緊急寄稿 2013年4月11日
美術館収蔵の佐伯絵画の真贋を解く
紀州文化振興会 寄稿会員 彌梛澤丈夫
おことわり
以下に掲載する論文は、今回本会の寄稿会員となった彌梛澤丈夫氏によるものであります。
本来の論文の後半部のみを掲出しましたので、図番などは原本のものをそのまま用いており、1やAから始まっておりませんが、ご了承ください。
文中の「中島事件」については、本ウエブの「佐伯祐三」を見て下さい。
お尋ねは、本会宛にファクスか電子メールでどうぞ。
紀州文化振興会 編集部
一・茨城県近代美術館の佐伯贋作疑惑
1・「コルドヌリ」贋作疑惑の経緯
昭和63(1988)年、茨城県近代美術館(以下「茨城近美」という)は、佐伯祐三のサロン・ドートンヌ入選作と同じ図柄の「コルドヌリ」を6,900万円で購入しましたが、その9年後、石橋美術館所蔵の「コルドヌリ」との比較で、靴の底などの描写が曖昧で不自然さが認められることから、落合莞爾氏により贋作と指摘されました。
落合氏から疑義追及の内容証明書簡を受けた同美術館の加藤貞雄館長の対応は素早く、1997年(平成9)年7月19日付毎日新聞茨城版に、「県近代美術館が科学鑑定、偽物の証拠出ず、真贋問題に決着(見出し)」と発表して、一応幕を下ろした形になりました。新聞発表の内容は次の通りです(文面通り・抜粋)。
県近代美術館が科学鑑定 偽物の証拠出ず 真贋問題に決着
県近代美術館が所蔵する佐伯祐三作の油絵「コルドヌリ(靴屋)」について、贋作の疑いを指摘されたことから、同館がこの絵の科学鑑定を行ったことが、十八日分かった。鑑定の結果、偽物とする証拠はなかった。公立美術館が、真贋判断のために科学鑑定をおこなうのはめずらしいという。
この絵は1925(大正14)年ごろ書かれ、同館が88年、東京都内の画廊から6900万円で購入した。これについて、94〜5年に福井県武生市を舞台にした、佐伯の「未公開作品」を巡る真贋論争にかかわった都内の経済評論家、落合莞爾氏(五六)が、五月に出版した著書で「(靴の)踵あたりは、絵筆を握った人物が、これを『靴の踵』と知って描いたものとは到底思えない」などと記述。毎日新聞の取材にも「贋作と確信している」と述べた。
同館は「念のために」として先月、都内の業者に絵の鑑定を依頼。エックス線撮影や、キャンバスの地塗りの電子顕微鏡撮影などの結果、地塗りは胡粉(貝殻の粉〕が主成分で、他の佐伯作品の一部にも同成分がある。下に別の作品が描かれた跡がない、などの報告書が提出された。
加藤貞雄館長は「完全な証明は難しいが、来歴などから総合判断して真作だと言える。落合氏の指摘には事実誤認が多く、これ以上かかわらない」として、落合氏への対応は取らないとしている。(網代太郎)
資料7A : 佐伯祐三作とされる「コルドヌリ」10号 茨城県近代美術館蔵
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資料7B: 佐伯祐三の代表作とされる「コルドヌリ」20号 石橋美術館蔵
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本稿では、茨城県が公費で購入した佐伯祐三作とされる「コルドヌリ」が、果たして「真作であろうか?」の観点から再検証します。
その前に落合氏の指摘した下記4点を検証したいと思います。落合氏が贋作を疑う根拠は次の4点です。
@作者自身が自分で一体何を描いているのか判っていないことが、臆面もなく露出しているからである。この絵を石橋美術館のものと並べて比べれば、説明の必要もなかろうが、一二点を具体的に指摘すると、扉の左側の二つの物象−−−これが何なのかを、贋作者は全く理解していないのである。このうち一つは、実はつり下げられた婦人用の靴であり、もう一つは、製靴用の革を束ねて針金か紐で押さえたものである。石橋品は、写真を拡大すると靴や皮と分かるが、茨城品は拡大するとますます正体が判らなくなる。次に茨城品は、扉の右側の壁に、斜め長方形に朱色が刷れているが、正体が全くわからない。これは石橋品を観ると、新聞受けに投げ込まれた新聞だと、はっきり分かる。つまり、贋作者は、石橋品の画面にみえるこれらの物体が、いったい何であるのかを全く確かめようともせず、あいまいな気持のまま、画布に向かったのである。
Aむろん、北画の閨秀米子がこんな絵を描く筈はない。よほど腕の落ちる画家が、習作かアルバイトのために描いたものだ。
B寸法も十号くらいなのは、どこかおかしい。
C他にも多々あるが、これ以上指摘する必要もないだろう。
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なお本稿は、この「コルドヌリ」が疑わしい作品であることを県美術館関係者が熟知していた場合も想定して、検討を進めました。その理由は、加藤貞雄館長の新聞発表を読めば、明らかな矛盾と挙動不審が見えるからです。
新聞発表を見る限り、加藤館長が真作と断定した根拠とは、下記の@A、すなわち地塗りと来歴しかありません。
@地塗り成分が胡粉であり、他の佐伯作品の一部にも同成分があること。
A作品に確かな「来歴」があること。
裏返せば、茨城コルドヌリは右の2つ以外に何の物証も来歴もないことを認めていることになります。したがって、右2つの根拠・理由が失当であれば、真作でない(即ち贋作である)可能性が極めて高くなります。@Aに関する新聞発表の内容をよく読めば、既に3つ目の重大な矛盾が生じていることが解ります。
(A) そもそも胡粉を地塗りに使用した油絵は世に極めて多く、絵の描写を度外視して、「胡粉の地塗りだから真作」というのは、「酢を使っているから寿司幸の鮨だ」というようなもので、初から全く意味を成していません。
この後の中島裁判(平成14年判決)で行われた「吉薗佐伯についての裁判真贋鑑定」で、油彩「冬景色」の地塗り成分から胡粉が検出されましたが、青木茂鑑定人(多摩美術館長)は、「世の佐伯作品には胡粉の地塗りが稀で多くは白亜である」ことを、贋作判定の理由の一つに挙げています。
この青木説が正しいのなら、茨城近美が胡粉地塗りを以て真作の唯一の理由とするのは理解し難い、と言わねばなりません。
(B)二つは、落合氏は地塗りの上に描かれた絵を問うていますが、加藤館長は絵画についてまったく回答せず、落合氏の指摘に反論していません。
落合指摘の最重要点は、毎日新聞が報道したように、「(靴の)踵あたりは、絵筆を握った人物が、これを『靴の踵』と知って描いたものとは到底思えない」というものですから、絵の描写について反論する必要があり、一切反論をしないということは、少なくも反論不能、ないしは落合指摘を黙認ないしは追認したことになります。
要は、対象を明確に認識せずに形だけをなぞったことが眼に見えている画法については全く言及せず、論点を逸らして「胡粉地塗りは本物の一部と共通する」と強弁することで、いかにも堂々と真作主張をしているように、純朴な茨城県民に見せたつもりでしょう。
この釈明手法は、あたかも「このカニとタコは寿司幸の使うようなネタではない」と追及されて、「鮨飯には酢を使っている。これは寿司幸と同じだ」と答えたに等しく、こんな「あっち向いてホイ」式の言い訳など、今どき誰にも通用しません。
ところが毎日新聞は、この手品的釈明を少しも追及しないで、そのまま受け入れて県下に報道しました。県民財産を管財する行政庁の美術館の不適切・不誠実な行為をマスコミが黙認サーヴィスした1例であります。
(C)三つは、美術館側は茨城コルドヌリには「確かな来歴がある」と発表しながら、いかなる来歴か発表しないので、疑義提出者の落合氏は固より、県民の誰一人として、それが正当かどうか判断できません。「この鮨ネタの仕入先は確かな店だ」と言いながら、魚問屋や産地を明かさないのと同じです。贋作疑惑に反論するための新聞発表なのに来歴を開示しないのは挙動不審の極みで、質問者と茨城県民を愚弄しています。
要するに美術館側の新聞発表は、単に真作であるとの館長の主観的見解を強弁したに過ぎません。こういう新聞発表の機会においてこそ、県立美術館として県民の判断に資すべく、物証や来歴を具体的に示すのが県政本来の姿勢と思われますが、現実は正反対でした。
そこで彌梛澤は、市民が行政庁に対して有する請求権の一つである情報開示請求権を行使し、佐伯祐三作とされる茨城県所蔵の「コルドヌリ」に、いかなる物証・来歴が存在するのか?をテーマに調査を行いました。
調査対象は主として、前掲新聞記事中の下記4点に絞り込むことにしました。(青字は事実関係の調査または再検証の対象で、末尾括弧内は確認すべき事項を示しています。)
@ 「鑑定の結果、偽物とする証拠はなかった。公立美術館が、真贋判断のために科学鑑定を行うのは珍しいという。同館は『念のために』として、先月、都内の業者に絵の鑑定を依頼」
(都内の業者とは誰か? 中立鑑定機関であるか、否か?)
A 「X線撮影や、キャンバスの地塗りの電子顕微鏡(EPMA)撮影などの結果、地塗りは胡粉(貝殻の粉)が主成分で、他の佐伯作品の一部にも同成分がある。下に別の作品が描かれた跡がない、などの報告書が提出された」
(右事実の確認)
B 「同館が88年、東京都内の画廊から6900万円で購入した」
(都内の画廊とは誰か?画商の社会的信用度はいかに?)
C 「館長は『完全な証明は難しいが、来歴などから総合判断して真作だと言える。落合氏の指摘には事実誤認が多く、これ以上かかわらない』として、落合氏への対応は取らないとしている」
(いかなる来歴か? なぜ来歴を発表しないのか?)
