天才佐伯祐三の真相 Vol.6
第五章 佐伯祐三の生涯(2)新婚時代と北画指南
第一節 米子ハン師匠
新妻米子が下落合の新築家屋に入ったのは、大正九年十二月六日のことであった。「救命院日誌」によれば、明けて十年の元旦、重箱の料理を提げて、佐伯夫妻が救命院を訪ねてくる。佐伯が大阪弁で延々と語るくだりがあり、また米子が隙を見て、周蔵の気を惹く条もある。「救命院日誌」の数ある場面でも、ここは佐伯が文案者として、最も気を入れた箇所だと思われる。「周蔵手記」には対応記事はないが、かといってまったくの架空記事とは思われない。
なかでも注目すべきは、水屋ですき焼きの準備をする佐伯の眼を掠めて、米子が周蔵に語りかける場面である。
「先生を存じ上げました時、家族は、そんな良い人が近くにいるのにと、残念がりましたは」などと言いながら、祐三の幼稚さを嘆く。問題は次の発言である。「主であることを まだ念頭にお入れになられていないのですは。でも先生ご心配なく。あたくしがきっと立派な画家にお育てしますは・・・何故って あたくしの方が 絵の事をよく知っているのですもの。あたくしね 河合玉堂先生に 南画を習いましたでしょ。でもそれより以前から 共立美術館という所の先生に北画を習っていましたのよ。北画という画は、とても技を要しますのよ。筆一本の力量で 絵が生きる死ぬ有りますのよ。
あたくしは 南画のやわらかさを出すことは 苦手ですけれど 北画の激しさは雪舟以上だよと 先生が申されましたのよ。才能があるって お誉めいただいていますの」
この発言こそは、佐伯夫妻の画業を規定する最も重要な箇所である。米子は、現状は意識も技術も幼稚な佐伯ではあるが、自分が指導して立派な画家に育て上げると、周蔵に対して見栄を切る。周蔵が佐伯を一流画家に育てる密命を帯びていることを、充分心得ているとみえるが、文案者が佐伯本人なのだから、これは驚くことではない。
驚くべきはむしろ次の段である。米子は、自分の方が佐伯より画技に長じていることを、具体的に誇る。「自分の北画の技は雪舟以上」、とまで言う。北画の技でこれから佐伯を指導していくという意味である。それを文案者の佐伯が、百も承知しているところが、われわれを一驚させるのである。
米子は「サレナラ 画家ニナッタ方ガ 良カッタノデハ?」という周蔵の問いに、
「日本ハ 殿方第一ノオ国デスカラ、アタクシガイクラ勉強シテ、力量ト技ヲ 発揮イタシマシタトコロデ、地団駄ヲフムノガ 関ノ山デスハ。サンナ愚カナコト アタクシ イタシマセンコトヨ」
と、淀みなく答えた。男性優位の日本社会では、女は裏方に回って夫を操縦した方が得である。米子はついにそれを実行し、「哀愁の画家佐伯祐三」を作り上げた。現に今日、各地の美術館は、米子が北画の技法で活を入れた「佐伯祐三作品」を、加筆問題には目をつぶって有料展観に供している。
米子は、祐三との結婚に当たって、最初から自分の意志と目的をはっきり固めていた。その裏に大谷光瑞師の計画があったことは確かだが、佐伯自身がその計画を意識していたかどうか、この記載だけで決定することはできない。何しろ、「救命院日誌」は、佐伯の要望で何度も書き直されたから、この箇所が大正十年正月に書かれたという確かな保証がないのである。
第二節 最初のパトロン
新婚時代の佐伯夫妻の生活ぶりについては、多くの学友が口を揃えて語り、それが従来の俗流評伝の基礎をなしている。しかし「救命院日誌」の記事は、大正十年の初頭に、新婦の身の米子が周蔵と牧野医師に接近を図る場面ばかりを強調している。これは例によって、佐伯が新妻に裏切られるという悲劇の筋書を創作したものとも思われるが、それを詳しく分析する紙数がない。
真実は「周蔵手記」に求めるべきだが、その大正十年二月条には、「Δ佐伯ハ 借金ノ相談多ヒラシヒガ スベテ絵ト交換シテイルノ由。ハゲミニナル ヤモ知レヅ。値切ルコトダケハ シナヒヤフニト 強ク云フ」とある。救命院の会計係池田巻から、周蔵の留守に佐伯がたびたび借金をに来るが、貸付金として扱わず、すべて絵と交換している、と報告があった。そこで周蔵は、かねての巻の提案を実行するのは良いことで、佐伯の励みにもなると思うが、値切ることだけはしないようにと、強く指示した。値切るなというからには代金は周蔵もちで、結局周蔵が佐伯の最初のパトロンとなったことになる。
さらに、同年四月二日の条にも、次のようにある。
Δ佐伯ハ 相変ハラヅ 借金ノコト多ヒヤフダガ 云ハルルママ タテカヘテホシヒト タノム。巻サンガ長クナルヤフナラ 事務ヲ頼マナケレバ ナラナヒノデ 藤根サンニ様子ヲ聞ク。
Δ巻サント結婚スル気ハナヒカ ト聞カル。ナヒト答ヘル。ヨシンバ アッタトシテモ 自分ノ現状ハ アサギクガ戸籍ニヲル。
山梨の小菅村にケシの種蒔きに出かけた周蔵を、藤根が追ってきて、巻が母親の急病で青森に戻った、と告げた。池田巻はこの七年後に周蔵と結婚するが、この時は藤根らの周旋も実を結ばなかった。留守中の様子を藤根に聞くと、相変わらず佐伯から金の無心が多いという。周蔵は、云われるままに立て替えて、貸してやってほしいと頼んだ。俗流評伝の中心をなす、美校の学友たちが取り囲む画学生夫婦の裕福な生活は、実際はこうして、周蔵と巻の金で支えられていたのである。
大正十年三月二十六日、佐伯の弟の祐明が、大阪府淡輪の結核療養所で死去する。弟を看取ってきた佐伯の帰京は四月三日遅くとあるから、藤根がいうのは、佐伯が帰阪する前のことである。帰ってきた佐伯は吐血していた。結核と見せ掛けるつもりだが、自傷であることを周囲に見破られる。
