小林報告書の誤り



1. 小林報告書を再読して思うこと... 

贋作派のより所とされている小林頼子氏の『「佐伯作品・資料」に関する調査報告』、いわゆる『小林報告書』ですが、久し振りに読み返して見ました。
やはり、本人は真面目に取り組んでいたのではないか...と改めて思いました。
佐伯祐三の創作小説である「救命院日誌」や吉薗明子氏の聞き書き集(つまり事実誤認が多い)「自由と画布」の裏づけ調査させられた小林氏にも同情する余地はあると思いました。(^^)
小林氏は最後の結論の所で、以下のように書いています。


従来、佐伯の真作としてエントリーされている作品のなかに、吉薗作品にも似た質の低い作品が含まれているが、それらの作品がなぜ真作と認められたか、きちんとした学術的な説明がなされぬまま今日まで推移してきているからである。おそらく作品の様式ではなく、来歴が真筆性の決め手となっているのであろうが、その種のデータを体系的に整理し、活字化した研究書は未だ刊行されていない。このため、佐伯作品のアトリビュートに関しては、あくまで不透明感を拭い去ることができない。・・・(中略)・・・何れの問いにも従来の佐伯研究は明確に答えているとは言いがたい。
佐伯関連の出版物は、近代日本画家のなかでも群を抜いて多い。しかし、
そのほとんどは、思い出話か、生涯の軌跡をいささかロマンティックにたどった評伝か、傑作礼賛の名作集か、佐伯作とされた所以を明らかにしない全作品集と銘打った写真集に近いものか、の何れかに終始している。佐伯没後70年も近くなった今日、来歴等の基本データと様式分析とを全作品に添えたカタログ・レゾネを刊行し、従来、佐伯真作とされてきた作品について全面的な再検討を加える時期に着ているのではないか。その種の真に学術的出版物なくして、佐伯作品の真贋について開かれた議論を展開することも、吉薗作品への確かな答えを出すこともできないと考えるのは、おそらく私一人ではあるまい。

これは、フェルメール等ヨーロッパの画家であれば当然作られているべきレゾネすらも刊行されていない佐伯研究の怠慢に対する強烈な批判と思われます。(朝日さん、こんな事言われてますよ )



2. 小林報告書の疑問(1) ・・・ 歌舞伎町について

*小林報告書は以下のように書きます。(27項)

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大正11年1月12日の記述に「〔佐伯が〕歌舞伎町ヲ歩ヒテ女ニ袖ヲ引ヒテモライ、サソイニノラズニ戻ル」という件がある。ここでいう歌舞伎町とは、文脈からして、新宿の歌舞伎町と見て間違いない。しかし、当該の地域が歌舞伎町と命名されたのは、何と昭和23年4月1日のことであり、大正11年からは遥に隔たること26年後のことである。つまり、『周蔵日誌』は、いかにも出来事の進行とともに書かれた日誌を装っているが、実際には、昭和23年以降のある時点に綴られたものである可能性が高いということになる。
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これは、落合氏が反論しているように全くおかしな理論構築です。大正11年の記述に「新宿の歌舞伎町」という記述が出てきたのですから、
  1. これは昭和23年にできた歌舞伎町ではない(当時は豊多摩群大久保町大字東大久保と呼ばれていた)
  2. じゃあ当時、歌舞伎町と呼ばれていたのはどこだろう?
    と考えるのが普通ではないでしょうか?
落合氏は、これは大国座歌舞伎横町の事だと指摘しています。
大国座は、HPで調べてみると新宿松竹座の前身だった事が分かりました。ここは、大正5年に開場しました。理性寺という寺の跡地にできたもので、境内に大黒堂があったため、当初は大国座と名前がついていたそうです。そして、

大国座 → 山手劇場 → 新宿松竹座 → 新宿歌舞伎座 → 新宿シネマ → 新宿大劇場 → 新宿松竹座

と次々と名前を変えたそうです。この周辺にあった私娼街の事を指していると考えるのが妥当と思いますが、小林氏は何故か、現在の歌舞伎町を指していると『思い込んで』います。
資料を読む時に先入観を持つとこうなるという良い例ではないでしょうか?




