「芸術とスキャンダルの間」 戦後美術事件史 講談社現代新書

大島一洋著



この本の3章に「謎の佐伯祐三現わる」−何故大量に出てきたのか と題して紹介されています。
表題だけを紹介してみましょう。

これから分かるように事件の概要を分かりやすくまとめています。内容から見ると落合氏の本をベースに書かれているようです。
真贋事件に興味がある人は是非読むべき本だと思いますが、ちょっと惜しい- もうちょっと突っ込んで欲しいと思う点を書いてみます。


1.河北倫明氏の立場が不明確

本書の記述では、河北氏は美術評論家としか書かれていませんが、それではこの事件の本質が分からなくなります。最初の方に「当時美術界のドンと言われていた」との記述がありますが、これでも良くイメージが分からないと思います。
河北氏は当時、美術館連絡協議会理事長で、全国の美術館の館長の人事を牛耳っていたと言われています。そのため、ある年齢になった美術関係者達は、美術館館長の職を求めて河北氏の下に集まったそうです。
つまり、この事件は業者からの絵画購入に関して大きな権限を持つ美術館館長の上に君臨する河北氏と業者の団体である東京美術倶楽部の対決であった、という事です。しかも、河北氏は東京美術倶楽部の顧問という立場でもあった事が更に問題を複雑にしていました。
この事件は、河北氏が本物説を唱えたから問題が大きくなった訳であり、河北氏が絡んでいなければ通常の贋作事件のように簡単に葬り去られていたと考えられます。
河北氏は以前から吉薗周蔵氏を知っていたため、吉薗佐伯に関して
偽物を本物と言うのはかわいいが、本物を偽物と言うのは許せない」と言っていたそうです。



2.東京美術倶楽部の贋作理由に関する記述

吉薗佐伯に対して東京美術倶楽部は、贋作だという新聞発表を行いました。その理由は、以下の3点です。

  1. キャンバスが最近の画布にしか使われないテトロンを含んでいる。
  2. 絵具が酸化していない。
  3. 画布が打ち付けた釘が錆びていない。

この3つの理由は、最終的に全て否定されました。 これによって東京美術倶楽部の贋作理由は無くなった訳ですが、この本ではその事は触れずに、特に1番目の理由であるテトロンに関して、
だいたい贋作を作るのに、すぐばれるような新しいキャンバスを使う者がいるだろうか
と結んでいます。
常識的に考えればおっしゃる通りですが、そんなすぐに否定されるような理由を挙げて新聞に贋作発表を行った東京美術倶楽部に対して何の言及もないのはどうしてなのでしょうか?
私は、「美術界に常識は通用しない」と思っていますので、上の3つの贋作理由は、東京美術倶楽部が鑑定を行った時に実際に多くある贋作理由なのだろうと推測します。つまり、「すぐばれるような新しいキャンバスを使って贋作を作る者が沢山いる」のだと思います。
そう考えないと、新聞発表ですぐに否定されるような3つの根拠を挙げた理由が分かりません。



3.中島裁判の結果に関する見解

2002年7月30日に出された吉薗明子氏と中島誠之助氏との裁判結果に関して、
東京地方裁判所は、吉薗佐伯絵画コレクションをすべて贋作としたのである。
と書き、さらに朝日新聞の記事を引用して

裁判では6点の鑑定が行われた。結果、『これまでの佐伯作品と、顔料やメディウム(媒材)が異なる』『当時、大量生産されていなかった白色
顔料が含まれていた』などが明らかになった。」


