑞師は、画業が未完成な祐三を即席栽培するために、祐三よりも画業が進んでいた池田米子と結婚させたので、当初は祐三の描き掛けの絵に米子が加筆しており、それが祐三作品として洋画市場に出て、事情を知らない世間に持て囃されます。
吉薗家に遺された佐伯祐三絵画を世に出すため、美術界のドン河北倫明の支援を受けた明子は、福井県武生市(現越前市)による佐伯祐三美術館計画を進めますが、吉薗家の佐伯絵画は世間に流れ出た米子加筆品とはまったく異なる画風のため、市場の混乱を怖れる洋画業界と美術評論家たちはこの計画を悦ばず、マスコミを使って贋作説を流布します。
亡父吉薗周蔵が遺した佐伯祐三絵画を世に出すため、美術界のドン河北倫明の支援を受けた明子さんは、福井県武生市(現越前市)による佐伯祐三美術館計画を進めますが、吉薗家の佐伯絵画は世間に流れ出た米子加筆品とは全く異なる画風のため、市場の混乱を畏れる洋画業界と美術評論家たちはこの計画を悦ばず、マスコミを使って贋作説を流布します。
これを取り上げたNHKが、贋作説に偏った内容の『クローズアップ現集』を平成七年八月末に放映したため吉薗明子は、美術館計画の中止はおろか、本人が詐欺師呼ばわりされる苦境に陥っていたのです。
当初は生返事だったわたしのもとに、数日後に佐伯夫人の米子から吉薗周蔵に宛てた書簡が送られてきました。誰が見ても作り物ではなく即座に調査を引き受けたわたしに明子さんから資料が次々と送られてくるうちに、大晦日に届いたのが、明子さんの父吉薗周蔵の自筆手記です。
この日記は、大正元年に吉薗周蔵が上原元帥にお目通りする場面から始まっています。周蔵は、大正から昭和初年にかけて陸軍に最高首脳として君臨した元帥上原勇作の個人付特務(秘密諜報員)で、上原元帥の命を受けて陸軍に関わる極秘の国事工作に携わっていたのです。
タダの市井人物でない周蔵が関わった佐伯祐三絵画の調査が、もとよりただの美術品調査である筈はありません。直接の依頼者は吉薗明子氏ですが、半年もしないうちに、その背後に京都大徳寺の立花大亀和尚の存在が見えてきました。
見も知らぬ吉薗明子さんの来訪を仲介したのは建築会社を経営していた大谷満氏です。わたしが一色崇美の筆名で著した『紀州陶磁図鑑』の読者と称して、平成四年に訪ねてきた大谷氏は、同年秋に岸和田市で発生した紀州陶磁真贋事件の間、ずっとわたしの側で事件の推移を見守っていました。それ以後三年にわたり、陶磁談義を交わしながら親交してきた人物です。
明子さんをわたしの許に差し向けたのが大亀和尚であったことは、後日に明子さん本人から聞きました。そう聞いても、そもそも大亀和尚とわたしはまったく無縁ですから、納得できる話ではありませんが、寺院の出身で駒沢大学を出て臨済の僧籍を有するという大谷満氏が、大亀和尚と無縁の筈はありません。今思えば、大谷和尚が大亀和尚の指令を受けて吉薗明子を連れてきたのです。
吉薗周蔵が死去してから三十年も経つというのに、遺児明子さんと大亀和尚が毎週のようにファックス通信をしていたのは、それなりの事情があったのです。周蔵と和尚はただの親友ではなく、極秘の国事を通じて密接な関係にあり、大亀和尚が周蔵から蒙った恩義は歳月の経過で消え去るものではなかったのです。

周蔵手記の解読が大亀和尚の目的
偽物でありようがない佐伯米子の自筆書簡をみて、佐伯絵画の真贋調査を引き受けたわたしの許に、「周蔵手記」が送られてきました。今にして思えば、最初から「周蔵手記」をわたしに解読させることを意図していた大亀和尚は、明子さんがわたしに近づく名分として佐伯絵画の調査を依頼させたのです。
およそ秘密諜報員たる者が手記を残すのは、いざという場合に自分を護るためで、自分が置かれていた立場を証明するのが最大の目的です。吉薗周蔵もその例に洩れず、陸軍大臣上原勇作の特務を引き受けた十八歳の大正元年八月末日から日誌をつけていました。その「吉薗周蔵手記」は、紛れもなく日本近代史の第一次資料で、それが眼前にあるのです。
正月を他所事にして早速その解読に取り掛かったわたしは、周蔵自身が記した生々しい記述を通じて日本近代史の裏側を知ることとなりました。その解読作業を通じてわたしが実感したのは、およそ歴史というものには最終的な確定事実なぞ存在せず、奥にはさらに奥があるということです。その最奥に隠された真相を追究しようとしたわたしは、いつの間にか佐伯祐三の調査を通り越してしまい、本格的な歴史研究に没入してしまいました。
大阪市立近代美術館や和歌山県立近代美術館が、佐伯コレクションとして世間に誇る絵画の大半が妻米子の加筆品なのに対し、吉薗家蔵の佐伯は紛れもなく“祐三自作”のホンモノです。天才画家佐伯祐三誕生の経緯は、西本願寺の大谷光瑞師の依頼を受けた上原元帥が、個人付特務の周蔵に、「佐伯祐三の美校裏口入学の工作、及びその後の画学生としての生活と画業を秘かに支援せよ」と命じたことから始まるのです。
したがって佐伯絵画の真相究明には、何をおいても吉薗周蔵を調べる必要がありますが、秘密諜報員のために、事蹟はおろか名前さえ世間に全く知られていない周蔵を物語るものは、自筆の「周蔵手記」しかありません。周蔵の親友として、佐伯祐三をめぐる経緯を誰よりも知っていた大亀和尚は、佐伯絵画の真贋が逆転している美術界の現実を知ったわたしが正義感から、これを是正するために「周蔵手記」の解読に向かうことを見通し、佐伯絵画の調査を口実にして「周蔵手記」をわたしに届けさせたのです。
日記体の「周蔵手記」はものごとの経緯を記さないため、そこから佐伯関連の記載を拾い出すだけでは意味も分からず、いきおい手記の全容の解明に向かわざるを得ません。「周蔵の手記をみせれば落合は必ず手記の解読に向かう」と、大亀和尚は読み切っていたのです。
尤も当時のわたしは、自分にそれだけの能力があるとは夢にも思っていません。大亀和尚の名前も世間並みに知るだけで顔を見たこともありません。その大亀和尚が、わたしのことを本人の知らないところまで知っているのを、いかにも不審に思いましたが、所詮わたしの私事です。

