天才佐伯祐三の真相 Vol.4
第三章 武生市発表「小林頼子報告書」なるもの
第一節 小林報告書の性格
A.一人歩きする小林報告書(以下本稿では敬称を略す)
先日私は、ある民事裁判の法廷で、一部画商筋を代弁する弁護士が「吉薗佐伯の真贋論争は、すでに『小林報告書』により、決着がついている」と主張している場面を見た。また、前項に紹介したように、日動画廊関係者の安井収蔵氏も「新美術新聞」紙上で同じ趣旨を述べている。さらに、河北倫明氏の逝去後、わが国美術評論界の最高峰となった某先生に対して、知人が佐伯真贋事件に関する見解を問うたところ、「あれは小林報告書で、すでに決着がついている」と述べたとのことである。事件の推移と同報告書の内容に鑑みると、これは明らかなウソなのであるが、ことほど左様に、この報告書は世間を一人歩きさせられ、一部業界人や評論家に悪用されているのである。
小林報告書は、正式には「吉薗周蔵氏由来の佐伯作品・資料に関する調査報告」と題された文書で、武生市公会堂記念館扱いとして、武生市長小泉剛康の名義で発表された。平成七年四月一日から同年九月三十日まで実施した調査結果を、武生市美術館準備室に属する臨時職員の小林頼子特別研究員が起草し、同年十一月十三日に武生市長宛に提出したものである。同報告書の「序」には「この報告書の目的は、寄贈絵画に関し、学術的見解を求めるため武生市が組織した調査審議委員会における判断資料として、武生市教育委員会が実施した調査事項等を取りまとめたものである。絵画展示計画の中止に合わせ調査等もうち切ったため、調査研究の完全は期せなかったが、この報告が今後の佐伯関連の学術調査にいささかなりとも寄与することとなれば幸いである」と謡っているように、本来の目的は、歴史の表面に痕跡を留めぬ吉薗周蔵の実在を裏付け、その佐伯祐三との接点を探ることにあった。
三谷敬三の率いる画商団体が平成六年十二月に投じた贋作指摘に対して、武生市は科学鑑定により、その根拠(有意味なのは「テトロン混入」だけ)を完全にうち砕いた。その時点で、寄贈作品の真贋問題は振り出し、つまり富山選定委員が「化粧した佐伯でなく素顔の佐伯が響いてくる」と評した状態に戻ったのであるが、武生市はこれに甘んぜず、積極的に寄贈作品の真作性を探るべく、吉薗資料を検討するために、美術館準備室を設けたわけである。
しかし、その結論は終に「吉薗周蔵の人物像がつかめず、その佐伯との接点は考えにくい」というものであった。理由は一にかかって、「吉薗資料の内容に歴史事実と食い違う点が多く、近年に偽造された贋作の可能性が高い」という点に尽きていた。調査であるからには学術的性格を帯びるのは当然であるが、その信頼性は畢竟、担当学芸員の能力とこれを総合的に判断する調査審議委員の学識に掛かっている。私は、武生市から返却された資料を見て、瞬時にその正真性を確認したが、それを伝えた時の杉本次太準備室長の「まあ、いずれ報告書の原案をお渡ししますから、それを読んでからにして下さいよ」という薄ら笑いの口許がいまだに忘れられない。日ならずして報告書の原案を受領したが、内容は予想通りで「鷺を鴉といいくるめる」どころではなかった。たちまちその欺瞞性を立証し、論旨を完全に否定する内容の落合報告書を作成して、武生市に送付した。
小林報告書が、その「序」にうたうように、幾分でも学術調査の性格を有するものならば、報告者(武生市)には、反対意見ことに落合報告書に対して、公開文書で答えるべき義務がある。それについて、市の幹部が私に与えたのは「もう、市の行政としてやることは終わった。これ以上、佐伯問題にはタッチするつもりはない」との一言であった。
小林報告書が行政上いまさら撤回できぬものなら、その付属資料として、落合報告書を組み込んでくれ。せめて、私の報告書と合本にしてほしい、と訴えたのだが、武生市はこれに一顧すら与えなかった。小林報告書の発表と同時に、こちらにも発表の機会を与えるというので、わざわざ武生市まで出向いたが、小林報告書の発表場所とは離れた所の関連施設を貸してくれただけであった。ここで、小林頼子報告書は、学術報告としての価値を自ら放棄したわけで、それなら、今は単なる行政補充文書として扱う他はないのである。
そんな小林報告書を、今なお私益に役立てようとする勢力が世間に残存しているあたりに、却ってその本質(つまり、単なる行政文書でない)が露見しているのではないか。
小林報告書は、武生市が一旦出した結論すなわち行政的判断のための資料として、自ら行った調査の結論である。もし、美術品の真贋決定が市長職権に属する行政行為であるならば、前記二三の者の言うように、これを以て既に決着を付けたというのも、あながち無理はないが、どこの市長や市役所にも真贋決定の権限なぞないし、私の反論に対して学術的な対応を取らない以上、この報告書そのものが未だ学術的価値の定まらない中途半端な行政文書に過ぎないのである。故に、安井にせよ誰にせよ、今後小林報告書を引用するときには、みずから小林説を敷衍し、落合報告書を十分且つ有効に再反論した上でのことでなくてはならぬ訳である。
B.送り込まれた小林頼子?