だが、米子に見破られたくらいでは、佐伯は悲劇の筋書をあきらめない。結核にさいなまれる薄幸の天才児という筋書を、なかなか変更しようとしない。「救命院日誌」大正十年四月九日条で、午後三時半に周蔵が佐伯家を往診する場面は挙行で、結核を誇張したものであろう。周蔵がその折、「フランスに逝った友人は、画家ではないが、ピカソという画家を非常に褒めて肩入れしている」と、佐伯夫婦に話すと、米子が「ゴ友人テ、アノ薩摩サマノコトデハ アリマセンノ」と聞き、病床の佐伯に、パトロンなるものの説明をするくだりがある。思うに、このくだりは、後年の佐伯のパリ留学の伏線であろう。
第三節 周蔵と薩摩治郎八
佐伯夫妻のフランス留学の世話をする羽目になった周蔵は、友人の薩摩治郎八を利用しようと考えつき、また実際にもそれを実行するが、それは二年後のことである。
薩摩家は、大正の成金時代を代表する一家である。治郎八(明治三十四年生まれ)の祖父治兵衛はもと綿糸綿布商であるが、戊辰戦争に際し彰義隊を相手に商売して莫大な儲けをなし、その後も帝国海軍と結んで軍需で巨富を積み上げた。治郎八の母の実家は、毛織物を扱う杉村家で、これも一財閥であった。大正前半の第一次大戦で、さらに財力を数倍にした。
周蔵の実家と薩摩家は、商売上で関係があった。周蔵は大正三年、薩摩絣の賃織り生産をも営んでいた父林次郎にいいつかって、薩摩家に納める絣を駿河台の邸まで届けたことがあった。治郎八は当時十三歳だったが、二人はこの時は出合わなかった。大正六年、渡欧から帰った周蔵は、京橋区新栄町の若松忠次郎の家で、若松安太郎(本名は堺誠一郎)から治郎八を紹介される。十六歳の治郎八はただちに周蔵に好奇心を抱き、突然幡ヶ谷の周蔵宅に訪ねてきた。救命院に興味を抱き、気軽に出資を申し出た早熟児は、周蔵が陸軍上層部から密命を受けていることを感知して、その内容を探りにきていたのである。
自分に取り合わぬ周蔵を、治郎八は自邸の音楽会に招待し、席上わざと共産主義者徳田球一を近づけた。上原大将から渡された要注意人物のリストにあった徳田を紹介されるのは、周蔵にとって迷惑であった。徳田は早速救命院を訪ねてくるが、治郎八の内意を受けて周蔵を偵察しに来たものらしく。治郎八本人も予告なしにたびたび周蔵宅を訪れ、周蔵の動静を窺うフシがあった。
周蔵は、治郎八の性行に危険なものを感じていた。眼が青くさえあれば、だれにでも近づき、親しくしたがる治郎八は、西洋人崇拝と家柄コンプレックスが強すぎた。フランスに渡った治郎八が、自覚のないままにその財力を利用され、国益に反する工作に走らされることを、周蔵は最も畏れた。思い立った周蔵は、薩摩邸での音楽会で知り合った治郎八の秘書から休暇日を聞き出し、その日に張り込んで尾行すると、行き先は新宿一丁目の歌舞伎町(大黒座歌舞伎横町)の私娼窟であった。秘書がここにたびたび通っていることを突き止めた周蔵は、楼主を買収して、馴染みの私娼から、薩摩治郎八のフランスでの動静を聞き出させた。
治郎八の一大事業は、パリ市南部の大学都市に日本会館を建てて、寄贈したことである。これは、もともと日仏両国政府の合意によって計画されたが、日本政府は資金不足を理由に薩摩父子に肩代わりを要請し、完成させたものである。薩摩家の財力を消耗させるため、参謀総長上原勇作大将が中心になって、政府筋が企んだものらしい。日本会館の着工式は大正九年十月十二日、おりから下落合では、佐伯夫妻の新居が突貫工事をしている最中であった。
前章に掲げた「救命院日誌」大正十年四月九日条の周蔵往診の場面は事実との保証はないが、いずれにせよ佐伯が仮病臭い結核の床にあった時、薩摩治郎八はフランスで画家藤田嗣治を後援しながら、民間文化使節を気取っていた。以前からこれを知っていた米子は、画家のパトロンとしての薩摩の存在に気づいた。その治郎八が周蔵の友人と分かれば、その線を伝って、米子がパリ留学を企むのは、時間の問題であった。
第四節 佐伯の仮病
新婚時代の佐伯の健康はすぐれなかった。俗流評伝では、この時期に結核が重くなったとするが、信を措き難い。山田新一は「素顔の佐伯祐三」で、次のようにいう。「(弟の死後)東京に帰ってからしばらくして、夕方になると微熱が出るようになり、その上、蓄膿症の手術(一説には中耳炎)を受け(中略)、ともかくそれ以来、半年ぐらい予後の経過が思わしくなかった。佐伯の厄年ともいえる。(中略)しかし、彼の病暮れ近くなる頃には、どうやら快方に向かった・・・」
人の病状は他人に分かりにくい。まして内心なぞ、傍らにつきっきりでも、理解しがたいものがある。世界中で最も佐伯に近かった山田新一ですら、実情の一部しか把握していない。本件の真相は、大正十年三月二十六日の弟の結核死が衝撃となり、己の余命に自信が持てなくなった佐伯が、精神的な病的状態に自分を追い込んでいったものと思われる。根拠は、「救命院日誌」と「周蔵手記」との記載内容が、まったく一致しないからである。前者の内容を要約して下に示す。
四月十一日。
結核を診察して貰うため、周蔵は牧野天真堂医院に佐伯夫妻をつれていくが、不思議な夫婦で、それぞれ実家との縁が切れず、うち解けていない。夫婦生活もまだないという。
四月十二日。
牧野が周蔵に伝える。遠藤医師と話し合った結果、結核が進行した。精神的病気依存症で、結核に逃避しているとのこと。
四月十六日。
肉、野菜、すき焼き鍋を持参。兄からの仕送りが月八十円では少ないとこぼし、借金を申し込まれる。買い物に出た米子と周蔵は、歩きながら話す。大谷家では、キクエの祐正との挙式を一日千秋の思いで待っているが、佐伯の母親が邪魔をしている。父親の葬儀を、手伝いに行ったキクエを、母親は鬼のような顔で睨んでいた。祐正の愛があるうちはともかく、何時の日か祐正の心が変わるとき、キクエは死ぬしかあるまい、と米子はいう。
四月十七日。
周蔵は新宿中村屋で菓子を買い、佐伯に届ける。
四月三十日。
佐伯は結核らしい病状が続き、周蔵は毎日往診す。当分日誌を休む。