3. 小林報告書の疑問(2) ・・・ 新宿中村屋について

周蔵と新宿中村屋に関して (26項)

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『周蔵日誌』には、中村彝布施といった名前が頻出する。いかにも上記中村屋グループの人物たちを彷彿とさせるが、実際のところ、周蔵は本当に中村屋の当主や「中村屋グループ」の人々と行き来があったのだろうか。
『周蔵日誌』の「布施」なる人物がもし布施信太郎を意味するのだとすれば、その可能性の一画は明らかに崩れることになる。『周蔵日誌』では、「布施」は佐伯の下落合のアトリエのすぐそばに住んでいたことになっているが、布施信太郎は下落合からは遠い北区に居を構えていたことが縁者の方のお話から判明している。
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ここで小林氏は自分で「布施」を布施信太郎と仮定して論を進めて『周蔵日誌』の記述がおかしいとの結論を導きだしています。でも、この仮定が違う(正解は布施一)のですから、わざわざ縁者にまで話を聞いた事も全くの的外れでしたね。
自分で間違った仮定をして、そこから間違った結論を出して得意気に揶揄していますが、これも資料に対する偏った先入観があったからでしょうね。



4. 小林報告書の疑問(3) ・・・ 省線について

●省線に関して(27項)

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同じような単純な時間的齟齬は他に二つほどある。一つは『周蔵日誌』の大正6年9月30日の記述である。この日、周蔵は佐伯を「省線」で送っていったという。ところが、首都圏の国有鉄道が省線と呼ばれるようになるのは、鉄道省が設置された大正9年5月15日以降のことにすぎない。それ以前は鉄道院の管轄で、省線の呼称はなかった
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私も鉄道は詳しくないので、Webで検索してみました。国有鉄道の組織名は、下表のように変遷しています。
一番右に私の判断を追記しておきます。

年月 管轄 鉄道の当時の名称
(私の判断)
明治10年1月11日 工部省鉄道寮 → 工部省鉄道局
工部省鉄道局
明治18年12月22日 工部省廃止、鉄道局は内閣直属に
鉄道局
明治23年7月1日 内務省鉄道庁に変更
内務省鉄道庁
明治25年7月21日 逓信省鉄道庁に変更 省線
逓信省鉄道庁
明治26年11月10日 逓信省鉄道局に変更
逓信省鉄道局
明治41年12月5日 鉄道院を設置(逓信省鉄道局と帝国鉄道庁を統合) 省線/院線
人によって異なる
鉄道院
大正6年9月30日: 『周蔵日誌』に「省線」の記述あり
鉄道院
大正9年5月15日 鉄道省に変更 院線/省線
人によって異なる

と変遷しています。小林氏は、明治41年〜大正9年まで鉄道院が管轄なので大正6年の時点では「省線」の呼称があるはずがなく「院線」であるべきだと言いたいのでしょうが、そうでしょうか?
明治41年に鉄道院が設置されるまで、逓信省が管轄の時代は何と呼ばれていたでしょうか? そうです。
「省線」ですよね。Webを検索すると別のHPにもこんな記述があります。(清水沢駅の記述)

*明治39年10月 鉄道国有法により
逓信省鉄道作業局に買収され省線となる。

明治時代に鉄道院になったのだから、大正6年では「省線」と言うのはおかしいと思うかもしれませんが、よく考えて下さい。
大正6年の時点では明治41年に鉄道院が設置されてから10年も経っていないのですよ。
私なんかは、いまだに
「JR」なんて言わずに「国鉄」と言います。最近も、今年の4月に「営団地下鉄」「東京メトロ」に勝手に名称変更になりました。
私にしてみれば
「東京メトロ」って何だ? という状態です。恐らく、ずっと「地下鉄」と言いつづけるでしょう。
勝手に呼称を変えても、それが定着するまでは時間がかかるのは当たり前ですし、その呼称をみんなが使うとは限りません。小林氏はどうしてそれを無視するのでしょうか? 要は突っ込みが浅く、良く考えなかっただけなのでしょうが、「
それ以前は鉄道院の管轄で、省線の呼称はなかった。」と安易に言い切る思い切りの良さには感心してしまいます。良く考えて読んでいない人に対しては強い印象を与えることでしょう...。

小林氏のこの報告書には、これに類した”
思い込みによる決め付け”が多すぎますね。この報告書を承認した委員会の人達はちゃんとチェックしているのでしょうか?