このように裁判で贋作と判定されたのに、ネット上ではいまだに真贋論争がたえず、判決そのものを否定する見解もある。」
と書いています。
この記述から見る限り、著者である大島氏は、裁判での判断は(判決)は権威のあるものと考えているようです。これはある意味一般的な考え方かも知れませんが、これは「新聞やTVが報道するものはすべて真実である」と同じように誤解です。しかし、このような誤解は一般に深く浸透していいるようです。政治や経済などに優れた見識を持たれている方でも(政治家や官僚の言動に関してまずは疑ってしまうような人でさえ)、裁判は神聖なもの- まっとうな判断がなされる - と考えている人が多くて、私も驚いています。
裁判官はそんな神のような人達ばかりなのでしょうか? それとも裁判官が神のような人でなくとも「神聖な」判決が出せるシステムになっているのでしょうか?
私はどちらも違うと思います。裁判官もや官僚と同じように普通の人達です。良い人もいれば、悪い人もいるでしょう。そのような裁判官が担当の事件に関して法に照らして判断をするのが判決です。(通常裁判官は一人当たり1年間に200件以上の裁判を担当して処理しているとの事ですから、全ての事件に関して同じように心血を注ぐのは無理だと思います)
少なくとも、政治家や官僚の言動を疑うような人達は、裁判官に関しても同様な視点で見るべきであり、その判決(特に民事訴訟の地裁レベルの判決)はまずは眉にツバを付けて聞くべきです。何故なら、民事訴訟は原告・被告双方の意見を聞き紛争を解決するのが目的であり、「真実の追究を行うものではない」からです。これに関しては、中島裁判に関して、武生市長への書簡の中で落合氏が述べています

宛先 : koutyou@city.takefu.fukui.jp

件名 :意見ご送付

はじめに、民事訴訟は絶対的真実を追究する刑事事件とは異なり、当事者間の「相対的な真実」を認定するものですから、裁判官は両者の主張を比較し、提出された証拠についてのみ主観を以て取捨する(いわゆる自由心証主義)ものですから、事実の客観性はどこにも保証されていません。当事者に不服があれば上級審で争いますが、当事者の意思により、そんなことはやめても勝手なのです。そこで民事上の争いは決着しますが、だからといって訴訟に関連する事実を客観的に確定したことにはなりません。

極端な例をあげれば、富士山が筑波山より低いとの主張も、原告と被告が和解すればそのまま通ります。和解がなくて判決に至れば、判事は提出された証拠のみで判断しますから、富士山を高しとする側が提出した証拠が富士山の高さを証明するに不十分と考えれば、筑波山側の主張を採用します。富士山側がそのまま上告しなければ、それで民事上の争いは確定しますが、だからといって富士山の高さが確定したことにはなりません。翻って本件では、原告が判決要旨を認めないままに上級審を放棄したことは当事者としての権利で、これは独自の利害判断の問題です。これで名誉毀損に関する訴訟は確定しましたが、だからといって、この判決が佐伯絵画に関する客観的な真実を確定したことになりません。つまり民事判決の、しかも傍論のごときは、判決文の一部をなすという意味だけであり、それを以てある事実を客観的に証明したものではないのです。

このゆえに、貴殿(武生市長)がそのような性質を有する民事判決の傍論の一部を取り上げて、これを客観的事実の証明とみなし、自らの政治的主張に利用されているのはきわめて不当であることを指摘いたします

ついで言えば、本件裁判はその過程がまことに異例で、単純な判決を出すために、都合五年の歳月がかかりました。当初の判事は早期に科学的鑑定を要求し、両者に鑑定人の推挙を求めたのですが、当然の最適任者たる修復家は利害関係者ゆえに適任でないという被告の主張に従い、学芸員的性格の者を推挙することを求めました。原告の推挙した学芸員は、業界仲間や画商との交際における不安を弁明する手紙を裁判官に送って辞退したので、原告側は結局鑑定人を出さなかった。画商側は青木なる学芸員を出しましたが、青木は長時日を経ても鑑定書を提出し得ず、ために時間が徒に経過しました。ところが、判決直前に交代した裁判官が提出を強く促し、そこで出てきた鑑定書では、青木は自らの客観的・科学的判断を何ら示し得ず、こともあろうに本件に直接利害関係のある修復家歌田氏の意見書を引用して、鑑定書の内容としていました。その内容は、以前に歌田氏らが大阪市立近代美術館のいわゆる山発コレクションを修復したときの知見によるものですが、吉薗佐伯を贋作とする客観的な根拠としては、結局、画布の下塗り顔料の違いしかありません。吉薗佐伯の画布には酸化亜鉛が使われています。ところが修復時に調べたところ、山発コレクションには佐伯本人と友人らが口をそろえて再三述べてきた、佐伯の画布の特徴たる「酸化亜鉛」を用いた作品がほとんどなかったことから、歌田氏の弟子の宮田修復家は、これは佐伯(と周辺画家)が「炭酸カルシウム」と誤認したのだろうと安易に解釈してしまいました。こんな解釈は、世間常識では一種の仮説でしかないのですが、裁判所に提出した青木鑑定書が引用した歌田意見書でも、これをそのまま用いています。原告は当然これを反駁しましたが、交代した裁判官はなぜか歌田説を鵜呑みにし、原告側の再反論も求めずに、そそくさと結審してしまいました。なにかの使命でしょうか?

