大正6年の夏、周蔵氏は上原閣下から築地本願寺に行き、話を聞いてくるように指示を受けました。上原勇作は、
「自分以外の者の仕事は受けたくなければ受けなくてよい。無理はしないように。」
と言いましたが、すぐに本願寺を訪ねました。本願寺では大阪の寺の次男坊を美術学校に入学させる手配をしてくれという依頼を受けました。
周蔵氏は、祖母ギンヅルとコネのある山本権兵衛閣下に依頼し、その佐伯祐三なる寺の次男坊を美校に入学させる手はずを整えました。本願寺の前門主大谷光瑞師は、佐伯祐三を諜者として育てるべく、そのバックグラウンドとして一流の画家にさせるために美校への入学させようとして上原閣下を通じて周蔵氏に依頼してきたのです。
周蔵氏は、佐伯が一流画家として育つように配慮するとともに、佐伯との交流関係を示す表の状況を作る役割を負いました。周蔵氏は面の仕事として当時救命院という呉秀三の巣鴨病院の派出所のようなものを作っていました。
周蔵氏は佐伯と相談し、佐伯を救命院の患者ということにして、来院のつど診察状況を記帳するということにしてお互いのアリバイを作りました。これは、佐伯祐三の創作(ある程度事実を反映している)であり周蔵氏は記帳しただけです。
武生市の真贋論争の時、武生市準備室はこの診察日誌を「周蔵日誌」としてその内容を詳細に調査しました。しかし、これはあくまでも佐伯の創作したものであり、その内容が事実と異なると言ってもほとんど意味がないことです。
佐伯は、事ある毎に救命院を訪れ周蔵氏に金を無心しました。あまりに頻繁に金を無心する佐伯を見た周蔵氏の助手(後に妻となる)の巻氏から借金だと本人に負担をかけるので一生の賭けとして佐伯の作品を買い取るようにしてはどうかと提案されそれを実行しました。佐伯は、スケッチや下書きなど、それこそ捨てるようなものまで、周蔵氏に送り金を得ていました。佐伯の絵の習作やスケッチ、下書きが極端に少ない原因はここにあったのです。
以来、周蔵氏は佐伯のパトロンとして2回の渡仏などを含む資金援助を行いました。
大谷光瑞門主が日露戦争のために支出した金額は、実に1000万円(今日の1000億円) の巨額にのぼると、周蔵は戦後の手記に記している。その大部分は、ロシアの後方を撹乱するため、 欧州でユダヤ人スパイを操縦していた明石元次郎の工作資金となった。 因みに桐蔭高校の先輩である作家の津本陽は、明石がレーニンの買収に100万円を費やした話を 西本願寺から聞いたと教えてくれたことがある。 (以上 ニューリーダー 1997年11月号掲載分より) |
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