武生市作成の「佐伯祐三のパリ日記」資料

 

その1 馬の眼と広告塔

平成6年、吉薗コレクション佐伯祐三絵画の受贈を内定した福井県武生市(現越前市)では、受贈計画を進める目的で設けた選定委員会が、絵画に随伴して武生市に寄託された「吉薗資料」の中の、大学ノートに書かれた佐伯祐三の日記(以下「パリ日記ノート」という)を解読して、下に掲げる資料(以下、「武生市・佐伯パリ日記」という)を作成した。

「パリ日記ノート」は昭和2年から昭和3年にかけて、概ね時系列に沿って書かれているが、日付の有無があり、飛ばし書きにして後で埋めた箇所もあるかもしれず、必ずしも完全な時系列と信ずべきではない。

武生市の説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新しいフォルダー (3)\武生市パリ日記1.jpeg選定委員の一人となった茨城県近代美術館長匠秀夫が寄贈話に先行して吉薗資料を研究していたが、平成6年9月14日に死去し、その研究は遺著未完佐伯祐三の「巴里日記」』として、平成7年4月26日に公刊された。

「武生市佐伯パリ日記」の作成者はおそらく、平成7年4月に武生市臨時職員の準備室特別調査員に就いた小林頼子で、同年4月以降、折しも匠の前掲著書の公刊と前後して作成されたものと思われる。

匠の前掲著が「巴里日記」と名付けた「黒革表紙の手帳」は、いわば感想文集で、本当の佐伯の日記はむしろ「パリ日記ノート」であるのにも関わらず、匠がこれを対象としなかったことは、佐伯ファンを惑わせるに充分であろう。

出版関係者の話では、匠秀夫は「パリ日記ノート」の内容を概ね知っていたが、吉薗明子から提供されたが写本であったために著書での採用を断念したと言う。吉薗が「パリ日記ノート」写本を提供した理由は、原本中に刺激的な記載があり、それを匠に引用・公開されたくなかったものと思われる。

とは言っても事実であるから、大筋は匠の前掲著とは矛盾はしない。それが「パリ日記ノート」のいずれの箇所かは、以下に掲げる「武生市・佐伯パリ日記」から読者は読み取られるであろう。

「パリ日記ノート」の原本は平成7年に武生市から吉薗明子に返却され、準消費貸借に関する代物弁済の一部として山本晨一朗に引き渡されたが、その後の状況は判らない。諸般の事情により長らく筐底に埋没し、このたび陽の目を浴びた「武生市・佐伯パリ日記」を分析した本稿は、武生市調査審議委員会が、筆跡鑑定資料捏造の危ない橋を渡りながらも、吉薗資料の贋作化に執心した真の目的を把握した。

吉薗資料の贋作化の目的を言えば、それは吉薗資料に含まれる「パリ日記ノート」の抹殺にあった。武生市が自ら作成した「武生市・佐伯パリ日記」が、武生事件の未解明部分を解く重要な手掛かりとなったのである。

匠秀夫にも見せなかった「パリ日記ノート」の原本を、吉薗明子が武生市に提供した理由は佐伯絵画の寄贈受諾が内定したからである。その時期は判らないが、匠秀夫が病死した6年9月14日よりも後のことであろう。

武生市選定委員会が内容を見て、佐伯祐三の乱暴な走り書きを解読する段になるが、解読は通常は学芸員の仕事である。誰が行なったのか未詳だが、部外者に知られて良い内容ではないから、7年4月に特別準備室の調査員に就いた小林頼子が自身で行ったものと思われる。

 解読者が誰であれ、「武生市・佐伯パリ日記」は、それを作った準備室から選定委員会に伝えられた。選定委員会ではその取扱いが重要課題となり、内容が刺激的だからとして、当面の発表を控えることが内定されたものと思われる。

「武生市・佐伯パリ日記」はA4判31頁から構成され、表紙の他は各頁の左側に原資料「パリ日記ノート」のコピーを3段に張り付け、右側にその解読文を活字にして、対照したものである。

 本稿は、以下にその31頁を順番に掲示しながら、理解に必要と思われる解説を落合莞爾が付することとした。

 

第2頁

 


 

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新しいフォルダー (3)\武生市パリ日記2.jpeg

 

(落合解説)日記には佐伯のパリ到着を8月19日と記し、佐伯研究家朝日晃のいう8月21日とは異なる。その理由は判らないが、佐伯の事蹟を熱心に蒐集した朝日にはそれなりの根拠があるのだろう。朝日晃の佐伯伝は、基本的に佐伯米子からの伝聞を基にしたもので、米子に謀られて大局を見失っているきらいがある。

