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年月
周蔵年齢
周蔵特記事項
佐伯関連特記事項 関係者特記事項 上原勇作のポスト
(概略)
明治27年    
5月12日   宮崎県西諸縣群小林村で生まれる。         
明治32年  5歳  
12月          大谷光瑞、インド仏蹟の巡拝とヨーロッパ宗教観察の旅に出る。(25歳)  
明治34年 7歳 小学校に上がる。数学が好きでどんどん自習して教諭を困らせる。      
明治39年 12歳 飛び級して県立都城中学に上がるが、授業に物足りず10日ほどで退学する。      
  祖母ギンヅルのコネで山本権兵衛に頼み熊本高等工業の入試を特別に受験させてもらう事となったが、試験前夜娼家に行き受験せず。        
明治年 学歴不要の熊本医専に入学するが、1歳年下の女性と同棲し結婚を迫られ医専を中退。      
明治43年 16歳 ギンヅルに武者小路実篤を紹介してもらい上京して白樺派に接近するが、同調できず宮崎に帰る。      
1912年
大正元年
18歳  
5月       大谷光瑞、本願寺の管長の座を辞す。(39歳) 陸軍大臣
8月22日   陸軍大臣上原勇作中将にお目通りし、「草」となる。純粋アヘンの開発を任務とする。    
9月10日    上原閣下から「東亜鉄道学校へ入れ」との指示あり。海外渡航の時にパスポートを取得し易いように技師として公認されるまで席を置くように指示を受ける。    
10月1日   東亜鉄道学校の2学年に編入し、東寮に入る。     
12月1日    東寮を出て、出水の師であり友である加藤邑の家に下宿する。   上原陸相青山御所で病気を口実に大正天皇に辞表を提出。
12月21日       第3次桂内閣が成立。上原は九州に帰郷する。
大正2年 19歳   
1月   上原閣下から「アヘン研究ノタメ熊本医専(現国立熊本大学医学部)麻薬研究部へ通フベシ」との指示を受け無給助手として働く。事務主任の阪井と知り合う。      
2月11日       上原陸相の単独辞表提出により、第三次桂内閣が倒壊。山本権兵衛内閣が発足。 第三師団長
     (名古屋)     
赴任せず
2月25日       上原勇作,肺壊疽を発病、大阪の日赤病院に入院する。
4月23日   周蔵、上原陸相の病気治療のためギンヅルより純粋アヘン粉を預かり上原の別宅に届ける。    
4月24日   周蔵、上原閣下から若松安太郎を紹介される。    
5月末   アヘンの初収穫する。5,000m2からわずか75g採取。    
6月6日   初収穫のアヘンを上原閣下に届け、1,000円(今の約1,000万円)を手に入れる。加藤から頼まれ、上原閣下に「輸血法」に関して答申する。    
7月10日   函館の若松忠次郎に会いに行く。北海道の帰りに上原閣下に会い、加藤の血液型の種類に関する知識について質問される。      
大正3年 20歳  
1月23日       島田三郎が政府糾弾の演説を行いシーメンス事件が発覚。  
4月22日       待命中の上原中将陸軍教育総監になる。 教育総監
春?   ギンヅルから京都に住む、丹波のアヤタチの血を引く渡辺ウメノなる婆を訪ね、ケシに関する書物をもらうように命じられる。婆は、堤哲長の妾で、京都ではなく綾部の大本教の教祖の家に住んでいたが、書物は取得する。    
3月10日   若松安太郎が熊本でケシの種まきをしている周蔵を訪ねる。北海道でケシ畑を作ってくれる事となる。    
5月末   4町歩から100匁の純粋アヘンを得る。    
6月10日   師であり友である加藤邑が死去。    
7月3日   上原教育総監の紹介で貴志彌次郎中佐と初めて会う。
上原に「草になりもすと大口を叩くも、加藤君居らなくなると自信がなく、1年は『歩』どまりにして欲しい」と直訴する。
   