佐伯祐三作品の寄贈受理を進めていた武生市は、平成七年四月十四日、京都市上京区河原町の京都府立芸術文化会館において、第二回選定委員会を開催した。今回の目的は、吉薗佐伯三十八点のうち、未額装の三十三点が修復に値するものかどうか、及び「吉薗資料」の取り扱いについて、判断を求めることであった。座長河北倫明は病気で欠席したが、陰里、富山、西川、三輪の四委員の他に、新たに市の嘱託として参加した者がいた。
その名を小林頼子といい、慶応大学の通信教育課程を経て同大学院に学び、上智大学の非常勤講師という肩書であった。武生市との関わりは、選定委員の一人で慶応大学名誉教授であった西川新次の推薦で、臨時職員として正式に採用された。
小林が武生市に送り込まれた経過を推察してみる。まず、武生市は平成六年十二月十八日の第一回選定委員会の日付を以て、吉薗明子からの寄付採納願を受理し、他に合計二百五十六点の「吉薗資料」を一時預かり、市の金庫に保管していた。「吉薗資料」を一覧した選定委員会は、これに関して「プライベートな問題も含まれているので、当分公開しないように」と助言した(当時の新聞、詳細は前掲拙著参照)。この記事だけだと、佐伯夫妻とその周辺のプライヴァシイを重視した助言ともみえるが、実際はそんな微温的なものではない。今思うとこれは、吉薗資料中に、米子加筆の証拠を見つけた選定委員の一部が、業界に与える影響を予測し、取り扱いに窮して言い出したに違いない。
ところが、武生市は同月二十五日に、画商鑑定機関の東京美術倶楽部から思いも掛けぬ贋作指摘を受けることなり、対抗力を強化するために、吉薗資料の公開をも進めようと考えた(拙著七十九ページ)。そこで、腕利きの調査屋として呼んだのが小林頼子で、明けて平成七年二月頃から小林は非公式に武生市に出入りし、内密に依頼されて吉薗資料を分析していたが、四月には正式に臨時職員として迎えられる。と同時に、武生市は美術館準備室を設置し、早速吉薗資料の分析と裏付け調査を開始した。
東京美術倶楽部はここで、藪(佐伯作品)をつついて蛇(吉薗資料)を出す立場になってしまった。米子の加筆がばれようとばれまいと、武生市じたいは何も斟酌する必要がなかったからである。
C.藪をつついて蛇を
武生市のそんな動きと関連してか、同年二月二十三日、朝日晃、脇村義太郎、山尾薫明の三人が、武生市に吉薗資料の公開などを求めて、要望書を提出した(詳しくは拙著を参照)。いずれも画商ではないが、従来から収集鑑定などで公開佐伯に深く携わってきた一種の美術プロで、むろん贋作派である。
彼らが公開を要求した吉薗資料とは、この時点ではただ一点しか入っていなかった米子の筆跡である。詳しく言うと、それは「借用書」であった。この文書の性格は今やはっきりしている。それは、昭和八年頃、米子が義兄祐正からの佐伯遺作の分与要求をはぐらかすために、友人倉田ヨシ(由、また由枝とも称す)の入れ知恵で作った、佐伯祐三作品百一点に関する吉薗あての虚偽借用書である。何たる運命のいたずらか、それは由枝の代筆であったが、吉薗明子は代筆とは知らず、武生市に提供した。数ある米子書簡の代わりにこれを出した理由は、選定委員会座長の河北倫明が吉薗に、武生市に渡す米子筆跡は事務的な内容のものに留めておくように、と特に指示していたからである。