(落合氏の事実誤認とは何か? それを明確にしないのは何故か?)
2・物証の再検証 −廃棄された報告書と隠蔽された出品票記録−
まず、茨城コルドヌリの真作証明の資料とされる「科学鑑定調査報告書」と来歴の記録の2点を確認する必要があります。そこで2009年3月8日付の「特別観覧申請書」によって茨城県近代美術館に開示請求しました。
ところが美術館側から「『科学鑑定調査報告書』は既に廃棄処分した」との回答があり、また「所蔵品台帳には来歴を示す記録も無い」と言われて出鼻で躓きましたが、一応館員の言の通りと判断して、一旦は調査の中止も考えました。それでも諦めきれず、それら記録の片鱗でも無いか、その形跡は窺えないだろうか、と足跡調査の聴取を試みました。
すると加藤館長が新聞発表で仄めかした来歴物証とは、2点の「出品票」であることが美術館の「メモ記録」により判明しました。そこで、過去の展覧歴を示す2点の「出品票」の保管場所を調べるため、コンピューターに保存された「所蔵品台帳」を確かめると、来歴欄は空欄になっていました。消された形跡が窺えます。そこで「出品票」の現物を館内くまなく探して貰いましたが、どこにも発見されません。
どうやら新聞発表に関わる物証は、全て意図的に隠滅されていることが推察されます。もはや打開策は無いと思われましたが、この事態を憂慮した学芸員の自発的協力により、館内で聞き込み調査をした処、「科学鑑定調査報告書」の不揃いの写しを館員の一人が私的に保管していると判り、不完全ではあるがそのコピーを入手することができました。
さらに、館外(ポーラ美術館)に貸出中だった茨城コルドヌリが返却されると聞いたので、美術館に対して、搬入の際に額縁の裏板のネジを外してのキャンバスの点検を申し入れたところ、追って朗報がもたらされました。キャンバスの上部に貼られた2点の「出品票」を発見したというのです。
そこで、その画像の撮影をお願いし、2009年3月15日付「特別観覧申請書」を再申請し、メール添付にて下記([13]の資料8)で示す画像を送付して貰いました。約1ヶ月間に数度の随時・随意の聴取調査だけで、廃棄・隠蔽されていた記録の一部が復元され、物証も発見することができたのです。これは事態の重要性を察し、職責を全うするために学芸員が傾注した自発的努力の賜物として、心底感謝に耐えません。茨城県民に代わって本稿が顕彰する次第であります。
右記録・物証・資料と、中島事件(実質は佐伯真贋事件)における鑑定捏造一件で得た知見に基づき、追って再検証してみました。結果を一言で申せば、【付随する「出品票」が出品歴と一致しない】、ならびに【贋作の可能性を示す検査結果を記した「科学鑑定調査報告書」が隠蔽・隠滅されていた】という2点の重大事実であります。
これにより、例の毎日新聞発表は、「贋作疑惑隠しから県民の目をそらす意図において加藤館長が主導し、これにマスコミが協力して行ったもの」で、あってはならぬ「県民への背信行為が「官」と「報」の共同謀議で行われていた事実」が判明したのであります。
以下にその詳細を示しますが、その前に強く指摘せねばならぬことがあります。
本件「コルドヌリ」贋作疑惑事件では、「美術館に対し受身のマスコミが真実を知らずに加担した体となった」との毎日新聞網代記者の釈明も聴く余地はありましょうが、官庁批判を自ら封じた卑屈な報道姿勢が、県民の批判を浴びることは言うまでもありません。よって、毎日新聞が、右事実を重々に認識したうえで再取材して市民目線で報道するのであれば、今からでも取り返しがつこうかと思います。
自由報道ネット社会では、「佐伯に関する真贋報道がいかにも画商側や美術館側に偏っている」、との一般市民からの批判が今や定着しつつあります。誤報された事実を再点検した結果がネット上で開示されている現在、右のみならず最大の佐伯祐三コレクションを擁する大阪市立美術館が、佐伯の妻米子による加筆疑惑を未調査のままで解明せず、「佐伯虚像」を、世界に発信する姿勢も問われているのも市民衆知の事実であります。
情報開示請求によって入手した資料・画像によって精査・再検証した茨城コルドヌリの調査の経緯と結果を、以下に示します。
「1」 公立美術館の科学鑑定とは?
前出の新聞記事の中で、「公立美術館が、真贋判断のために科学鑑定を行うのは
珍しいという」とは、どこか本末転倒のような言だが、その意味は何か?
これを裏返せば、@日本の美術館では購入審査に際し、添付された来歴情報だけ
で判断し、科学鑑定による真贋評価を行わずに購入を決定していることです。つまり行政購入の基本姿勢を示す報道では、市民目線で見れば曖昧な御手盛り審査の不愉快な事実を示していることになります。県予算での購入に際し、最重要課題の真贋審査がこんな姿勢で良いはずはない、と思うのは筆者だけではないでしょう。
また、A公営美術館の収蔵品が、単に展観だけを目的としていることも明らかになりました。公共的収蔵品は、公共財産として本来歴史的・文化的探求の基準とされるべき文物ですから、仮に真贋疑義を生じる事態があっても、それを機会に史実を見直すことで歴史・文化の研究を進めるための便とすべきものであります。しかるに「公立美術館が、真贋判断のために科学鑑定を行うのは珍しいという」のは、美術館者・行政庁・マスコミ等らの関係者が、本来の責務を勘違いしている証拠ですから、今さら釈明の必要もなく、関係者の見識が問われましょう。
公式論は以上ですが、以下の諸事情を総合勘案すると、科学鑑定の流れの中に別の側面が見えてきます。
まず、彫刻が専門の加藤館長は洋画事情に昏いため、茨城コルドヌリを疑問視したことがなく、「贋作疑惑なぞ、とんでもない言いがかり」と極め込み、公立美術館では異例とされる科学鑑定を決断したものと想像されます。一般の公立美術館がこのような場合に頬被りするのは、偏に藪蛇を怖れるからであります。
次に、画布の下塗りから胡粉が出た藪蛇に驚いた加藤館長が、慌てて洋画に詳しい美術界のプロに尋ねたら、茨城コルドヌリの評判が芳しくなかったのでしょう。利害共同体の仲間として他館の批判をしてはならない掟の中で、表立っては言わないが、裏では真贋や購入事情を巡って色んな噂が飛び交っています。ことに茨城コルドヌリに関しては、石橋財団所蔵コルドヌリとの比較で疑問視する洋画専門家が結構多いのです。
さらに来歴と購入事情を調たところ、何か不都合なことが判ったので、慌てて調査資料を隠滅したのではないかと思います。事実それを窺わせるに充分な形跡と物証・館員証言が得られたので、順次示します。
[2]コルドヌリは世に何点あるか?