国際的秘密勢力の実在を覚る
その不審をそのままにして「周蔵手記」の解読を進めたわたしは、八年ほどで解読をあらかた終えました。その解読成果を最初から、『月刊ニューリーダー』平成八年三月号から始まる連載として発表してきましたが、あらかた終えた段階になって、大きな謎が浮かびました。
吉薗周蔵が上原元帥の命令で陸軍に関わる国事に携わっていたことは明白ですが、問題は周蔵の上官{運用者}の上原元帥です。そればかりではありません。周蔵が親しく接した大亀和尚を含め、甘粕大尉・久原房之助や大谷光瑞師らの活動は、どう見ても純然たる個人のものでなく、特定の国際的組織に属しているようにしか見えないのです。
日本社会で各界の頂上にいるこの人たちは、全員が世界的規模の巨大組織に属していることを否定すべくもありません。その国際的組織がいったい何なのか。それがわたしに浮かんだ謎です。
吉薗周蔵が国事活動の中でたまたま知り合ったのが、天津南海中学からきた民国留学生の王希天・呉達閣・周恩来です。日本で反日運動をしている彼らを支援しているのがカミソリ大臣陸奥宗光の遺児の陸奥広吉伯爵であることを突き留めたものの、周蔵には陸奥広吉の目的が分かりません。
伯爵陸奥広吉の行動を理解しかねた周蔵が、陸奥の属する外国団体のことを王希天と呉達閣に尋ねると、「いわゆるユダヤだよ。国を持たない人種で、上原閣下と甘粕さんも加わっているよ」と教えられますが、その全体像がつかめず、「宗教のことかとも思うが、判らない」と嘆いています。
わたしにとっても謎だったその国際勢力の外郭がようやくつかめたときには、平成も二十年を大分過ぎていました。その段階で執筆したのが『金融ワンワールド』です。
平成二十四年四月に公刊したこの著では、例の国際秘密勢力を「ワンワールド」と名付けて金融・宗教・軍事の国際的な融合体であると説きましたが、その段階ではまだ「ワンワールドの淵源」を知らなかったわたしは、十九世紀初頭のウイーン会議で成立した欧州王室連合が、鎖国下の日本をワンワールドに参加させる目的で開国を迫ったと述べました。
これを皮切りにわたしは、知り得た日本近代史の歴史情報を洞察した結果を、「落合秘史シリーズ」として発表することとなりました。その第Ⅰ巻は平成二十四年暮れに公刊した『明治維新の根本計画』です。この著は、欧州王室連合の開国要求に対応するために朝廷が建てた「堀川政略」を中心テーマとしたものです。
ところが、当時は「堀川政略」についての理解がごく浅かったため、孝明天皇の偽装崩御及び、皇太子睦仁親王と奇兵隊士大室寅助の入れ替わりを中心テーマとしたものです。それとともに尹宮朝彦親王と将軍後見職一橋慶喜が京都で建てた「一尹政権」が国内体制を明治維新に向けて導いたことを明らかにして、史家がじゅうらいこの重大史実を無視してきたことを暴露しました。

南北両統を統合した「大塔政略」
秘史シリーズ第Ⅰ巻の『明治維新の根本計画』を刊行した直後にたまたま読んだ徳田武博士の『朝彦親王伝』に、奈良興福寺一乗院の法主尊融入道親王(後の尹宮朝彦親王)が、奈良奉行川路聖謨に、「わが実家は南朝の血筋」としばしば語る場面が出てきました。
これで思い出したのが、十年ほど前に京都皇統代(当時)から示唆された「久邇宮(朝彦親王)は南朝の血筋」の意味が分からず、謎のままにしていたことです。これを機に、思い切って京都皇統(現時)にご教示を願ったところ、初めて示唆されたのが「大塔政略」です。
これによって南北皇統を秘密裏に統合したことを知ったわたしは、平成二十五年春に秘史シリーズの特別編として、『南北朝こそ日本の機密』のタイトルでこれを発表しました。この著は日本社会が古来、國體と政体の並立により成り立ってきたことを明らかにし、大塔宮護良親王直系の永世親王伏見殿が、國體勢力を掌握するウラ天皇(國體天皇)として、国事を謀ってきたことを述べたものです。
以後、日本史の裏で活動してきた國體勢力を追究する過程でわたしは、、「明治維新を進めたのはいわゆる維新志士」とする従来の史論が、ごく皮相しか見ない浅見であることを知り、明治維新までの歴史工程を根底から進めたのが、数理系能力に秀でて高度な設計能力を有する「波動・幾何系シャーマン衆」であることを確信するに至りました。
この段階では淵源の解明にまで至らなかった「波動・幾何系シャーマン」ですが、その代表的人物が伊能忠敬の測量集団から出た榎本武揚であることに疑いの余地がなく、そこで榎本を中心に波動・幾何系シャーマンを論じた著書を、『国際ウラ天皇と数理系シャーマン』と題して平成二十五年夏に発表しました。
ところが、一部の理科系知識人から大いに称賛された内容が、「数理系」としたタイトルとあいまって一般人には理解しがたいとみえて予期した反響がなく、現在の日本人が一般的に「波動・幾何系シャーマン」とは程遠いことを痛感させられました。