8月        第一次世界大戦勃発。
10月26日   北海道雨竜郡に移り住んだ阪井を訪ね、樺太〜宗谷、帯広付近のケシ栽培を頼む事となる。    
       上田恭輔張作霖秘蔵の陶磁器コレクションを拝見。
12月   若松の紹介で池田庄太郎と会い、青森のケシ栽培を依頼する。
池田から槙玄範を紹介される。
     
大正4年 21歳        
3月11日   若松の縁戚である山形県酒田の本間にケシの栽培を依頼する。      
5月2日   京橋の若松忠次郎邸を訪ねケシ栽培の北方展開に関して報告後、武者小路実篤に会いに行く。実篤に集会に誘われて行き、熊谷守一と知り合う。        
7月18日   代々木で上原と会う。満鉄奉天公所長の鎌田彌助を紹介される。      
7月?   千葉の一ノ宮の別邸に上原を訪ねる。「草ではなく、軍に属する気はあるか」と聞かれ、「自分は草に決めている」と即答する。
輸血法の件は、周蔵自身が技術を見に付けて来いと言われる。
      
9月16日   86匁のアヘン粉を千葉の上原に届ける。      
10月8日    400匁の純質アヘンを上原に届ける。経費として2,000円もの大金をもらう。若松忠次郎に500円、林次郎に1,000円、阪井に100円を送金する。      
11月3日   上原から久原鉱業社長久原房之助を紹介される。ウィーンへは久原鉱業の武田内蔵丞の名前で渡航することとなる。      
1916年
大正5年
22歳   参謀総長
5月8日   武田内蔵丞旅券が東京府から下付される。    
6月   ・久原鉱業鉱山技師武田内蔵丞の名で日本を発つ。
・旅券を取り直して豪州のシドニーに入り、石光真清を待つ。
・10月26日、石光と合流して供に渡欧。シドニー ⇒ 英国からウイ―ンに入る。
・石光は寄航先で写真を取ったり、他の任務を遂行し周蔵は船の中で待つ。
明石元二郎の紹介先を回ってウィーンに入り下宿を探す。助手のシーレを買収して血液学者ランドシュタイナーの血液型分類の研究所を写し取る。買収費用は5,000円と追加条件として1,000円でエゴン・シーレの絵を2枚買わされる。   
 
 
       張作霖、暮れから翌年2月にかけて奉天宮殿を襲撃し清朝代々の古陶磁器を奪う。
大正6年 23歳    
3月    佐伯北野中学を卒業。席次は87人中76番。この年は東京美術学校の受験を諦める。  
4月3日   ウィーンからドイツに入る。呉秀三の紹介でケルン大学クレペリンを探すが、見つからず。ドイツは戦争の影響で食料が乏しく、早く出国したかったが、石光からの連絡を待つ。    
6月    周蔵、迎えの石光と共にドイツ、フランスを回り帰国.。    
    ケシの栽培の状況を聞きに若松安太郎を訪ねる。薩摩治郎八を紹介される。アヘンは、750匁採れた。    
    血液型分類と安全輸血に関するノートを呉秀三に提出する。額田兄弟や式場、川崎、佐藤等の医者の前で説明する。    
7月   若松安太郎から藤根大庭を紹介される。    
7月8日   夜に薩摩治郎八が幡ヶ谷の周蔵宅を訪問する。    
7月20日   藤根がケシ栽培のための奥多摩の土地を探してくれる。
夜、前田治兵衛が来る。武者小路実篤は理想の農国を秋月の土地を選んだとの事。
   
8月   周蔵、上原閣下から本願寺の大谷光瑞に会うように指示される。大谷光瑞、周蔵に佐伯祐三の美術学校入学の便宜を図るように依頼する。佐伯を画家として一流にする事で表の顔を作り、西本願寺の諜報活動をやり易くするのが目的。
若松安太郎山本権兵衛閣下に相談する事を依頼して、何とかなるとの回答を得る。
   