五月二十四日。
周蔵は牧野夫人に呼ばれ、駆けつけると、牧野医師と米子がおかしいという。女中が現場を見たらしいが、牧野夫人は、どうせ牧野はすぐ飽きるから、佐伯に知られないようにする事が肝心、と周蔵に告げる。
五月三十一日。
佐伯は結核らしい病態で、寝ている。十一日ころ、兄の祐正が上京し、一週間ほど泊まっていった。
六月三十日。
毎日往診する。今月も兄が上京して、米子をわが妻のように平然と使う。
七月九日。
佐伯は幻聴を訴える。床上げする。
七月三十一日。
佐伯はメニエル氏病の症状を訴える。周蔵はその特殊な眼を活かせと教える。佐伯は一人で大阪に行く。
八月七日。
昨朝帰京した佐伯は、昨夜飲酒して米子ハンニヤッテシモタ、という。他言は無用と周蔵が云うと、「イシ(医師・周蔵のこと)ダケヤ。オット山田ニモ言フカモシレン」。
九月二十九日。
周蔵は額田医博の依頼で、九月一日より一日中、額田の研究室に通っている。そのため、深夜一時半頃に会いに来た佐伯は、祐正の婚約者キクエが自殺したことを伝える。キクエの自殺を米子はたびたび予言していた。周蔵は、米子が何故あんなにもはっきりとキクエの自殺を予言したのか、としばしば考え込む。
以上「救命院日誌」の記載は、佐伯が原文を作り、そのままを周蔵が記帳したものである。文中、結核の症状、周蔵の往診などはまったくのウソと思われる。だとしたら、山田のいう中耳炎(ないし蓄膿)の手術すら疑わしい。佐伯はおそらく、悲劇の天才の筋書きを進めるために、この時期、学友にも病気のフリをして美校を休み、理由として手術をあげたのであろう。病名については、真実はメニエル氏病であるが、相手によって中耳炎とか蓄膿とか出放題を並べたので、山田も惑わされたのであろう。
だからといって、この時期の佐伯の体調が良かったわけではない。父と弟の相次いだ病死に衝撃を受け、自身の結核に前途の不安を抱き、持病メニエル氏病も確かに進行した。しかし、結核はじめ諸々の病状を誇張する癖のあった佐伯が、本物のメニエル氏病だけは、親友の山田にも隠していた。山田が蓄膿として佐伯から聞かされた症状は、メニエル氏病のものではなかろうか。
佐伯夫婦の新婚生活について、山田は評伝で「その一端を結婚の翌日しみじみと僕に漏らしたことがあった。美校の授業が終わり、いつもの通り僕と佐伯の二人で、鶯谷の駅から、僕は池袋に、佐伯は目白駅に帰るために、当時は省線と称した山の手線に乗った時であった・・・」と回想し、佐伯が昨夜(婚儀の夜)の初夜のことを山田に語った、と言っている。山田の人柄からしても、これは疑うべきことでもない。
とすると、八月七日の条は架空記事と分かるが、「山田ニモ言フカモシレン」という箇所に、電車の中で山田と会話した事実の一端が尻尾を出している。ここで分からないのは、佐伯は婚儀の前から下落合の新居に移っていたから、婚儀の翌日下校の際に目白駅に帰ったのは当然であるが、その前夜すなわち婚儀のその夜は、二人はどこへ泊まったのであろうか?
また、兄の祐正が築地本願寺の会議のために上京し、十日以上も新婚家庭に泊まり、米子との間で何やら曰くがあるように記すが、これも、佐伯が周囲から被害を被るという悲劇の筋書きのための、虚構と見るべきである。つまり「ふたりの初夜は八月であったが、祐正は五月十一日に上京して佐伯の家に長く滞在し、弟の妻をわが妻同様に扱う」という虚構が、翌年二月に生まれる弥智子を不倫の子と見なすストーリィの伏線をなすのである(弥智子のことはあながち虚構でもない、後出)。
第五節 大谷キクエの自殺
前節に見るとおり、「救命院日誌」四月十六日条に、来阪して祐哲の葬儀を手伝った大谷キクエが、佐伯の母の憎しみを買っている、いつか自殺するかも知れない、と米子が周蔵に告げる場面がある。ここで私は首を傾げた。大谷キクエの自殺は、夭折した天才画家のさして多くないエピソードの一つとして、古来佐伯ファンの間で知られてきた。評伝のかならず触れる箇所でもある。ところが、キクエの自殺の日は大正九年九月二十八日だから、昨年秋に死んだ女の自殺の予言が、ここに出てくるのは、前後撞着だからである。
山田新一は前掲で、次のようにいう。「(キクエ)が、佐伯の父、祐哲師の亡くなる直前に佐伯と米子共々、兄祐正との婚約を許された後、どういうわけか、祐正との間に誤解があって結婚問題がこじれてしまったということであろうか、二十四歳の若さで自殺してしまった。その通夜の席に列席した佐伯が、大声を出して泣きだし、米子もこの不幸な幼馴染みのかわり果てた姿を悲しみ、そんなこともあって、お互いに更めて思い焦がれるような感情の火花を懐き・・・」
山田はまた、これより前の「木」昭和四十八年五月号の対談においても、「大谷家はなんか花柳界と関係の深いおウチでしてね、芸者衆がお通夜にたくさん来ていました。佐伯があんまり泣くもんやから、あれが彼女の彼氏だったんだろうと、来ていた芸者衆がひそひそ話を・・・」と言っている。因みに、阪本勝も同様のことを語るが、評伝家としては不勉強で、ネタのほとんどは米子からの伝聞らしいから、論ずるに足りない。なお、阪本は服毒自殺としている。
キクエの通夜は東京の大谷家(あるいは築地本願寺か?)で行われ、むろん佐伯と米子も参列した。通夜の席上佐伯は手放しで号泣し、その心根に挙式前の米子が惚れ直したという。だが、「救命院日誌」大正十年九月二十九日条に、キクエの自殺は前夜とある。二十九日の夜半、佐伯は周蔵の所にそれを告げにきた。キクエは当時妊娠しており、死因は縊死という。さらに、その前の大正十年五月三十一日条にも、上京した祐正が、佐伯の新居に永逗留する場面で、「兄ノ許婚者ハダフナッテヰルノカ?」との記載がある。いきているからこその、この疑問である。「救命院日誌」の後年条にも、キクエ自殺に関する記載が何回も出てくる。問題は、そのたびにニュアンスが違うことである。