維新の目的は「卒族」の身分引き上げ
ともかく、これまで全く知られていない「波動・幾何系シャーマン衆」の活動に支えられた明治維新の実態解明に踏み込んだわたしに、京都皇統は思いも掛けぬ秘史を示唆されました。
すなわち、明治維新の重要な目的が「長州卒族」の身分引き揚げにあったということです。いわゆる「四民平等」は、たしかに明治維新の重要な柱の一つですが、具体的には「長州卒族の士族化」を目指したものというのです。この意味を解明したわたしは、それを秘史シリーズ第Ⅲ巻『長州卒族と奇兵隊天皇の明治維新』として平成二十六年初頭に発表しました。
長州人が維新後百五十年にわたり、この国の政体を支配してきた根拠は、何と言っても明治維新の率先実行者としての立場です。
その立場が、実は國體勢力によって意図的に造られたと暴露されたことで、長州人が良い気持になる筈はなく、この著にどこからか微かな逆風が吹き付ける感があるのは、もっぱらそのセイと思われます。尤も、下関市在住の読者から「感動した」とのメールをわざわざ頂いたのは、拙著が明らかにした史実を知る人士が、今日の長州に存在している証しと思われます。
これに続く秘史シリーズ第Ⅳ巻は、平成二十六年九月公刊の『京都ウラ天皇と薩長新政府の暗闘』です。孝明天皇の偽装崩御から大政奉還、そして小御所会議における将軍徳川慶喜の処分をめぐる経緯を克明に捉えたこの書によって、わたしは、「慶応の国譲り」の実情がじゅうらい史家の謂うようなものでなかったことを明らかにしました。
公認の教科書歴史やNHK歴史の根底に存在する「大ウソ」を覆すには、偽史に関わった当事者が遺した糸口を発見し、その偽史の動機を洞察によって明らかにし、状況証拠と並べて世人の総合判断力に訴える以外にはないのです。
わたしはこの著により、今後も「落合秘史シリーズ」を「歴史の再審請求」とすることを宣言しましたが、論証が具体的なだけに従来の史論と矛盾する点が明確で、教科書歴史の知識蓄積が多い高級な読者ほど思考の転換が妨げられていると見え、予期していた反響はまだ起きてきません。

欧州の近世は「大塔政略」から生まれた
秘史シリーズ第Ⅴ巻は,平成二十六年の暮に公刊した『欧州王室となった南朝皇統』です。この著の端緒は、『南北朝こそ日本の機密』の公刊から一年半ほど経ったころ、京都皇統から大塔宮の子孫が欧州に渡ったことを示唆されたことです。つまり「大塔政略」の根底には、『南北朝こそ日本の機密』を執筆した段階のわたしが想像もしなかった壮大な構想が潜んでいたのです。
この著は、大塔宮護良親王が鎌倉を脱出して西大寺入りした後の「大塔政略」の展開をテーマとし、大塔宮の王子・王孫がオランダ王家オランイェ・ナッソウ家およびベルギー王家ザクセン・コーブルグ・ゴータ家となり、さらにイギリスの王家ウィンザー家となった経緯を述べています。
つまり「大塔政略」の最終目的は「南北朝の秘密合一」にとどまらず、「西大寺入りした大塔宮の子孫が欧州に進出して欧州社会を革新すること」に在ったのです。
さしも鈍感なわたしも、このことを覚ったことでようやく国際秘密勢力すなわちワンワールドの淵源を理解することができ、著書のタイトルも、明確に『欧州王室となった南朝皇統』とすることができたのです。
この著は、「エエでないか踊り」の真相や、岩倉使節団の真の目的、フィラデルフィアで行われた岩倉と小栗忠順の極秘会談、陸奥宗光の正体など巷間史談の中核史実について、これまで誰も説いたことのない真相を明らかにしたものです。そういう意味では、シリーズ中でも最も面白い内容と自負しています。娯楽文学のつもりで読んでも損をしないのに、社会的反響がまだ現れてこないのは、一般人に刷り込まれた歴史常識が妨げているのでしょう。
これに続く秘史シリーズ第Ⅵ巻は、平成二十七年初夏に公刊した『日本教の聖人西郷隆盛と天皇制社会主義」です。この著は、西郷と副島の唱えた征韓論の真の狙いが、朝鮮半島ではなく、将来の台湾領有を視野に入れながら琉球諸島の確保を図ったことを明らかにしたものです。
これを以て秘史シリーズは、特別篇の『南北朝こそ日本の機密』を含めて七巻になりましたので、一旦テーマを転じることとしました。
商業書籍としてのわたしの処女作は『金融ワンワールド』ですが、これを追補するものとして平成二十七年秋に公刊したのが『天皇とワンワールド』です。ワンワールドの淵源は、人類最初の文明とされるメソポタミア文明の初期段階をなしたウバイド文化で、その本質は波動性を有する「情報文明」です。
ここで注目すべきは、ウバイド人の先祖がいて、先史時代からすでに砂金の採集を始めていたことで、ようするに、メソポタミア文明が人類最初の文明ではなかったのです。
メソポタミアで干拓を行ないながら黄金を採取したウバイド人は、効率よく黄金を採集できる新天地を求めるため、メソポタミアを出て東西に拡散します。ウバイド文化の本質である情報文明は、ウバイド人の移動に伴い、各地の大河の河口デルタで土着文化と接触しながら、これを共振・共鳴させて地域文明創り出します。
ワンワールドとはすなわち、ウバイド情報文明によって生まれた各地の地域文明をつなぐ情報ネットワークのことです。日本列島に伝来したウバイド人の末裔すなわち天皇がワンワールド・ネットワークの一中核になったのはごく自然の流れなのです。
古代の天皇に焦点を当てて著した『天皇と黄金ファンド』の公刊は、これを書いている当日すなわち平成二十七年四月二十日です。