8月30日   佐伯祐三と初めて会う。 吉薗周蔵に初めて会う。  
9月   周蔵の表の仕事として癲狂院の派出所のようなもの(救命院)を作ろうと考えて藤根に依頼する。
佐伯を救命院の患者として診察日誌を作ってお互いのアリバイ作りをする事にする。佐伯には、西本願寺の社会主義者の動静偵察の協力は出来ない旨を言う。以来、佐伯は救命院に頻繁に出入りするようになる。
佐伯、上京して川端画学校洋画部で藤島武ニの指導を受ける。  
9月23日   上原閣下から煙草屋の権利を買うように指示を受ける。藤根が世田谷の北沢で3,000円(現在の約3,000万円)の権利を見つけてきた上、資金を融資してくれるとの事で購入する。久原房之助の世話で久原鉱業の煙草の扱いで月300〜400円のペーパーマージンを得る。    
9月26日   阪井が9貫目(約30Kg )のアヘンを持って来たため早速、上原の大森の自宅まで届けに行く。
上原宅で藤井茂太中将と貴志彌次郎大佐に会う。二人から安全輸血法の件で賞賛されて感激する
シーメンス事件の強硬派議員5人が先客として来ていたのを見て、シーメンス事件の裏に上原閣下がいた事を悟り、山本権兵衛に密告状を出す。自分は薩摩の血であり(上原は日向人で実はアンチ薩摩)、「権兵衛閣下のためなら草にも犬にもなる」と書く。返事は来なかったが、10月27日の薩摩人の園遊会に招待される。
   
10月1日   朝、薩摩が来て、周蔵に対して探りを入れる。    
10月2日   再度、薩摩が来る。夕方に薩摩邸で集会があるので参加して欲しいと依頼してきた。集会で徳田球一を紹介される。    
10月3日   薩摩から内偵を頼まれた徳田球一が救命院を訪ねてくる。    
10月7日    徳田球一が救命院を訪れる。佐伯も来たため、3人ですき焼き会を行う。以来、徳田も救命院の常連となる。    
10月10日   ギンヅルの命で京都に同行し渡辺ウメ ノと再会し、その孫の渡辺政雄の結核看護を頼まれる。政雄の下宿で呉達閣と知り合いとなる。    
10月12日 政雄の部屋で日誌を書いている時、呉達閣の居候である周恩来と知り合いとなる。
10月27日   薩摩人の園遊会に招待され山本権兵衛に会う。「おまんの心は嬉しか」と言われ感激する。    
10月28日     周蔵の紹介で熊谷守一と対面。非常に緊張する。  
10月末   築地の料亭で大谷光瑞師と会う。6尺以上の巨漢で洋服姿は坊主というよりも成金財閥との印象を受ける。    
10月30日   新栄町の若松の事務所で藤山雷太を紹介され、食事に招待される。    
11月   ケシ栽培のために借りていた上高田の借地の隣の一杯飲み屋「つる店」の一間を借りて政雄を住まわせ、ケシ栽培の研究と支援を依頼する。(以後、政雄は京都と上高田を往復[推定])         
11月10日   若松安太郎から薬学士の阿久津卯吉を紹介され製薬会社の設立を持ちかけられる。    
11月22日     頭痛がひどいため、周蔵の紹介で呉秀三に診断してもらいメニエル氏病と診断される。  
  上原参謀総長の大森別宅で貴志大佐に会う。純質アヘンの製造に関して教える。    
大正7年 24歳  
1月12日     佐伯、美校の入試が近づき荒れる。  
3月末     佐伯、美校に合格する。
 
4月9日   林次郎阿久津製薬の出資金として29,000円(現在の約2億9千万円)を持参。    
8月2日       日本、シベリア出兵を宣言。翌日富山で米騒動が起こる。
12月   ギンヅルの斡旋で周蔵の嫁アサギクが決まる。    
大正8年 25歳  
2月5日   佐伯の友人の山田新一が佐伯の性格は病気のためなのかどうかを聞きに救命院を訪ねる。     
2月26日   大谷光瑞から招かれ、光壽会に入るよう依頼される。周蔵は断る。周蔵が将来は乞食坊主になるつもりだと言うと「瑞節」という名前を貰う。周蔵は畏れ多いため「端節」としてもらう。    
2月末   阿久津製薬から初給料として100円もらう。    
4月   徳田球一に社会主義運動に参画を依頼されるが断る。
巣鴨病院に行く途中、佐伯に尾行される。
   