河北の主意は、米子の加筆に触れた書簡を避けよ、との意味であったと思われる。けだし、河北こそは在来勢力の抵抗を慮り、加筆問題を回避しながら吉薗佐伯を世に出そうと最も腐心していたのである。運命の皮肉で、それが却って「代筆借用書」を世に出しすこととなり、贋作派を勢いづけてしまった。美術界に法王として君臨した河北倫明も、加筆品処理問題で能力の限界を見せたのは、秀吉の文禄の役に比すべきであろうか。
ついでに云えば、真贋騒動の当時、河北の他にもう一人の美術界の大物が、吉薗資料に立って活動していた。茨城県立美術館長だった匠秀夫である。匠は吉薗明子の依頼を受け、吉薗資料を解読した形の新著「未完 佐伯祐三の『巴里日記』」を執筆していたが、公刊日の平成七年四月二十六日は、武生市第二回選定委員会で京都で開かれ、吉薗が寄付した「郵便配達夫」が名品と評価された直後であった。この本は佐伯自筆の「パリ日記」「黒革表紙のパリ日誌」と「救命院日誌」をかいつまんで紹介しただけで、分析というものがまるでなく、匠ともあろうものがこの程度しか書けなかったことに疑問があるが、今日その内容を検してみると、米子加筆に関わる部分を注意深く排除してあることが分かる。それは「救命院日誌」に米子代筆の一件が詳細に記されているのに、まったく無視しているからである。つまり匠は、予め吉薗資料の全般に通じたうえ、米子加筆の部分を隠蔽しようとの意図を固めた。匠がややこしい題名の本を著した目的はまさにそこで、佐伯に関してはむしろ虚偽を広める意図が見られる。業者側を防衛するために、依頼者の利益に反することを承知で、美術評論家としての晩節をも疎かにした卑劣な行為と言えよう。
米子が知人に出した数多くの書簡はすでに世に知られており、ことに朝日晃は、生前の米子と親密であったことから、筆跡をよく見知っていた。そこで単純に考えれば、朝日が「米子借用書」の筆跡を見たうえで自分なりに判断したかったものと受け取れる。つまりこれが真筆だったら、朝日晃は真作派へ転向したかというに、その後の朝日晃の一途な贋作派ぶりを見ると、それはあり得ないようだ。想像するに朝日は、借用書のコピーを、すでに市関係者あたりから入手して筆跡を調べており、予め偽筆と知った上での鑑定要求であったのではないか。そう考えていけば、武生市には当時贋作派に内通した者がいた、ないしは入り込んでいたことになる。
運命の皮肉は、これに止まらなかった。後に小林報告書の筆跡鑑定で、前記借用書を偽筆と断定された吉薗明子は真筆書簡、すなわち加筆を告白した数通の米子の手紙を公表せざるをえなくなる。贋作派はまたもヤブをつついて蛇を出してしまうのである。事をここに至らしめた吉薗流の小出し作戦の功罪、いずれが勝るというべきか?