佐伯祐三が描いたとされる茨城コルドヌリと同題・同図柄の作品は、世に4点が知られていますが、中には贋作も混じるロシアン・ルーレットの疑いもあり、注意を払うべきことと思われます。4点とは、@1925年にサロン・ドートンヌに入選した「コルドヌリ」は、当時ドイツ人が購入し、現在は所在不明であります。他にはA石橋財団所蔵の「コルドヌリ」と、B個人蔵「コルドヌリ」があります。この2品は20号ですが、C茨城コルドヌリは、佐伯には珍しい10号作品です。
佐伯研究家の朝日晃氏は、昭和43年12月号芸術新潮において、「コルドヌリー」は世に5点存在し、「サロン・ドートンヌに出品された作品は、初日にドイツ人に買われてしまっている。しかし、それ以外に、現在4点の作品が東京に現存している。ということは、5点制作したわけだが(後略)」と述べています。
同じ「靴屋=コルドヌリ」の題でも、図柄の異なる横長の作品(以下横長コルドヌリという)が1点ありますが、「佐伯の生涯に、同一図柄の作品制作は多くあった」と言う朝日氏は、横長コルドヌリを5点には含めていないと思われますから、朝日氏しか知らない未公開のコルドヌリが、ほかに1点あることになります。
平成17 (2005)年の練馬・和歌山佐伯展図録の「作品出品歴および画集掲載一覧」によれば、作品236の茨城コルドヌリは、昭和43年の大阪心斎橋大丸展で初めて姿を現し、2回目が1ヶ月後の東京セントラル美術館展、3回目が5年後で昭和48年の香川県文展です。ここまでは個人蔵ですが、4回目の平成2年の下関市立美術館展以後は茨城県蔵として出品されています。
業界佐伯男と呼ばれる朝日晃氏は、初出展の心斎橋大丸佐伯展で、当然この「コルドンヌリー」を見た筈ですが全く疑義を呈せず、真作と認めたわけです。図録の写真では明らかに茨城コルドヌリで、サイズも54.0×47.0で、全く同じです。
大丸展の1ヶ月後の東京セントラル画廊の佐伯展は大丸に比べて出展数が倍増しましたが、同じく朝日新聞社との共催であり、巡回展と見られます。この展覧会の図録は写真が茨城コルドヌリですが、サイズが全く異なります。その理由は後述します。
さて茨城コルドヌリは、加藤館長の依頼した修復研究所の所見では、日本での制作品と判断されていました。茨城コルドヌリの出現以来、真作と認めてきた朝日氏に、現状での真贋所見を聞いてみたいところですが、調査結果が国内制作と出た以上、従来現場制作説を強固に唱えてきた朝日氏にすれば、贋作と云うしかないと忖度されます。
こうしてみれば、茨城県教育委員会が茨城コルドヌリの購入に当り、確かに審査・来歴調査をしたかどうかが、気になります。今回の情報開示請求調査では、購入時の審査・調査資料まで廃棄されていたことが判明したので、全ての資料を入手できたとは言えませんが、少なくも加藤館長が何を隠蔽したかを知ることはできましたから、「館長にとって何が不都合な事実であったのか」はが判明しました。
すなわち館長の不審な挙動から、茨城コルドヌリの贋作疑惑を異例に処理した事実が知れ、真贋判明を妨害する意図と、その底辺に横たわる真相までもが読み取れたわけです。
[3]来歴資料の欠如
茨城県近代美術館の所蔵品台帳には、東京の画商「潟tジカワ画廊」から6900万
円で「コルドヌリ」を購入していた事実が記録されています。
そこでフジカワ画廊が購入委員会に提示した筈の来歴資料の情報開示を求めたところ、「記録に無い。いや記録を示す資料も無いのです。ただし記憶に無いということでもありません」との禅問答風の回答でした。要は、「美術館では来歴を記録しておらず、また購入を決定した教育委員会の当時の記録も廃棄されているから確認できない」と謂うのです。
致し方なく、「ならばフジカワ画廊に控えとして残っているはずだから、尋ねた上でご回答を戴いてください」と問うたところ、「実は、フジカワ画廊は、納入まもない平成初期に廃業し、その後行方が知れぬので、尋ねることができない・・・」とのことで、来歴の追跡調査は壁にぶつかりました。因みに、フジカワ画廊は、東美の重鎮美津島徳蔵(本名水嶋徳蔵)氏が経営していましたが、平成9年に亡くなり、以後は場所を移してフジカワ画廊の役員天方光彦氏が活動中ですから、行方知れずという事ではないと思われます。
これで、重要記録を保管せず、重要記録の廃棄を気にも留めぬ美術館の当時の姿勢、ならびに後日になって責任を問えない信用度の低い画商と取引していた県当局の甘い姿勢が、少なくとも判明しました。
[4]問題業者へ科学分析を依頼
茨城県は、県有財産となるべき作品の鑑定調査を、県民を代行して行う職責を負っています。したがって適切な鑑定調査を行うためには、(利害関係のない)中立の検査機関に依頼するのが当然です。
ところが、加藤館長が化学分析を依頼した相手先とは、平成6年の武生事件で、骨の髄まで東美色に染まっていることを示した業者・修復研究所)でした。東美の一員で、佐伯絵画の真贋問題において明らかに利害関係を有する修復業者を加藤館長が選定し、真贋判定のための化学分析を依頼したのは妥当とは思えません。現に、この業者は、後の中島裁判において、資料改変による証拠捏造を敢えてしています(第三部参照)。
尤も、茨城コルドヌリの贋作疑惑では、修復研究所の「調査報告書」中の不都合な記載部分を加藤館長が勝手に隠蔽し、その後に同報告書を廃棄処分した事実に照らせば、その業者よりもなお加藤館長の方が、信用度が低いと言わねばなりません。
[5]「科学鑑定調査報告書」の秘密廃棄
本調査の時点で、当時の加藤館長以下の学芸員は、1人を除きに全員が退任しています。残られた1人も、新聞発表当時は蚊帳の外にいて一傍観者に過ぎなかったとの証言があり、当時の事情を直接知る者への追跡聴取はもはや不可能です。
さらに同館では、「科学鑑定調査報告書」の原本を保管しておらず、「原本行方不明」との回答が返ってきました。行方不明の事情を問うと、「支出証明資料として同報告書の原本を県庁宛に送れ」との館長指示に従ったところ、保管期間経過措置により県庁が廃棄処分してしまったとの顛末にて行方不明扱いとのことです。その際、あえてコピーの保管もしなかったといいます。
公費で高額発注した鑑定資料を、故意に後に残さぬ不審な湮滅処理とあっては、管財意識の低さに唖然とさせられます。そこで、公立美術館として書証の管理不備を追及したところ、追って学芸員から、「館員Aが個人的理由でコピーを所持していることが判明したので、交付できるかもしれない」との親切な連絡が入りました。
どうやら彌梛澤の詰問に対して責任を感じ、真摯な努力をなされた様子かと思われます。但し、「4つの開示条件に同意頂けないと、その写しを交付できそうにない」と申されました。
第一条件は、このコピーとは、コピーのさらなるコピーであること。よって提出予定の
コピーとは、コピーのコピーのコピーとなることをご承知なされること。
第二条件は、したがって報告書に脱落部分がある可能性をご承知いただきたいこと。
第三条件は、館員個人の立場で積極的に協力した情報開示であるから、そのコピ
ーのコピーのコピーの出所は匿名条件とすること。
第四条件は、右報告書の写しを交付するにあたり、同報告書の作成者である修復
研究所に対し、予め事前告知する館内規則にご同意戴きたいこと。
[6]修復研究所への事前告知
右の提示条件はおおむね了承しましたが、第四の事前告知条件だけは、おいそれ
と呑むわけには参りません。現時点で原本廃棄が判明している貴重資料の「科学鑑定調査報告書」の、唯一の控え(副本)を保管している修復研究所が、今回の情報開示請求を訝しく感じて、加藤元館長に密かに知らせる可能性もあり、副本を隠匿または廃棄して証拠湮滅を行うことすらも懸念されたからです。
そこで第四条件の受諾を渋り、修復研究所への事前通知は義務なのか?と問うと、「館内規則にて不可欠な手続である」と終始回答される次第です。美術館側が、「これは館内規則なので致し方ないが、修復研究所には拒絶権が無いから、必ず交付されるので、心配されぬよう」としきりに説得されるので、致し方なく事前通知条件に同意することにしましたが、念のため、調査報告書の入手後に「交付先である私の名前を修復研究所にお伝えされたのか?」と尋ねました。
探索者(情報開示請求者名)が誰かを知られれば、狭い美術業界ゆえ加藤元館長筋に伝わり、調査妨害に会うことも覚悟せねばならないからです。館員はが「多分、おそらく?それは伝えなかったと思いますが・・・」と回答されたので、情報開示請求者の個人情報非開示の原則を心得たその口ぶりを一応信頼しておきました。
[7] 「科学鑑定調査報告書」の脱落
ようやく受領した「科学鑑定調査報告書」の、不揃いのコピーのコピーのコピーを得
て点検したところ、随所に脱落・不備が多いのです。受領した「調査報告書」の点検状況と特に判明した非開示部分を、以下に記録いたします。なお非開示部分には、隠匿者(加藤館長派)にとって不都合な調査結果が記載されていると看做して良く、これは「当事者しか知らない秘密の暴露」を見抜く伝統的方法です。
(イ)「調査報告書」5頁および「写真解説」5頁の計10頁の写しは、いずれも日付と頁番号が記載されておらず、不明の脱落部分が何頁目なのか確認不能です。修復研究所が後日の中島事件で裁判所に提出した調査報告書にも頁番号は付されているように、この種の報告書では頁を付すのが常識です。
どうやら脱落部分が何頁目であるのか知られぬよう、頁番号を消してコピーした疑いも生じます。少なくとも加藤館長時代か、その後になって、不都合な頁を脱落させ、調査日付と頁番号を消してからコピーした者が居たようです。
(ロ)新聞発表でのX線撮影のほかに、赤外線・紫外線蛍光の各撮影が実施されていました。だが、本来添付すべき写真と所見が脱落していました。また試料片CのEPMA写真の頁も脱落しており、これでは地塗りと顔料の再検証が不可能です。
(ハ)「地塗層報告書」には「MDG(X線回析)を行った」と記されていますが、X線回析パターン測定図とそれに基づく所見の頁も脱落していました。これでは回析結果の再検証が不可能です。
(二)「写真解説」5頁だけが手書きです。中島裁判の調査報告書の写真解説でも手書きでしたが、これと見比べると一目瞭然に、宮田順一氏の筆跡ですから、宮田氏による所見であることが判明しました。
(ホ)「調査報告書」は3部構成で、1部目は、初めの1頁目のみが修復研究所代表渡辺一郎の名で現状所見を記していますが、年月日が脱落しています。(期日の隠蔽は、廃棄のプロローグかと思われます)。
2部目は、1部目に続く2〜5頁の「地塗層調査報告書」で、前記(二)に照らし宮田分析人の所見と認められます。
3部目は、続く6〜10頁の「写真解説」です。ところが2部目の「地塗層調査報告書」の5頁目(「付記」表示の所見)のゴシック体が2〜4頁とは異なっており、1部目の渡辺氏の「総合所見」のゴシック体に一致しました。頁数が未記載ゆえ、おそらくコピー後に綴じ順を誤ったと思われ、これは本来1部目の「総合所見」の2頁目に該当するものと推定されます。(脱落頁を見抜かれないためか?)
上記の状況証拠からして、どうやら原本を改ざんした館内回覧用コピーが一時期存在していたが、それすらも廃棄されていた様子が窺われます。
[8] 修復研究所は茨城コルドヌリを国内制作品と指摘
「付記」として表示した所見には、「画布を留めてある釘の状態を見ると貼り直したあ
とはない。この様なことから日本国内で描かれた可能性が高いと考えられる」としてい
ますが、これは極めて重要な事実を指摘しています。(この指摘部分こそ資料廃棄の動機を生んだ記述部分かもしれない?)