朝日晃は、当時キクエと同居していた小久保千代子(のちに祐正の妻)からの伝聞として、自殺の顛末をやや詳述している。祐哲(九月一日死去)の葬儀の後、ひとり光徳寺に残っていたキクエは、寺の嫁として喜ばれていないとの陰口を耳にし神経衰弱に陥って身投げを図り、淀川の土手で発見されて連れ戻された。七日に一旦帰京するが、二十五日に千代子と連れて薬局へ行き、翌日自殺を図り、二十八日に死去した。大阪から祐正も呼ばれた。「救命院日誌」には、これと似た話がもっと詳しく出てくる。朝日説と「救命院日誌」が丸一年違う理由ないしカラクリは、「救命院日誌」昭和二年の条で明かされるので、後述のこととしよう。
前章にも述べたが、「周蔵手記」大正十五年六月条に、祐正が周蔵にした告白は、「自分には大阪にまあまあ決めた女がいて、母もそれを認めていたが、寺と大谷家とは深い関係があり、弟が棄てたキクエを救済するため、女だからと侮ったわけではないが、自分がキクエと結婚して円満に収めようとした。しかし、自殺されてしまった」ということであった。自殺の原因については、「壇家故ニ 耳ニ入ッタトコロデハ 弟ノ妻君ガ 兄ニハ 別ニ女ガイルトカ 自分ハ両方カラ迫ラレタトカ、子供ガデキタトカ、ヲマケニ 母親モ 何カイッタラシヒ トノコトデアル」と、説明している。
つまり、キクエにいろいろ吹き込んだのは、主として米子であり、寺の母は「オマケニ何カ言ッタ」程度である、という。これは、祐正が母を庇ったとも取れるが、米子がキクエ自殺の遠因をなしたのは、客観的にみても間違いないようで、晩年の佐伯が、周蔵宛の書簡やメモのなかで、たびたびキクエの自殺に言及して、米子を執拗に非難していることでも分かる。
それとは別に、祐哲の臨終の許しも空しく、母親タキが祐正とキクエの挙式を妨害し、破談さえ企んでいたのも事実であろう。そこには、寺の財務事情とは別に、祐哲をめぐる大谷作と佐伯タキの間の葛藤があったのではないか。傍からは窺い知れぬ人間関係の深層の一端を、たまたま米子は知っており、それが度々のキクエ自殺の予言となった可能性もある。とにかく、ここに至る事情について、米子が極力口外を避けたのは、山田が評伝のあとがきに述べた通りであろう。米子からの伝聞を骨子として、佐伯年譜を編んできた朝日晃が、遂に事の真相に到達し得なかったのも、無理もない。
結局、祐正は、大谷家の遠縁で、栃木県から上京して、大谷家に下宿していた小久保千代子と大正十五年十一月に結婚した。
第六節 米子の妊娠
佐伯がキクエの自殺を知らせてきた翌日、大正十年十月三十日の「救命院日誌」には、夜十一時半に救命院にやってきた佐伯が、「米子ハンニ 子ガデキタ」と、不安そうに言う。十月三十一日も、夜十二時過ぎに来る。周蔵は、目下貴君のめまいの原因たるメニエル氏病の研究をしている、と告げて、佐伯を安心させる。「救命院日誌」には、さらに以下の記載がある。
◎最近ハ ヴィーナスカラ 絵ノ教師トイフ尊敬ニ 変化シテイル。
◎ダフヤラ 佐伯ヨリ 今ノトコロ 絵ガ上手ラシイ。
佐伯はこの頃から、姉さん女房に絵の指南を受け、「アタクシガ 指導シマシテ オ育テマスハ」という言葉の通りになっていく。「周蔵手記」には、この間に対応記載がまったくないが、少なくとも、周蔵の往診はウソであろう。だとすると、このあたりの情景は、佐伯の一人芝居になる。
「救命院日誌」十一月二十日。額田の研究室が日曜は休日となり、周蔵は佐伯家に往診した時の記載。
◎オ腹ニ種ガ入ッタノガ 八月トシテ、サノワリニハ デカヒ腹ヲシテイル。躰ガ不自由ダカラ 動カナ ヒセヒカモシレナヒ。
「救命院日誌」十二月一日条。要約。米子がきて、周蔵に相談したくてずっと悩んでいたと言い、佐伯が周蔵に初夜のことを話したのではないか、と尋ねる。周蔵が曖昧に答えると、米子は、それは七月だったか八月だったかと糾したうえ、実は初夜は四月だったが、往診して貰っている身分を遠慮して、佐伯がウソをついていたのであると、釈明する。
「救命院日誌」十二月二十一日の条。佐伯はこのところ、毎日夕食に来る。上京以来去年まで救命院に来たのは、ため食いが目的である。兄の「金ヤル」は口だけで月に十五円くらいしか送って来ず、食費もなかった。今は、米子の実家からもややあるし、なにといっても周蔵がいるから心強い。光徳寺は、大谷さんの援助でえらい助かったらしい、などという。
「救命院日誌」大正十一年一月一日。佐伯夫妻が来て、すき焼きを食らい、昼夜を過ごしてゆく。米子の腹は今にも飛び出しそうである。この後、「救命院日誌」は一月二日から始まり九日を除いて毎夜、佐伯が一人で救命院にやってきて、時には泊まっていく様子を記す。十二日には、周蔵と二人で新宿に出た佐伯が「歌舞伎町ヲ歩ヒテ 女ニ袖ヲ引ヒテモライ、サソイニノラズニ戻ル」場面がある。十三日には、観た夢のことを話し、午前中に帰っていった。
第七節 美術史家の無知と市役所の不法行為
因みに、武生市真贋騒動における、武生市美術館準備委員会の報告書は、次のように発表した。この報告書が、いかに強引で不当なものか、具体例として掲げる。
−−−−省線、歌舞伎町の呼称−−−−
同じような単純な時間的齟齬は外に二つほどある。一つは、『周蔵日誌』の大正六年九月三十日の記述である。この日、周蔵は佐伯を「省線」で送っていった、という。ところが、首都圏の国有鉄道が省線と呼ばれるようになるのは、鉄道省が設置された大正九年五月十五日以降のことにすぎない。それ以前は鉄道院の管轄で、省線の呼称はなかった。
