接点を物語る葉書と肖像画
それは下に示す1通の葉書である。匠秀夫の『未完佐伯祐三の「巴里日記」』にも掲載された周知となっていたこの葉書は、吉薗明子が当初に本件絵画と一緒に武生市に提供した吉薗資料の中に在った。
曩に河北倫明の密命を受け、吉薗資料を先行研究していた匠秀夫は、予定通り平成6年に武生市選定委員の一人として迎えられたが、すでに末期癌で病勢の進行が速く、年来の研究成果を前掲著として世間に問う半年前の9月14日に永眠した。
同著の公刊は平成7年4月26日で、折から武生市長小泉剛康は当該絵画について、受贈から拒絶に向けて舵を切り替えつつあった。2月に吉薗資料を内覧して武生市の学芸員就任を内諾し、4月に吉薗資料調査のための準備室調査員に就いた小林頼子は、誰よりも深い職業的関心を以てこの葉書を調べた人物である。
諸兄諸姉は、この葉書をどう御覧になったか。これを現代の偽造品と思う者はまずおるまい。それでも偽造と断定するのならば、偽造犯に思いを巡らすのは苟も知識人なら当然で、「そんなことに関心はない」なぞと嘯くのは詭弁である。
そもそも古文書の偽造は、既に入手が困難となった当時の紙とインクの入手から始まる。本格的偽造に際して材料にもまして必要な条件は、専門的・社会的・歴史的知識であって、それも単純・初歩的なものでないから、一般人には到底得られるものではない。その点につき、一般人より遙かに通暁しているのが美術史家であるが、小林頼子は言うに及ばず武生市委員の先生方もすべて美術史家であるから、この葉書を偽造とする見解を表明するのなら、同時に偽造者を探究・推測して、これだけの偽造計画を立て実行する背景と力量があった者の存在を突き止め、社会にそれを示唆する必要がある。地方公務員にせよ、美術史家にせよ、裁判の証人にせよ、裁判官にせよ、贋作偽造呼ばわりして他人を誹謗する者にとっては、それが必須の社会的義務なのである。
だいいち文書偽造はれっきとした犯罪であるから、苟も公職に在る者が、偽造文書と断定しながら、その告発をしないのは理由が立たない。しかも偽造容疑者を吉薗明子と公然指摘したに等しい報告を公表した武生市は、報告書発表と同時になぜ吉薗明子を文書偽造容疑で告発しなかったのか。否、そのお蔭で調査費用以外にも莫大な公費を費消させられた武生市の被害者として立場は明らかで、これを告訴しないのは市民に対する重大な裏切りである。
或いは、誣告の罪を怖れたと言い逃れするかも知れぬが、武生市の報告書公表はまさしく名誉毀損(社会的な意味での「誣告」)に当たり、これを正当化するには吉薗資料について、偽造疑惑に留まらず、その事実を証明する必要があったのである。それをしなかったのは畢竟、関係者全員が報告書の信用性に自ら疑いを抱いていたからで、ひたすら陽の目を浴びないように祈りつつ公表したのである。
さて問題の葉書は、関東大震災のために遅れていた渡仏の再準備を終えた佐伯が、大正12年11月の中頃に、実家光徳寺から吉薗周蔵宛に出したものである。
一女彌智子二才ノ圖
近日中ニ渡仏ノ予定
微熱アルヤナシヤ貴兄醫師ノ云ワレルトオリ 夕方カラ夕飯喰後ニシンドイ
シカシヤルキ充分満々
期待サレタシ
サレバ死カラ護身スルガタメ
醫師ノ忠告ハ守リ報ヒル所存ニテ クスリ大量ニ持參シタシ
急ギ ヲ送リ願イタシ 宜敷クタノミマス
仕事−愛―生活―病―死
コレスベテ人生ナリヤ
佐伯祐三
葉書には書いていないが、宛先の正式地名は中野町大字中野96番地で、周蔵が大正9年に開いた日本初の精神カウンセラー「救命院」がここにあった。現在の中野区中央1丁目であるが、その後の神田川の改修により、現場は水面下に没している。米子との結婚後も、日中は始終ここに来てゴロゴロしていた佐伯は、母千代子の遺伝のメニエル病に悩んでいた。酷い頭痛に悩まされ、救命院の目の前の神田川に飛び込んだこともあったという。祐三の頭痛には、周蔵が与えていた「阿片チンキ」が神効を発揮した。そのため、今回の渡仏に当たり大量に携えたいと考えた祐三が、クスリ(阿片チンキを無心する葉書を、大阪から出したのである。「送ラレタシ」とあるから、光徳寺に送ってほしいとの意味であろう。
彌智子を描いた上掲葉書は、武生市が返還した吉薗資料中の1品目で、武生市準備委員会と小林頼子特別調査員は、これを既知の「図録掲載の葉書」と比較して調査したが判断を示さず、総合判断として「吉薗周蔵なぞ佐伯祐三の周辺には居なかったと」強弁した。後年、中島事件の東京地方裁判所もそれに乗った。