5月29日      牧野医師の紹介で尊敬している中村彝と会う。非常緊張する。に  
6月   久原房之助に会う。純質アヘンをもっと回して欲しいと言われる。    
10月    上原から大連阿片事件の調査を命じられ、布施一の紹介で邊見十郎太を雇って調査を依頼する。
池田庄太郎の次女池田巻に救命院の簿記と事務を依頼。
   
10月16日   内地のケシは不作だったが、北海道の阪井は、約11Kg の極上アヘンを持って来る。    
12月3日   上原から活動資金として2,500円渡される。
煙草販売の収益が月に2,000円以上となる。
   
12月18日   佐伯祐三が周蔵の実家を訪問。急いで帰郷する。    
大正9年 26歳  
1月30日   上原閣下邸で憲兵中尉甘粕正彦を紹介される。    
3月29日    憲兵中尉甘粕正彦が救命院を来訪。周蔵に伊達順之助の隠匿を依頼する。    
4月11日     兄の祐正を連れて救命院を訪れる。  
4月17日     米子を伴い救命院を訪れる。  
5月〜6月     陸軍奉天特務機関を再設。特務機関長は貴志彌次郎少将。
5月6日   周蔵、上原の使いで奉天に出発。    
    大連に着き、満州東亜煙草設立の資金として3万円渡す。10日ほど旅順の大谷光瑞邸に宿泊する。    
5月22日   奉天に着き、貴志彌次郎に上原閣下からの預かり物を渡す。    
5月23日〜6月始   錦州に石光真清を訪ね、1万円を進呈する。そのお礼として揮毫してもらう。    
7月   貴志彌次郎に連れられて張作霖に拝謁し、奉天古陶磁を拝見して感動する。上田恭輔から陶磁器に関して講義を受け、上田、小森忍の倣造品の精巧さに驚き、それを見分けるため、「奉天古陶磁図経」「周蔵三井合作図譜」を制作する。    
8月4日   奉天を発つ。張作霖から手元で使っていた陶磁器3点を拝領する。    
8月   朝鮮経由で帰国するが、すぐに高熱で倒れる。    
9月10日   の提案で、佐伯に対しては金を貸すのではなく絵を購入するという形を取ることにする。    
9月18日     藤根の斡旋で下落合に土地を探し、新婚宅を着工。  
10月2日   呉秀三博士から漢方の勉強を薦められ、帝国針灸漢方医学校なる私塾に入学。周居應(王希天)に教わる。     
10月19日   福島でケシ栽培を始めるために準備。    
秋      佐伯、米子と結婚。 薩摩治郎八パリに日本会館の建設に着手。
12月上旬   甘粕正彦と会い、伊達順之助が放免になる情報を得る。
邊見十郎太から大連阿片事件の調査報告を得る。
   
1921年
大正10年
    アトリエを増築。  
1月   さんが布施一の妻と親しく、その関係で大杉栄やその仲間達と知り合う。    
3月   上田恭輔張作霖の宝物の日本の金満家へ販売の件で周蔵を訪ねる。
上高田で周居應に合う。本名は王希天だと教えられる。
   
