『奉天古陶磁』に関する詳細は、ここも見て下さい。
上田恭輔は満鉄の中央研究所に窯業研究科を作り、関東軍の浜面少将と奉天古陶磁の偽造を行い、それを売却することで軍資金を得る計画を立てていました。そのために東京高等工業学校の窯業科長の平野耕輔と釉薬の天才と言われた小森忍を大連に呼び寄せました。周蔵氏は、関東軍参謀長浜面又助少将が大連で倣造古陶磁を密売して私益を図っていることを知りました。大連でいくつかの偽造品を見せられても見流していた周蔵氏ですが、奉天で古陶の現物を見た時にその倣造品の技巧に改めて驚き、将来の混乱を予想しました。
つまり、奉天古陶磁が奉天城内にあれば問題ないのですが、それが奉天を離れた場合に偽造品との区別がつかなくなる懸念です。
|
これらの上田、小森の偽造陶磁器は周蔵氏の懸念通りに繁殖していきました。
佐那具窯では、江戸の名陶工尾形乾山を大量に偽造したとの事です。落合氏の著著には、周蔵氏の死には有名な
●周蔵氏の抵抗 三井良太郎図譜は寸法を記していないので、それだけでは贋作を完全に防げないため、周蔵氏は製図の方法で寸法を測り、図柄の一部を原寸大で写しておく事を張作霖に提案します。焼き縮みのある陶磁器は、同一寸法で同文様のものはできないから、その図を当てることにより真贋が判別できるというわけです。周蔵氏の提案に対して張作霖は喜び、作業の便宜を図ってくれるとともに、身の回りで使っていた陶磁器3点を周蔵氏に与えたそうで、それは今も吉薗家に残っています。
「三井良太郎図譜」と「奉天古陶磁図経」の1,2冊は、陶磁学者である故佐藤雅彦氏に貸したままとなっており、未だ返却されていないとのことです。
一般に古陶磁書は、美術館の関係者同士がお互いの蔵品を盥回しにして、学芸員が若干の解説をしたものばかりだが、佐藤雅彦の著書『中国陶磁史』<はその点ユニークでここにしか出てこない珍しい中国古陶磁の写真が多い。
佐伯祐三真贋事件の時に真作派の中心で美術界のドンと言われた故河北倫明は佐藤雅彦を通じて、吉薗周蔵氏を知っていたそうです。知っていたからこそ、死ぬ間際まで真作派として吉薗明子氏を擁護していたのです。また、贋作派の中心である東京美術倶楽部の三谷敬三氏らが吉薗佐伯は贋作であるが、吉薗資料は本物だと思うと言った裏には、上のような事情を知っていたとも考えられます。
また、落合莞爾氏が出身地の和歌山の恩師である画家の稲垣伯堂氏から紀州徳川家関連の寺院にあった中国朝鮮の陶磁器を紹介されて研究を始め、中国陶磁器の伝来を推理していく過程と周蔵手記の奉天陶磁器に関する記述との劇的な出会いは上記の著書に書かれています。
佐伯に戻る
(Since 2000/06/03)
その果実は、「永仁の壷」なる変種を含む数点の重要文化財となって陶磁愛好家の感覚を麻痺させ、その蔓は大英博物館やギメ美術館、さらには中国の博物院にまで延び、真正の美術品にまとわりついて、これを枯らそうとしている。
ここに贋作グループとは、有名な大手古陶磁商と陶磁学者が結託したもので、官の権威をまといつつ、有名美術館を拠点にして倣造品を称揚し、真品を排斥してきた・・・(後略)
(ニューリーダー 1999年 5月号)
「佐野乾山事件」が関わっている事が書かれています。
「三井良太郎図譜」、「奉天古陶磁図経」が残されているからです。 1)三井良太郎図譜
上田恭輔は、奉天古陶の商談を進めるためにカタログ用の写真を撮ろうとしましたが、写真の漏洩を恐れた張作霖は写真撮影を許さなかったそうです。そのため上田は満鉄の製図職の三井良太郎に依頼し、奉天古陶を1個ずつ図を描かせました。(三井良太郎図譜と仮称)これは、画用紙と和紙を用い彩色画と鉛筆画があり、清朝の蔵役人であった孫遊が管理していた奉天古陶の蔵帳に従い、製作年代や製作窯名を書き込んだものだそうです。(枚数にして約450枚)
小森忍を満鉄から独立させるために資金が必要だった上田恭輔は、周蔵氏にこの図譜を5千円で売りつけました。昭和10年、甘粕の意を受けた上田恭輔が上京してきて周蔵氏を訪ね偽造品を本物として売るために必要なので、この図譜を提供するように圧力をかけましたが周蔵氏は、貴志彌次郎の無念を思って断ったそうです。
浜面又助少将と上田恭輔が共謀し軍の戦略にかこつけて満鉄に協力させ、作った偽造品を密売して私益を図っている事に対して貴志氏が憂い顔で嘆いているのを見た周蔵氏は、自分なりに偽造グループに対抗する事を考えました。そして、偽造品を見分けるための図譜の作成を張作霖に提案します。
2)奉天古陶磁図経
図経には、清朝の陶磁庫の蔵役人であった孫遊先生から聞いた解説を書き込んだり磁器庫にあった陶磁関係の古書を写したりしました。また、当時上田−小森達が大連で製作していた偽造品の種類を分かる範囲で書いておいた。それを和紙に描いて紙縒りで綴じると4,5冊となったが、そのうち3冊が吉薗家に残っています。
佐那具陶研は倣造品を本物として売るのが基本戦略だから、当初から販売担当者を置いた。それは古陶磁商Hと学商の佐藤進三であった。得意先は茶道関係と国公立美術館をターゲットとしていたという。(中略)
昭和34〜35年頃、佐藤進三の子息で大阪市立美術館の学芸員の職にあった佐藤雅彦が周蔵を訪ねてきた。佐藤進三は、チヤ(吉薗明子の叔母)の当時の夫中沢明四の叔父にあたる下北沢の杉本という骨董屋と業者仲間だったから中沢とも親しかった。中沢らは佐藤雅彦を大阪市立美術館の学芸員にしようとし、慶応時代には学費を援助した。(中略)
昭和26年、慶応大学文学部を卒業した佐藤雅彦は大阪の市立高校で数ヶ月空席待ちをした後、目的の大阪市立美術館に就職することができた。佐藤雅彦は中沢明四を通じ、
「小森先生から『三井良太郎図譜』のことを聞いていたので、自分のこれからの研究のために是非預からして頂きたい」
と言ってきた。周蔵は中沢の口利きもあって快くそれに応じ、『北宋紅定盤口瓶』図一枚だけを手元に置いたまま、残りの四百数十枚を佐藤雅彦に貸し与えた。ついでに『奉天図経』のうち、1,2冊を貸し与えた。
(中略)
実は、その大半は『奉天図経』と『三井良太郎図譜』に描かれていたものである。また、『中国陶磁史』の品名や解説文は『奉天図経』の第一冊を見て書いたとしか考えられない記載で満ちている。
(天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実 P378〜379)
いずれこの辺の詳細に関しては落合氏が一書を起すということなので、それに期待したいと思います。