もう一つも同じく『周蔵日誌』である。大正十一年一月十二日の記述に「歌舞伎町ヲ歩ヒテ 女ニ袖ヲ引ヒテモライ、サソイニノラズニ戻ル」という件がある。ここでいう歌舞伎町とは、文脈からして、新宿の歌舞伎町と観て間違いない。しかし、当該の地域が歌舞伎町と命名されたのは、何と昭和二十三年四月一日のことであり、大正十一年からは遙かに隔たること二十六年後のことである。つまり、『周蔵日誌』は、いかにも出来事の進行とともに書かれた日誌を装っているが、実際には、昭和二十三年以降のある時点に綴られたものである可能性が高いということになる(以下略)。
さて、これに対する落合報告書の反論をも、下に掲げる。
−−−−落合の反論−−−−
これも、前述と同様、準備室のドグマが誤っている。すなわち「省線」は鉄道省の置かれた大正九年以後の愛称であり、「歌舞伎町」は昭和二十三年以後の地名である、と決めつけた上、『救命院日誌』がそれより以前の日時に、その名称を用いたのは、偽作である証拠、と主張している。
しかし、実際には逓信省→鉄道員→鉄道省という変遷の中で、省線の名は明治時代から東京地方で使われていた。また、歌舞伎町の名称も、大正末年には現代の新宿一丁目の大黒座の傍らにあった私娼窟の通称であった。こんなことを予め知る人は現代には稀少であろうから、『準備室報告』が立てたドグマは、ある意味では「現代人の常識」とさえいえよう。このことは、逆に言えば、[現代では非常識とされる]内容に満ちた吉薗資料は、現代人が創作できるものではないことを証拠立てている。
以上のように私は反論したのだが、後半の高等論理が先生方に通じたかどうか、不安である。何しろ、頭の構造が偏っているようだから。
ところで武生市の先生方と小林頼子先生よ。山田新一は、大正九年十一月末の婚儀の翌日の佐伯との会話を回想し、「当時は省線と称した山の手線」と言うてはりますぜ(「素顔の佐伯祐三」五十八ページ)。これをどう思うかね。「同年五月十五日を以て、名称を院線から省線に改められ、その時より天下万民が再び省線と呼ぶようになった、これぞ証拠」とでも強弁するのかい。だけど省線なんて語は、明治の逓信省時代から、世間じゃずっと使ってたんだよ。昨日と同じ鉄道だもの、お上の都合で今日から呼び変えようたって、そんなもの浸透するのに十年はかかるものなんだよ。
次に、「ここでいう歌舞伎町とは、文脈からして、新宿の歌舞伎町と観て間違いない」とは、やけに大きく出たね。だがね、「文脈」の意味をあんた方は知っているのかい。文脈とは自分勝手にこじつけるための道具じゃないんだぜ。前後の文章を通じる論理によって、当該語の意味を明確に割り出すための論理技術なんだぜ。
あんた方は、大正十一年の歌舞伎町を現在の新宿歌舞伎町と同一視したが、それは「新宿ニ出ル」という前文の文脈からして新宿歌舞伎町となる、と言いたいのだろうが、今の歌舞伎町なる地は、当時は新宿ではなく、大久保と呼ばれていたんだよ。ここで文脈を持ち出すなら、「大正11年の歌舞伎町とあるのは、文脈からすると、当時は大久保と呼ばれ昭和23年に歌舞伎町と命名された今日の新宿歌舞伎町と観ることはできない」というのが筋です。「文脈」とはそういう論理的な方法論なんだよ。そうすると、当然ながら、次は「それでは大正十一年頃に、新宿で歌舞伎町と呼ばれた地域はどこにあったか」との問題意識となる筈だ。
そこで「新宿区史」を調べたら、理性寺大黒堂跡の「大黒座歌舞伎」のことが、すぐに見つかる。そこまで来れば「歌舞伎横町」は目前にあるんだよ。素人のぼくでもそうして調べたのに、君たちはどうして肝心な調査を途中で辞めちまったのかい?
第八節 弥智子の誕生
これまで佐伯の新婚時代の生活を述べたが、根拠はすべて「救命院日誌」の記載であって、真相を物語る「周蔵手記」には、大正十年四月二日条に「佐伯は相変わらず借金のことが多い」と記して以来、翌年正月まで佐伯に関する記載はまったくない。ゆえに、たびたびの周蔵の往診は、もとより架空とみるべきであるが、佐伯が救命院にしょっちゅう来ていたことは事実のようである。周蔵はこの年はたいそう忙しく、佐伯に会おうが会うまいが、関心を寄せていられなかったのではなかろうか。
ただし、周蔵が友人として薩摩治郎八の名をあげる大正十年四月九日の場面だけは、後のパリ留学との関連で、看過できない。万事周到な周蔵が、佐伯夫妻に向かって軽々しく薩摩の名前をあげる筈はないが、この頃から、夫妻からパリ留学の希望を伝えられたことは事実であろう。それは、以下の「周蔵手記」の記載で窺われる。佐伯の名が「周蔵手記」に再び現れるのは、大正十一年正月のことである。
正月 (略)
○佐伯ハマモナク 子ガ生マルルラシヒ。
2月頭 大谷サン 日本ニ居ナヒコト 多ヒラシヒ。光壽會ノコトナドデモ 忙シヒラシヒ。昨年 佐伯ノコトデ 会ヒタヒト頼ムデカラ 大分ニナル。
ヤット會ヘル。
△佐伯ハ 妻君ト二人デ フランスニ 留学ヲシタヒト サハイデヲル。
サノコトニツヒテノ 大谷サンヤ 祐正ナル兄ノ考フルコト 確カメナケレバナラナヒ。
△果シテ 外国ニ出テシマッテ 務マル犬ナノカダフカ。
昨年の、それもかなり前に、周蔵は大谷光瑞師に対して、面会の申し入れをしたが、なかなか返事がこなかった。ほとんど日本に居ないからであるが、帰国中も光壽會のことで忙しいらしい。周蔵の趣旨は、佐伯夫妻がフランスに留学したいと騒いでおり、その面倒を見てくれと言われたので、留学に関して、大谷光瑞師と佐伯の兄祐正の考えを確かめるためである。周蔵は、佐伯が外国に出てまで、犬を務めるだけの能力があるとも思えず、念を押したのである。
△解答ハ 出シテヤッテクレ トノコト。
△自分トシテハ 薩摩ニ ヤヒキッカケガ ツクレルト思ッテイタノデ 好都合。
△薩摩ニ 頼ミゴトシタヒト イフ理由デ 薩摩邸ヲ訪ネ フランスノ住居ヲ聞クノガ ヤヒト思フ。
△甘粕サンニ 相談ス。