朝日晃氏持論の佐伯現場制作説に照らせば、茨城コルドヌリは当然贋作となりますが、もし真作であるならば、今では通用しないと言われる朝日氏の現場制作説を改めて否定する新たな事実とも言えます。
とはいえ、アトリエ制作説に立ったとしても、茨城コルドヌリが、第2次渡仏の資金集めのために、佐伯が日本のアトリエで制作した「コルドヌリ」といえましょうか? 他の佐伯滞仏作品および帰国期の作品の例に照らしても、第1次渡仏から帰国していた時期に、佐伯祐三が日本のアトリエで茨城コルドヌリを制作した可能性は極めて低いというしかありません。
そもそも、サロン・ドートンヌ入選のコルドヌリが、実は米子が仕上げていたことを佐伯が自筆資料に記している事実を落合氏は発表しています(第一部参照)。それと同じ制作過程と見られる石橋コルドヌリに比べると、多くの点で異なる茨城コルドヌリは、米子が描き、ないしは仕上げたものとは思えません。つまり米子以外の贋作者を念頭に入れなければならないのです。
以上の通り、「日本国内で描かれた可能性が高い」とする修復研究所の「調査報告書」に基づけば、茨城コルドヌリは限りなく贋作(米子の加筆作でもない)の可能性が高いと言わねばなりません。秘かに期待していたであろう「調査報告書」に目を通した加藤館長は、これでは茨城コルドヌリの贋作疑惑が晴れるどころか、以前にも増して贋作説に傾かざるを得ないと知り、苦悶されとのでしょう。
そもそも、加藤館長が新聞発表で述べた「来歴などから総合判断して真作だと言える」との大本営発表は、物証に対する論証もなく心証判断だけで、しかも、茨城コルドヌリの国内制作説の根拠となる「調査報告書」を秘かに廃棄したのは正当性を自ら放棄したことになり、その動機と意図まで自ずと知れましょう。
加藤館長は「落合氏の指摘には事実誤認が多く」と新聞発表しましたが、毎日新聞がいやしくも市民派マスコミであるならば、「事実誤認が多いのはむしろ加藤館長ではないのか?」と批判すべき事態です。尤も、加藤館長は事実を誤認したのではなく、意図的に不都合な調査事実を隠蔽し、県民に対して事実を捻じ曲げて発表したのです。
よって本稿は毎日新聞に代わり、「来歴などから総合判断して贋作だと言える。加藤館長の大本営発表には事実隠蔽が多い。」と内容を改めて、今や日本はむろん世界中の市民からマスコミを上回る信頼を勝ち得つつあるインターネット報道へ、優先配布する選択も行使したいと考えます。
[9]サインの検証をせず
「現状所見」のワニス層に対する記述は、「裏面に沿ったしみがあることからオリジナ
ルのワニスではなく、後に塗布されたものと考えられる」とあり、紫外線蛍光写真で見た所見は、サインはワニス層の下に描かれている、とあります。
これだけを以て、茨城コルドヌリの佐伯祐三サインを真正とするのは早計です。通
常ならば他の佐伯作品のサインと比較して判定しますが、加藤館長はそれを省き、真作判断の発表を急ぎました。科学鑑定の外観を以て学術的体裁を装い、その実は肝心な重要情報を公表しないのでは、県民の希望とは裏腹に、非学術的な真贋検証作業を行った、として非難されねばなりません。
[10]胡粉下塗りをめぐる修復研究所の御都合主義とは?
「現状所見・付記」は、宮田氏ないしは修復研究所長のものと思われますが、修復
研究所がこれまでに修復した佐伯作品58点の内、地塗層の分析を行ったのは、1997年時点では全部で50点であること。そのうち、地塗層が胡粉を主成分とするものが茨城コルドヌリを含めて4点、胡粉・鉛白混合のものが4点であること、即ち胡粉を含む地塗りの合計点数が8点であったることを示しています。
ところが、後日の中島裁判では、修復研究所長歌田眞介氏が鑑定補助者として裁判所に提出した2000年12月25日付「総合所見」では、1995年刊「修復研究所報告」から引用した総括表を添付した上で、地塗層の分析を行った大阪市蔵佐伯作品42点の内には「胡粉を主成分とした地塗層は無く、胡粉・鉛白混合が3点、即ち胡粉が含まれる地塗りの総点数は3点であった」と証言しているのでます。
これは、検査対象の吉薗コレクションの佐伯作品「冬景色」の画布地塗りが「胡粉を主成分とすることが佐伯作品としては異例である」と強調することで、「冬景色」が贋作に見えるように裁判官を誘導したものする目的と見れば、筋が通ります。つまり修復研究所は、茨城コルドヌリを含む佐伯作品4点の地塗りが胡粉主成分であることを1997年には確認していたのに、2000年の中島裁判ではその新事実を隠して、より古い1995年の「修復研究所報告」をわざと引用したわけです。
これは、修復研究所が、裁判所の依頼を受けた鑑定人でありながら、裁判で不利に立った顧客のために、「訴訟対策手品(偽証)」を行った事実を示しています。つまり修復研究所は、顧客の都合に合わせて、分析事実や典拠資料・記録を出し入れしたり、間引いたり、コメント(評価)調整するなど、顧客の便利屋を演じることで得意先にサーヴィスしていた疑いが炙り出されたのであります。
どうやら彌梛澤は知りたくもないことを知り、見れば目が潰れる真相を見てしまったことになるのでしょうか。
[11]鑑定資料の使い分けで前後矛盾
茨城コルドヌリからは逸れますが、後日の中島裁判で裁判所が依頼した鑑定人らは、中島誠之助被告を勝訴させるために、被告にとって不都合な鑑定結果を隠蔽する必殺仕掛け人の本当の仕事だったように見受けられます。
第三部で明らかにしたように、「冬景色」を贋作にする際に、青木茂・歌田眞介・宮田順一の3氏の採った必殺仕掛け人的手法は、被告にとって本来不都合な筈のルチル型チタン白の検出を、典拠文献の改変により捏造した証拠によって、逆に利用することでした。
また、歌田鑑定補助者(総合所見担当)は、吉薗コレクションの内4点の科学分析を行い、地塗層は胡粉が2点、亜鉛華が2点であったから、引用した総括表との間に「共通点は極めて少ない」との所見を示すことで同様の仕掛けを成就しました。つまり、被告にとって都合の悪い1997年の新しい検査結果を隠蔽し、都合の良い1995年当時の総括表を表に出すという操作(反則ワザ)によって裁判官の誤審誘発を図り、中島被告を有利に導いたものと認められます。
修復研究所の元所長歌田眞介氏が鑑定補助者として提出した「総合所見」は、佐伯作品の地塗層の有する意味を、故意に古い資料を用いて改変したもので、宮田分析者が引用文献の内容を削除・書き換えして偽装した手口と酷似しています。この事実に照らせば、文書の偽装的解釈が修復研究所の常套手口らしく思われますが、歌田氏の「総合所見」は単なる論証の誤りではなく、宮田氏との連携作業で相乗効果を生じ得たと認められますから、裁判官の誤審を誘導し、日本近代美術史の一部に、新たな偽史を挿入したのであります。(詳しくは第V部をご覧下さい。)
修復研究所・画商・美術館長らの運命共同体による、このような不遜の連携活動は、社会的・文化的・学術的に甚だしい弊害を生じさせています。中島事件の誤審判決は、美術界・学術界を誤らしめ、また利害関係者の著書「画商の眼力」でも援用され、偽史追認の広報宣伝が積極的に行われるなど、広がりつつある弊害を憂慮する善良有識市民の声はネットに広く反映され始めているのです。
[12]館長が個人的に分析調査を発注
このままでは、茨城県民の税金は不適切な高額美術品や不公正な鑑定調査に支出され続けていきます。少なくも捏造手品型鑑定への公費支出が訝しいなら、その鑑定費用の県への返還を県民有志が請求するのは、妥当な市民権の行使です。茨城県民であればどなたでもその請求資格を有しているからです。
茨城県近代美術館から修復研究所への科学鑑定調査の依頼も新聞発表も、いずれも加藤館長が個人的に発注・発表したもので、美術館としては正式に発注していない以上正式発表とは言えないと証言する館員がいます。
とすれば加藤館長は落合莞爾氏の内容証明による疑義追及に怖れを感じ、救いを修復研究所に求めて、何をがな真作証明の材料を発見して貰うなり、必殺仕掛け人を演じてもらおうと希望してやまなかっしたのでしょうか。ところが、あに図らんや「胡粉主成分」と「国内制作」と云う想定外の調査結果が出てきたので、調査資料を隠蔽したまま抹殺せざるを得なくなったものと推量されます。
右を非公式に聴取した筆者の証言だけでは伝聞扱いとなりましょうから、市民の指摘を受けた信任厚く見識ある県知事の指示と館内所定の手続きを経て追って公式調査すべきものと思います。たとい形式的に正式発注の体裁を装っていたとしても、調査報告書の外形だけを悪用し、その後報告書の利用を制限するために廃棄処分にしたのでありますから、誰から見ても不正というほかありません。
[13]出品票の怪
筆者が館員の聴取中に、美術館の自主(自浄)的調査により、茨城「コルドヌリ」の来
歴を示す出品票2点が貼付されていたことを示すメモ記録の存在が判明しました。
探し当てた出品票は、キャンバスの木枠に貼ってあり、木枠の上部左に「神奈川県立近代美術館鎌倉」(以下「神奈川近美」という)の出品票、木枠の上部右に「香川県文化会館」(以下「香川県文」という)の出品票の2枚が貼付されていました。神奈川近美の出品票は1952(昭和27)年開催の「佐伯祐三展」のものとされていますが、神奈川近美に問い合せたところ、平成21年3月7日に学芸員から、「1925年作とされる20号の「コルドヌリ」の出品記録ならあるが、10号「コルドヌリ」の出品は記録されていません」との回答を得ました。
神奈川県美の出展作品は、平成17(2005)年発行の練馬・和歌山展図録(『佐伯祐三―芸術家への道―』)の中の「作品出品歴および画集掲載一覧」の作品175に当ります。題名は「コルドンヌリー」で、サイズは61.0×73.0とあり確かに20号ですが、これは茨城コルドヌリではなく横長コルドヌリで、神奈川県美の図録では、サイズを58.9×72.0としています。
茨城コルドヌリに付いていた神奈川県美の出品票は、題名も同じ「コルドンヌリー」で、紙焼けが認められ、近来の偽造品ではなく本物の出品票と思われます。茨城コルドヌリに全く別品の横長コルドヌリの出品票(真偽は不明にせよ)が付いているのは、正に近代頻発のミュージアム怪談やら七不思議といえるでしょう。横長コルドヌリの神奈川県美の出品票が、そこに出品していなかった茨城コルドヌリに付けられていた経緯を考察すれば、真相がおぼろげに見えます。が、思い込みは危険なので、取りあえず茨城コルドヌリに神奈川県美の別作品の出品票が付いていたという事実だけを記録に留めることとします。
以上を彌梛澤と落合氏は電話・メールと公開図録で直ちに確認できました。とすると当時の茨城県購入委員会は一体いかなる確認をしていたのか?疑念が生じます。
