錦州の石光の所で一週間ほど遊んだ周蔵は、再び奉天に戻った。それから毎日が夢のようであった。後年明子に向って周蔵は、何度も何度もそのことを話したという。 |
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満鉄の上田恭輔がキーパーソンとなります。上田恭輔は、明治2年東京生まれです。一般的には、「比較言語学者」として知られていますが、著書として文化人類学的なテーマから陶磁史に及んで数冊あります。アメリカに留学し、帰国後は植民地政策の専門家として、台湾総督府の嘱託になります。日露戦役中は陸軍奏任通訳(佐官待遇)として満洲軍総参謀長児玉源太郎大将に近侍しました。日露戦争を勝ち抜いた後、満州占領政策に関して考えていた児玉源太郎は上田恭輔に東インド会社の研究を命じ、その成果が南満州鉄道株式会社となったとの事です。
満鉄の初代総裁後藤新平、二代総裁中村是公以後、歴代総裁の特別秘書を歴任することで満鉄内で次第に権力を持つようになりました。奉天で中国陶磁器に関心を深めた後、満鉄総裁に勧めて満鉄中央研究所の中に窯業試験場を作らせ、窯業科学者の平野耕輔や陶工小森忍を招聘しました。
明治43年、宇都宮の陸軍大演習を視察するため、英国皇帝の名代として
日本を訪問したキッチナー元帥が日露戦跡の調査のために奉天に立ち寄った時、接伴員を命じられた上田恭輔は、キッチナー元帥のお供をして奉天宮殿の磁器庫を見た。その時の清朝の名磁桃花紅(ピーチ・ブルーム)をめぐるエピソードははなはだ有名である。
(中略)
上田と張作霖の古陶磁のことは一編の物語をなすが、それを裏付けする周蔵の別紙記載「奉天古陶磁図経」が、膨大な中国古陶磁の実測図とともに今残されている。それを追々紹介したいが、何しろことは二十世紀最大の古美術品伝来という大事件であるので、別に一冊起して詳述すべきであろ
(以上、ニューリーダー 1999年 2月号掲載分より)
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民国2年(大正2年)袁世凱大総統の命により、国務院総理熊希齢から離宮文物の北京送付命令が出されました。それによって各地の離宮の清室文物が民国政府の所管に移され、北京輸送が行われました。もちろん、奉天宮殿にある文物もその対象となり、張作霖は蔵帳にあるものを北京に送りましたが蔵帳品以外に厳重に隠されていた古陶磁があったそうです。
中国社会には特有の「面子」という問題があり、部屋に飾っておいて客に褒められるとそれを贈呈しなければならないため、貴重な家宝は客に見せないというのが中国社会の富豪、皇帝のテクニックとなりました。愛親覺羅家でも乾隆帝の時代からそれを実行し、一番大事なものは、奉天城の秘庫に隠し、周蔵氏の言う2番目、3番目の品を紫禁城に飾っていたとのことです。
奉天宮殿内の翔鳳閣、飛竜閣の磁庫とは別扱いにされて、蔵帳も別で康煕以来の歴代皇帝の遺愛の秘宝を秘蔵してあった。清朝は紫禁城と一緒に明朝皇室の宝物を引き継いだから、明代以前の古陶が多かった。それを張作霖が盗み出したのは民国(大正)5年、袁世凱が頓死した直後であった。
(ニューリーダー 1999年 3月号掲載分より)
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皇帝溥儀は、力が弱くなっており家庭教師のジョンストンを始めとした英国人が皇帝御物を拝領の名目で持ち去っていました。
それを見た下級宦官達は、遅れては損をすると考えて宮廷内の財宝を盗み出し北京あたりで売りに出していたとのことです。張作霖は、溥儀は頼りなく、甘い言葉に弱いためいずれ皇帝の御物も英国人に奪わてしまうであろうと考えました。それなら自分の軍資金として有効に使った方が国のためになると考えて盗み出した訳です。
張作霖の襲った皇帝の収蔵庫は、奉天宮殿ではなく北陵にあった秘庫で、革命後もそこには宮内庁にあたる役人がいたようです。襲撃は、武力ではなく蔵役人と警備兵に対する買収で行ったとのことです。
(”初め買収、それでいかねば実弾”というやり方が張作霖の手法だそうです) 上田恭輔もこの張作霖の略奪に手を貸していたそうです。
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