政体が解読できなかった「周蔵手記」
近来聞くところでは、周蔵の死後に遺族から「周蔵手記」を提供された大亀和尚は、近代史の暗部を解明するための資料としてこれを大徳寺の管理下に置き、歴史専門家に解読を委嘱したそうです。複数の専門家が入れ替わりながら、永年に亘り解読を進めたものの、結局誰もできなかったそうです。
「周蔵手記」は個人の日記として身辺事項を中心に述べますが、いざという場合に自分を護るための資料としての意味から、上官(運用者)の上原勇作・甘粕正彦および、自発的に志願した上官の石原莞爾と貴志弥次郎(陸軍中将)から周蔵が直接聞いた言葉と、これに対する周蔵自身の見解や推測を述べています。また上原・甘粕から受けた命令のほか、周蔵が自主的に師事した石原莞爾の要請を受けて実行した活動の多くが具体的に記されているので、原文を解読できれば、おのずから日本近代史の真相に触れることとなります。
ところが、日記体の「周蔵手記」には、個別事項に関わる単語だけが単独で出てくるため、原文だけでは何を指しているのか、なかなか理解できません。
したがって、原文の一語一語の意味を当時の社会事象に当てはめながら解読せねばならないのですが、そのために必要な幅広い雑学的要素に欠ける専門学者には解読が困難だったと考えられます。そこで、その番がいよいよわたしに回ってきたのが平成七年九月だったのです。
これよりさきの平成元年一月七日午前七時に昭和先帝の崩御が発表され、その一時間後にわが妻緑が慶応病院で亡くなりました。このとき感じたものを言葉では表現できませんが、ともかく強く感じるものがあったわたしは、それまでの事業を放棄して、永らく胸中に秘めていた戦後日本社会の分析に取り掛かりました。証券投資界に身を置いてきたため、歴史学は専門外ですが、戦後史や時局に関する専門家の解説に違和感があったわたしは、証券界から観察したバブル期の日本の姿を『成行庵日乗』という題の私家本にしたばかりでした。
折しも遭遇した妻の死による喪失感を埋めるため、自分自身が整理した戦後史を書物の形にしておこうと思ったのですが、その結果辿り着いたところは、「日本が現在でもアメリカの間接占領下に在る」という事実です。これを確信したわたしは、「米主日従体制」という表現でそれを暴き、『平成日本の幕末現象』と題して平成元年の年末に公刊しました。
もとより販売経路もないため公刊とは名ばかりで、少数の友人に配っただけですから、世間に広まる筈がありません。ところが、この著に対して世間で幾つかの反響があったことを、後になって聞きました。
驚いたことに、アメリカからの完全自立を唱えた拙著の趣旨に賛同する愛国者たちによる政治運動が全国六ケ所で発生したそうです。日本人の対米心理観察を任務の一環する在日CIAが早速、わたしの背後を探るために盗聴と尾行を仕掛けたそうですが、その他にも幾つかの勢力がわたしを盗聴していた、と教えてくれた人がいました。それが七尾短大助教授斎藤敏一郎です。
親友の陶匠南宗明君から、「龍谷大の学友が佐伯祐三の件で君と話したがっている」とのことで斎藤君を紹介されたのは、平成九年と記憶しています。早速会った斎藤君はいきなり、「落合センセは佐伯祐三の件で、マスコミと一戦されはりましたが、あのことは本願寺の上なら誰でも知ってますわ。画商らがウソ言うとるんですよ」と断言するので、驚きました。
大阪商工会議所調査部出身の斎藤君は、自分の正体を「本願寺の忍者」と明かしたうえで、「センセを尾行したり盗聴してたんは、何もCIAだけやおまへんぜ。公安も当然やってますわ。ほかにも宗教関係の特殊な公安が尾行してましたが、これはわれわれと同類で、むしろセンセを護ってたんですわ。そやけど、その他に変な外資がいましたぜ」と教えてくれました。その意味を覚ったのはずっと後です。“宗教公安”とはむろん大亀和尚の関係です。
大亀和尚が、内偵までして確かめようとしたのは何だったのか? 、それは「周蔵手記」に対するわたしの態度を確かめたかったからではなく、財務運用、もっと端的に言えば、財務ロンダリングに対するわたしの態度を確かめたかったものと思います。

大亀和尚の背後に堀川辰吉郎
ところが、わたしに注目していたのは大亀和尚だけではなかったのです。
昭和五十三年当時の「京都皇統」が、記紀から千三百年後の今日まで溜まりに溜まった「偽史」の禊ぎ祓い(修正)をわたしに期待された、と聞いたのは、つい最近のことです。当時は野村証券事業法人部業務企画課長だったわたしの胸底に一抹の歴史探究志向が潜在したとしても、表面にそれが見えるとは考えられません。
それなのに当時の「京都皇統」がご存じであられたとは思いもよらぬことです。ここで京都皇統とは、睦仁親王の王子として堀川御所で生まれた堀川辰吉郎を中心とする皇族のことですが、本稿では具体的人名を憚り「京都皇統」とするしかありません。尤も、拙著を通覧された読者なら、すでにご正体に気付いておられる筈です。
堀川辰吉郎の薨去は表向きでは昭和四十一(一九六六)年十二月十九日とされていますが、実際はその五年後であったことを数か所から聞いています。その年の九月に住友軽金属から野村証券に転職したわたしは、総合企画室企画課長補佐を命じられて証券取引法を勉強していましたが、十月の末頃になると部内が急にあわただしくなりました。
会長奥村綱雄の健康状態が悪化したので叙勲工作をしていたのです。奥村は十一月七日に他界しますが、これが堀川辰吉郎の(本当の)薨去と関連していたことも、数か所から聞いています。
大亀和尚が野村証券社長奥村綱雄を総理大臣池田勇人に引き会わせ、京都大学の同窓として支援を勧めたたことは周知ですが、これは表面に浮上した現象に過ぎません。戦後史の深層に存在するのは、下記の五人が密接に絡む國體ネットワークです。この相互関係を見極めないで説く戦後史は、歴史理解の第一水準すなわち「事象羅列」の域を出ることはありません。五人を生年月日順に並べます。
國體天皇堀川辰吉郎(一八八八~一九七二)
国事探偵吉薗周蔵(一八九四~一九六四)、
政界首脳池田勇人(一八九九~一九六五)、
宗教界首脳立花大亀(一八九九~二〇〇五)、
証券界首脳奥村綱雄(一九〇三~一九七二)の