左は前掲葉書の一部。
右は朝日新聞東京本社『佐伯祐三』所収の佐伯筆跡である。
編集は『佐伯祐三展カタログ実行委員会』で昭和43年10月25日発行。
請う諸兄諸姉よ、左の「病」「死」「愛」「仕事」「生活」の筆跡を比べて見よ。
メニエル病と二元性
佐伯のメニエル病を発見した東京帝大教授巣鴨病院長の呉秀三は、日本精神病学の草分けである。大正5年、血液型分離法の探索のため欧州に派遣される周蔵が、その準備として、上原参謀総長の命令により医学の基礎を学んだ恩師であった。
周蔵が佐伯を巣鴨病院に連れて行き呉博士の診察を受けさせたのは、アリバイ作りが目的の『救命院診察日誌』の内容を整える工作であったが、たまたま呉博士が佐伯の精神分裂症(今日の統合失調症)を発見した。しかも呉博士は、佐伯が文案した『救命院診察日誌』をみて佐伯の天才性を見抜き、「佐伯は、どうしても名画を描かねばならないように、自分の境遇そのものを創作している。天才とは、そのようにして自身の心境を創る者のことである」と周蔵に教えたのである。
新婚時代の作品は、佐伯の油彩下描きを米子が仕上げたものであった。これは、光徳寺の本山西本願寺の実質法主であった大谷光瑞の遠謀で、佐伯の画業を促成するため、画業で先行していた年上の米子を祐三と結婚させ、祐三の画業を内面指導させたのである。
結婚以来、第二次渡仏までの間の作品の大部分は夫婦合作品であった。祐三の遠近法はメニエル病のせいで特異なものであったから、作品の仕上げに当って米子はまず遠近法を修正した。幼少から北画を学んだ米子は東洋風遠近法を体得しており、黒い縦線が効果を発揮して佐伯の特異性を修正した。こうして幾つかの合作品は出来たが、多くは下描き(油彩デッサン)のまま放置されていた。
帰国後、生活のためと称して、吉薗周蔵から亡夫の下描きを数多く貰った米子が、これに加筆して画会に供したところ、蒐集家の山発(山本発次郎)の目に留まり、まとめて買い上げられた。以後、米子の加筆は山発の好尚に迎合し、北画風の鋭い直線を用いた加筆がますます顕著になり、アルファベットの氾濫もしだいに募った。
つまり、今日佐伯祐三の傑作として知られる作品は、祐三死後に米子が作り上げた画風のものばかりで、それを誘発したのは山發であった。その多くは大阪市立近代美術館に収まっており、今も大阪市民の誇りである。だから、佐伯の真贋問題なぞは何処にも存在せず、ただ加筆品と単独品の二元性があるだけでなのある。
ところが、自らの加筆を糊塗するためには、祐三のメニエル病を世間に知られてはならないと考えた米子は、雑誌に盛んに書きまた周囲に語った佐伯追憶譚では、亡夫のメニエル病に一切触れなかった。米子の作り話をそのまま信じ込んだ朝日晃が美術界に触れ回り、「業界佐伯男」の異名の所以となったが、まじめに調べれば誰でも気が付く佐伯作品の特徴に気が付かず、「達体的な現場主義」なぞとご都合主義を振り回して本質を究明しなかった朝日は、宣伝業者ではあっても真の研究家とは言えない。
メニエル病がもたらした佐伯の二元性
佐伯祐三の画業を理解するためには、メニエル病患者であったことが極めて重要なのである。特異な遠近感で描かれた佐伯の下描きを、北画風の遠近法で修正して仕上げていた妻の米子が、世間にはメニエル病を隠蔽したことで、佐伯絵画の二元性が生まれたのである。つまり、メニエル病患者佐伯祐三の作品と、米子の加筆修正により健康者を装わされた佐伯祐三の作品が併存することとなったのである。
佐伯作品の二元性は、かくして佐伯単独制作と米子加筆により生じたのであるが、例外と言うべきか、合作品と加筆品との間で生じた二元性の例を挙げてみる。
下左図は和歌山県立近代美術館蔵の佐伯作品で、画布の裏側に「1927年5月に笠原吉太郎のアトリエで佐伯が自分を描いた」との笠原自身の書き込みがある。笠原は裕福な機屋に生まれて下落合に棲み、佐伯と交流があった画家である。
1926(大正15)年3月にパリから帰国した佐伯夫妻は暫く別居していたが、やがて夫婦で再渡仏する資金を作るための画会を計画し、9月頃から出展用の作品を描き始める。佐伯は大阪で「滞船」を描き、東上して「下落合風景」「新橋駅周辺」などを連作した。1927年(昭和2年)4月に新宿で画会を開き、その売上金を周蔵たちの支援金に加えて、7月末に東京を発ち、大坂の光徳寺に立ち寄った。
同年5月の制作であるこの作品は、地塗りがごく薄いために画布が透けて見え、左下隅にかけては焦茶色の下塗りを洋服の黒色で塗り潰さない意図的な手抜きが見え、眼鏡・耳朶・口髭・襟元のネクタイ周辺に加筆部分がはっきりと窺えるから、典型的な米子加筆品の形である。