第二節 小林報告書の要点と誤り
小林報告書(平成七年十一月報告)は、吉薗資料の内容を個別に分析して、それが歴史的事実としてはあり得ないことを証明しようとしたものである。平成八年四月一日付でこれを受け取った見た私は、同月中に落合報告書を作り、疑義の点を悉く反駁した。以下、要点をかいつまんで掲げるから、いずれが正しいか、ご判断頂きたい。
A.周蔵の海外渡航について
吉薗資料の内容
大正四年六月頃より六年六〜八月頃までケルン大学留学。
小林報告
周蔵名義のパスポートの発行なし。ケルン大学に在籍した事実 もなし。
落合報告
周蔵の第一回渡欧は、武田内蔵丞の名義。パスポート発行は外務省の外交資料館で確認された。
吉薗資料の内容
ケルン大学でランドシュタイナー教授に師事。
小林報告
周蔵が師事したというランドシュタイナーは、ケルン大学にはいなかった。
落合報告
周蔵はウイーン大学のランドシュタイナー教室に潜入した。その後ケルン医科大学へ行くも、すぐに帰る。
吉薗資料の内容
昭和三年一月から三月頃まで、パリへ佐伯見舞い旅行。昭和四年、薩摩千代子の病気見舞い旅行。
小林報告
パリのオテル・リッツに滞在記録がない。
落合報告
薩摩治郎八の世話でリッツに泊まるが、周蔵の旅券は小山建一名義だから、宿泊名義は本名でなかったのかもしれない。しかし、ホテル内周蔵宛ての葉書は着いている。
B.周蔵と医学
吉薗資料の内容
1.熊本高等工業を二年で中退し、山本権兵衛の紹介で帝国医専に裏口入学。「これを数ヶ月で中退して、ケルン大学へ留学」(小林氏の解釈)。
2.帰国後、中野に救命院を開設する傍ら、淀橋の牧野天心堂で手伝う。
3.牧野は佐伯の結核の主治医であったが、不在の折りは、中村彝の主治医であった遠藤が佐伯を診ていた。
4.周蔵は医師免許を取るため、額田の研究室に通って、医学の研究を続けた。額田たちは大正十四年(小林氏の解釈・本当は大正六年)の段階で、周蔵が血液型を分離する作業をみて驚嘆した。
小林報告
1.周蔵は東亜鉄道学校(熊本)に大正元年十月一日から三年九月二十五日で在学していた。上京したというのは疑わしい。
2.帝国医学専門学校の存在は確認できない。
3.牧野の遺族は周蔵や佐伯の名前を知らなかった。
4.遠藤医師が、中村彝の主治医だった遠藤繁清のことだとすると、中村と知り合ったのは大正十年四月以後だから、大正六年十一月あたりに出てくる「救命院日誌」は怪しい。
5.淀橋病院は昭和七年の設立なのに、「救命院日誌」の大正六年十一月以降の条に出てくるのは、怪しい。
6.「救命院日誌」一九一六(本当は一九二六年)年四月三日の項に「額田兄弟の母(これは小林解釈)を大森に訪ねた」とあるが、額田医師の母上は前年九月十一日にすでに死亡しており、住居も大森ではなかった。
7.日本の血液型の研究は大正五年頃より、広範な分布調査がなされているのに、その九年も後で、額田が驚嘆したり、また「救命院日誌」一九二六年の条に「先月ノケルン大学カラノ雑誌デ、AB型ノ親カラO型ノ子供ハ生マレナイト知ッタ」とあるのは荒唐無稽である。ケルン大学へ問い合わせたが、当時雑誌を発行していた事実はない。
落合報告
1.周蔵は飛び級で小学校を一年短縮し、都城中学に入るが、数日で退学し、その後、山本権兵衛の口利きで、熊本高等工業を裏口受験させて貰うが、試験をさぼった。その後、上京したが、大正元年八月、前陸軍大臣上原勇作中将の命令で、東亜鉄道学校へ入ったものである。
2.周蔵は、呉秀三医博の勧めで、大正九年十月から、帝国針灸漢方医学校へ通った。もとより実在の私塾で、校長は周居応という中国人であった。
3.牧野の娘は、周蔵の長男緑との恋に破れて、他家へ嫁いだとのことであるから、思い出したくないのではないか。
4.牧野の代診をしていた遠藤与作は、遠藤繁清の縁者で、当時もとより実在した淀橋医院の薬剤師であった。
5.牧野は確かに以前は中村画伯の主治医で、事情があって遠藤繁清に代わった。従来の中村の評伝は、これに関しては不正確なようである。