4月   林次郎から末妹のケサヨを引き取ってくれと依頼され、九州から呼び寄せ、救命院の事務を依頼する。    
10月4日       首相原敬が中岡良一に殺害される。
大正11年 28歳  
2月初旬   佐伯がフランスに留学したいと言うので、大谷光瑞に確認する。「出してやってくれ」との回答をもらう。      
2月21日     長女の彌智子が生まれる。  
7月   山之内三郎の紹介で栃木県真岡から益子、結城から水戸へとケシ栽培地を広げる。    
8月   大森の上原邸で元彦根城主の伯爵井伊直愛を紹介される。琵琶湖から彦根にかけてケシ栽培を広げるようにする。    
8月15日        宇垣一成による上原派粛清によって奉天特務機関が閉鎖される貴志彌次郎機関長を解任される。
10月   妻のアサギクが周蔵の籍から抜ける。    
12月   情報収集のために外国語学校に通う。    
大正12年 29歳  
2月   近江地方のケシ栽培を広げる。松江では成功する。甘粕正彦の紹介で、伊達藩の支藩である水沢にも道ができた。      
3月   佐伯の口述で『救命院日誌』を記帳するが、この作業で半月をつぶす。 東京美術学校西洋画科を卒業。    
6月 佐伯の渡仏の件で薩摩治郎八に相談の連絡をする。薩摩から了解したとの電報を受け取る。 渡仏の件に関して兄祐正に相談に行く。
9月   会津若松で関東大震災を知り、急いで帰京。
甘粕事件を知る。
震災の被害で米子の新橋の実家に預けていた渡仏の荷物が全焼する。 甘粕正彦、関東大震災のどさくさに紛れ無政府主義者の大杉栄を殺害。
田中義一、陸相となる。
陸軍元帥
10月   甘粕正彦に関して上原閣下に聞く。「心配なか。4,5年の辛抱であろうか。わしの目の黒かう内は何とでもなりもす。」と言われ。誰の指示か悟る。 薩摩治郎八にパリでの佐伯の世話を依頼していたが、受け入れ態勢ができたとの電報が届く。  
11月     米子彌智子と神戸港から渡仏。  
12月27日       虎ノ門事件起こる。
大正13年 30歳  
1月   周蔵、千葉刑務所に収容されている甘粕正彦に会いに行く。フランスから手紙が来たら、またいらっしゃいと言われる。
フランスの藤田嗣治から手紙が来る。早速、千葉刑務所の甘粕正彦に会いに行く。
  宇垣一成、陸相となる。
3月20日 フランスから2度目の手紙が届いたので、千葉刑務所の甘粕正彦を訪ねる。暗号手紙の解読の宿題をもらう。  
3月末 フランスから3度目の手紙が届き、千葉刑務所の甘粕正彦を訪ねる。前回の宿題は100点をもらう。  
    里見勝蔵に連れられてブラマンクを訪ね、「このアカデミック!」と怒号される。  
8月20日       貴志彌次郎、中将に昇進するが、下関要塞司令官に左遷させられる。
9月中旬   商科大教授上田貞次郎が幡ヶ谷の自宅を訪ね、紀州徳川家の財務顧問として張作霖奉天古陶磁に関して周蔵に尋ねる。    
大正14年 31歳  
1月     モンパルナス駅近くのアトリエに移る。  
6月 祐正が渡欧して4ヶ月パリに滞在する。
10月 サロン・ドートンヌに『コルドヌリ』、『煉瓦屋』などを出品して入選。
1926年
大正15年
32歳  
2月上旬
    祐三、祐正に同行してナポリから帰国。  
3月     15日神戸港に着く。
 
5日中野正剛がシベリア出兵時の軍事費の不正を告発。
5月   周蔵、帰国した佐伯から30枚の絵を買う。2,000円近く支払う。    
7月   治郎八に5万円融通。翌年、絵画10点で代物返済。    
10月       甘粕正彦特赦減刑で仮出所する。
昭和2年 33歳  
6月   治郎八に6万円融通。翌年、絵画7点で代物返済。
中野正剛の妾から張作霖暗殺の噂を聞く。
    