5. 小林報告書の疑問(4) ・・・ 周蔵と薩摩治郎八夫妻について

●周蔵と薩摩治郎八夫妻(28項)

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『周蔵日誌』が書かれた年代を考えるための、もう一つのちょっとした、しかし重要な事実的齟齬がある。(中略)知り合いの薩摩治郎八が「川田家ハ乃木サンジコミノ軍人ダカラ、ドーリー(引用注:千代子夫人)ハサレダケハ堅固ダヨ」ト語ったと周蔵は伝える。(中略) 「川田家」とは千代子の実家の名称に該当する。ところが、千代子の実家は、実際には山田家であって、川田家ではない。単なる勘違いだと見過ごすこともできる。しかし、千代子の実家を「川田」と間違えているのは『周蔵日誌』だけではないため、事はいささか深刻である。
『自由と画布』のなかで、明子氏は小学館発行の雑誌『サライ』の1990年10月号の「薩摩治郎八の育てたパリ芸術家の生活」なる記事を長々と引用し、薩摩治郎八と千代子の出会い、生活ぶりなどを紹介している。『サライ』の記事では、千代子の実家が何と「川田」と書かれているが、それも修正せぬままの引用である。(中略)
1990年の
『サライ』の記事とそっくり同じ間違いが繰り返されているのは、これまで指摘してきたいかなる齟齬にも増して奇怪な齟齬と言えよう
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どうして小林氏はこのように揶揄したような書き方をするのでしょうか? こんな文章が武生市の公式資料としてまかり通っているのは不思議としか言いようがありません。まあ、それを言い出したらこの「小林報告書」はきりがありませんから、本題に行きましょう。

ここでも小林氏は、いろいろある可能性から理由もなく一つだけ取り上げてそれによって決め付けています。小林さんは、
『周蔵日誌』『サライ』が同じように山田川田と間違っているから『周蔵日誌』『サライ』の記事を読んで書いたと言いたいようですが、それは一つの解釈でしかありません。私は同じ事実を読んで
  1. 明子氏は、周蔵氏から聞いた千代子の実家の姓を「川田」と勘違いしていた。
  2. 『サライ』の記述を読んで「やっぱり川田で正しいんだ」と確信した。
  3. だから、『サライ』の記事をそのまま引用した。
と解釈しました。それが正しいはどうかは分かりませんが、小林さんの考える理由以外にもいろいろな理由は考えられるという事は確かです。それなのに「これまで指摘してきたいかなる齟齬にも増して奇怪な齟齬と言えよう」と鬼の首でも取ったように断定するのは異様としか言いようがありません。
それに、いくら親しい友人の妻と言ったって実家の姓を間違っている事が、そんなに重要な問題なのでしょうか?



6. 小林報告書の疑問(5) ・・・ 海外渡航について

周蔵氏の海外渡航の証拠としてパスポートの発行を調査したが、見つからなかったためその結論として

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上記いずれの調査の場合も、記録の不在を確認しただけで、周蔵が渡航「しなかった」ことの直接的証しにならないことは承知している。しかし、すべてが非公式の隠密の渡航であった、痕跡を残さぬ滞在であった、などという強弁は、記録の不在の説明にはあまりに不十分というべきである。記録の不在がかくまで幾重にも重なったとき、周蔵の留学もパリ訪問もなかった、と見るのが常識的な判断というものであろう。
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このHPを読むと分かるように周蔵氏は陸軍の特務(いわゆるスパイ)であり、偽名を使っての海外渡航を行ったのでした。小林氏はそこまで深く考えずに「常識的」に判断したようです。まあ、常識は時代によって変わるものですから、ある程度はしょうがないと思います。
今はみんな知っている北朝鮮の拉致問題にしてもちょっと前までは、「拉致なんてあるはずがない」というのが一般の常識でしたよね。工作員(いわゆるスパイ)の話をするとほとんどの人に「小説やマンガの読みすぎじゃない?」という目で見られていました。
しかし、小林氏は自書の中で

フェルメールは17世紀オランダに活躍した風俗画家である。かのフランス人の誤りは、その重要な一事に目をつぶり、17世紀絵画の世界と20世紀を生きる自分の感覚との間に何らのズレもないという前提を無意識のうちに選び取っていることだ。」(フェルメールの世界 3項より:1999年)

つまり、作品が描かれた時と現代の感覚のズレを無視してはいけないと言っています。その小林氏が70年前の常識については考慮もせずに現在の常識で判断を下しているのは「
これまで指摘してきたいかなる齟齬にも増して奇怪な齟齬と言えよう。」 (^^)
周蔵氏が活動した時代は、第一次大戦〜太平洋戦争の時代です。少し前には
明石元二郎が日露戦争で特務活動でロシア国内をかく乱し、石光真清も現役で活躍していた時代です。また、中村天風氏も軍事探偵だったと自ら語っていますし、武道関連では大気拳の沢井健一氏も中国大陸で特務活動を行ったと言われています。また、敬愛する合気道の塩田剛三氏も著書を読むと畑俊六陸軍大臣の特務であった事が伺えます。そんな時代の常識で考えると、パスポート発行の記録がなかったとしたら軍関係のからみはなかったのか? という所まで突っ込んで調査して欲しかったですね。