6.額田の兄の妾のいた大森の置屋の女将(養母かも知れぬ)のことを「額田ノ母サン」と「救命院日誌」に記したのを、小林頼子が誤解したものである。
7.額田らを驚嘆させたのは、周蔵がウイーンから帰国した直後の、大正六年秋のことである。小林頼子は吉薗資料に「帰国シタバカリ」とあるのを、強引に大正十四年のことにしている。
8.ケルン大学云々と「救命院日誌」にあるのは事実であるが、これを理解するには「救命院日誌」の本質を知らねばならない。「救命院日誌」は、裏で本願寺の諜者をしている佐伯祐三のアリバイ(バックグラウンド)作り目的の日誌であった。その内容は、佐伯が、事実に基づいて創作したものである。ケルン大学の雑誌の条は、佐伯の作文性が行き過ぎた例である。
C.吉薗家の姻戚関係
吉薗資料の内容
1.周蔵の祖父の最初の妻・岩切ハツノは勘解由小路家の娘を母 とする京都の医師・木場周助と再婚したが、周助は早死にした(小林解釈)。
2.周蔵は、勘解由小路家の縁で、その親戚の武者小路実篤と昵懇になった。
3.周蔵が実篤の家で佐伯祐三からの手紙を見たのが、佐伯と知り合うきっかけであった。
小林報告
1.木場家は宮崎の炭焼きで、京都へ出たことがなく、勘解由小路家と縁戚でもない。
2.木場周助の妻をハツノという(小林解釈)が、実は違うし、また周助は長生きした。
3.「華族系譜」によれば、勘解由小路家に該当女性はいない。
4.以上がウソだから、実篤との一件もウソである。
5.したがって、佐伯と知り合った件も信用できない。
落合報告
1.周蔵の祖父萬助の妻は岩切ハツノで、その義姉のギンヅルが嫁入りについてきて、萬助の義姉となった。ギンヅルは京都に出て、町医者を副業にしていた堤哲長の妾になった。
2.堤家は公家で、確かに勘解由小路家の縁戚である。
3.ギンヅルと哲長との間の男子が、吉薗の跡取りとなった林次郎で、周蔵の父である。
4.木場周助は吉薗家の雇い人で、後に吉薗の女クサを娶った。
5.周蔵は若年のみぎり、実篤の門下にいた。周蔵が佐伯と知り合うのは、ギンヅルの甥にあたる上原勇作中将(後元帥)から命じられたからであるが、その事実を隠すために、実篤を介して知ったように、「救命院日誌」に記した。
D.その他の否定材料
(1)布施なる人物
吉薗資料の内容
布施信太郎を彷彿させる(小林解釈)布施という人物が出てくるが、その住居は下落合の佐伯アトリエのそばである。
小林報告
布施信太郎は北区に住んでいたから、これも怪しい。
落合報告
布施一という巣鴨病院事務長、のち特高の諜者。佐伯アトリエの隣にも戦前から布施氏が住んでいるが、この家は布施一と関係があるらしい。
(2)中村屋
吉薗資料の内容
「救命院日誌」大正七年三月二十九日の条に「中村屋へ同行シ、祝ヒノ食事」とある。
小林報告
新宿中村屋に食事のできる喫茶部ができたのは昭和二年。
落合報告
中村屋は、上高田の早稲田通りに沿った角にある食堂 で、周蔵は毎日通っていた。今は酒屋になっている(新宿中村屋とは無関係)。
(3)省線
吉薗資料の内容
「救命院日誌」大正六年九月三十日の条に、「佐伯ヲ省線マデ送ル」とある。小林報告省線と呼ばれるのは、鉄道省が設置された大正九年五月十五日以後でなくてはならない。
落合報告
「省線」とは本来逓信省線の意味で、明治時代から東京では愛称していた。大正六年当時は鉄道院時代だが、院線と呼ぶ人は稀で、一般には「省線」で通っていた。
(4)歌舞伎町
吉薗資料の内容
「救命院日誌」大正十一年一月二十二日の条に「佐伯ガ歌舞伎町ヲ歩ヒテ 女ニ袖ヲ引ヒテモライ、サソイニノラズニ戻ル」とある。
小林報告
文脈からして、新宿の歌舞伎町と見て間違いない。しかし、当該地域が歌舞伎町と命名されたのは、何と昭和二十三年四月一日のことである。よって、「救命院日誌」は、いかに出来事の進行とともに書かれた日誌を装っているが、実際には、昭和二十三年以降のある時点に綴られたものである可能性が高いということになる。《注・これこそ小林報告の背景に予断と偏見がある証拠》