いずれにせよ、加藤館長が新聞発表で言明した「来歴などから総合判断して真作だと言える」とは善くも謂えたもので、それとはほど遠い事実が判明しました。落合氏の贋作指摘を受けた加藤館長は、公共美術館としては異例の科学検査を早急に実施しましたが、同時に真贋確認のための第一歩として館内で出品歴を調査した筈です。ところが何かの疑問が生じたので、新聞発表では出品歴に全く触れず、そればかりか、所蔵品台帳から出品歴を削除して、出品票の存在をなかったことにした形跡が認められます。
何故、そこまでせねばならなかったのか? 来歴に関わるそのような事実の隠蔽自体が、加藤館長の「当事者しか知りえない秘密の告白」を明確に示しているのではないでしょうか。
資料8 : 茨城コルドヌリのキャンバス裏に貼付の出品票 2点 |
[14]縦長コルドヌリと横長コルドヌリ
香川県文化会館(県文)の出品票は1973(昭和48)年の「佐伯祐三展」のものですが、改称後の「香川県立ミュージアム」に問い合せると、平成21年3月12日に学芸員から回答がありました。当時は同題「コルドヌリ」が2点出品されていたが、いずれも20号であり、10号の出品はなかったとのことです。
その時の香川県文展図録には「コルドヌリ」と題する作品が2点あり、内1点の「コルドヌリ(靴屋)2」は20号(73.0×61.0cm)で、靴屋を描いてはいますが、周知のコルドヌリとは全く異なる店の図柄です (資料9)。横長ですから、本来は61.0×73.0と表記すべきものが、不統一表記の当時のことで、数字の左右が逆になっています。これは、実は神奈川県美出展品の横長コルドヌリで、東京セントラル美術館図録31と練馬・和歌山展図録の作品175とも同一品です。
香川県文展の図録の、もう1点の「コルドヌリ(靴屋)1」のサイズは73.2×60.0で、写真で見る図柄は茨城コルドヌリと同一品です (資料10)。茨城コルドヌリのサイズの10号(54.0×47.0cm)とは全く異なるのに対し、写真が同じなのが佐伯七不思議の番外編の一つで大きな謎なのですが、仔細は後述します。
資料9 香川県文展図録 横長コルドヌリ
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ここで周知の石橋(記念財団)コルドヌリ、及び茨城コルドヌリならびに個人蔵コルドヌリ3点の全ての縦型コルドヌリの他に、本稿に出てきた幾つかのコルドヌリを一覧に並べ、茨城コルドヌリの各展での寸法変遷とも合わせて以下に整理して示します。
縦長コルドヌリの一覧
展観場所 名称または愛称 図録写真 寸法cm
石橋美術館 石橋コルドヌリ 資料7B 72.5×59
‘68心斎橋大丸 コルドンヌリー 茨城 54・0×47.0★
‘68東京セントラル コルドンヌリー1 茨城(資料12) 73.0×61.0
‘73香川県文 コルドヌリ(靴屋)1 茨城(資料10) 73.2×60.0■
茨城県美 茨城コルドヌリ 茨城(資料7A) 54.0×47.0★
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没後50年 没後コルドヌリ 資料11(=20号) 73.2×60.0■
上表は縦長コルドヌリの展観の一覧ですが、東京セントラル美術館図録(資料12)と香川県文展図録の「コルドヌリ(靴屋)1」 (資料10)は練馬和歌山展図録では作品236とされ、サイズは54.0×47.0で、要するに茨城コルドヌリ(資料7A)です。
ところで、1978年に国立近代美術館で開催された「没後50年記念佐伯祐三展」に出品された個人蔵20号(以下「没後コルドヌリ」という) (資料11)は、図柄は茨城コルドヌリと大変よく似ていますが、寸法は素より細部は明らかに違います。没後コルドヌリと茨城コルドヌリは「似て非」なる別物なのです。
資料10 香川県文コルドヌリ(=茨城) 資料11 没後50年コルドヌリ
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奇妙な事に、茨城コルドヌリは東京セントラル展図録でのサイズを73.0×61.0とし、香川県美展図録では73.2×60.0としています。この原因は、東京セントラル展図録のコルドンヌリ―1(茨城コルドヌリ)のサイズが、誤ってコルドンヌリ―2(縦長コルドヌリ)のサイズを記してしまったからとも考えられます。
会場 図録・茨城品のサイズ 図録・横長品のサイズ 東京セントラル 73.0×61.0 ← 73.0×61.0 ↓ 香川県文 73.2×60.0 73.0×61.0 |
心斎橋大丸展にはまだ出展されていなかった横長コルドヌリは、1か月後の東京セントラル展から出展されたのですが、その図録で茨城コルドヌリのサイズに横長コルドヌリのサイズを入れてしまったのです(上図)。
ところが、その5年後の香川県文展図録では、その数値を縦で0.2ミリ増やし横を10ミリ減らしています。現品は54×47ですから、実測したにせよ出展者から聞いたにせよ、こんな数値にはなり得ません。
これからがミュージアム怪談PARTUですが、香川県文展図録の編集者(佐伯祐三展高松展運営委員会)と製作者(日動出版)の行為である事は明らかで、図録末尾には「本図録の編集ならびに展覧会構成に関して朝日晃氏の格別のご協力をいただきましたことを記し感謝の意を表します」とありますから、朝日氏も関っているのです。
ともかく現品を実測しなかった事は何よりも確かで、出品者もこんな数字を届ける事は有り得ませんから、おそらく東京セントラル展図録のサイズを借用したのでしょうが、東京セントラル展図録をよく見ると、横長コルドヌリと全く同じ数字です。
しかも、この展覧会にも横長コルドヌリが出品されています。「どうする? ウチも同じ数字で行くんか?」といった会話が交わされ、「それなら、こっちをちょっと変えよう」と誰かが言い出して、きっと鉛筆を舐めたのでしょう。彌梛澤はミステリーではそれ以外のミステリー話を妄想する事もありますが、後の話にします。
平成17(2005)年の練馬区・和歌山県美佐伯展で展示された『佐伯祐三―芸術家への道―』の「作品出品歴および画集掲載一覧」では、横長コルドヌリは作品175とされ、サイズを61.0×73としています。図柄は資料9でご覧ください。サイズは神奈川近美だけが少し違いますが、その後の4回とも、同じサイズが一貫しています。
参考のために横長コルドヌリの展観歴と寸法を示します。
神奈川近美 58.5×72.0
東京セントラル 資料12 61.0×73.0(左右是正)
香川県文 資料9 61.0×73.0(左右是正)
没後50年 61.0×73.0
練馬・和歌山 61.0×73.0
[15]来歴記載と2つの出品票
茨城コルドヌリの初登場は心斎橋大丸展で、二回目が東京セントラル展ですが、茨城美術館の所蔵品台帳には、どちらの出展歴もありません。
正確に言えば、2009年3月に彌梛澤が確認した時には、「所蔵品台帳には来歴を示す記録も無い」とのことでしたが、購入収蔵品に来歴がないとはどうにも考えられず、台帳の記載が抹消されたと推定しました。
出品票が2点あるとのメモ記録により館内を探して貰った処、神奈川県美と香川県文の出品票が見つかったことは前述しました。そこで、彌梛澤が台帳への記載をしておくよう助言したら聞き入れて戴いたようです。2011(平成23)年12月に美術館に確かめた知人の話では、台帳には神奈川と香川の出品歴が記載されていたそうです。
茨城コルドヌリには、現に神奈川県美の出品票が付いています(資料8)。前に見た通り、これは本来横長コルドヌリのもので、茨城コルドヌリに付く筈のないものです。よってこの出品票が茨城コルドヌリに付いたのは由々しい事で、どこかの手品師が横長コルドヌリから剥がし、茨城コルドヌリに付け替えたと推定されます。横長コルドヌリから剥がした出品票を、茨城コルドヌリの所在まで、時空を駆けて運んだ可能性もあるのがこの世界とは言いますが、現実にはまずないと考えたい処です。
とすれば、横長コルドヌリから茨城コルドヌリに出品票を付け替えたのは、同じコルドヌリの題で縦長・横長の両品が現実に並んだ場所ということになります。つまり、東京セントラルか香川県文の2箇所しかありません。
ところで茨城コルドヌリには香川県美の出品票が付いていますが、資料8で見るように、29番とあって茨城コルドヌリのものと確定できます。中ほどに「佐伯祐三展」と書かれた比較的新しい紙が張られていて、あたかもその下に書かれている何かの表示を隠すようにも見えるのが、どこか気に掛かりますが、ひとまずここでは眼をつぶることにします。
縦長コルドヌリ 横長コルドヌリ
会場 図録写真 図録サイズ サイズ
===================================
神奈川県美 不出品 58.5×72.0
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
東京セントラル 茨城 73.0×61.0 73.0×61.0
香川県文 茨城 73.2×60.0 73.0×61.0
没後50年 没後50年 73.2×60.0 61.0×73.0
前述のように、香川県文展では茨城コルドヌリのサイズを実測もしないで、数字を細工した証拠が残っています。落合氏が瑣末主義者と評する朝日氏が仕切ったにしては、そのズボラぶりに驚きます。
茨城コルドヌリに香川県美の出品票(資料8)が付けられたのは当然ですが、同時に出品されていた横長コルドヌリから、誰かが神奈川県美の出品票を剥がして茨城コルドヌリに付け替えたとすると、現在の状態が極めて合理的に理解できます。その意図は解かりませんが。
[16]納入時の不審と加藤館長の対応
新聞発表では、加藤館長は贋作指摘の「落合氏への対応は取らないとしている」と閉鎖的な対応でした。ところが、加藤館長退任後の現在、茨城県近代美術館は、一人の市民・一介の研究者である彌梛澤の調査に真摯に対応してくれます。落合氏の場合と比べて不公平の一語ですが、当時は、落合氏の贋作指摘に特に対応できぬ事情があったのでしょう。
市民研究者による佐伯作品の来歴調査の前には、常に不透明な壁がはだかりますが、その苦労を察したのか、学芸員は、「あれは加藤館長がお仲間内の記者と行なった個人的な新聞発表です。美術館の総意としての正式発表ではないのです。今は情報公開制度の施行(平成13年 4月1日施行「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」)により、積極的な情報開示に努めておりますから、市民研究者の調査には常時協力できます」と申されたのです。他の美術館においても同様な姿勢であることを希望してやみません。
茨城コルドヌリの真贋再検証では、作品自体の真贋を問う前に、科学鑑定資料・画
像が不備・不完全でした。また、出品票による来歴も収蔵作品と一致しません。総合判断すると納入業者は、神奈川県美の出品票に加えて香川県文のインチキ出品票を付けて、出品歴を強調した疑いがあります。あるいは、そのことが美術館の購入記録に残されていたのではなかったか?