△甘粕サン。フランスニ自分ノ友人ガイル。カノ人物ニ 連絡ヲトルカラ スベテ サレカラニシタ方ガ 良ヒノコト。
佐伯ニ子供(女)ガ 生レタヤフダ。
末ピノマトメ
閣下ニ会ヘル。フランスニ サルコトデ 道ヲホシヒト云フト、甘粕ニ頼ムノガヨカ ト云ハル。シカシ マフ一人 ロシア人ヲ紹介スル トモ云ハル。
光瑞師の回答は、夫婦をフランスに出してやってくれ、というのである。それならそれでいい。周蔵は、佐伯の渡仏問題は薩摩治郎八に対して良いきっかけが作れると思っていたので、好都合と感じた。大正九年十月二十五日、満洲からの帰国の挨拶のために上原勇作邸に伺った周蔵は、薩摩のフランスにおける行動を懸念して、すでに調査を開始したことを報告し、上原の了承を得ていた。
ここは薩摩に頼み事があるからと云って、駿河台の薩摩邸で治郎八のパリの住所を聞くのが良かろうと思い、憲兵の甘粕正彦(大正十年大尉進級)に相談した。甘粕は、それはちょっと待てといい、「フランスには自分の友人がいる。この人物に連絡をとるから、すべてその後にした方がいい」と言い出した。甘粕は、薩摩治郎八に食い込んでいたある友人を働かせて薩摩を動かそうとした。末日のメモで、甘粕へ相談したのが周蔵の発意でなく、上原の指示であったことが分かる。ロシア人については未詳である。
折しもその頃、佐伯夫妻に女子が生まれた。妊娠日を逆算すると大正十年四月頃になる。「救命院日誌」の二月二十八日条には「女児誕生(二月二十一日)母子健全ノヤフ。女児 一貫百十匁。目、耳、口、指、五体満足」とし、続いて三月一日条に「私ハ 佐伯クンノ日記ヲツケルコト シバラク休ム」とする。佐伯の病状は落ち着いているから、記録はなくともよいようだ、と勝手を決め込んだのである。
一方、「周蔵手記」三月条には、次のように記す。
三月
△子供ガ生レタセヒカ、佐伯ノ足ガ遠ノヒタヤフダ。
△ケサヨハ ヲトナシヒカラ 佐伯モ 変ニオオゲサナコトヲ 云ヒニクイノデアラフ。
△子供ヲ連レフテキテ 描ヒタ絵ダト 二、三回報告ヲ受ケル。
△ケサヨニナッテカラ 金ノコト数回アル。貸スヤフニト云フ。
五月
△佐伯ノコトノ 不満ハナシ。
その後しばらく、「救命院日誌」には、宣言通り記録がない。子供ができて足が遠のいたようだ、と周蔵は喜ぶが、それでも佐伯が救命院に全然来ないわけではない。退職した池田巻の代わりとして、宮崎から父林次郎が連れてきた周蔵の末妹ケサヨが、佐伯に応対する。明治四十一年生まれのケサヨは小学校を出たばかりの十三歳である。さすがの佐伯も大言壮語しにくいと見え、弥智子を連れてきて、絵を描き残していったという報告を、周蔵は数回受けた。救命院の会計係がケサヨに代わってからも、佐伯から金銭の無心が数回あったが、云われるままに貸してやるように、周蔵はケサヨに命じた。五月条に「不満ハナシ」の意味は未詳である。
「救命院日誌」は休みだから記載はないが、評伝によれば、佐伯はこの年の八月、山田新一や西村叡らと箱根強羅に写生に行き、友人の別荘に永く滞在した。佐伯のことが「周蔵手記」に出てくるのは、十一月末日の条である。
△佐伯 外遊学ニ関シテハ 甘粕サンガ 段取リヲ整ヘテクダサル コトニナル。
フランスナラ 自在トノコト。改メテ 米ト生ブシノ 礼ヲ云ハル。
佐伯の外遊兼留学に関しては、万事甘粕大尉が手配してくれることになった。フランスでのことなら、何でも自在だという。数年前にフランスに秘密留学した甘粕は、その時フランスに「草の根を張って」きたのである。佐伯は、父の林次郎が送ってくれる日向米と薩摩節を甘粕にも届けておいた。
「周蔵手記」十二月条に周蔵の感想が記されている。大谷光瑞師から見て、佐伯は働きがあるらしい。周蔵から見ると、少なくとも兄の方は大谷さんの信用厚く、かなりの力量があるとも見えるが、佐伯のことはそうも思えないので、不思議である。また、米子は大谷と密着したところがあるらしく、女性とはいえど甘くみてはいけないようだ。まして大谷は美少年趣味らしいから、米子は女の武器でなく実力を買われているわけで、これはかなりの人物と見ておかねばならない。
この情報を周蔵にもたらした人物についての記載はないが、甘粕ではなかろうか。
第九節 パリへ渡る
「救命院日誌」に再び記載が始まるのは、大正十一年十二月三十日条である。
夕食ニハ 月ノウチ 十日カラ 来テイル。
十月、十一月ナド ホトンド毎日来テイル。十二月三十日。
大正十二年一月一日 月
◎幸ヒニ 妻君ハ子育テニ 忙シク 佐伯モ 三月ニハ卒業ダカラ 変化ハナヒ。
◎私ヨリモ ノブサンノ方ガ 忙シヒ毎日ダ。
佐伯ハ フランスヘ行キタヒ ト話ス。
◎子供ヲ抱ヘタ 妻君モ 熱望ス。不自由ナ割ニハ 丈夫ナ人ダ。
前半はアリバイ用の架空記事だろうが、事実来ていたのかもしれない。佐伯には美校での修学年限が大正十二年三月まで残っていた。留学が卒業後のことであるのは、もちろんである。卒業が近づくと、佐伯は妙な作業を始めた。「周蔵手記」大正十二年三月の条である。
半月 佐伯ノタメニ 記帳ヅクリヲスルコトニナル。
藤根サン曰ク、サスガ大阪人ダ、チャッカリシテイルノニ 驚クトノコト。
佐伯云フニ 自分ハ 前ノ 築地本願寺ノ 大谷サンカラ命ヂラレテ 救命院ヤ サノ周辺ヲ
調ベテヲッタ。
故ニ、用事モナヒノニ 来テイタガ サノ都度 足代ミヤゲ代 ヲゴリ代ナドヲ 請求シテイタ。
今回 フランスニ行クコト 決ッタラ 今マデ使ッタ分ノ証明ヲ モッテコヒ ト云ハレル。
何モナヒガ 来タトイフ証明ヲモッテイケバ ヤヒト思フ トノコト。
来タ来タ デハダメダカラ 言フヤフニ書ヒテホシヒ トノコトニテ 半月ツブス。
