「二人の佐伯祐三」 への疑問




1.吉薗周蔵氏の文章への疑惑

最初に掲載されているのは、佐伯祐三宛の吉薗周蔵の文章で写真版の説明によれば、ペン書きで
ブルーブラックのインクで書かれているという。

この書簡の大意は、吉薗が佐伯に対して、好きな食事をとり気楽にしているのが身体によいというもので、本文は17行で165字、そのうち漢字が51字・片仮名が96字・平仮名が18字である。
この書簡にはいくつか不審な箇所がある。
  1. 一行の中に平仮名と片仮名が混じるという雑な文章である点
  2. 吉薗周蔵は明治27年生まれで、この書簡を書いた当時の年齢は30歳ぐらいと推定される。この字体は現代の若者のもので明治生まれの人が書いた字とは考えにくい。
  3. 大正末期から昭和初期(この書簡が出された時期)を考えると、漢字の中で「仏」⇒「佛」・「気」⇒「氣」・「楽」⇒「樂」と書かれるはずだと思うのだが。



当用漢字ができるまでの経緯
新字体の生まれる経緯に関して、「異字体の世界」小池和夫著 を参考に調べてみました。
  • 昭和21年11月16日:内閣告示第32号として『当用漢字表』が公布され、日常使用する漢字の範囲を定めた。
  • 昭和24年04月28日:『当用漢字字体表』が公布されて、現在日本で使われている漢字(活字)の形が生まれる。
  • しかし、『当用漢字表』は敗戦後に突然できあがったものではない。
  • 明治維新後、それまで草書行書楷書での手書き文字だけだった日本に、活字を使った印刷物が現れ、瓦版に代わって新聞が主役となった。
  • しかし、その活字体といつも普通に書いている字の形が違うことが問題となってきた
  • 大正8年12月:文部省が普通学務局から、『漢字整理案』を発行し、「小学校の各種教科書に現れる2,600字余りの漢字について、形を整理し、手書き体と活字体の一致を図る」を目指す。
  • 大正12年5月:臨時国語調査会が、『常用漢字表』を発表して、漢字の字総数を約1,960字に制限し、そのうち154字に簡易字体を採用し、これに従って新聞各社が漢字の使用制限と簡易化を実施することになった矢先、関東大震災が東京を襲い、実現に至らず。
  • 昭和13年:国語審議会が『漢字字体整理案』を発表。
  • 昭和17年6月:国語審議会が『標準漢字表』を文部省に答申。漢字を常用漢字1,134字、準常用漢字1,320字を設定。


当時の書簡での検証


1)佐伯祐三書簡の『気』の使用


2)芹沢光治良手記の『仏』の使用






3)小林報告書の指摘






2.吉薗正樹氏への疑惑に関して

また、筆跡という点で興味深い事実がある。
一枚の葉書のコピーが私の手許にあるが、この葉書は吉薗明子の現在の夫・正樹が書いたもので、前述した吉薗周蔵の書簡と同じ文字同士を照合させると、その筆跡は紛れもなく同一人物である






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