国際金融勢力と結んだ大亀和尚
堀川辰吉郎が実際に薨去した昭和四十七(一九七二)年に、國體ネットワークに一大異変が発生しました。辰吉郎の(実際の)薨去により、それまで一枚岩だった國體勢力が国際金融連合と國體護持勢力に分裂したのです。
平成七(一九九五)年九月十七日に初めて会ってから一カ月も経たないころに、吉薗明子氏から、「野村証券は貴方がお入りになった時に大きな変化があって、アチラ側へ就いたそうですよ」と聞かされました。「アチラ側」とは何か。戦後日本の政体を間接操縦してきた国際金融連合のことと知ったのは、ずっと後のことです。明子氏の情報源が大亀和尚ということさえ知らなかった当時のわたしが、それを理解できる筈はありません。
平成二十三(二〇一一)年に京都皇統代から教わったところでは、堀川辰吉郎の薨去を機に大亀和尚に急接近してきたロスチャイルドが、國體ファンドを国際金融連合(ワンワールド・バンカー)のために使用することを要請したところ、大亀和尚は昭和天皇に上申することなく、独断でこれを了承したそうです。
國體ファンドの利用権はほんらい國體天皇の専管事項で、堀川辰吉郎が総括していましたが、辰吉郎の薨去によって自分の管轄となったと考えた大亀和尚が、独断でロスチャイルドの要請を容れたことが権限を越えていたのです。
国際金融連合は横田基地の在日米軍と結託しています。形式的にはアメリカ軍の下部機関とはいえ、東京を完全に軍事支配下に置く米軍横田基地の日本政体に対する影響力を無視することは、國體勢力にとっても得策とは言えません。ゆえに、大亀和尚がロスチャイルドの要請を受け入れようとしたのには、ムリからぬ理由もあるのです。
ともかく、FRBを通じてこれを耳にされた昭和天皇は、直ちに大亀和尚を遠ざけ、これに代わる人物を「宗教人」の中から選ばれたので、國體ファンドの利用権は結局のところ、国際金融連合に提供されなかったそうでが、大亀和尚の籠絡に成功したロスチャイルドはそのままでは収まらず、国際金融連合と意を通じた三笠宮殿下が大亀和尚を支援する立場になったそうです。
結局、京都皇統と国際金融連合の軋轢が生んだ皇室内の対立は、前者に高松宮、後者に三笠宮が入ることによって表面上収拾し、以後は國體高松宮と政体・国際金融連合側の三笠宮が微妙な均衡を保つこととなりますが、この一件が朝野の各所で亀裂をもたらしたのは当然のことです。
皇室内部に生じた亀裂は平成十四(二〇〇二)年頃に修復されますが、政体の下級機関や国際金融連合の末端組織はこれを知らされなかったため、彼らから反國體工作を請け負った蒙昧マスコミによる雅子妃殿下バッシングどころか皇太子ご兄弟の不仲を取沙汰し、その甚だしきは『新潮45』平成二十五年三月号において、無恥な宗教学者が皇太子殿下に対し公然と退位勧告をするに至るしまつです。
これを「競わず争わず」の行動規範によって放置していた皇室は、平成二十七(二〇一五)年に至り、ようやくワンワールド各界(王室・宗教・軍事・金融)に対し「完全修復」の趣旨を明確に発信したので事態は変化しましたが、これまで反國體工作を請け負ってきたマスコミは、今後も惰性に従がう外はないのでしょう。

変動相場制の遠因は「信用財」の不足
この間に在って、風に翻弄される木の葉のごとき境遇に陥ったのが、この落合莞爾といえば誇大妄想の謗りを受けるでしょう。わたし自身もそう思いますから、それで一向に構いませんが、以下は京都皇統の舎人から伝わってきた譚です。
すべての始まりは昭和四十六(一九七一)年八月のニクソン・ショックで、金本位制を定めた一九四四年のブレトン・ウッズ体制が終ったことです。このときアメリカ合衆国がドルと金の交換を停止した理由は「信用財」としての金地金の不足です。
つまり、第二次大戦の終結により著しく増大した世界各国の経済・貿易および財政に対応すべく大量に米ドルを発行したアメリカ合衆国は、それを支えるための金地金を国内に確保できなくなったのです。同年十二月のスミソニアン協定で、ブレトン・ウッズ体制が定めた1トロイオンスの金価格を三五ドルから三八ドルに引き上げ、そのうえで固定相場に復帰しようとしますが、もはや固定相場の維持は困難になりました。
ニクソン・ショック政権以前のドルは金地金とリンクしていたため、発行に限度がありましたが、米国内の完全雇用と財政政策を支えるための金融緩和策として発行限度の束縛を解かれたドルは膨張の一途をたどり、これが引き起こした過剰流動性がいわゆる「ユーロダラー」の形で世界各地を移動してバブルを引き起こしました。
ユーロダラーとはほんらい、冷戦時代のソ連と中国が輸出で得た資金を米国による資産凍結を畏れて西欧諸国で運用していたドル資産のことですが、その意義が拡張され、今では発行国の米国を離れてユーロ諸国やロンドン・東京の国際金融市場で運用されているドル貨幣を意味するようになりました。
ドルはほんらい国内貨幣で、国内の貨幣需要を満たすドルが米国内に存在するのに、それと別に存在するユーロダラーが世界の金融市場を移動し続けているため、特定国に著しい過剰流動性をもたらして金融市場の混乱を招いてきたのです。
昭和四十六年に過剰流動性に見舞われた日本が、昭和四十八(一九七三)年二月、田中角栄内閣の蔵相愛知揆一が変動相場制への移行を決定したところ、EC諸国が直ちにこれに続き、スミソニアン体制は完全に崩壊します。
昭和四十七年に、レオ・メラメドがシカゴ・マーカンタイル取引所を改革して株価先物の取引を導入したことは、世界経済の全体が変動相場制へ移行したことを象徴しています。平成二十六年六月三十日にメラメドが来日したのは、ポーランド生まれのユダヤ人メラメドは、杉浦領事の命のパスポートで救われた六千人の一人として、杉浦千畝に感謝する催しに参加するためです。安倍総理に会ったメラメドは、ナチスの迫害を逃れて上陸した福井県敦賀港で、不安な日々を過ごしていた時の親切を忘れず、敦賀市長を表敬訪問して謝意を述べました。
後年のシカゴ・マーカンタイル取引所の構想の基は、江戸時代の堂島米会所の先物取引制度と、敦賀の市場でみた闇取引の実情である、と、レオ・メラメドは語って日本を去りました。
話をスミソニアン体制に戻すと、財政・金融・経済の規模拡大に対応すべき金地金の世界的不足が管理通貨制度を生み、それによる通貨価値の変動が、為替制度を固定制から変動相場制に移行させたわけです。
この「信用財」の不足を補うものとして勘定奉行萩原重秀とスコットランド人ジョン・ローが、東西でほぼ同時に発見したのが、「公信力の法則」で、通貨の本質を「官の権威」すなわち「政体暴力」により強制された通用力と観るものです。
それだけだと、通貨は「軍票」と択ぶところはなくなりますから、政体が特許した発券銀行に支払準備金を積ませ「金」との兌換を保証させることで、金本位制との調和を図ります。一般にはこれを、「兌換請求が一斉に生じることは確率論的には起こり得ない」という経験則の沿ったものと説明していますが、詭弁です。