大正十二年三月二十四日、佐伯は東京美術学校を卒業するのだが、周蔵は佐伯に頼まれて三月の半分を、「救命院日誌」の記帳づくりに費やす羽目になる。佐伯のちゃっかりさには、藤根も驚いていた。佐伯が言うには、自分は西本願寺の前法主大谷光瑞師から命じられて、救命院と周辺を探っていた。ゆえに、用事もないのにたびたび来ていたが、その都度本願寺には交通費、土産費、接待費を要求してきた。ところが、今回渡仏が決まると、今まで使った経費の証明を提出するよう求められた。もとよりそんな証拠はないが、救命院に来たというアリバイがあれば、通して貰えると思う。だが、ただ来た来た、というだけでは通らないだろうから、自分の言う通りに、「救命院日誌」を書き直してほしい、というのである。周蔵はこれに半月つぶす羽目になった。
今私(落合)が見て、どの部分が書き直しなのか、分かる筈もない。来たとか、来なかったとかの記載があるが、それに当たるのだろうか。
「救命院日誌」大正十二年六月十一日条
親子三人デ大阪ヘ行ク。フランスへ行クコト、兄ニ協力ヲ求メテクル由。
○私ニモ 向フニ連絡ヲ取ッテ クルヤフニ 強力ニ云フ。
◎薩摩サンニ 連絡スル。
◎佐伯ハ 相変ラズ 頭痛トメマヒヲ訴ヘル。
子供ガデキ ヤヤ大人ニナッタヤフダ。シッカリシタ。
◎幻聴ノコトヲ 訴ヘナクナッタ。
一方、「周蔵手記」をみれば、この春周蔵はケシの栽培を広めるため、水沢から仙台までを動いていた。六月条には「今年ノ収穫期ハ 忙シスギル。疲レテタダ眠ルノミ」としか書いていない。これではフランスに連絡するどころではない。フランスと連絡をとっていたのは甘粕大尉で、相手側も薩摩次郎八ではなく藤田嗣治なのだが、そんなことを知らぬ佐伯は、自分の想像を逞しくして、「救命院日誌」に、そのように記したのだ。
「救命院日誌」大正十二年七月十八日条
◎薩摩サンカラ 電報ガクル。夜十時過ギ 佐伯ニ届ケル。歓喜スル。
「了解シタノ電報アリ」
「救命院日誌」大正十二年八月二十一日条
長野ヘ写生旅行ヲカネ 静養ニ行クトイフコトデ 頭痛薬トメマヒ薬ヲ マトメテ取リニクル。
心ハフランスデアル。
「周蔵手記」には対応する記事はないが、佐伯がメニエル氏病用の苦味チンキなどを、救命院に貰いに来たのは、事実であろう。佐伯は長野県の渋温泉で、九月一日の東京大震災を知るのである。
「救命院日誌」大正十二年九月十日
新橋ノ妻君ノ実家ニ アヅケタ荷物ガ 地震ニテ全焼 トノコト。フランスヘ行ク 衣類ヤ諸雑貨ヲ 焼ヒタ由。
医師ノ服ナラ アフヤロカ トイフノデ 分ケル。私ヨリ 約2寸余リ 小サヒカラ オカシナ格好 トナル。高久サンニ 寸法ナオシヲ 急ヒデ出ス。
◎妻君ハ 何故モハヤ カタ荷ヲ 実家ニ運ンダノダラフカ。
米子の新橋の実家に預けて置いた渡航荷物が、地震で全焼した。医師(周蔵)の服なら合うやろか? というので、周蔵は自分の洋服を分けてやった。佐伯は小男で身長百六十三センチだから、百七十センチある周蔵の洋服は、どうしても縮める必要がある。そこで、急いで洋服屋の高久に寸法直しに出した。
佐伯のアトリエは半壊したが、焼けなかった。だから、下落合の佐伯家に置いてあったならば、荷物は助かった筈である。米子は、なぜ急いで荷物を実家に移したのか。一方「周蔵手記」は、以下のように記す。
九月 会津若松ニテ 地震ノコト知ル。急ギ返ルコトトス
末ピ 特に被害ナシ。ケサヨハ 親父殿ト奥多摩ノ寺デ メシヲ 食ッテヰタトノコト。
△佐伯ハ 妻君ノ実家 被災シタラシヒ。
中野小淀の救命院も、幡ヶ谷の自宅も無事だった。信州から急ぎ帰った佐伯は、救命院におもむき、周蔵に会い、池田家の被災とカタ荷の全焼を伝え、中古服をせびったのであろう。
「救命院日誌」九月十二日条。要約。
山田新一が救命院に訪ねてきて、佐伯の心情が恐ろしいと語る。隅田川に多数の死体が浮かぶのを見て、佐伯が大喜びしたからである。「オモロイ。オモロイ。プカプカ浮ヒトル」と狂喜しながら川っぷちを走ったと、山田は云う。周蔵は、分裂病の症状としてはあり得ると話し、三十歳までには治るだろうから、山田に、友人であってやって欲しいと頼む。山田は、そうしたいが、米子が嫌いだからうまく続くかどうか、と答えた。これに対して、山田新一「素顔の佐伯祐三」にも、佐伯の異常な言動にを詳しく記している。山田の描写よりも、本人の佐伯の文案の方がはるかにエゲツナイのには苦笑させられる。
ここから後に掲げる「救命院日誌」は、すべて大正十五年春、佐伯がフランスから帰国した時期に書かれたものである。
「救命院日誌」十月二日条
夫婦ノ家ハ 新橋デ焼ケ出サレタ 妻君ノ実家ガ 居候スルコトニ ナッタラシク、佐伯ハ
早々ニ、三人デ大阪ニ行ク。
◎ダフヤラ 妻君ハ子供ガデキテ 大阪ニ対シ、自信ガデキタヤフダ。大阪カラ薬ノ依頼アリ。
「救命院日誌」十月九日条
ハガキニテ クスリノ注文アリ。金、クスリ、送ル。
「救命院日誌」十月三十日条
薩摩サンカラ 受ケ入レ良好ノ手紙届ク。
即 佐伯君ニ 小包トトモニ 内容シラセル。
大震災で渡航荷物が灰になり、また米子の実家の家産が消滅したにもかまわず、佐伯は渡仏を強行した。焼け出された米子の実家が下落合の佐伯宅に住むことになり、佐伯一家は、早めに大阪に向かう。メニエル氏病用の苦味チンキも燃えてしまい、補充する必要があった。むろん、資金も新たに追加が要る。そこで、薬を注文するハガキが大阪から来て、周蔵は早速、金とともに薬を送った。後日の「周蔵手記」に、留学資金を与えたことが記されているから、これは事実である。
弥智子を描いたこのハガキは現存しており、武生市に一旦寄贈された吉薗資料中にあったのだが、小林頼子らはこういう一級資料をまったく除外し、「吉薗資料の矛盾点」ばかりを捜し回ったのは、どうみても、米子加筆の証拠文書を抹殺する目的としか考えられない。業者と何の関係もない地方都市の市役所が、法律を犯してまで養護するのは、いかなる事情によるものか?