これを聞けば、「美術館が購入品の来歴を自分で調べないなんて、そんなアホなことはない」と美術ファンの市民は思うでしょう。しかし、現に茨城県近代美術館では公費6900万円を投じて購入した茨城コルドヌリの来歴記録を自ら抹消した可能性が高く、その背後に「納入業者からインチキ出品票を見せられて、そのまま信じてしまった」というような、世間に見せられない事情があったのではないかと想像されます。
インチキ出品票と呼ぶのは偽文書の意味でなく、横長コルドヌリの出品票だからです。とすると、神奈川県美の出品票を横長コルドヌリから剥がしてきた犯人と、納入業者がどこかで関係している様子も知れます。
どうやら、加藤館長時代の茨城県近代美術館では、茨城コルドヌリの真贋問題の拡大を予想した上で来歴など納入当時の資料を隠蔽したらしく、真贋調査と称しながら、その実は真贋調査を妨げていた事実と、その他不審点も多いことが判明しました。おそらく彫刻が専門分野で、購入時に関わっていない加藤館長が単独での対応処理は困難であろうから、茨城コルドヌリの納入業者か購入委員ら当時の関係者に対応を仰ぎ、隠蔽に向けて秘かな連携作業が行われたと疑いもありますが、それは当局に委ねることとし、本稿では冒頭で定めし課題、即ち、茨城県が公費6900万円で購入した佐伯祐三作とされる「コルドヌリ」が、果たして「真作であろうか?」の観点にて再検証した結果に基き結論を下すことにします。
本稿での判定は、贋作と断定せぬまでも、「真作としての確認は全くできず、むしろ贋作を窺わせる重要事実を美術館側で積極的に隠蔽した事実が判明した。」との表現に留め、ここに記録しておくこととします。
[17]綺麗に化けた茨城コルドヌリ
些細なことに敏感な佐伯ファンや佐伯研究者におしらせすべき些細な検証結果もあります。
資料12 東京セントラル美術館展覧図録 左・コルドヌリ 右・茨城コルドヌリ
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茨城コルドヌリは、香川県文展に出る前に、お化粧されていました。資料12をご覧下さい。右がご存知の茨城コルドヌリですが、画面右上の「E」の上に暗雲がかかっています。これは香川県文展の茨城コルドヌリ(資料10)にはありません。つまり、昭和43年の東京セントラル美術館展図録の写真と、昭和48年の香川県文展図録の写真は違うものです。画像処理のコントラスト・チェックを試みたところ、他のコントラスト部分に比例していませんでしたので加筆と認定します。
当時の所蔵者が、昭和43年以後48年までの間に、暗雲を取り除いて写真を撮り直したものと思われます。
[18]地塗層
最後に茨城コルドヌリの「調査報告書」中の地塗層調査結果で次の事実が報告されていることを述べねばなりません(文面通り)。
「試料片Aで地塗り前の膠引き層を確認できたが、地塗層内部は染色液の吸収が多く、膠の存在は確認できなかった。坂本勝著『佐伯祐三』(日動出版1970年)には、佐伯祐三が自分で制作したキャンバスの記載があり(主に「自家製キャンバス」の章P.110-P.117)、地塗りには膠とアマニ油を使用した旨、述べられている。今回のメデューム検査では、地塗層内部に膠もアマニ油も明白に確認できなかった。 」
茨城「コルドヌリ」の地塗りは、佐伯の地塗りの特徴である半油性地のエマルジョンではなく、水性であったる事実が示されているのでます。
修復研究所のこの「調査報告書」でも、阪本勝の著書中の「胡粉と膠(にかわ)、アマニ油を混ぜたのをおおきな鍋で煮てカンバスに塗ります。それが乾くとまた三回も繰り返して塗るといったような製法でした」との記述を特に取り上げているのは、早描きの佐伯の地塗りは、絵具の吸収の速い半油性地のエマルジョンでなければならないことを前提にしています。
つまり、修復研究所の茨城コルドヌリ科学鑑定調査は、本来の佐伯の地塗りとは異なる、との調査結果を指摘して疑問を投げかけていることになります。この地塗りが示す重要事実(上記赤字部分)を隠蔽するため、加藤館長が調査報告書を廃棄したと看て良いのか、加藤館長の心中を推し量って見ましょう。
科学鑑定を指示した加藤館長が新聞発表で、「茨城コルドヌリの地塗りが胡粉である」ことを発表したのは、佐伯の地塗りには胡粉が希少例であっても、真作判断に使えると踏んだからでしょう。ところが、あに図らんや、地塗りが水性でエマルジョンでなかったことから、「これは佐伯の地塗りではない」との指摘を覚悟せねばならず、科学鑑定が裏目に出たことを悟ったことでしょう。
しかしながら、「この不都合な事実だけを隠蔽すればよい」と考えたであろうから、加藤館長は、新聞発表では地塗りが胡粉であることだけを発表したが、佐伯作品のメジャーの半油性エマルジョンや水性地塗りなどの事実に触れることはあえて開示していません。新聞発表では右の重要事実を伏せた工作の存在を隠蔽するため、「調査報告書」そのものを秘かに廃棄しなければならなくなったが、館長として直接、貴重文書の廃棄に直接手を染めたくない心理も自然でありましょう。
そこで「調査報告書」を、調査費支出証明の添付資料という名目で、敢えてコピー保存をせずに県庁に送ることを指示し、県庁の保存期間経過規定に基づき自動的に廃棄されることを願ったのです。右の目論見は見事に成功し、調査報告書原本は、予定通り自らの手を直接汚すことなく廃棄されてしまったのであります。
実に見事な証拠隠滅手口と言いたいところですが、完全犯罪は世に少なく、やがて発覚するのも世の定めで、館長の不可解な新聞発表に続き、調査報告書原本をコピーも取らずに、支出証明資料として添付する不審な指示に気付いた匿名職員は、命令違反はできぬものの、加藤館長に知られぬよう密かにコピーを取り、長らく個人的に保存していたのです。
良心的職員の隠密活動は、やがて情報開示に協力する形にてで、その意義が達成されたのであります。彌梛澤が調査に着手するまで長らく保存して下さった模範的匿名職員は、県議会・知事らにより、各国の有識例に倣う名誉称号「学芸員の鑑(The Mirror of Curator 」を以て顕彰されて然るべき功績が認められます。
本人の希望と個人情報非開示により匿名とせざるを得ないのが残念でありますが、「市民に奉仕する公務員の本分として当然のことをした」名誉ある者が追って公式顕彰されるまで、本稿の場を借り、美術を愛する市民に代わり、彌梛澤が予め顕彰いたします。
[19]茨城コルドヌリ作画上の疑問について(私論)
本稿では、まず落合氏が贋作を指摘した根拠は、主に婦人用の靴と新聞受けに投
げ込まれた新聞が認識された物体として描かれていないこと、米子作とも思えぬ腕落ち画家の絵で寸法10号もおかしい、等多々ある、と作画上の矛盾点を指摘したのに対し、加藤館長が、@地塗り成分が胡粉であり、A作品に確かな「来歴」がある、と述べるだけで、肝心な絵そのものについて論じなかったことを指摘し、加藤館長が述べた科学鑑定と来歴が多くの新たな疑惑に満ち溢れていた事実を明らかにして、公立美術館が購入するに妥当な作品でない、との結論を導出したものです。
最後に、茨城コルドヌリの「作画観」について明瞭な部分のみを照射し、市民鑑賞者の一人として彌梛澤の私論を述べたいと思います。
(イ)婦人靴が、いかなる物体かを認識されないまま作画されていることは、落合指摘に倣うものとします。
(ロ)加えて、新聞も物体として認識されていない点も落合指摘の通りと思います。だが、同氏も指摘したように、石橋コルドヌリではドア取り付け付近に斜めにさり
げなく差し込まれていた新聞が、茨城コルドヌリでは壁の中空に塗られた単なる色彩に過ぎません。
パリの街並みに溶け込む見慣れた郵便兼新聞受けは、人通りのある道路に面した店では「はめ込み式」あるいは頑丈に固定された「鍵付ボックスの」の2通りと記憶しますが、いずれにしろ茨城コルドヌリを描いた者が、作画現場(オールド・パリ)を知らず、且つ、この色彩の実体が新聞であることを知らぬことは明らかです。
(ハ)石橋コルドヌリのドア脇の左壁下の黒い物体は靴の材料の皮を束ねたものと思われますが、茨城コルドヌリではそれを捉えきれぬまま「壁の汚れ」と認識して曖昧な処理をしています。
(ニ)石橋コルドヌリのドア脇の右壁下の「バケツ」も、茨城コルドヌリでは省いています。
(ホ)石橋コルドヌリのドア下部の三色模様は、靴職人の属性を表示(サイン)するように、9世紀初めに始まった汎スラブ色の白青赤のストライプにてしっかり描かれています。だが、茨城コルドヌリではその認識のないまま、雑に処理されています。