落合報告
現在の歌舞伎町のあたりは当時は大久保村で、新宿に含まれてはいなかった。当時新宿と呼ばれたのは、現在の新宿(町名)、その一丁目の野村コンピューター・システムのビルのあたりに日蓮宗理性寺があり、その大黒堂の跡に大黒座という歌舞伎小屋があり、その横町が有名な私娼窟で、大黒横町、歌舞伎横町などと呼ばれていた。
他にもまだまだある。中には逓信総合博物館に、到着日付印のことを訪ねに行き、「現場の判断に属することで一概には言えない」と教示されていながら、それを枉げ、「逓信省告示からして、あり得ない」と、はっきり悪意で結論を導いた部分さえある。
だが、これだけあれば十分で、読者もウンザリされたであろう。基本的には「小林報告書」が不当に偏っているわけだが、問題は吉薗明子側にもある。当時武生市に提供され、吉薗資料の中核をなしていたのは、「救命院日誌」であった。これを、小林報告書は「周蔵日誌」と呼ぶが、その名に適当するのは、私のいわゆる「周蔵手記」であり、これはもともと武生市に提供されていなかった。結果的に、吉薗は資料を小出ししたことになる。「救命院日誌」だけでは周蔵自身のことがわからないので、小林頼子は、吉薗明子が河北倫明の示唆で著したエッセイ「自由と画布」を参考にした。ところが、これが井戸端会議レヴェルの聞き書き集であり、記載事項の相互関係が全く整理されておらず、内容たるや矛盾に満ちたものであったから、資料疑惑に口実を与えたという要素がある。
それを割り引いても、やはり不自然なのは、小林頼子というか武生市美術館準備室である。もし吉薗資料の内容が矛盾しているなら、まず論点を整理してそこを責めるところから始めなければならない。それをせずに、矛盾した記載の中から、皮相的な史実に反する方だけをご都合主義的に選び出し、以上ご覧になったように、これでもかと叩き、吉薗を物笑いにしている。上の対比で、「吉薗資料の内容」とあるのは、彼らの理解した「吉薗資料の内容」に過ぎないわけで、原資料を枉げて読んだことがはっきりしている。佐伯祐三の自筆書簡が大量に武生市に寄贈されたから、これをまともに検討してゆけば、どこかで理解不能な点を乗り越えることができた筈だ。ちょっとした社会的知識や歴史理解力があれば、私のしたように、たとえば公家の「堤家」の存在を吉薗資料から読みとり、武者小路実篤との関係を導くのは、そう難しいことではなかった筈である。
尤も、私は「米子書簡」を見せられ、「これが贋造である筈はない」との信念から加筆説を検討し、これも確信するに至り、吉薗資料を善意的に解釈した結果、次々にパズルがほどけたわけである。これを逆にいうと、小林頼子があれだけ意地悪な見方をし続けたのは、「米子加筆説が正しい筈はない」との予断ないし価値観が、すでに形成されていたからではあるまいか。この他、小塚鑑定人が筆跡鑑定を覆した話など、まだまだあるが、詳細を知りたい読者は、是非拙著を読んでいただきたい。
吉薗資料に接した武生市準備委員たちは、河北も含めて、業界利益のために、加筆問題をプライバシイ問題にすり替え、「米子加筆の証拠があるから」と云うべきところを、「プライバシイの問題があるから」と言い換え、吉薗資料を「慎重に取り扱うべき=加筆の証拠を隠蔽すべき」ものとして、取り扱うことに決めた。それを前提条件として雇われた、ないし送り込まれたのが、小林頼子であった。
結局の処、吉薗資料を誰が読んでも、最大の問題点と考えるのは「米子加筆の経緯」である。ところが、小林報告書は、あれだけ資料の矛盾を鳴らしながら、この最大の問題点にまったく触れていない。ここにこそ、同報告書の本質が露呈している。武生市小林報告書が、米子加筆説の決定的な証拠たる吉薗資料と吉薗佐伯を抹殺し、永遠に封じ込むための謀略文書だったことは、この一点で明白である。
第三節 落合報告なるもの