薩摩治郎八と佐伯の関係を、米子がひた隠しにした理由は幾つも重なるが、根本は、吉薗周蔵に頼まれて薩摩が佐伯のために用意したモンパルナスの日本人アパートにある。この時新築中で佐伯一家は10月に入居するが、後日ここに住んだ日本人の誰もが、このアパートが薩摩の所有とは気が付かなかった。むろん、朝日晃はじめ美術界は全く知らなかったのは、米子が隠したからである。

匠著にも、194頁と252頁に「サツマサン」の名があるが、匠はそれを治郎八のことと知りながら全く説明していない。米子が捏造した佐伯伝を商談に利用してきた画商界・美術評論界に対して、匠も敬意を払わざるを得なかったからである。

第3頁

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新しいフォルダー (3)\武生市パリ日記3.jpeg

(落合解説)下塗りに亜鉛華を用いた佐伯祐三の「究極の画布」は、佐伯の画業を支援していた吉薗周蔵たちが帰国時代に考案したもので、東京で作ってパリに持参したが、直ぐに足りなくなった。絵具の吸い込みが早く北画の運筆に適するこの画布に注目した米子は、早速自分で画布造りに取り掛かり、佐伯にも手伝わせた。

思案ばかりで描けないでいる佐伯は、虚栄心から山田新一や兄裕正に、「パリで復調したのでまた描きだした」とウソを書き送ったと、手紙で周蔵に許しを請う。

祐三の下描きを米子が仕上げたタブローには、何処にも自分が残っていないのを悲しむ佐伯は、今後は自分自身の作品を描きたいが、米子は「1人の画家に2種の絵はない、世間の褒める佐伯には米子の天分と技が必要だ」と諭して、取り合わない。

第4頁

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新しいフォルダー (3)\武生市パリ日記4.jpeg 

(落合解説)匠書176頁も「究極の画布」に触れてはいるが、その意義を説明していないのは何故か。

折から、創形美術学校修復研究所が大阪市所蔵の山發コレクションの化学分析をしたところ、亜鉛華を用いた「究極の画布」を用いた作品が、40余点もある山發コレクションのうちに「汽船」と「人形」しかないことが判った。佐伯祐三の生前語によれば、佐伯の制作過程には3ないし4の段階があり、「本画」の前の段階として必ずオイル・デッサンで下描きをする。下描き用の画布は炭酸カルシウム(白亜・胡粉)を薄く塗った軽いものである。つまり、山發コレクションのほとんどの画布は下描き用であることが分かったのである。米子加筆説の証拠がここに顔を出したので、画商界にとって一大事となった。

化学分析に当った修復研究所員の宮田順一は、この調査結果を、「佐伯祐三が自分で白亜を亜鉛華と誤解して思い込んでいた」と強弁して糊塗しようとしたが、これでは世の中は収まらない。画商団体東京美術倶楽部の佐伯鑑定委員であった修復研究所長歌田眞一は、6年末に山發コレクションを真作と揚言し、吉薗佐伯を贋作と断言して公表したから、東美の画商たちと共に日本社会と美術館に対して鑑定責任を負うことになってしまった。

要するに、武生事件の奥底に潜むのは、大阪市立近代美術館所蔵の山發コレクションの画布下塗りの問題なのである。佐伯絵画のカナメの画布問題を、匠が著書で解説しないのは、それに踏み込むのを避けたものと思うしかない。

第4頁は、前の頁の続きである。父が上原元帥の親友の陸軍軍医であった藤田嗣治は、画家を表看板とする上原勇作の「草」であった。上原配下の甘粕正彦から周蔵

を紹介された藤田は、周蔵の依頼を受けて佐伯の世話を引き受けた。前回渡仏の時には、藤田は部下の小島をマルセイユまで迎えに出したが、小島は佐伯らの客船が到着するまで数日間もマルセイユで待っていた。藤田が佐伯の滞在するホテルへ、和紙を手土産に訪れたたことも匠著は記している。

匠著の104頁、194頁、226頁、286頁に「藤田サン」の名が出るが、嗣治とは書い

ていないので、これを読んで藤田嗣治と分かる読者はどれだけいるだろうか。佐伯と藤田の関係は、米子が極秘にしたために,朝日晃はじめ業界はまったく知らず、佐伯捏造伝説にはでてこない。ゆえに、当然明らかにすべき嗣治の名を、著書で明らかにしなかったのは、画商界への匠の配慮であろう。

