●満州に渡り奉天古陶磁と出会う


1.周蔵氏満州に渡る

大正9年4月、周蔵氏は上原閣下より満州に行くように言われます。以前、上原邸で会った貴志彌次郎奉天特務機関長となる予定なので、そこへの届けものと、民間人として貴志を助けてやってほしいとの事です。
下記文中の宇垣というのは後に軍閥をなす宇垣一成のことです。また、落合氏は上原が貴志の中将昇進を遅いと言っているのは、派閥内に甘い性格によるものと書いています。(実際にはほぼ順当)

最後ニ閣下ヲ訪ヌルト
「一度満州ヘ行ッテホシヒ」
ト云ハル。以前ニ 閣下宅ニテ会フ貴志ナル人物ハ 奉天ノ特務機関長トナラレル由。未ダ中将ニナラレテヰナヒガ サレモサフ遠クナクトノ由。
「宇垣ガナッタノダカラ マフナッテモヨカ 中将ニナルモ遅ク悪ヒキガシテヲル」
トノコト。
「サコニ届クルモノアリ。又、貴志モ ヰロヰロ苦ニスルコト多ク 何カ民間ノ手ヲ借リルコト多シト思ユルニ 是非 行ッテホシイ」
トノコト。アノ人物ニ会ヘルハ 自分モ愉シク覚ユルニ 喜ブ。
(中略)
貴志少将に参謀本部勤務・奉天特務機関長の辞令が正式に発令されるのは5月12日である。上原が3週間前にその人事を知っていたのは、貴志彌次郎の奉天行きは上原が決めたからである。(中略)
特務機関とは「統帥範囲以外の軍事外交と情報収集」を目的とする機関である。奉天特務機関の任務の第一は張作霖の抱き込み工作であった。
要するに、張作林が最も欲しがる軍資金を作ってやることで、それには民間の手を借りる必要があった。
(ニューリーダー 1998年 12月号 掲載分より)

周蔵氏は、上原閣下より貴志少将への届け物を預かりました。それは、張作霖宛の上原の親書だったそうです。
上原は周蔵氏が満州をフリーパスで通れるように親書の形で託したようです。周蔵氏が受けた密命は、以下の4点でした。

  1. 貴志少将を補佐すること
  2. 大連のアヘン事情の探索(昨年牧口某に依頼した件の進捗の調査)
  3. 新たに設立する満州東亜煙草会社に周蔵氏が参加・出資すること
  4. 日本租借地の関東州(旅順・大連)での日本軍人の行動の査察
5月4日
閣下ヲ訪ネ 届クルモノ アヅカル。
「貴志サン当人に渡スヤフニ」
トノコト。
「ヰツ発ツカ」
ト聞カル。
「6日頃ニ発チデキレバ途中 石光サンと 会ヒタヒト思フ」
ト云フ。
「石光ハ今 ダコニヲルカ」
自分ハ
「朝鮮カト思フ」
ト云フト
「ヰヤシベリヤデハナヒカ」
ト云ハル。(中略)

落合氏は、「石光真清の手記」に関して以下のように述べています。

「田中義一中将には日露開戦前から知遇を得、戦後も私生活に至るまで世話になりっ放しで・・・・」同手記にはこのように、随所に田中義一がくどいほど出てくる。その言葉にウソはないだろうが、もっと関係の深い人(すなわち上原勇作大将)のことはまったく触れていないのが、同手記の特徴である。これを見ても分かるように世の伝記・手記の類は真実を伝えるためのものではない。それを拡大したのが公認歴史書である。
(以上ニューリーダー 1999年 1月号掲載分より)

確かに、吉薗手記の記述が真実であれば、大谷光瑞甘粕正彦関連の伝記等も同様に真実と食い違いが多いと思います。
手記や伝記はその書かれた目的があるはずですから、それを推察するしかないと思いますが...。
もし、私が手記や伝記を書いたとしても自分に都合の悪いことは書かないでしょうね。(笑)
また、人にも書かせないでしょうね。結局、この類の書はアリバイ作り、ミスリードが目的なのかも知れません。           


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