大正4年当時、陸軍では輸血を行っていましたが、血液型を無視して輸血していたため、死亡率が高かったそうです。その頃ヨーロッパではラントシュタイナーが血液型を発見したことにより安全な輸血法が確立されていました。周蔵氏は、友人の加藤よりこの件を聞き血液型分類の情報取得したい件を上原閣下に答申しました。
周蔵氏は、加藤から次のようなことを聞いていました。
人間ノ血液ニハ正型ヲ基本ニ亜型ト亜次型、サラニ非亜次型ノヤフナ数種ノ型ガ アッテ輸血ハ難シヒサフダヨ。然シ輸血ハ軍隊デハヤラレテヰルラシヒ。 軍隊デハヤラナヒ訳ニハヰカナイノダヨ。ツマリサフナルト賭ケダヨ。 富クジミタヒナモノダネ。當タレバ上出来。ハヅレタラ死。アレハ合流デキナヒト 結構苦シヒラシヒヨ。サノコトハネ東京デ呉先生ニ會ッタラ良ヒヨ。何 良ヒ人ダカラネ。 講義受ケニ 行ケバ 大ヒニ受ケ入レテ下サル。 |
これからすると当時の日本では医学の知識としては血液型・輸血に関しての知識はあったものの、実際に軍隊では、血液型を無視して輸血を行い多くの人が死んでいた状況であったというのが手記から分かります。当時、輸血法、血液型に関する論文等が発表されていたと思いますが、それがどの程度日本に伝わっていたかは私には分かりません。しかし、日本における公式の最初の輸血が大正8年であることを考えると大正5年当時、それほど伝わっていなかったと思われます。
上原閣下からは、上京して呉秀三の講義を受けられるように手配しておく、と言われました。また、来春は欧州に行くことになりますが、昨年の夏以後、相手国とは交戦中であるから医事スパイとなります。
血液ノコツハ、オマンガ身ニツケテタモンセ。医學生ニ行カセルノデハ、留學生 チュフコトデ時間ガカカリモス。オマンガ行ッテサノ技術ダケ持ッテ帰ッテタモンセ。 オモテダッテヤルコトハデキナカ。協力者ハヲリモス。 サン人ノ云フ通リニシテタモンセ |
大正5年5月8日、武田内蔵丞の名義で旅券が下付されました。香港でもたついたらしく、旅券を取り直しました。シドニーで石光真清(久原鉱業遠藤名義)と待ち合わせを行いました。ウィーンにはまずシドニーに行きそこから英国に渡り、英国からウィーンに行きました。スパイとして敵国に入る周蔵氏にとっては、英国領を通過することに意義があったようです。英国もドイツ・オーストリアから見れば敵国であるが国力があるので英国領から入る者には取り扱いが違ったと思われます。シドニーの出発からウィーンでの活動までは、「陸軍特務吉薗周蔵の手記」
ニューリーダー1996.11,12月号に詳しく書かれています。
周蔵氏は、スパイと言っても闇夜に紛れてシュタイナーの研究室に忍び込んだ訳ではなく、シュタイナーの助手を買収して研究室に入り込み、堂々と資料を写し取ってきたとの事です。
●出発
(大正5年 10月26(木) |
●道中は、ベテランの石光のおかげで快適な旅ができたようです。
石光は、写真館を経営していただけあり、寄航した港で密かに写真を撮っていたようです。
オカゲデ贅沢ナタビヲサシテ貰ッテヰル。彼ハ写真ヲ撮ッタリ 港ニ入レバドコカ ヘ行ッタリ忙シヰガ 自分ハ船デ待ツダケデアル。相手カラスレバ 訓練中ナノデ アラフ。マットモ役割ガ違フトヰフコトダラフ。トニカク現地マデ案内シテモラ ヘルトハアリガタヒ。 サテ現地デハ鬼ガデルカ蛇ガデルカ。サフ思フヤフニシテヰタ。 |
●日本の軍人が世界中に諜報網を巡らせているのに周蔵氏は驚きました。
ホンコン、シンガポール、シダニート海ノ上ヲ右往左往シテウィーンニ辿リツヒタ トキハ自分デモ驚ク。然シ日本軍人ノクモノ巣ヲハリツメタヤフニ世界中ニ草ヤ 犬ヲ張ラセテヰルニハマット驚ヒタ |
●明石元二郎中将からのもらった何通かの紹介状が効果的だったようです。周蔵氏は、到るところに 張り巡らされた情報網を目の当たりにし日本は世界に名だたる国になるかも知れないと思ったようです。