しかし、結局、ムリは事実に勝てない。無知はその時しか、通らない。
第十節 証拠出現
「救命院日誌」に佐伯は十月二日に大阪に向かったとあるが、朝日晃の評伝「佐伯祐三のパリ」には、何を根拠にか「(東京にて)再準備し、十一月下旬、一度光徳寺に戻る」としている。十月二日から十一月下旬までの間、佐伯の居所が、吉薗資料には大阪、朝日晃は東京とする。この矛盾を、武生市美術館準備室の小林報告書は、当然衝くべきだった。衝いていたら、面白かった。
なぜなら、真贋騒動の後、祐哲の兄慈雲の遺品から、大阪風景を描いた佐伯祐三の作品が発見され、その裏面に「大正十二年十月中旬」と書かれていたからである。つまり、この期間に佐伯は大阪で描いていたわけで、吉薗資料の正真性が証明され、朝日晃の年譜の信憑性が揺らぐ筋合であった。
薩摩治郎八から、受け入れ態勢良好との手紙が来た。この手紙は、一旦は武生市に寄贈された吉薗資料のなかにあった。武生市の資料によれば、薩摩治郎八から周蔵宛の一九二三(大正十一)年九月三〇日付の書簡で、「御手紙落手いたし」で始まり、内容は「佐伯祐三渡仏の受け入れ了解文」とされている(武生市から返還された筈だが、吉薗家から「これが全部です」として渡された資料のなかには入っていなかった)。 甘粕と藤田で進めていた、パリ側の受け入れ準備ができた。そこで、周蔵は大阪の実家にいる佐伯に、大金の餞別を入れた小包とともに、手紙の内容を知らせた。これも事実なのであろう。
「救命院日誌」十二月一日条
手紙届ク。神戸ヨリ船ニテ、フランスヘ向ッタモヤフ。薬 金 届ヒタ由。
George Necker氏ヘノ紹介状 持タセル。Necker氏ニモ 手紙ヲ出ス。病気ノ心配ナシ。
佐伯一家は、日本郵船香取丸で神戸港を出帆した。そんな詳細に関心がない周蔵に、佐伯からの手紙が届いた。この手紙は今も残っている(山本晨一朗氏の強い要望で、他の吉薗資料とともに、吉薗明子が最近債務の弁済に充当した)。「巴里行き前日神戸にて 佐伯祐三」とあり、消印は大正十二年十一月二十三日なのに、「ゐよゐよ明日二十九日神戸から発ちます」とある。朝日晃氏によれば、実際の出航日は二十六日というので、何がなんだか分からない。これに限らず、佐伯は日付などにはずいぶん無頓着だったようだ。
続いて「こんな大金、巴里に十年ゐても困らんのとちやうかと思います」とあるのを見れば、相当の大金を、周蔵は贈ったらしい。好意もあるが、周蔵の基本的使命は佐伯を一流画家に育てることにあり、画業そのものを助けられない周蔵としては、資金を贈るしかなかったわけである。
さらに「実は 友人が急に文無しになってしもうて 行きたいが行かれずと なげゐていたので 兄が用意してくれた金を分けて 三等で行くことにしたところでした。一等ではぜいたくやと思いますから 丁度よく三等で行きます。金は大事にして向こうで使ゐます」とある。これによれば、船賃は祐正が出したが、佐伯は震災で没落した西村叡夫妻の分を負担してやるために、等級を落とした。三等が不満だった米子は、後年恨みがましい回想をしている(「婦人の友」昭和三十年八月号)が、これは、周蔵から夫に別途大金が入ったことを知っていたからであろう。
その他注目すべき点は「自分は、牧野医師の技よりも、見習い医者ながら周蔵の方が頼りである。患っている中村彝にも、この俺の妙薬を届けてやってくれまいか」とある箇所で、これを見ても佐伯の中村への憧憬の深さは本物である。因みに、従来の評伝は佐伯と中村との関係を見逃しているが、その原因は、評伝家が米子や学友からの伝聞に頼りすぎたことにある。佐伯は牧野三尹医師の筋から中村彝に接近したから、美校の学友たちは知らなかった。米子は中村と佐伯の関係を知っていたが、口外しなかったのであろう。
今更言うても詮無いが、武生市真贋騒動の折、美術館準備室の吉薗資料調査の最大の焦点は、周蔵と医学の関係にあった。この手紙も勿論調査対象で、これを読めば周蔵が正規の医者でなかったことは最初から判る。それなのに、医者免許の登録だの医専卒業資格だのと、有る筈のないものを探して、どこにも見つからないから吉薗資料は偽造だ、と断定した武生市役所の不公正には恐れ入るしかない。その結果、吉薗明子は遺産絵画と貴重な資料を、債鬼に召し上げられたばかりか、現に身を囹圄に囚われ呻吟しているのである。
さて、問題はジョルジュ・ネケル氏である。この名前のフランス人医師は、小児科の神様としてパリに実在した病院長の息子で、周蔵が以前ケルン大学に赴いたときの知り合いと伝わる。それが最初の方のジョルジュ・ネケル氏である。だが、甘粕の友人の日本人の暗号名もネケル氏で、それが後の方である。
原文では、この後に周蔵の独白が長文で続くが、以下に要約する。牧野三尹は佐伯が精神病だと云うが、周蔵はそうは思わない。ただ、自信を以て断定できないのは、佐伯の大食癖にある。これは精神不安定によるものと思われる。奇行も多いが、対人恐怖症からくる逃避願望のために、自分を一段下げるための奇行である。もう一つの異常性は佐伯の文字で、精神状態によって一日のうちに書く字が、同一人とは見えないほど異なる。
念のために云うが、この部分は、佐伯が第一次渡仏から帰国した時に文案したものである。したがって、ここではとりあえず検討する必要はないのである。
(続く)
【次頁】へ続く