画面の下に佐伯名義のサインがあり、その左側には、判読しがたいが、モデルの名前があるように見える。
来歴からすれば、佐伯が笠原のアトリエですべて仕上げたと観ることになるが、それでは米子が加筆は出来ない。だから、笠原のアトリエでは、佐伯が薄塗りの画布に下描きの油彩デッサンまでを行い、それを持ち帰って、後は佐伯アトリエで厚塗りの画布に「本画」を描いたものと思われる。それが佐伯の制作過程なのである。
ところが、佐伯が取りかかった「本画」がなかなか捗らないため、米子は下描きの方に加筆して本品を仕上げたのである。
上図は笠原吉太郎の写真である。その経歴に興味があれば、インターネットを検索すれば見ることができる。
さて、下に掲げた左図が和歌山品で、右が山発品である。両者ともに名称は「男の顔」であるが、モデルが笠原吉太郎であることは、服装・メガネからしてまず間違いあるまい。
和歌山品と山發品では、顔の輪郭がかなり異なる。写真と見比べると、顔の向きが微妙に異なり、和歌山品は僅かに斜めを向き、山発品は真正面を向いている。
顔形は和歌山県所蔵品の方が本人(写真)に近い。山發品は顔が角張っていて、秀でた額の具合がまず本人とは見えないほどである。同じ画家のおそらく同日の作品が、かくも異なるのは二元性というしかないが、スケッチやデッサンの違いよりも、制作過程の違いではないだろうか。
笠原吉太郎の肖像画は、佐伯祐三の通常の制作過程にしたがい、下塗りの厚さが異なる2枚があった。薄い下塗りの方、つまり本来は下描き(油彩デッサン)用画布の方を米子が仕上げて笠原に贈ったのが和歌山品である。下描きの方の出来が良いと夫妻が判断したからで、いつでも「本画」が良いとは限らないのである。
ということで、厚い下塗りの方が佐伯家に遺った。画布は当時の「本画」用であって、晩年の佐伯が「本画」に用いた「究極の佐伯画布」ではない。亜鉛華をどっぷり塗付した「究極の佐伯画布」の完成は、まさにこの頃であるが、当時それを使った作品は少ないのは、これから向かうパリで使うために、たくさん作ってはストックしていたからである。画布作りを手伝う周蔵たちに、佐伯が「これは巴里で使うんや。こっちで使うのはヘボな画布でええんや」なぞと嘯いていた記録がある。こうして作りためた画布を100枚ほどフランスへ運んだと、周蔵宛ての書状に書いている。
薄塗りの方を笠原に贈った経緯からしても、佐伯家に残った厚塗り画布は描き掛けのままであったと見て良い。それを夫妻は、渡仏支援金の代償として吉薗家に納めたが、帰国後の米子が周蔵から貰い、昭和5年頃に加筆してから山發コレクションに入ったのである。山発品にも耳朶・襟元などに和歌山品とよく似た加筆の痕が窺えるが、不審なのは、和歌山品が本人の顔によく似ているのに山發品は頬がふっくらし過ぎて、本人からかなり離れているという二元性である。
佐伯絵画の二元性は、元来佐伯祐三のメニエル病に淵源するが、笠原像において合作品と加筆品の間に生じた二元性は、何によるものだろうか。敢えて推測すれば、スケッチとデッサンの僅かな違いが拡大されたか、あるいは米子が山發品を加筆する際に、故意にデフォルメしたのではないかと思う。
山發品の上部には、左に掲げるように佐伯のサインの下に「ムッシュ●●●●の肖像」とある。このサインは、間違いなく米子の筆で、Kasaharaとはまず読めないが、読めぬこともないに、米子の微妙な心境が窺えると思う。
因みに、山発品「男の顔」は吉薗家伝来の下の画集から転載したものである。これは、昭和12年3月11日から24日まで大阪市立美術館で開催した「山本發次郎蔵佐伯祐三遺作展」の図録で、当時發次郎から吉薗周蔵に贈られたのである。山本發次郎の署名には特殊な癖があるから、知人なら識別できるであろう。
これを当初の吉薗資料に加えておいたなら、佐伯米子との接点がはっきりして小林報告の大勢は逆転したのか、と思うこともある。
しかし、上記の葉書から眼をそむけた武生市と小林頼子が真剣に取り上げるわけもなく、観て観ぬふりをしたことは目に見えている。
結局、彼らは吉薗資料を誤解したのではなく、ことの真相を知りながら何者かの利益を図るため、故意に吉薗の佐伯絵画と資料のすべてを否定した、と視るしかない。
こういう公費の無駄使いを見ながら、日本国民と武生市民(今は越前市民)は、よく税金を払えるものである。