土地本位制の淵源は陸奥宗光の地租改正
ほんとうのところを荻原重秀が洩らしています。幕府勘定奉行として、元禄八(一六九五)年に量目を減らした元禄銀を新鋳した荻原は、「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」と、管理通貨の本質を喝破したのです。
またスコットランド人の金細工師の息子ジョン・ローが一七一六年にフランスで設立したバンク・ジェネラールが、ルイ十五世の認証を受けて初の中央銀行バンク・ロワイアル(王立銀行)となり、同行の銀行券で納税を可能としたことから紙幣の使用が広まったのです。
ちなみに、ジョン・ローの先祖、中華文明発生の地河南省で「禹」を姓としたウバイド系治水シャーマンで、当然ながら砂金を採取していました。禹の分流が河南省の安陽の「呂」の地に移って「呂」氏と称したのです。
自らが採集した黄金の管理人なった呂から出たのが姜姓呂尚すなわち太公望で、周の文王を補佐して殷周革命を成就させたのは、その管理する黄金を提供したことによるのです。
また、シルクロードを支配した交易民ソグド人に潜入し、河南省の安陽の安陽で大商人となった呂氏から出た呂不韋が、「奇貨居くべし」とみた秦の公子荘襄王を財務支援して富国強兵策を進めさせ、中華本部を統一する大秦帝国を建てたのも、安陽「呂氏」の管理下の黄金ファンドを用いたと見るしかありません。
ほんらい遊侠の徒であった劉邦が秦を倒して前漢を建てることができた原因は、始皇帝の改革が急激すぎて呂不韋の敷いた路線から外れて生れた社会的変動とみられています。しかし私見は、劉邦を見込んで女婿とした山西省単父の富豪「呂公」が、管理下の黄金ファンドを劉邦に与えたのが最大の要因とみています。
黄金ファンドの存在は「絶対的秘密」ですから、これを移動させるには、投機的取引を装う必要があります。投機取引とは要するにバクチで、その場所は一般的にはカジノですが、レオ・メラメッドの先物取引所もその機能を果して当然です。現代、世界中のカジノを独占的に所有しているのは、ロー(呂)一族だそうですが、メラメッドにもスポンサーがいるのかもしれません。
それはさて、江戸幕府もルイ十五世も、近世国家としての政体暴力を具えていたため、通貨に強制通用力をもたせることができたのです。経済諸量は結果的に示現した数値を表わすだけで、これを論じる経済学は統計経済学に過ぎないと感じるわたしは、経済現象を政体暴力を取り込んだ数式で表現する研究をしています。
管理通貨を秤量貨幣的な要素と暴力的な要素からなるものと考えて、通貨関数をコブダグラス型の生産関数に倣い、Y=(Gのα乗)×(Vのβ乗)と表現します。Yは通貨の総量で、Gは金地金または代替財、Vは貨幣の通用を強制する政体の軍事力です。
この貨幣方程式の意味は別巻で述べるつもりですが、政体は歴史的存在として、時代と共に必ず衰退しますから、統治力の失墜に伴って軍事力が弱化すると、貨幣価値は必ず下落します。したがって、Gが大きくてVが小さい時に貨幣価値は安定するのです。
人間界が採り入れた金地金は、民間保有分も含めて十八万トンしかなく、地殻中にも六万トンしか存在しないと推定されています。一方、世界全体の通貨発行量をネットで検索したところ、二〇一一年時点で主要五通貨(円・米ドル・ユーロ・元・英ポンド)の合計が五一兆ドルとありました。これが世界の九四%ですから世界全体では約五四兆ドルとなり、当時の為替レートは一ドル八〇円ですからYは四三二〇兆円です。
これに対し、二〇一一年の金価格は一トロイオンス一五〇〇ドルを中心として上下に変動しましたが、円換算すれば1グラム四〇〇〇円ですから、Gは七二〇兆円です。全世界の通貨発行量Yの四三二〇兆円のうち、金地金で裏打ちされたGは七二〇兆円しかないとすれば、残る三六〇〇兆円を裏打ちしているのは政体の軍事力Vということになります。
つまり、世界の通貨総量四三二〇兆円のうちGで裏打ちされる分が七二〇兆円しかなく、残りの三六〇〇兆円は軍事力で強制通用させていることになり、両者の比は一対五となります。つまり、現行通貨の金地金による裏付けは額面の六分の一しかないのです。
尤も、金地金が不足していても、それを代替しうる財が存在するならば、政体はこれを信用財として活用することができ、敢えて政体暴力をひけらかす必要はありません。
敗戦により保有金塊を米英に強奪(預託強制)されたうえ、占領憲法によって政体暴力すなわち軍備を禁止された戦後日本が、通貨信用を補うため編み出した秘策が「土地本位制」です。これは
戦後日本独特の金融慣行たる土地担保金融方式と表裏一のものです。この淵源が、実に明治二年二月二十五日に摂津県知事の陸奥宗光が奉った「府藩県同治の建白書」に発することは、後述します。
戦後日本の銀行界は、融資の基準を貸付先の事業内容や資金使途に置かず、ただ担保土地の市場価格だけを目当てにした土地担保金融方式を行動原理としました。これが成立した背景は、経済の高度成長に伴う人口の都市化により、土地利用の高度化が求められたことで、土地の潜在価値が高まったからです。既存市街地はもちろん未利用の土地にも価値のポテンシャル(潜勢力)が生じ、財としての市場性・商品性が著しく高まったことで、土地そのものが金地金を代替する「信用財」となったのです。
この金融慣行を観察していたワンワールドのある部門が、米国大統領レーガンに命じて昭和六十(一九八五)年に成立させたのが、ドル防衛を名目とした「プラザ合意」で、これを受けて「円売りドル買い」に走った日本の金融界が市場に撒き散らした膨大な「円」の過剰流動性が、銀行を融資競争に走らせたのです。
土地担保金融方式から脱却できなかったのは銀行界だけではなく、親方の日銀も同じで、地価の高騰と共振してどんどん膨らんでいく土地担保貸付を抑制しようとしなかったのです。証券界を監督する大蔵省が、これと時を合わせて金融先物市場を創設したのは、決して偶然ではなく、土地バブルの波及による生じた株式バブルの崩壊を見通していたワンワールド勢力が、カラ売りするための手段を提供したのです。
こうして、日銀・大蔵省・金融業界の三者が協同して生んだのが、昭和平成の交の土地・株式バブルすなわち「平成バブル」です。
銀行融資が担保土地の市場価格だけを基準にすることになれば、地価が上昇すればするほど融資額が増大します。これがそもそも“土地本位制”で、その前提は,あらゆる土地の地籍と、その上に存在する所有権・租借権などの地権が明確に定まっていることです。
日本では、明治六年七月に大蔵少輔心得の陸奥宗光が主唱して行った地租改正により、土地所有権の確立が実施されていたことが、“土地本位制”の基盤を成したのです。
地価・株価にはほんらい、その効用(利用価値)から還元した理論価格がありますが、それは現実の利用形態ではなく潜在価値(ポテンシャル)で、最適利用した場合に得られる筈の効用によって決まるのです。
したがって、政府が開発計画を発表すれば地価のポテンシャルが増大し、これを先取りした地価は、まるで「空飛ぶ絨毯」のように舞い上がります。そのような場合でも、土地の市価を基準に行う銀行の融資には際限がないことから、やがて土地の市場価格が理論価格をはるかに超えて現実性を失うと、「平成バブル」は破綻することが予想されます。
これを止める方法は一つだけあります。わたしが平成三年に発表した『平成大暴落の真相』で述べたように、高騰した地価に相当するまで一般物価を上げれば済むのです。つまりインフレ政策ですが、これにより損をするのは、一般消費者としての国民だけです。
自営業者は固よりサラリーマン階層にも、営業用ないし居住用の不動産を所有している向きが多く、さらにインフレに連れて所得も増加しますから、必ず損をするとは言い切れません。本当に損するのは不動産を有せず、預金利息で年金を補いながら、ただ消費するだけの無職者ですが、そんな階層がどれだけいるというのでしょう。
そんな階層でも、親族や兄弟が土地持ちと言う場合もあることを度外視したマスコミは、まるで希少生物の保護を叫ぶように、「預金利息で年金を補っている不動産を持たない年金生活者のために地価を下げろ」と喚きました。余りにも馬鹿げたその有様を後世に遺すために『平成大暴落の真相』を著したわたしは、自費出版して平成三年に発表しました。
拙著で唱えたように、平成大暴落を避けるためには相当程度の調整インフレが必要且つ有効ですから、大蔵省は必ずこれを行なうと信じたわたしは、これに併せて、自身のポートフォリオを組んだのが一世一代の失敗でした。結局、政府日銀がこれに反してインフレ鎮静策を取ったため、わたしも日本社会も、「失われた二十年」に陥りました
ところが、その暴落過程で、急ごしらえの先物市場を通じて、日本から海外へ巨額の金融資産が移動した結果が現在の国際状況を規定しているのです。(今はこれ以上申せません)