石光は最初の宛名の外人の所までは連れていってくれた。周蔵が宛名の人に手紙を渡すと相手は見るだけで、開封せずに封筒の絵を眺めてすぐにうなずき次の宛名の所に連れていってくれた。何度かそうするうちにウィーンに着きました。
アカシト云エバ ダコニデモ入レルヤフナ氣ガシタ。考ヘテミレバ手ノ者トダケ會ッテ ヰタ訳ダカラ苦勞ガナカッタノダト話ス。 アカシサンハ レーニンヲ賈収シテ ロシア革命ニ発展サセタトヰフ 大人物ダサフダガ サレヲスルニ當ッテ ウィーンカラドイツニ草ヲ張リ成功サセタト説明ヲ受ケタト教フル。 自分ガ向カフヘ行ッテ アカシサンカラ貰ッタ手紙ヲ 一枚ヅツ渡シタダケデスベテガ展開 シテヰッタ。アノ時 日本ハアルイハ世界ニ名ダタル國ニナルカモ知レント思ッタ。 相手ハネ手紙ヲ開カナイ。封筒ノ裏ニ変ナ絵ミタヒナモンガ書ヒテアルダケダッタ。 ハジメダケ石光サンガツレテヰッテクレテ後ハ外人ガ次カラ次ヘト交替シテクレタ。 ツクヅクト日本陸軍ノ裏ノ力ヲ見タ。 |
●ウィーンに着いてからは、明石から紹介された下宿に行きました。呉教授は、論文さえ読めれば
血液型の分類法と安全輸血法を知ることは、訳はないという事でした。
東京ニ於テ 日露デ有名ナカノMr.Akashiカラ下宿デキル所ヲニ〜三紹介サレテキ 内容サヘ知ルコトガデキレバ、サノ文字カラナラ呉先生ハ方法ヲ知ルコトハ訳ナヒトノヤフダ。 紹介ノ最後ノ大學ノ寮ノ使用人ノ家ニ下宿トナル。 |
●大学の様子を知るのに2,3ヶ月費やしたそうです。同行した石光氏は、満州に帰ってしまったため、一人でかなり苦労をしたようですが日本人離れした顔のため怪しまれる事は無かったようです。
大學ノ状況ヤ様子ヲ知ルノニ三ヶ月ヲ要シタ。自分ノ臆病ト愚カサニ何度カ泣ヒタ。 サノ都度加藤君ヲ思ヒ出シテ肝ヲ据ヘタ。日本デハ刑事カト云ハレテ何度カキツヒ 自分ノ顔ニウンザリシタモノダガ、コッチデハ ドイツカトカ トルコカトカ云ハレ タリシテ得ヲシタコトモアル。 |
●2月に入り、シュタイナーの助手であるシーレと親しくなり、5,000円で買収し、研究室に出入りする事ができるようになりました。シーレから講義を受け、それを帳面に写し取ってきました。記帳している時にシュタイナー本人が肩を叩いてきたりして周蔵氏は内心穏やかでなかったようです。
何ダカンダシナガラ、二月ニ入ッテ スタウィナーノ助手ノFebure Schiereトヰフ 日本デナラ絶對ニカノヤフナ方法デ写シトルコトハ無理デアッタラフガ當ノ本人 |
●シーレから5,000円の他に1,000円でイコン・シーレの絵を買ってくれと言われ、土産用に買いました。
(この絵は吉薗家に残っているとの事)
約5000圓ノ金ヲ使ヒ他ニ1000圓デ繪ヲ二枚買ッテクレトヰフ話ニナッタ。 本来カノ國ハドイツ共々日本トハ戦中ニアリ、日本ニ對シテノ意識ノ厳シヒハズニ |
●ウィーンからドイツへ。呉教授は、個人的にクレペリンとは仲良くなかったと言われているが、周蔵氏の のためにあえて紹介の労をとったと思われます。しかし、クレペリンとは会う事ができず食料も乏しいため長居はしたくなかったが、石光氏からの連絡を我慢して待ちました。
(大正六年?)四月三日ニハドイツニ入ッタ。呉先生ノ紹介状ヲ持ッテ ケルン大學ヲ訪レ クレペリン先生ヲ探シタガ訪ネアタラヅ ドイツニ長居ハシタクナカッタ。 ドイツハ戦争ノ影響ヒドク食料ガ乏シク、カナリノ難儀ナ様子デアル。 カフイウ所ニ長居ヲシテハ呉先生ノ知人ニ迷惑ガカカルコト明ラカ。トニカク ナレドMr.Endouカラノ連絡ヲ待タネバナラヅ我慢スル。 |
●丸一年ぶりにようやく帰国することができましたが、行きに比べて帰りはかなり苦労したようです。
丸一年カカッテ血液ニ関スルコトヲヤリヲヘタ。行キニ比ベテ帰リハ難行シタ。 Mr.Endouモ苦労シタヤフダ。アルヰハトヰフ時ガ何度カアッタ。ヤハリ戦争相手ノ國ヘ 行ッテヰタトヰフコトダラフ。後ニナレバマズハ冷汗ダッタトヲ互ヒネギラフ。 余裕ハデキテヰタガ。ヤクゾ帰レタト思フ。 |
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