佐伯画布の二元性――吉薗佐伯と山発佐伯

 

吉薗周蔵資料中の佐伯祐三書簡には、佐伯の製作方法が詳しく述べられているが、それは4段階(または3段階とも称す)であって、@スケッチ・Aデッサン・B下絵(オイル・デッサン)・C本画(タブローのことを佐伯はそう呼んだ)の順序となる。

それぞれが独立しているので、同じ画題の油絵が2枚できるが、Bの画布には軽い白亜を用い、Cには分厚くて重い亜鉛華を用いたのである。

佐伯がCの画布を発明したのは、第一次渡仏から帰国していた時期で、画布で悩んでいた佐伯にヒントを与えたのは、佐伯アトリエの建築を請け負った小川左官であったことが周蔵資料に記されている。

帰国期には米子と別居していた佐伯が描いた「滞船」「下落合風景」などの作品には、試験的に亜鉛華を用いたものが多い筈である。とうとう亜鉛華を用いた画布を完成した佐伯は、「本画用の画布」を沢山こしらえて2度目の渡仏を志し、パリでは米子の干渉を退けるために別居して、自ら仕上げする「本画」に挑むのである。

山発コレクションの画布のほとんどが白亜の下塗りばかりなのは、山本発次郎の入手経路が米子経由だから、佐伯夫妻の合作品か、帰国後の米子がBに加筆した作品だったからである。

落合は「ニュー・リーダー」の連載で吉薗資料を根拠に、佐伯が自ら作った画布の下塗り顔料を錯覚したとの宮田順一の妄説を論難したことがある。中島裁判に宮田が裏口から登場して、佐伯の「冬景色」に致命的な毒矢を浴びせたのは、実にこの因縁によるものかと、長嘆息せざるを得ない。

まず実物を見て戴こう。以下に示すものは、佐伯の「本画」から採取した画布の下塗りである。厚さは均等でなく厚薄があるが、最大で3ミリ程度の厚さがある。

 

説明: 説明: 説明: C:\Users\ochiai\Desktop\二元性の挿入写真\2011-10-04 006.JPG

 

a.画布の縁の部分の下塗り

 

説明: 説明: 説明: C:\Users\ochiai\Desktop\二元性の挿入写真\2011-10-04 009.JPG

 

b.aを真上から見たもの

 

説明: 説明: 説明: C:\Users\ochiai\Desktop\二元性の挿入写真\047.JPG

 

c.aを斜め上から見たもの

 

説明: 説明: 説明: C:\Users\ochiai\Desktop\二元性の挿入写真\048.JPG

d.aの平面

 

 

佐伯祐三が独自の画布を発明したことは、画友の間では周知であった。佐伯の北野中学の級友であった阪本勝は東大を卒業してプロレタリア運動に身を投じ、政治家となって翼賛会の推薦で衆院議員を経て、戦後は尼崎市長・兵庫県知事を歴任した。東大時代から川端画学校に通い自身も油絵を描いた阪本には、著作もあり文化人知事として知られ、政界引退後は兵庫県立美術館長に就いた。

 その阪本が昭和45年に『佐伯祐三』を著した。発行者は長谷川仁で、発行所は株式会社日動の出版部である。長谷川は日動画廊の社長として知られるが、あるいは正式社名が「鞄動」で画廊はその一部門なのかも知れないが、どうでも善い。普通の単行本なのに定価980円は、当時は異例の高額である。

 発行事情から分かるように阪本の同著は、長谷川が画商界を代表して佐伯の売り込みのために阪本に依頼したものであるが、内容は広く捉えれば佐伯絵画全体の「来歴」に当り、生い立ちから夭折するまでの短い生涯の悲劇性が佐伯絵画を潤色して余りある。まことに佐伯米子が吉薗周蔵宛書簡に書いた通りで、「絵画の市場性のために必要な文学的要素」を満たしているから、画商側からすれば高級宣伝文書でもある。しかしその内容は、この後に出た朝日晃の佐伯評伝のごとく、感傷だけに偏った創作性の濃いものではなく、さすがに阪本と思わせる。