変動相場とロンダリング
堀川辰吉郎の(実際の)薨去に関連した形で野村証券会長奥村綱雄が他界した昭和四十七年は、レオ・メラメッドがシカゴ・マーカンタイル取引所を改革して株価先物の取引を導入した年で、わたしが野村証券に途中入社したのはまさにその年です。
変動相場時代が到来したことを覚っておられた昭和天皇は、「固定相場に馴れきった大蔵官僚と、その支配下の銀行界で育った人物では今後の国際的金融取引に対応できまいから、民間人材を登用せねばならぬ」と呟かれたと聞きます。
堀川辰吉郎の後を継がれた京都皇統は、昭和五十三年に側近の舎人に、「野村証券にいる落合莞爾という人物を観察するように。ただし直接接触してはならぬ。いかなる影響をも与えずに、その人物の行うところをつぶさに報告せよ」との命令を下したそうです。
京都皇統とわたしを結ぶ唯一の回線となったこの舎人が、わたしの野村証券での事蹟を具に調べていたことを本人から聞いたのは数年前で、唖然とするほかなかったのは、正に「天知る、地知る、吾知る」だからです。
わたしが手掛けた数件の企業買収は、すべて当該企業の事業再構築と組み合わせているため、証券取引法が定める証券業務としては認められない行動を取る必要が生じました。ところが野村証券は、折から生じた殖産住宅の上場に伴う創業者の脱税事件と、協同飼料の株価操作事件に関係していたので、前者では後藤支店長が有罪となり、後者では大森企業部長が退社しました。
この二人はのちに日本合同ファイナンスとソフトバンクの社長としてたいへん優遇されますが、それは後日のことで、当時の野村の社内には法令違反を過度に怖れる風潮が漲っていました。順法精神というより、減点法を適用されて苛烈を極める出世街道から脱落するのを畏れたのです。
直属上司の某取締役がわたしの動静を窺いに来ましたが、自己保身の本意がミエミエで、わたしが従事中の活動の詳細を話せば、管理不行届きの咎めを受けるのを畏れて「手を引け」と命じられるのは明らかですから、実情を話す気にはなれません。そのような事情で、部内でも全く隠していたわたしの活動の詳細を、舎人がすべて知っていたのには、さすがに驚きました。
それだけではありません。わたしが仕上げた映画会社日活の再建の一件を、野村証券会長瀬川美能留が某所に報告し、その際に「当社にもようやくこんな社員が現われました」と述べたことを何度も聞かされました。その「某所」なるものが京都皇統筋であることは確かです。
また吉薗明子氏からも、「東証は大蔵役人の世界だからさすがにムリだが、先物を扱う大証の理事長に落合先生を据える計画もあったそうですよ」と聞きましたが、その出所は大亀和尚と観るしかありません。
京都皇統舎人の話では、國體ファンドの管理に当たっていた大亀和尚が、国家間の取引でどうしても必要になるロンダリングを変動相場制のもとで行なう人材としてわたしに期待したそうです。
ともかく変動相場制移行後の日本で始まる先物取引所のトップの一人にわたしが擬せられていたことは間違いないようですが、わたし自身は平成元年の妻の死去により、関心がむしろ歴史研究の方に移ってしまいました。
ところが、平成七年に大亀和尚が餌として投げてきた「周蔵手記」にまんまと釣られたわたしは、そのお蔭で、いかなる史家も解明しえなかった世界史の根底を発見することができました。
それは、①人類文明の開幕から現在まで「ウバイド・ワンワールド勢力」が主導してきたこと、②地球経済の運用に必要な信用の基盤が黄金ファンドであることです。概要は拙著『天皇とワンワールド』および『天皇と黄金』に詳述しましたからご参照願います。