なお、それだけでは心許なかったのか、判決では「チタン白の時間的矛盾」を強調しています。工業的量産が1940年代に始まったものを、10年前に佐伯が使う筈が無いという理屈ですが、開発完了段階で試作品が画材屋で売られていなかった証拠にはなりません。むしろ新製品は、量産の前に市場の反応を確かめるのが普通です。今後とも、時間をかければ、チタン白が当時のパリで売られていた資料が必ず出てくると、ここに断言します。

酸化亜鉛にしてもチタン白にしても、近年になって偽物を作るなら、使う筈がありません。山発コレクションに関する画布・顔料の分析結果は既に周知だから、その後贋作しようとする者が、わざわざ酸化亜鉛やチタン白を使う理由はまず考えられません。学芸員が業界交際上での不利益を畏れて辞退したのも、心中は「真作説」なので、それを公表したくない、と言うことでしょう。状況証拠も、このように、判決の不当を明示していますが、急な判事交代とそそくさとした判決などに、この国の深い闇が窺われたので、原告は上告を断念したようです。佐伯絵画の真相についての審理は、民事訴訟などではなく、実質的な当事者たる武生市民が今後もなすべきものであり、まだ終わっていないのです。

そもそも佐伯絵画に関する疑念を鳴らして市民の支持をとりつけた貴殿が、市長の座につきながら、真相の追求を放棄するのは武生市民を失望させることになる筈で、いわんや、民事事件の傍論を引用して事実確定と宣布するのは、論外ではないでしょうか。私は事件後に偶々関係した者として、貴殿および武生市役所が、本件の真相の探求を今からでも始める事を求めます。そのおつもりならば、いくらでもご協力します。 

武生市長殿                                                                         平成15年5月15日 落合莞爾

分かりやすく言えば、民事裁判は「真実の追究」が目的ではなく「紛争の解決 − 和解」が目的なのです。そのため真実がどうであれ、紛争が解決しやすいような、心証 ⇒ 判決 が前提となります。裁判官の方々は非常に優秀な人達ばかりですから、その結論に合った判決理由は後付でいくらでも付けられます。

普通の人達は訴訟に巻き込まれる事はあまり無いため、「判決は神聖なもの」という事を信じています。そのため、時々ニュースとなる裁判の判決で敗訴した側の「判決は納得できない」というコメントも聞き流していますが、上記のような事を頭に入れて聞くと違った見方ができると思います。例えば、巨額の地裁判決で話題となった青色LED訴訟の高裁での和解に関して、以下のように述べています。

「東京地方裁判所が判断した600億円という対価があまりにも高く,その1/100の6億円程度が妥当だと数字を先に決めてから,それにつじつまが合うように貢献度などが算出されたもので根拠がない」と断言し,その判断に強い不満を示した。さらに,東京高等裁判所の裁判官に対して「審理のために用意した準備書面に目を通さないまま,和解勧告を出していることが最も腹立たしい。何のために分厚い準備書面を作成してきたのか分からない」と怒りが収まらなかった。
(Tech-on http://techon.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20050112/100482/)

裁判に関わった事の無い人は、「中村氏らしい発言」と読み流してしまいそうな記事ですが、ここに日本の裁判の本質が現れていると思います。

それにしても、美術品の真贋を裁判所で判断できるのでしょうか? 大島氏は、

「第8章 贋作を擁護した奈良博 −ガンダーラ仏をめぐる官民対立」で、「裁判は最高裁までいったが、美術品の真贋に裁判所は関知しない、ということで終わった。裁判所は白黒をつけることを避けたのだ」

と記載しています。大島氏はいかにも裁判所が逃げたように書いていますが、これは別に逃げている訳ではなく真っ当な判断です。上記、落合氏の書簡にあるように民事裁判には客観的な真実の解明する機能はないからです。
ですから、最高裁でこのような明確な判断がなされている美術品の真贋に関して、中島裁判(地裁)で判断を下したのは、客観的な判断をしたというよりも「紛争の解決」を考えた結果と考えるべきでしょう。それを贋作派の人達が世間一般に対する宣伝に利用している訳です。



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