 同著で阪本が「自製のカンバス」なる1章を設けた意義は、改めて強調するまでもないであろう。佐伯芸術の特性の第一は、自身が工夫して発明した独自のカンバス(画布)に在ることを阪本は明らかにしたのである。同著から関係個所を抄出ないし意訳する。

 

 美校時代から佐伯が独自のカンバスをつくっていたことは私も知っていたが、その製法についてきいたことがない。どういう理由で独自のものを作るようになったのか、製法は自身の創意によるものなのか、それともだれかから伝授されたものなのか、その辺のことはわからない。もっとも、この製法は佐伯だけのものではなかった。厳密に言えば独自のものではないが、佐伯には佐伯の工夫もあっただろうから、自製のカンバスとしておく。

 

 学生時代に油絵を描きだした阪本は、画材店で売っている既製の画布をそのまま使わず、ゲッソと呼ばれる白い塗料を分厚く塗って乾かし、その上に描いた。その理由は第一、既製品はすべすべして抵抗感がない。第二に、絵の具の渇きが遅く一気に書き上げたい製作感情とテンポが合わない。そこで阪本は、ドンゴロスにゲッソをたっぷり塗って自画像を描いたら成功した。既成画布では出せない筆触とボリューム感が出ていたからで、佐伯も既製品では満足できなかった気持が分かる、という。

 

 パリの百貨店で麻布の端切れを買ってきた佐伯は、大きさに応じて大小の枠に張る。枠に張った麻布の表面を台所のガス火に軽く掛けて生地の上毛を焼き、余り濃すぎない膠を引く。乾いたらまた引き、二昼夜ばかり乾燥させる。次に、より濃い膠汁に、亜麻仁油とかリンシード油および石鹸水を適宜混入し、十分混ぜてから酸化亜鉛を入れる。画家がブラン・ド・ザンクと呼んでいるあの白い物質である。 この分量によって画布の下地の感じが違ってくるのだが、佐伯はこれを大量に用いた(以下中略)。

 これは木下勝治郎からつぶさに聞いたことと、渡辺浩三の手記をよりどころとして書いたものだが、だいたいにおいて間違いはないと思う。(中略)

 

 次は画面だが。ブランザンクを主材とする材料が初めから適当に塗られているのだから、もうそれだけで、ある種のボリュームをもっているわけである。しかし布面に初めからある程度の凸凹があると考えなければならない。佐伯は酸化亜鉛を大量に用いたから、なおさらである。そればかりでなく、佐伯は室内のゴミや泥さえブランザンクと共に塗りこんでしまった。(中略)

 

 一日に二枚も三枚も描く恐るべき精神力が、あの重みも厚みもないすべすべのカンバスに向かえば、気抜けするだけのことである。彼のカンバスには抵抗がなければならなかった。その抵抗感に満足しながら、彼の筆は猛烈な速さで進んだのだ。自製の画布には適度の吸収性があったに相違ない。そのカンバスに乾燥度のはやい油で溶いた絵具をぶつけてこそ、彼独特の激烈で奔放な作品が次々とできあがったのである。

 佐伯が何時のころから自製のカンバスを使うようになったか明瞭でない。(中略)

それはともかく、佐伯が美校時代に自製カンバスを使ったか否かは深く追究すべきことでもなく、ただパリ時代に入ってから本格的に自製カンバスを使用し始めたと考えておけばよい。

 

 もう十年以上佐伯問題から離れていた落合は、今夜半(107日)上掲の文章に久しぶりに接し、眼から鱗が落ちた。なぜなら、「吉薗周蔵手記」に散見する「佐伯の特殊な画布」についての詳しい記述と、ほとんど一致するからである。

 画布は画家の個性と合致しなければならない。平凡な既製画布からは平凡な作品、平凡な画家しか生まれないのである。画学生時代から画布を重視していた佐伯は、常に画布の工夫をしていたが、帰国時代にようやく究極の画布に巡り合ったのである。

