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『吉薗周蔵手記』の第一冊の表紙には
「上原閣下(時ニ陸軍大臣・陸軍中将)ニオ目通リニツヒテノコト」と書いてあります。
大正元年(1912)8月23日、周蔵氏は、祖母であるギンヅルのコネで千葉県外房の一の宮海岸の別荘で
陸軍中将男爵・上原勇作に会い、
オ前ニ草ヲ 頼ミタカ 此ン 俺ニ オ前ノ命 預ケテタモンセ ソヰモ 捨ツル ツモリデ 頼ミモス |
と言われます。上原閣下は、周蔵氏に自分の草(特務)になってくれと言います。若干18歳の周蔵氏は即答できずに、8日以内に返事をすると約束して辞去しました。そして、数日間自問自答した結果、草となることを決意しました。
草ニナルコトニシタ。 迷フナカレ。自分デ決メタ。 クサモイネバ 世ガ不便デアラフ。 閣下カラ直接 命令ヲ 受クルコトヲ 誇リトセネバ。 クダランカ? |
最初の上原閣下からの命令は、熊本の鉄道学校土木課に入れとの事でした。これは、海外に渡航する場合に技師であれば視察の目的でパスポートを取れるからです。しかし、授業内容は程度が低く、周蔵氏は10日程通った後、月に1,2度登校するだけでしたが、上原閣下からの御達しのおかげか誰も文句を言いませんでした。
次の命令は、アヘンの研究のため熊本医専麻薬研究部へ通うようにとの事でした。ただし、生徒としてではなく無給助手として通いました。
大正4年7月 千葉別邸に上原勇作を訪ねた時の手記より
上原閣下より、草ではなく軍に属する気があるかとの問いに対して周蔵氏は、自分は草でよいと即答しました。これにより周蔵氏は上原勇作付の特務となります。
一.草デハナフテ 軍ニ属スル氣ハアルカ。 即答シタ。自分ハ草ニキメテヰル。 サレデハ本日ヲモッテ陸軍特務トスル。ヲヰガ目ノ黒カ内ハ上原勇作付特務デ良カガ 草ハ世ニ出ラレンゾ ト念ヲヲサレタ。自分ハ草ガ性ニ合ッテルト答フル。 デハ一日モ早ヨ 東京ヘイン出テタモンセト云ハレル |
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