武生市作成の「佐伯祐三のパリ日記」資料
その4 モンマニーから
1928年2月中旬にモランに行った佐伯は、画材を取りにパリに戻った時、偶然周蔵と出会って食事をし、ついでに「救命院診察日誌」を一緒に書いて、それが一生の別れとなった。
帰国する周蔵と別れて、再びモランに向かった佐伯は、パリに帰ってきてから米子との不仲が激しくなる。原因は米子が離婚話を切り出したからであろう。佐伯が一人でモンマニーに行ったのはその数日後で、3月の初頭と思われる。「パリ日記ノート」には、米子を畏れ、嫌うかのように記す佐伯であるが、二人を客観的に見ていた人には、全然異なって見えたと思われる。
佐伯を調べていて落合は、ふと南方熊楠を憶う。弟の常楠夫妻に父の遺産を横領され、何かにつけて虐待を受けていると、有名な「履歴書」などで誰にともなく訴える熊楠のことを論評した人はいないようだが、客観的事実と観る人は少ないだろう。つまり、被害妄想と判断するのである。
熊楠の持病が癲癇で、数回発作を起こしたことは事実であるが、精神病理学者によれば熊楠は典型的な分裂質という。分裂質は、躁鬱質・癲癇質と並んで、あらゆる人が必ずどれかに属する三大精神病質の一つであるが、精神分裂病が統合失調症と変った今は、何と呼ぶのか専門知識のない落合は知らない。
統合失調症の佐伯祐三には被害妄想があり、それを察知した周蔵が、心にたまったゴミを、誰にも見せない日記に書く事を薦めた。日記の宛先の周蔵は、むろんそれを見るつもりはない。匠秀夫が「巴里日記」と名付けた黒皮の手帳がそれで、佐伯は自分で買ってきて、周蔵に序文を書けと頼んだ。
「心のゴミを書き砕け云々」の文章を持参してきて、その通りに書けと言ったので、周蔵は自分の特徴をそっくり真似た文に驚き、佐伯は真の天才ではないかと感嘆した。しかし「巴里日記」はいわば随想集である。本当の日記はこの「パリ日記ノート」であるが、匠に名前を取られたので、この名前となった。
米子に離婚を迫られた佐伯は、米子との別れに踏み切れず、3月初頭パリ北郊のモンマニーに独りで写生旅行に出かける。パリに戻ってくると、米子に頼まれた荻須が、リュ・ド・ヴァンヴに格好なアパートを探してきた。
第28頁
(落合解説)中段2行目を武生市は「■げにしたやろ」と読んでいるが、実は「告げ口したやろ」と読むのである。
周蔵がパリを発ってから、米子の荒れる日が続く。悪阻のようにゲロを吐くのは、前の頁にも見えたが、神経性胃炎と観るのが自然ではないかと思う。先日周蔵に都合の良い話をした米子は、かねて口止めをしていた佐伯が、イシ(周蔵)にガス栓などの真相を告げ口したとの心配から、神経性胃炎が激化したのである。
離婚準備のために引っ越すアパートを、荻須が探してきたのは3月初旬である。この頁の記述時期を、武生市が4月〜5月とした根拠は判らない。しかし、本稿の「モランとモンマニー」で述べたように、佐伯一家が新居に移るのは3月15日である。
第29頁
(落合解説) 馬の眼とアンソールで新境地を開いた佐伯は、モンマニーの好風景に接し、新鮮な気分で画業に取り掛かる。今までの加筆分を埋める分の自分画をこれから沢山描く決心だが、日記の筆致にはいつも通り死の予感が漂う。
第30頁
(落合解説)「パリで別れた時、佐伯は意気揚々としていた」、と「周蔵手記」に記すが、その気分でモンマニーに行ったのである。モンマニーでの作品を気に入った佐伯は、乾いたらすぐに、支援者の吉薗巻に送るつもりである。
離婚するにも留学生たちへの見栄がある。薩摩アパートは日本人ばかりで評判になったら困るから、一旦リュ・ド・ヴァンヴに引っ越しして通常の夫婦を装い、改めて離婚する手筈にしたのである。佐伯も一旦は新居に入り、一家で暮らすが・・・・・・
第31頁
(落合解説)日記の最後は身内話である。米子は佐伯より前に兄の祐正と関係があり、祐正と結婚が決まった檀家の娘大谷菊枝は、祐正と米子の仲を知って自殺した。
後日、周蔵が祐正から聞いたところでは、祐正は確かに米子と関係があったが、寺の妻には向かない恐ろしさに躊躇していたら、佐伯が菊枝と親密になるのを見た米子が、実弾攻撃で二人の仲を割って入った。浮いた菊枝は重要な檀家の娘なので、祐正が妻に迎えることにしたが、自殺したという。
死が迫るのを実感した佐伯が、直接の死因はともかく、遠因は全部自分にあるとして、「米子ハンと荻須の事許してあげてください」と周蔵に頼んだのは、その熱血漢の性格を知っているからである。さもないと、米子に対していかなる挙にも出かねないと畏れたからで、翻って考えれば、直接の死因には米子の関与が濃厚である。
佐伯が気にかけていた彌智子の成人は叶わなかった。その薄幸と、彌智子を遺して世を去る佐伯の恨みも察するに余りあり、解説していてもさすがに胸を打たれる。佐伯の最期の願いである「ワシの画 頼みます」を、周蔵が果たせなかった。逆に、周蔵が米子の哀訴に応じて下描きを与えたことが、佐伯絵画の二元性を確定したのである。
そもそも佐伯絵画は、周蔵の所有ではなく巻の所有だったが、周蔵さえ決断していれば、佐伯の「自分画」の公開は不可能ではなかった。「自分画」を公開すれば二元性は忽ち解消され、佐伯の最期の願いを果せたことは間違いない。米子には、また別の救済方法があった筈である。
以上落合は、「武生市佐伯パリ日記」だけでは分かり辛い部分を、「周蔵手記」からの引用情報で解説したが、武生市には他にもたくさんの吉薗資料が寄託されており、それと併せて読めば、佐伯の画業と米子との関係については、落合解説と同じ理解を得られていた筈である。
だが武生事件は、正にその理解から生じた。これを読んで贋作扱いをする者が何処にいるか。「武生市・佐伯パリ日記」を作成した者は、とりわけこの内容が「真実の告白」に満ちたものと知ったのである。佐伯絵画の二元性が、したがって米子加筆品の誕生の所以が、ここに明らかにされている。
佐伯絵画の二元性の淵源と実態を明確にした「パリ日記ノート」を、何としても抹殺すべしと決意した特定の勢力が、武生市長と市役所を動かした。
これが明らかになっても困惑するのは武生市ではないが、選定委員会に始まる流れの中で武生市に入り込んできた業界勢力が、「パリ日記ノート」を世に出さぬように、武生市の行為に託して資料抹殺を謀ったのである。
不可解な筆跡検査になったのは、「パリ日記ノート」の内容を個別に否定するのが無理と知って「パリ日記ノート」と、それを含む吉薗資料を完全抹殺しようとして、筆跡鑑定の捏造を謀ったのである。
平成23年11月6日改正 落合莞爾