そもそも20世紀初頭のパリの街は、東欧やロシアからの流浪者・亡命者を受け入れて久しく、彼らが細々と経営する商店の店先・入口には(ユダヤ人も含め)民族同胞の属性サインを表示していた商習慣がありました。それに照らすならば、フランス国旗の青白赤に対して、白青赤はチェコかスロバキア出身者の経営する店のサイン(各々「純潔」、「空」、「自由のために流された血」の象徴)であり、あるいは白青赤三色旗のロマノフ王朝の崩壊後の流浪職人なのかもしれません。ロシア語の白は自由と独立の象徴。青は「髪の母=聖母マリア」の色。「赤いкрасный(krasnyy)と「美しいкрасивый (krasivyy)」は同じ語源です(「赤の広場=美しい広場」。)
石橋コルドヌリのドア下部の三色模様は、19世紀初めの汎スラブ色=白青赤のストライプとしてしっかり描かれているから、靴職人の属性を表示しているかのようです。だが、茨城コルドヌリではその認識のないまま、曖昧に処理されています。
20世紀初頭のパリの街は、東欧やロシアからの流浪者・亡命者を受け入れて久しく、東欧ユダヤ人には伝統的靴職人も多く、彼らが細々と経営する商店の店先・入口に東欧民族同胞の属性を示す白青赤(ダビデの星印だけが定番ではない)を表示する慣習があり、フランス国旗の青白赤とは異なる白青赤であることに注意を払わねばなりません。そもそも白青赤はチェコかスロバキア出身者の属性カラーで、各色は「純潔」、「空」、「自由のために流された血」の象徴であります。あるいは同色でまぎわらしいが、白青赤三色旗のロマノフ王朝が崩壊した後の流浪職人なのかもしれません。ロシア語の白は自由と独立の象徴で、青は「髪の母=聖母マリア」の色、「赤い красный(krasnyy)と「美しい красивый (krasivyy)」は同じ語源で「赤の広場=美しい広場」であるように、属性色にも深い意味があるのです。
(へ)試しに佐伯がコルドヌリ店の靴職人に名前をさりげなく尋ねたとしたら、属性(先住地)が直ちに解かった筈です。当時欧州などへの移民が多かったロシアでも、ウクライナ出身者の場合は、職業の属性が姓になるウクライナの慣習から「シェウチェンコ(靴屋の子)」と答える筈であろうから、その場合はウクライナ属性の黄青2色となります。「サンドラー」と答えたならば、ユダヤ系の靴職人の名前だから、店の入口の白青赤のチェコ・スロバキア表示に照らし東欧出身ユダヤ人と知れる。
移民を受け入れた歴史が長いパリの街には、そこここに属性を示すサインがあるから、事情があってパリへ移民せざるを得なかった当代から先代の過去をほじくられたくない店主に出身地を尋ねる質問は野暮というものです。
その場合に備えて、属性(先住地)を示す印(しるし、マーク)ないし目印の白青赤などを表示する習慣があるのです。因みに、佐伯が第一回滞仏時にアトリエを構えたモンパルナスの川向こうはロシア系移民の街で、近くにはユダヤ人地区のロジェ通りもある。佐伯の時代は、パリの移民芸術家らがかつてのモンマルトルからモンパルナスへ移動するようになった頃で、佐伯や藤田もアジア系移民の真似事のような生活をしているのですから、パリジャンの目には他の移民職人のパリ内移動とさしたる違いは無いと映っていたでしょう。
(ト)落合氏によれば1925年のサロン・ドートンヌでドイツ人が買って行った「コルドヌリ」は「実は米子ハンが描いたもの」と佐伯自筆の書簡・日記にありますが、それも含めて一連の「コルドヌリ」は、少なくとも構想から下描きまでは佐伯祐三の手になるものと観てよいと思えます。
靴屋の壁と入口だけを全画面に描くコルドヌリは、およそ遠近法に縁遠い題材で、半開きドアが画面に占める10%ほどの限られたスペースだけで遠近を表現した構図は、佐伯の持病メニュエル病からくる遠近感覚の異常性にマッチしたものと考えられます。
佐伯の店・建物を正面に据えた多くの横型作品と比較すれば判るように、横型作品ならシンメトリー構図で遠近感を埋め合わせ、間持ちのする標準的な絵を描くのが容易であるのに対し、対象を縦型で描いた場合は、絵が手前に押し迫るだけで遠近法が不十分な作品に仕上がってしまうのです。四隅に発する対角線の交差点から右下に半開きドアから覗ける暗い店内を置き、そこへ自然と視線を誘導して、作画の基本である遠近感の達成と同時に、暗い店内にいる筈の靴職人の存在を描かずに描い(想起させ)た「コルドヌリ」の狙いが、プロ画家で構成されるサロン・ドートンヌ審査員らに伝わったところに入選の所以があります。
その眼で茨城コルドヌリの、特にドア近辺を観れば、結論はおのずと得られます。
(チ)茨城県が茨城コルドヌリを購入した昭和末年当時、多くの美術品を購入していた彌梛澤が、これを購入するか否かを問われたなら、 「来歴に惑わされて購入したい方がいるかもしれないが、このような作品は、一般の洋画商はむろん熟達した市民鑑賞者なら瞬時に、『腹に入らぬ作品』というでしょう。よって購入いたしません」と答えたでしょう。
また、「サロン・ドートンヌ入選作と同じ図柄を、6900万円を投じて購入する立場に立って茨城コルドヌリを審査せよ」、との課題を負わされたならば、「佐伯の作画意識・意図はむろんのこと、審査員の評価ポイントを知らない者により描かれた形跡のある画学生クラスの『模写画』ないしは『模倣画』」と断定せざるを得ない。よって「購入後に問題が生じる類の作品の代表例であり、購入すべきでない」、とするのが良心的回答でありましょう。
二・国立東京近代美術館「モランの寺」疑惑
1・デフォルメでも精神病説でも解けぬ「教会改造」
東京国立近代美術館所蔵の佐伯祐三作「モランの寺」(資料9、以下「近美A」という)は佐伯の代表作品として知られています。
この絵はかつて山本發次郎コレクションの1点とされていましたが、流出経路が不明のまま、同美術館が購入したものです。この絵は、佐伯が数点描いているモランの教会とはまた別の、モラン近郊にあるサン・ジェルマン・シュル・モラン教会を描いたものです。山本發次郎コレクションにはこれと同題・同図柄の「モランの寺」(資料10、以下「山發B」という)がありましたが、戦災で焼失しました。
この教会の正式な入口は左側にあります。山発Bでは、その1箇所しか描かれていませんが、近美Aでは時計のある鐘楼の真下の祭壇脇位置にも入口があり、大きな違いとなっています。すなわち、山発Bでは鐘楼の下に2つの小さな三角屋根の窓付きの突き出しがありますが、近美Aでは、その窓を教会の入り口に見立てて改造し、入口のように描いているのです。
荻須高徳も同じ教会を写実的に描いていますが(資料11 、以下「荻須C」とする)、教会の姿は山発Bと同じです。これが実際の姿で、近美Aが図上で改造したのがどういう意図なのか極めて不審なのです。
この疑問は以前から指摘されていましたが、特に確かめられることなく、佐伯のデフォルメ説・教会改修工事説・精神病による佐伯の錯誤説などの仮説が唱えられるに留まり、第三者による加筆説に踏み込むことなく放置されています。
資料9 佐伯祐三「モランの寺」 20号 国立近代美術館収蔵品(近美A) |
資料10 佐伯祐三作 「モランの寺」 山発コレクション品・戦災焼失(山發B)
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資料11 荻須高徳作 「モランの教会」 20号(荻須C)
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資料12 サン・ジェルマン・シュル・モラン教会(写真D)
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2・比較検証 現場写真・荻須作品・工事記録
荻須C(荻須高徳作「サン・ジェルマン・シュル・モランの教会」20号)は、荻須が佐伯夫妻らとモランに写生旅行に行った昭和3(1928)年2月の作品で、近美A・山發Bと同時期に描かれたものとされています。
そこで、以上の絵画と写真を比較していきましょう。
1・教会入口改造と菩提樹が示す事実
@まず、近美A・山発Bの制作時(1928年2月)に、佐伯に同行した荻須がイーゼルを並べて描いたとされる荻須Cの図柄は山發Bに一致します。
現場の実情は写真Dに見る通りで、鐘楼の時計の位置が変わって窓の下に付いています。本教会の改修工事履歴を調査したところ、佐伯の没後3年の昭和7(1932)年に鐘楼のフラップが8個から4個に改造された記録があり、この時に時計の位置も変えられたものと観られます。近美A・山發B・荻須Cの図柄はすべて、昭和7年以前のものと見てよいでしょう。
A荻須Cは従来1928年2月の作品とされてきたが、絵中の西洋菩提樹は落葉樹で、冬場は裸木でなければならないところ、葉が青々と繁っていますから、後年の作と見ざるを得なくなります。