八事山興正律寺の調査で聖徳太子の真相を知る
德川家康が天海大僧正(一六四三年入寂)の命を受けて慶長八(一六〇三)年に幕府を開いた江戸に、東叡山寛永寺が創建されたのは寛永二年(一六二五)のことです。
所在地は上野の藤堂高虎の屋敷で、設計と施工に藤堂高虎が当たりました。藤堂高虎こそ國體参謀衆の中核を占める「波動・幾何学系シャーマン」の典型です。(「波動・幾何学系シャーマン」については拙著『国際ウラ天皇と数理系シャーマン』に詳述しています)。
德川家康が天海の命を受けて慶長十二(一六〇七)年に創立した尾張德川家に、将軍祈願寺の東叡山寛永寺に相当する祈願寺として八事山興正律寺が開山されたのは一六八六年のことで、天海入寂から二十三年経っています。開山天瑞圓照和尚は藤堂家の末流野田家の出とされますが、天海の子ともされています。
そもそも初代神武天皇の第一皇子ヤツイミミ(八井耳)の子孫の「多臣(おおのおみ)」の末裔の藤堂家は、國體勢力の中核として有史以来國體参謀に任じてきましたが、当時は國體天皇伏見殿の直参ながら一個の封建大名として幕藩体制に加わっていました。
伏見殿の隠れ血統である丹波安藤家から出た天海は、天台座主尊勝法親王の叔父に当りますが、天瑞圓照に八事山興正律寺の開山を命じたのは、伏見殿直臣の藤堂一族だからです
興正寺の山号「八事」が、「国譲り神話」の八重事代主のことと京都皇統から伝えられたわたしは、記紀の国譲り神話の中で青海原に消えて行った八重事代主のモデルとなった皇子を、記紀から探しました。
年代は十代崇神の前ですから九代開化か八代孝元の代になりますが、「欠史八代」というだけあってさすがに事蹟が乏しい中を、八重事代主のモデルとしてわたしが選んだのが、「ヒコフトオシのマコト」と呼ばれる皇子です。
第八代孝元天皇の第三皇子のヒコフトオシが任那で生まれたイニエ(崇神天皇)と入れ替り、満鮮国境羅津湊の八幡基地へ渡り、八幡殿となったと見立てた理由は、その孫のタケウチの宿禰の子孫の蘇我臣が、事蹟と名前(韓子・高麗)からして半島との密接な関係が窺えるからです。
藤堂家と八重事代主との関係を考察すると、藤堂家の遠祖多(おおの)臣と八重事代主のモデルの「ヒコフトオシのマコト」の共通性は「欠史八代」ですが、多氏は五代孝昭、フトオシは八代孝元の子孫ですから、初代神武の子のヤツイミミとは数世代ずつ離れています。
そこで根本に立ち戻ると、藤堂家の祖の多臣の遠祖が、五代孝昭だけでなくヤツイミミ(八井耳)であった可能性も浮上します。
羅津八幡殿となった八重事代主のモデルが、もしヤツイミミ(八井耳)だとすると、最近になって聞いた歴史情報(ジグソーパズル断片)の「湯沐邑の國體黄金ファンドの護衛人に多臣が任じた」と符合するので、考え込んでしまいました。つまり、中華の「呂氏」に当たる役割をヤマトでは「多臣」が担っていたのです。
何にせよ「八」がキーワードですから、ヤツイミミ(八井耳)が八重事代主のモデルとなった可能性が急速に高まってきましたが目下は解決できませんので、当面は従来通り、「ヒコフトオシのマコト」とすることを読者はお許し頂きたいと願います。
ともかく、興正寺の山号と藤堂家の関係よりも、はるかに重要なのは聖徳太子の真相です。今回の八事山興正寺の来歴調査を契機に判明した聖徳太子の真相は、『天皇と黄金ファンド』に詳述しましたからご参照ください。
この調査をわたしに依頼された東光院智應大僧正の出身が四天王寺塔頭の有栖山清光院清水寺と聞いて不思議な因縁を痛感したのは、わが実家の紀州那賀郡粉河荘井口氏の家祖が大塔宮護良親王で、しかも父の後室阪口三代子の実家米谷家が、天王寺屋の津田家(橘姓楠木氏)から夕陽丘の地を受け継いだ家柄だからです。
楠木正行流の摂津池田氏の一派が天王寺屋津田氏となり、荒陵山四天王寺の護持に任じたのは護良親王と河内楠木氏の宿縁です。摂津池田氏の末裔が備前岡山藩主池田氏で、その池田藩から出た智應大僧正は、紛れもなく楠木正成・正行の末裔と思われます。
護良親王の子孫が紀州に落ちて棲むこの草庵を、楠木正成の末裔が訪ねてきたのは、まさに不思議な宿縁と言わざるを得ません。

 平成二十八年八月十三日  落合莞爾


当今陛下のお言葉について(続)
  当今陛下の御言葉が国民に伝えられたのは八月八日の午後三時ですが、その朝の六時すぎに、京都皇統の舎人よりメールが届き、「今から貝になります」と言ってきました。 その一週間目が本日ですが、舎人より先程電話があり、「お言葉の意味はかくのごときである」との解説を戴きました。因って、その意味を拝察して要約し、先の一文に引き続き諸兄に呈上することとします。

                   記
    象徴天皇とは、伊達宗広の『大勢三転考』が暗示する四転目の大勢「オホヤケの代」の完成を意味する。
「オホヤケの代」の実現に向けて明治維新を断行し、大正・昭和を経ながらその実現に努力を重ねてきたが、平成に至り、自分がようやくこれを完成した。
    天皇の崩御は世界的に重大な変動をもたらす。
明治天皇の諒闇に連なって第一次大戦が発生し、大正天皇の諒闇に生じた不況から満州事変が生じた。昭和天皇の諒闇が過ぎると平成大不況が始まった。今やその後始末が終わり、五転目の大勢が始まるのである。
大正天皇の崩御に際しては皇太子裕仁親王が喪儀に関する行事を行い、昭和天皇の崩御に際しては、自分が喪儀を行なった。その負担はたいへんなものである。

   お言葉の一節
天皇が健康を損ない,深刻な状態に立ち至った場合,これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯の行事が連日ほぼ二ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、一年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが。胸に去来することもあります。

   今回の御発言は、伊達宗広が著した『大勢三転考』を、太古以来「カバネの代」、「ツカサの代」、「名(みょう)の代」と変転してきたわが国の大勢が今や四転目に移らんとしている事を予見した著とみて、その四転目の大勢を「オホヤケの代」すなわち「公儀政体」と洞察した拙著を踏まえられてことと伺います。
      
諸賢各位
                   平成二十八年八月十五日    落合莞爾