その経緯は「吉薗周蔵手記」と「救命院診察日誌」に書かれているが、後者は佐伯祐三自身が文案した佐伯画布誕生譚である。このHPの落合作「佐伯祐三の画業」の中にあると思うが、今思い出すままに一部を披露する。

帰国した佐伯の画業上の悩みを知った中野救命院に出入りする連中に、何とか佐伯を支援しようという気運が生じる。周蔵は安井曾太郎に会いに行き、「そもそも画家にとって画布が才能の初め」と教わり、画布を絵具を塗る壁に見立てて知人の小川左官に諮ると、小川は専門知識を駆使して、画布のアイデアを出した・・・

というようなものであるが、本来周蔵のアリバイ作りだった「救命院診察日誌」の文案を引き受けた佐伯は、それにのめり込み、文案にかなり創作を加えたから、前記がどこまで事実なのか判らない。

ともかく、こうして完成した佐伯祐三の究極の画布が、最初に掲げた破片である。この破片は、武生市の実業家山本晨一朗との間の佐伯絵画売買の破談により、吉薗明子が山本に対して負った代金返還義務を改めて金銭準消費貸借債務と契約したが不履行になり、その代物弁済として渡した佐伯絵画の引き渡しの時に、自然に剥落したもので、現在は本会の所有物である。

佐伯祐三単独作の「本画」は昭和2年末から3年初夏にかけての最晩年にパリで描かれたが、それにはこの種の画布が用いられた。それ以前にも、帰国時代の米子と別居していた時期に、この画布を用いた作品に「下落合風景」「滞船」などがあるようだ。画布の工夫に集中していた時期だから、試験的に用いたのである。特徴は、前掲写真に見る通りの下塗りの厚さである。この主成分が亜鉛華またの名を酸化亜鉛(ブラン・ド・ジンク)なのである。亜鉛華の比重と厚さが相俟って、これを下塗りした画布は極めて重いものである。

ところが、大阪市立近代美術館に収まっている佐伯絵画の大部分の画布には、下塗りから酸化亜鉛が出てこない。今更首を捻る必要はなくその理由は明らかで、同美術館の佐伯絵画のほとんどは、神戸の実業家山本発次郎が佐伯米子から購入し、ないしは米子の主催した画会(展覧即売会)で購入したものだからである。

祐三がパリから作品を送り、あるいは薩摩千代子に送付を委託した届先の吉薗周蔵に、祐三の客死後に帰国した米子が、「秀丸(祐三の幼名)の遺作か、せめて私の手を加えたものだけでも戴かせて下さい」と哀願して入手したもので、佐伯祐三の生前で、下絵を描き米子が仕上げた夫妻合作品か、祐三の描いた下絵(オイル・デッサン)であった。後者には、米子が加筆して仕上げ、画会に出したのである。

吉薗周蔵が、祐三が独自に仕上げした「本画」を秘蔵して米子に与えなかったのは、結局のところ「佐伯の二元性」を慮ったものである。夫妻合作品は第一次パリ時代のものがほとんどで、「究極の画布」を用いていないから下塗りから亜鉛華は出ない。また、帰国後の加筆品は、元来その下絵が、薄い画布に白亜(炭酸カルシウム)下塗りした者で、何処にも使っていない亜鉛華が出てくる筈もないのである。

創形美術学校の修復研究所員の宮田順一が行なった山発コレクションの佐伯絵画の画布の化学分析でそれが明らかになり、ここに「佐伯絵画の二元性」は、画布の下塗りが「亜鉛華か白亜かの二元性」となって、物理的に顕現したのである。

もはや非加筆派も意地を通しておられない状況になったが、彼らの努力はとんでもない方向に向けられた。即ち宮田は、「下塗りから亜鉛華が出てこないのは、佐伯が実際は白亜を使っていたからで、画友に対して亜鉛華と言ったのは、白亜を亜鉛華と誤解していたのである」との珍説を提起した。それを師匠の歌田眞輔が、「佐伯は、画布の下塗りにに関して画友を欺いた」との妄説で支援したのである。

 

      平成23年10月8日

                            落合莞爾