落合莞爾事務所が武生市から小林報告書の送付を受けたのは、平成八年四月十二日のことであった。内容は薄々分かっていたつもりであったが、まさかこれほど酷いとは思ってもみなかった。しかし私は「ここまで論点が露骨だと、これは覆滅しやすい」と、却って安心した。論点の合否が第三者にも明確になり、水掛け論にならないで済むからだ。
私は、直ちに「落合報告書」をまとめて、武生市に送付した。これを読んだ武生市美術館準備室が、小林報告書の誤りに気づいて、おそまきながらでも是正措置を講じることを期待したのだが、結局空しかった。武生市は、私の抗議文書たる落合報告書を、徹頭徹尾握り潰す所存であったことを知っただけだ。
私は武生市のこの姿勢に対抗して、真贋事件の始終を世に問うべく、「天才画家『佐伯祐三』真贋事件の真実」を執筆した。原稿はほどなくできた。出版をめぐって時間が掛かったが、最終的に、時事通信社の藤原作弥解説委員長(現日銀副総裁)の推挽で、時事通信社から出版することができたのは、平成九年五月三十日のことであった。この拙著が事実上の落合報告書である。
拙著に対しては、幾つかの好意ある書評をば頂いた。その代表は、美術評論家の千葉成夫東京近代美術館主任研究官のもので、「中央公論」平成九年十月号に、次のように評して頂いた。
「実に面白い本だ。まるで推理小説か犯罪ミステリーを読んでいるようで、読者に息をつかせない。しかも、ただの面白い読み物というのではなく、これはきわめて真面目な考証物であり、研究書とすら言っていいだろう。(中略・事件の経緯)
一般の人々は、その間の事情と経緯を知る由もないから、よく調査した結果、贋作と判明したので白紙に戻すとは、役所にしては偉いと思った人もいたはずだ。たとえば「贋作説」の新聞しかとっていなかったら、そう思って当然である。ところが、本書の著者の調査と推理によると、そうではない。ここから驚くべき真実があかされることになる。こういう本は、種明かしをしてしまったのでは、これから読もうと思っている人々に失礼に当たるわけだから、それはせず、結論だけを記しておこう。『刑事コロンボ』同様、本書の面白さは結論にではなく、結論に導いていく課程にあるからである。
吉薗資料の全面的提供をうけて詳細な解読と調査を行った著者の結論は、「吉薗佐伯」こそは真作であり、これまで「佐伯作品」とされてきたもののほとんど、ないし多くは、画家の未亡人佐伯米子が夫の作品(真作)に加筆して完成させたもの、他者が描いた作品に米子が加筆したもの、であるというのだ。この驚天動地の結論が、著者の綿密な解明をへて導きだされている。
これだけでも大変なことだが、著者はさらにこの調査から、吉薗周蔵という、これまで未知の人物を歴史の闇の中から浮かびあがらせる。なんと、それは上原勇作元帥の「草」(陸軍特務)として、幅広く複雑な人脈を持ちながら、市井に暮らした人物だった、というのである。吉薗周蔵の人物像がはっきりしてきたことは、美術に関してもこれからいろいろな情報をもたらしそうで、興味がつきない。
さて、この著者の「吉薗佐伯真作説」に対して、「贋作説」を唱えてきた美術史家、美術研究者、美術館学芸員、画商たちは、いったいどのような反応を示し、対応するのだろうか? この著者の調査・研究・推理は、本書でみる限り、かなり綿密で本格的だから、客観的に言って、反論は簡単ではないにちがいない。部外者の僕は、無責任に、どっちも頑張れ、と言っておこうか。どっちも頑張れ、ただし真面目に、だ。
僕自身は、「現代美術」と呼ばれている世界の人間で、佐伯祐三にはもともと関心がない。そうはいっても美術の世界にはいるので、たとえば「米子加筆説」はそんな僕の耳にもチラホラ聞こえてはいた。だから、本書に接して、非常に啓発もうけ、学ぶところも多かった。
いずれにしても、僕も含めて一般の人々は、「吉薗佐伯」の実物を眼にする機会にはまだ恵まれていない。その意味では、まとめて公開される日が来ればいいなと思う。そうなってはじめて、青天白日のもとでの比較ができるからである」