藤田が上原元帥の草であるのと同様、佐伯が大谷光瑞の「草」であったことは、米子も薄々知っていたと思われる。

 

第5頁

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新しいフォルダー (3)\武生市パリ日記5.jpeg

 

(落合解説)荻須高徳のパリ到着は、朝日晃によれば10月29日で、翌日にルーブル美術館に同行したとある。日記では到着は10月13日で、翌日の巴里見物を、武生市準備室は、(14日または15日)とした。日記には荻須の行動を毎日のごとく記しているから、13日のパリ到着は事実と思われ、朝日説の根拠を確かめたくなる。

佐伯を頼ってパリへ来た荻須は美校の後輩で、帰国時に東京で会い、その画才に目をつけた米子が内心渡仏を待っていることを、佐伯は知っていた。日記には荻須に対する佐伯の嫉妬心も窺える、北画の技法に迷う佐伯は、米子の押し付けるローマ字が上手く描けず、ペンで練習している。

 

第6頁

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新しいフォルダー (3)\武生市パリ日記6.jpeg


 

(落合解説)佐伯のメニエル病を発見したのは、東京帝大医学部教授兼巣鴨病院長呉秀三である。上原勇作(陸軍参謀総長)と大谷光瑞(西本願寺の実質法主)の間の相談で、上原の「草」として全国に罌粟作りを広めていた周蔵のアリバイ作りに、佐伯祐三を利用することとなり、周蔵が開いていた中野町中野96番地に精神カウンセラー「救命院」の患者になりすました佐伯が、架空の「診療日誌」を作って周蔵のアリバイとした。その代りに周蔵が、佐伯に画業資金を与えたのである。

大正5年、上原参謀総長の秘密命令を受けてウイーン大学に血液型分離法の探索に行く周蔵は、それに先立ち呉秀三博士から医学の基礎を学び、帰国後に血液型分離法を報告して、親しい間柄となった。アリバイ用の診療日誌の中身に多少の事実を加えようと考えた周蔵が、佐伯を連れて行った巣鴨病院で、たまたま佐伯のメニエル病が見つかった。

遠近感覚が異常な佐伯が作った下描きを、米子は北画の画法でせっせと修正し、佐伯の個性を抹殺してしまう。米子の押し付ける北画の技法がこなせないと悩む佐伯に、周蔵はメニエル病患者の特徴が蝿の眼・馬の眼であることを教えた。見つめているとグルグル回り出すのが蠅の眼で、それが落ち着くと馬の眼になり、眼前と遠方が見えるのに中間がボヤけるのである。周蔵は、その欠点こそ君の個性なのだから、却ってそれを活かせと手紙で薦めた。この頁は、それを受けたものであろう。

佐伯の死後佐伯の真相を隠した米子が、最も露見を恐れたのがメニエル病で、それは異常な遠近感を修正した痕跡が、加筆の証拠となるからである。ことに、山發コレクションには、遠近法の異常を修正した痕が顕著で、批評家の眼がそこに向くのを米子は畏れたものと思われる。尤も、佐伯の画学生時代の逸話には、網代旅行などメニエル病を思わせる話が多いから、具眼の美術評論家がいたなら、これを手がかりにして佐伯絵画の謎を究明しえたはずであるが、遺憾ながらそうはならなかった。

匠著の234頁、240頁、244頁は、米子の加筆について示唆するが、匠はそれを全く解説していない。画商界の反発を恐れた匠は、加筆に関する説明を避け、一応掲載はしておくが、それ以上は無知のごとく装ったのである。

 

第7頁


説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新しいフォルダー (3)\武生市パリ日記7.jpeg

 

(落合解説)佐伯が、自分の「馬の眼」を作品に活かすために最初に選んだ画材がパリ名物の「広告塔」であった。

米子の上達は佐伯の眼にも凄く、佐伯は自分の不才に悩むばかりである。純粋な自分の絵を描かねばと思う佐伯は、馬の眼を活かして広告塔に取り掛かるが、独自の制作(佐伯は「自分画」と言う)を見つかると叱責を受けるので、米子が面倒を看ない彌智子の子守りを装い、階下の薩摩千代子のアトリエで描かしてもらう。

米子の才能を畏怖した佐伯は、米子なら日本のローランサンにもなれるのに、日本社会では無理なのか、と考えこむ。

 

第8頁

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新しいフォルダー (3)\武生市パリ日記8.jpeg

 

(落合解説)1922年2月21日生まれの彌智子は、日本なら来春は就学年齢になるが、夫妻はどうするつもりだったのか、母の米子は素より、瑣末主義者の朝日晃も書いていないようである。28年2月にパリで佐伯一家に会った周蔵は、利発だった彌智子が、今は知恵遅れと観察している。

