2.純粋アヘンの取得を任務とする



周蔵氏は、上原閣下からアヘン研究ノタメ 熊本医専 麻薬研究部ヘ通フベシとの指示を受けました。
大正2年1月、周蔵氏は熊本医専に再び(2年半前に女性関係で退学していた)に通いだします。しかし、今回は、生徒としてではなく新設された麻薬研究科の無給助手としてでした。

またアヘンに関しては以下のような記述がありました。
上原勇作はアヘンは軍の勝敗を左右する重要なものと考えていたようです。中国や朝鮮でアヘンが取れても日本で取れなければいざという時に困るため、日本でも大量のアヘンを栽培する必要があるという事です。
*閣下ノ胸中知ル。
    アヘンハ軍ノ勝敗ヲ左右スル重大ナ物質デアル。サレモ極秘物質デアル。
    現在ハ支那朝鮮インドナドヲ頼ラナケレバナラナヒ。サレデハ困ル。
*支那朝鮮ヲ日本ガ抑フルコトデキテオラヅ ヤッテ アヘンガ支那朝鮮ニ何ボアッテモサレハ
    隣ン家ガ金持デアッテアクマデモ ヲヰンガ家ハ貧乏トヰフノト同ヂデアル。支那朝鮮ガ
    日本ヲ欺ヒタ時アヘンハ日本ニマッタクノフナルノデアル。
    ヲヒハ他国頼リニ何ゾヤルハ性分ニ合ヒモサン。
    自分ノ所デ何デモ賄フテヰケンカッタラサヒガ負ケノ基ニナル。アヘンハドゲン
    コトシテモ国内デ大量ニ作リタカ。サヒモ重要ナンハ極秘ニヤリタカ。

   

前回、熊本医専に通った経緯は、数学が得意で飛び級して県立都城中学に入りますが、数学のレベルが低く10日程で退学します。そのため祖母のギンヅルが山本権兵衛に頼んで熊本高等工業の入試を特別に受験させてもらう事となりました。(専検を通らない「裏口受験」) しかし、悪友に誘われて妓楼に登り試験当日に娼家から抜けられず受験をサボってしまいます。その時に加藤邑との運命的な出会いがありました。加藤は、熊本市出水の名家に生まれ、東京帝大医学部教授・呉秀三の弟子となり、呉の助手をしていましたが、ハンセン氏病を発病し、郷里に帰っていました。加藤は智謀と深慮に恵まれており、その精神医学と漢方の薬学に知識によって周蔵氏の一生に影響を与えることになりました。加藤の勧めで学歴不要、予備試験を通れば入試が受けられる私立熊本医専を受け合格して入学しました。しかし、1年ほど通ううちに1歳年下の少女と同棲し妊娠を理由に結婚を迫られ、少女を置き去りに下宿やを逃げ出しました。(妊娠は偽りであった)

そんないきさつのあった熊本医専ですが、上原閣下からの指示ですから仕方なく通うことにしました。熊本医専は当時は私立で、大正10年に県立に移管され、現在は国立熊本大学医学部となっています。周蔵氏は、早速アヘンに関して調査し純正なアヘンは副作用がなく習慣性もないことから自分に任務は「純正な質の良いアヘン」を作ることと自覚しました。
周蔵氏の父である林次郎がケシの栽培を手伝ってくれたため、まず純粋アヘンの精製の一歩を踏みだしました。
ケシは朝鮮北部の山地に自生するものが良質というが、薬用植物は全て雪を受けるものが良い。したがって九州より東北、北海道、高山や高原などがよく、ケシ栽培地は北方に展開するべきであると考えました。
周蔵氏は、上原閣下から下北半島の大畑の堺一族である若松安太郎を紹介され、東北地方・北海道でケシの
栽培を行いました。
アヘンの初収穫は5,000m2からわずか75gでしたが、上原閣下に届け1,000円(現在の1,000万円)を得ました。
その後、周蔵氏は奥多摩を始めとしてケシの栽培を広げていきました。



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