7. 小林報告書の疑問(6) ・・・ 周蔵とクレー作品について

●周蔵とクレー作品

小林さんは、
『周蔵日誌』に渡欧時にクレーの作品を入手したと書いてあり、また、明子氏がその作品が真作であるとの確認をした件を聞き、その検証をします。

その検証内容ですが、おりよく来日中のクレー財団の研究員に問い合わせを行って周蔵氏の名前がクレー財団に登録されているかどうかを確認します。その結果、
彼の知る限り「無い」との回答であった、と記しています。聞いた人がどのような立場の人か明確ではありませんが、クレー財団として責任を持った回答とは思えないこの一件をとりあげ、小林さんは「明子氏から実際に作品を見せていただいていないため、最終結論には至らないが、誰もが疑念を持たざるを得ない点であることは言うまでもなかろう」と揶揄しています。

さて、
小林さんはこの一件を以って何を証明しようとしたのでしょうか?
仮に明子氏が持っているクレー作品が「贋作」であった場合に何が証明できるのでしょうか。
別に「贋作」であったとしても『周蔵日誌』の記述を否定することはできませんよね。周蔵氏が渡欧時に「贋作」を買わされた可能性も充分にあります。(当時、市場にクレーの贋作が存在しなかった事が証明できれば、そんな可能性はありませんが… )
もし、
『周蔵日誌』の記述を否定するのであれば、実際の明子氏所蔵のクレー作品が70年前のものではない事を証明しなければならないでしょう。小林さんの書き方では、単に明子氏の所有のものは「贋作」なんだよと自慢げに言っている事にしかなりません。(実際には、上記のようにその根拠もあいまいですが… 落合氏の調査では「真作」と認定されているとの事)

どうも小林さんはピントがずれてますね…。
この一点だけでは、最終結論には至らないが、
小林さんの論の進め方には誰もが疑念を持たざるを得ない点があることは言うまでもなかろう
いかん、いかん書き方が似てきた、こんな揶揄した書き方をしちゃ失礼ですよね。(笑)
それにしても、クレー財団に聞くのも良いけど、明子氏に絵を見せてもらえば手っ取り早いのでは?と思います。




8.蛇足 ・・・ 本物だったフェルメール

「本物だったフェルメールの絵」

【読売新聞 2004年7月8日 夕刊】に次のような記事が掲載されました。

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17世紀のオランダの画家フェルメールの作品「バージナルの前に座る女」が7日、ロンドンの大手競売商サザビーズでオークションに掛けられ、1,620万ポンド(約32億6,000万円)で落札された。
フェルメールの作品がオークションに登場するのは1921年以来。
この作品には贋作との疑惑が浮上していたため、
フェルメールの作品リストから外されていた。しかし、10年間にわたって絵の具の科学的分析やキャンバスのエックス線検査などを行った結果、フェルメールの作品と確認された。
オークションは300万ポンドから始まったが、瞬く間に値が跳ね上がった。
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この作品に対してフェルメールの大家となられた小林女史の記述は…。

『フェルメールの世界』小林頼子 NHK BOOKS P200より
1908年にベイト卿が購入した《ヴァージナルの前の女》は、戦前はフェルメール作品として称賛されたが、戦後になってフェルメールの手から外された作品である。明暗のあまりに極端な処理や、単純なハイライト、素材感の描き分けへの徹底した無関心は、フェルメールのどの時期の様式にも合致しないが、意匠それ自体は、明らかに《ヴァージナルの前に立つ女》、《ヴァージナルの前に座る女》といった作品を想起させる。それら2つの作品に見られる要素を混ぜ合わせた1800年頃のパスティーシュ作品というデ・フリースの判断に与したいと思う。

こう言った個人的な印象評価に対して、今回は科学的な分析が勝った訳ですね。もし、この化学分析が正しいとすれば小林女史は、今回も「贋作」だという先入観を持ってこの作品を見ていた事が原因でしょう。この辺は、他山の石として自らを戒める必要があると思いました。

それにしても小林女史は相変わらず「明暗のあまりに極端な処理」、「素材感の描き分けへの徹底した無関心」というような表現を使ってますね。



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