私は、小林報告書起草者に対する憤激の存念から、随所で美術評論家なるものを貶めてきたが、それはあくまでも一般論であり、中にはこのように見識と勇気ある人士も少なくないことを認識した。文壇の大型新星といわれる出久根達郎も、その著「書棚の隅っこ」のなかで、取り上げて下さっている。
草 「佐伯祐三が、激しく私を奪って止まない所以は、モラリスト(風俗批評家)としての彼の独自な姿勢が位地の確かさの上にあって、比類ない美をわれわれに提起していることに、職として由る。」「大阪の持つ庶民的な反逆精神。そして文明への高貴な憧憬の感情。彼の体液(ユムール)を流れるこの二つの要素の上に彼のプチ・ブルジョワへの深い愛情がその独自の芸術となって燦然と輝いているのである」(安西冬衛「佐伯祐三の位地とその意義」)
佐伯祐三真贋騒動をご存じだろうか・・・・
出久根さんによる拙著の紹介は、上の文章で始まる。安西という人の難解な文章をまず掲げたのは、拙著と対比なさるためであろうか。ともあれ、出久根さんは、私個人の略歴と拙著の大筋を紹介した上で、次の文章で締めくくっている。
「佐伯の絵は、妻の米子が加筆している事実が判明した。佐伯作品の再検討が始まる。そうなると美術商たちは恐慌をきたす。ニセとわかれば元値で買い戻す、という一札を業者は入れているからだ。十号数億の佐伯作品となれば,画商の経済的破綻は必至。「吉薗資料」の抹殺をはかるわけである。
なお「草」とは、スパイの意味である。佐伯を「草」に仕立てた吉薗周蔵も、もちろん当時の陸軍の「草」だったのである。」
このように、好意的な書評は幾つか頂いたが、その逆の拙著に対する反論は、真摯なものはもとより、嘲弄的な批判ないし噂すら、これまで私の耳には入ってきていない。一つだけ例外は、流行語“老人力”で売りだした赤瀬川原平が、「日経アート」平成十年十二月号の紙上の対談で曰く、「4年くらい前に真贋騒動があったんですよ。(中略)絵と一緒に資料があって、この資料がすごいんです。よくもまあ、これだけ、という感じで。(中略)いまだに真作だといって本を書いている人もいて、相当複雑なんです。センスがなくて筆が立つ松本清張みたいな人が生きていたら大長編小説を書いてますね」と。
後半部分の趣旨はよく分からないが、とにかく拙著と私をからかい気味で語っていることは疑いない。これが、私の知り得た唯一の表だった拙著批判である。この外に「闇の贋作派」がいて、たとえば安井収蔵氏のごとく「小林報告で真贋はすでに決着した」と唱えるが、堂々の論争をしようとはしない。この一派は、商業的・経済的動機がすべてのようだ。
赤瀬川は同誌上で「絵の真贋なんか元来どうでもいい」と言い、吉薗佐伯については、「でも、ぼくは写真でしか見てませんが、この絵がどうしようもなくつまらなくて何だか嫌な気分になる」と、自ら『芸術新潮』の掲載写真の影響下に在ることを自認している。その未額装品の写真によって、間違った先入観が形成されてしまった人が多いが、赤瀬川もその一人らしい。先入観が強すぎて、拙著や月刊「ニューリーダー」で紹介してきた資料の内容が理解できず、「よくもまあ」とただ呆れるのであろうが、嫌な絵だから偽物というのは早計ではないか。それに、夫子自身が「日経アート」の対談のなかで、佐伯の公開作品を評して「この絵のここは、佐伯がああした、こうした」と評するが、作者の個性・心情と具体的作品を結びつけて論じる立場にあるなら、真贋−−つまり当該作品の作者と特定個人の同一性の有無−−を無視することができぬというのが、物の道理ではないのか。
そこで一つ、赤瀬川君に問う。これは君自身で双方の報告を熟読したうえでの責任ある見解なのか?
そして告げる。ここは一番、千葉成夫の下の言に従い、真面目に争おうではないか。「どっちも頑張れ、と言っておこうか。どっちも頑張れ、ただし真面目に、だ」。
(続く)
[本章では敬称を略した]
【次頁】へ続く