佐伯は馬の眼で見たタブロー(佐伯は「本画」という)を描くために、「究極の画布」を選んだ。米子が北画向きと褒める、亜鉛華を厚く塗ったものである。下のスケッチは、その構想を記したもので、「画布の大きさは中くらい」と指定している。具体的に2尺×1尺5寸と見当をつけたが、原料はデパートで売っている麻布の端切れだから、定寸ではない。善くできたと自賛するカンバスは、最終的に尺8寸×尺5寸位になったと記している。

軽い喀血をした佐伯はネケル医院に行く。匠著252頁(周蔵宛佐伯書簡)が触れているネケルは、薩摩治郎八が紹介した医院で、佐伯はそこへ通院していた。

 

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新しいフォルダー (2)\広告塔.jpeg

左図が、佐伯の馬の眼第一号の「広告塔」のスケッチで、日付は1927年10月27日とある。「クロ」・「茶」・「赤」・「白」・「ブルー」・「混合する」・「うすく」などと色彩・色調を記入し、右下にUzo Saekiのサインが見える。 

左下に「北画風」とメモがあるのは、左側の建物を北画の絶壁のように縦線で強調することを意味する。また「カンバスは中くらいで」とサイズまでメモしているのは、米子の大きい画布と違うもの、との意識であろう。

 

上左に掲げるのは、当時の広告塔の写真で、台座に乗った大きな円柱の上部に、角が丸まった多角形の庇があり、最上部は円錐形のドームで、空に向かう避雷針がある。このスケッチは視座が近いため、庇の部分を下から見上げた形で、最上部の円錐は半分隠れている。スケッチはもう1枚あり、下右に掲げるが、前のよりも少し遠い視点なので、最上部の円錐がはっきり見える。

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\Pictures\Colonne_Moris_Paris_1910年の画像 Place Saint-Sulpice à Paris (2).jpg

1910年当時の広告塔

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新しいフォルダー (2)\広告塔のデッサン.jpeg

佐伯の広告塔スケッチ

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新しいフォルダー (3)\新潟広告塔.jpeg

左は、新潟県近代美術館の「広告塔」である。基になった佐伯のスケッチは、遠くから見た方である。

左の建物の赤茶色の壁が北画風かもしれないが、全体的に遠近感が明確で、どう見ても馬の眼ではない。左の北画風建物は下塗りが薄く、画布の繊維が浮き出ているが、他の部分の下塗りは厚いようである。広告を張る円筒の中段のやや上に「MOZART」の文字が見える。

四角形が広告塔の庇で、その背後に寺院のドームが被さっているように見えるのは、センターがずれていることと、庇の四角形が実際よりもずっと前面にせり出しているからで、明らかに佐伯スケッチないし下描きの影響である。大きさも、80×53と、日記の記載よりも一回り大きい。

 

 

「パリ日記ノート」に名前の出てきた荻須高徳も、同じ広告塔を描いている(下図)。

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新しいフォルダー (2)\荻須高徳 広告塔2 (4).jpg

荻須の絵では、広告を張った円筒の中段からやや下に「MOZART」の文字が見え、左側の建物の黒い縦線が北画風である。庇の形が、佐伯の前掲スケッチが角張った多角形(4角形か)に対し荻須の庇は円型に近いが、両者は間違いなく同じ広告塔を描いたものである。

時期は1927年10月で、パリへ来たばかりの荻須は、夫婦喧嘩を仲裁するくらい、佐伯家に入り浸り夫妻と行を共にしていた。広告塔の写生現場へも、荻須は佐伯夫妻について来た。

日記に「米子ハンの画も手伝ふてます。うもふやるつもりです」と書いたが、「米子ハンの画」とはむろん加筆画のことで、「広告塔の下描きを1枚米子に渡します」との意味である。

米子は夜間に佐伯の下描きを仕上げるが、人前で描くことはほとんどない。佐伯は2枚を下描きし、1枚を米子に渡し、1枚を秘かに薩摩千代子のアトリエに持ち込んで仕上げたのである。

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新しいフォルダー (2)\sign[1].jpg

佐伯が仕上げた馬の眼作品はいかなるものであったか。それが左図である。画面左の黒い線が北画風で、中間すなわち広告塔の左奥あたりが朦朧としている。新潟県所蔵品と比べると、同じ風景ながら画面の奥がうんと前に出てきていて、遠近感がまるで違う。