近美A・山発Bの両者に描かれていない西洋菩提樹は、成長が早く樹齢20年で3階建ての高さに成長しますが、荻須Cの西洋菩提樹が後年植えられたものとしても、樹高が低いので、佐伯らと往ったモラン写生旅行の数年後とみるしかありません。
従って荻須Cは、菩提樹植樹以後1932年までの作品と断定できます。
B改修工事が示す事実
近美Aの制作に佐伯祐三が関係しているのならば、1927年以前作はありえず、それ以後の教会入口の新造・改造は記録にないことから、近美Aに描かれた入口は、まったく架空の光景で、加筆・贋作が問われる所以であります。
Cデフォルメ説には無理がある
制作は現場から始まりますが、アトリエ制作で錯誤の可能性もあります。それをも検証せねばなりませんが、答えを急いで安易なデフォルメ説に走れば妄想となり、真贋・加筆の可能性に蓋をしてしまいます。
絵を描く場合、不要部分を省く例は多いのですが、佐伯が建物の{図上改造}もためらわぬほどのデフォルメ作家とは言えません。デフォルメ説は安易な仮説にすぎず、論証の名に値しないのです。
佐伯作品はいずれもいったん非形而上的な対象をキャンバスにしっかり構築した上で、内面の形而上的要素を反映させています。すなわち、対象を見ずに専ら心象のみをキャンバスに投影する作家ではありません。
画家とは、意識・無意識にかかわらず自身の経験を反復する習性が強いのですが、図上改造の実績と見られる佐伯作品の例は見当たりません。
Dデフォルメ説への宗教的疑問
念のため、宗教的要素をもってデフォルメ説を検証しておきましょう。
教会の平面図は十字架形をしています。天におわす神やキリストからは十字架の形に見える建物が信者の居る教会を示すのです。よってキリスト教徒であれば、祭壇脇の突き出し部分を「十字架に張り付けられたキリストの左手」と認識しますから、教会の入口にはふさわしくないと感じざるをえません。
全ての聖堂・教会がそうであるように、信者は十字架の根元となる入口から入り、十字架の頭部にあたる祭壇に向かうのです。十字部分の左右の懐部分は概ね縦長の窓で、ドアが設けられたとしても聖職者専用か非常口程度である。
寺に生まれ住職の息子として育てられた佐伯は、キリスト教寺院に魅せられて多くの寺院を描いています。教会が平面図において十字架構造と知らない佐伯ではないでしょうから、たといデフォルメを試みたとしても、このように十字架を冒涜する軽々なミスを犯すとは思えません。
E来歴の抹消か、誤記か
近美Aは、昭和33(1958)年に国立近代美術館が購入する以前の来歴について昭和12(1937)年佐伯祐三遺作展と1937年刊「山本発次郎蒐蔵佐伯祐三画集」(以下「山発画集」という)だけですが、山發コレクション(以下「山發品」という)と観て良いと思われます。
近美Aの他の画集には山発品の来歴が記録されていますが、これを購入した国立近代美術館の来歴記載を確認しますと、所蔵館の国立東京近美らが主催した1978年開催「没後50年記念佐伯祐三展」図録に、山發品であったとの来歴記載はありません。
だが山發画集との写真比較では明らかに同一作品なので、近美Aが山發品ではなかった(つまり、別作か模写ないしは贋作)との判断を示しているのか、単なる記載漏れなのかについて、確認を要します。
F戦災焼失品の購入は可能か
山發品の疎開に立ち会った山尾董明氏は、国立東京近美が近美Aを購入する前年の1957年山尾文献(「みずゑ」昭和32年2月号)に山発品の戦災焼失リストを掲出した中で、近美Aは未焼失品と証言していました。
ところが、同館の購入後10年を経た1968年山尾文献(「佐伯祐三全画集」昭和43年9月・講談社刊)では、前の山尾文献を訂正して焼失品であると証言しています。
この時には、国立東京近美が近美Aを購入・収蔵していることを山尾氏が熟知していたのは明らかですから、同氏は「近美Aは焼失品だから、同館購入の近美Aは山發品ではなく、佐伯の別作品か精巧な模写・贋作である」と、遠回しに指摘するメッセージをあえて送ったことになりますが、その後山尾氏が訂正した記録もありません。
それを受けた同館が、山尾氏に反論するかと思いきや、山尾氏の右指摘を受けて来歴に反映させたのが、上記「没後50年記念佐伯祐三展」図録なのです。
山尾氏の暗示を受け入れた国立東京近美は、戦災焼失品の購入は有り得ないことゆえ、山發蔵品であった来歴を秘かに削除し、それに代わる来歴を記載せずに、曖昧のまま今日まで放置しているのです。
彌梛澤が同館の学芸員に尋ねたところ、当初は「山發品ではない」と、図録記載通りの回答でしたが、上記の事実を指摘したところ、困惑した学芸員を遮って別の学芸員の指示が入り、「山發来歴であるから図録は記載漏れである」旨、回答が変更されました。
山發品の戦災疎開に立ち会った唯一の生き証人山尾氏が、あえて未焼失品から焼失品と訂正した近美Aを、再び未焼失品と訂正せねばならなく事態になったのですが、山尾氏はこれに反応しないままに他界しました。
この経緯は実に不可解で、誰もが積極的に事実関係に踏み込もうとしないのは、何かを隠している気配を感じるのは彌梛澤だけではない筈です。
茨城コルドヌリがこの轍を踏まないようにして貰いたいものです。
三・大阪市収蔵の山発佐伯総点検の課題
1・大阪市所蔵山発品の再検査
上記のように、内容に変遷のある山尾文献に接して困るのは、変更の理由・事情が記されていないことです。しかしながら、前後する複数の山尾文献の、いずれが真実かについては、文献書き換えの動機を分析すれば分かることもあります
関係者が曖昧にした背景を知るためには、未焼失の山發品が大阪市の所蔵となって残されているので、その化学分析による比較研究で明らかにできるかもしれないと考えた彌梛澤は、資料収集に着手しようとしました。
ところが大阪市所蔵の山發作品の科学分析は修復研究所が行っており、中島裁判で資料を捏造した事実からして、化学分析の真偽性に多大の疑念が残っています。
よって大阪市所蔵の山發作品は、修復研究所以外の中立機関に再検査させる必要を強く感じる次第です。
また、山發品には明らかに米子が加筆したと見られる作品も多いので、純正の佐伯作品を特定させてから比較するのでなければ、正しい結果を得られないのは自明です。この他、前後の山尾文献で焼失・未焼失を変更した真相も知る必要があります。
2・題名をモランに変更=来歴偽造
なお、落合莞爾氏はその著書『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の事実』の中で、吉
薗コレクションの1点が、武生市選定委員の作為による題名中の地名変更による来歴偽造を指摘しています。すなわち、作品の裏に「1928年早春 モンマニー風景 佐伯祐三」と縦書のサインがあり、産経新聞でも報道された周知の事実であるにもかかわらず、武生市が依頼した専門家委員により「モランの風景」に改称された一件を報告しています。
これは専門家委員の錯誤による事実誤認ではなく、臨時公務員の職権で強行した改題ですから、その本質は来歴の偽造です。委員らにいかなる裏事情と動機があったかは落合氏の洞察に遵うことにして、本稿では、モランを描いた佐伯作品でも奇怪千万な来歴偽造の一端を垣間見たことを、ひとまず指摘して置きます。
しかし。われわれ国民はこの真相の解明を、内幕を知る者の登場を待たねばならないのでしょうか、または大阪市所蔵山發品の再検査を待たねばならないのでしょうか?
3・総括評価と課題
以上の事実には、吉薗佐伯の中島裁判の「鑑定捏造事件」に始まり、公立美術館所蔵の「コルドヌリ」、「モランの寺」のいずれも、「真贋疑惑」に加え「来歴疑惑」までが顕著に認められます。
右の解明が急がれる中で、大阪市は佐伯純正作品と米子加筆品を特定・分類しないまま、総事業費280億円を投じる予定の美術館建設が懸案となっている。
落合氏の吉薗研究で判明した「佐伯二元性」のおかげで、捏造された佐伯虚像の偽史は正されつつあります。本稿第三部・第四部では、あえて吉薗資料を引用することなく、既存資料によって吉薗佐伯の真正性と美術館佐伯の真偽性を示し得たと思います。
ここで、山發作品の分類による解明が急がれる理由としては、そもそも市民のために、市民の浄財(税)により運営される公立美術館は、作品の真贋・加筆ならびに来歴研究に努めるのを本分とするからです。
公立美術館の情報開示が概ね達成されてきている印象を、彌梛澤は得ましたが、開示情報を手掛かりにしたところ、真偽性を問う問題が増えてきましたので、公立美術館の今後の目標は、市民が納得する作品の真偽性と来歴を明らかにしていくことにあると思われます。
むろん草葉の陰の佐伯も、それを希望してやまないでしょう。
大阪市の美術館問題は畢竟、「佐伯二元性」の解明と合わせて考慮さるべきで、大阪市蔵の山発作品の総点検・再検査により、佐伯純正作品を特定する作業が必須であることを強調して、本稿を結ぶこととします。