望遠鏡で遠くを見た時の、遠近感のないあの視覚が馬の眼で、近景は実際より超立体的に見える。それを意識した佐伯が、広告塔の庇の一角を前面に出して極端に鋭角化したのが前掲のスケッチで、この絵はそれに基くものである。サイズの65×50も日記の「2尺×尺5」に近い。拙著『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真相』の口絵に使った写真が暗すぎて、下手との印象を与えた惧れがあるが、佐伯の中でも傑作の一つと思う。

 

 

ここで、休憩時間としましょう。

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新しいフォルダー (2)\foujita.jpeg

これが、大正13年11月、パリから周蔵に送ってきた藤田嗣治の自己紹介の漫画です。

「阿呆踊り」とは、画家の看板を掲げて画学生を集めて踊っているが、本心はそんなところにない、ということか。口にくわえたペンで、今後は時々便りを出しますよ、と伝えている。

 

 

周蔵と藤田が親しくなった発端は、薩摩治郎八に付きまとわれた周蔵が逆に薩摩を内偵した処、フランスの秘密結社に入っていることが判った。コスモポリタン(世界市民)を標榜する治郎八が、結社上層のフランス文部大臣オノラらに乗せられて反日行為に向かう虞がある、と上原元帥に報告したところ、「甘粕正彦に相談せよ」と命じられた。

大杉事件で収監されている千葉監獄に行って、甘粕に面会した周蔵は、「フランスから暗号手紙が着いたら持参せよ」と云われる。やがてネクルという医者から来た手紙に上の漫画が入っていた。ネクルは、薩摩治郎八の紹介で佐伯も通院した有名なパリの医者で、藤田嗣治はその名前をコードネームとして借用したのである。

以来、薩摩治郎八に近づいて側近となった藤田は、治郎八を操って薩摩家の資産をパリの日本文化会館の建設に向けさせる。上原元帥は、第一次大戦での戦時利益を日本文化会館の寄贈で蕩尽させてしまえば、薩摩家も何もできなくなると考え、右腕の甘粕を通じて藤田に命じたのである。この3人はジャン・コクトーを首頭とするワンワールド結社に属していたが、薩摩とオノラが属したのも同じ結社であった。 

結局、薩摩家は没落してパリの日本文化会館だけが遺り、藤田はその内装を自らの大作で飾った。薩摩も藤田が思っていた程の間抜けではなく、復讐を考える。日本に帰国した藤田に新しい女ができたことを、パリの愛人マドレーヌに薩摩が通報したので、嫉妬に燃えたマドレーヌが突然来日するが、アヘン中毒で心臓が弱ったマドレーヌが藤田宅の浴槽で事故死して一件は終わった。周蔵が見るに藤田嗣治こそ、偏狭なナショナリズムから脱した本当の国士であった。


説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新しいフォルダー (2)\広告塔スケッチ.jpeg

上の写真も、武生市準備委員会が調査のうえで、全体を偽造と判断した吉薗資料の一つである。この「パリ観光案内」は匠の著書にも見え、周蔵が餞別と一緒に佐伯に贈ったことが「黒皮日記」にあるが、武生市によればこれも偽造になる。

第一次渡仏の大正13年、パリに着いたばかりの佐伯は、ホテルの窓から見えるサクレクールを、早速この本にスケッチする。「俺のホテルの近くから見たところです。正月でも今日は、雪はふっていません。画はまだうまくはかけ●いのです」と、周蔵に語りかけている。

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\Pictures\2011-10-29\2018.JPG

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\2018.JPG

左が昭和3年初頭の作品、上が祐三のサインで米子風だがやや違う。亜鉛華と膠を石鹸で融合させた3ミリもある下塗りの「究極の画布」に描かれた「本画」である。縦線の強調を避けたアンチ北画で、中ほどがぼやけていて、馬の眼を感じる。

 

 

くどいようですが、下に再掲しますので、もう一度遠近感を見比べて下さい。

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新潟広告塔.jpeg

説明: http://kishu-bunka.org/saeki/paint/ssign.JPG


左は79.5×52・8ですから、右よりも一回り大きい。

前記の「パリ日記ノート」には各対象の遠近をメモしていますが、遠方をやや小さく描き、近くの広告塔の庇をことさら大きく描き、中間をぼやけさせて、佐伯の馬の眼の感覚に成功しています。これに対して左図は、遠方は遠近法に修正したのですが、広告塔の庇の馬の眼デフォルメに気付かず修正しなかったので、荻須の描いた広告塔とは、同じものなのに、まるで異なった形になりました。

     その1終り      

 平成23年11月6日改正   落合莞爾