8月       大阪を出発してモスクワ経由で再渡仏。  
9月   共産主義の拠点である東京市電を探索していたが、退職する。 パリに到着。  
10月    周蔵、池田巻と結婚する。
薩摩治郎八の紹介でモンパルナス162番地に移る。「馬の目の画風」で『広告塔』を制作。米子との確執が深まる。    
10月29日      荻須高徳が渡仏し、佐伯夫妻と交際する。  
11月4日〜     第20回サロン・ドートンヌに米子加筆品を出品し、『新聞屋』、『広告のある家』が入選。  
11月末   周蔵、舌癌が発覚する。手術しないと2年の命と宣告される。    
12月中旬     ガス事件で佐伯、1週間入院する。  
12月22日       佐伯、風邪で寝ていたが、薩摩の手配でロシア娘がモデルとなり「ロシアの少女」を制作。  
昭和3年 34歳  
1月   舌癌を患っているが、タバコ小売人小山健一の名義で2度目の渡欧。奉天経由でパリに行く。甘粕正彦藤田嗣治らと協力してシベリア金塊の回収をするのが目的。      
1月28日   周蔵、パリの藤田嗣治の家に着く。佐伯のアパートにも行く。    
3月15日      佐伯、離婚の決意を米子に告げ、一人モンマーニュに写生旅行に出る。米子世間体を気にし、モンパルナスのアパートを出たいと言う。     
4月   薩摩から資金6万円の礼状が届く。佐伯の絵の送付も記載。回収した金塊がニコライエフスク港に着く。大部分は貴志彌次郎中将に渡す。     
5月13日       佐伯一家、リュ・ド・ヴァンプのアパートに引っ越す。  
5月末       佐伯の体調が崩れる。  
6月4日        張作霖爆殺される
6月18日      佐伯佐伯祐三ハオハッタ南無阿弥陀仏」と日記に記す。  
6月20日      佐伯、首に縄が巻かれる。  
6月23日       佐伯、精神病院に入院させられる。   
8月16日      佐伯死去。弥智子も死去  
10月   周蔵、佐伯の死亡の件を兄祐正から聞く。大谷光瑞に会いに行くと、「自分で行動を起こしたので渡仏前に切った」と言われる。
周蔵、若松安太郎氏と会う。上原不信で特務を辞める話を聞く。
米子、祐三と弥智子の遺骨を抱いて帰国。    
11月14日      米子、周蔵に葬式の案内を出す。  
11月25日      祐三の告別式、築地本願寺で行われる。   
12月   米子、周蔵に祐三の絵を懇願するが、周蔵は返事を出さず。周蔵、田中義一暗殺計画の情報を入手。   甘粕、日本に戻らず朝鮮に行く。
        
昭和4年 35歳  
1月13日   米子、周蔵に再度泣き落としの手紙を送る。    
1月20日   周蔵、藤根大庭に依頼し、大八車一杯の佐伯の絵を芝新幸町6の米子宅に届ける。      
1月24日   周蔵、藤根大庭に依頼し、20枚の佐伯の絵を芝新幸町6の米子宅に届ける。     
4月13日       後藤新平死去。
9月       陸軍の動向を確認するため、藤田嗣治が帰国。
田中義一、突然死去。
12月?   周蔵、王希天呉達閣渡辺政雄らと牛炭疽菌の研究を行う。
後藤新平田中義一の死去の真相を聞く。
     
1930年
昭和5年
36歳  
4月   周蔵、甘粕を訪ねて満州へ行く。 米子と祐正が大阪市付近で祐三の遺作展を開く。  
       
        米子、周蔵に妊娠したので産婆の所に連れていって欲しいと懇願。  
    薩摩が預かった祐三の作品の残りの分が届く。    
昭和6年?   上田恭輔甘粕正彦と組んで奉天古陶磁の倣造を行い満州事変の資金を調達する。周蔵に『三井良太郎図譜』の返却を依頼。周蔵は断る。       
9月18日     満州事変勃発
昭和8年 39歳  
         薩摩、パリ大学都市総裁のオノラ上院議員の来日に随行し、結核の妻千代子を連れ帰国。
11月     上原勇作死去。
昭和9年 40歳    
         薩摩フランスに帰り、インドシナ、タイで活動する。  
1935年
昭和10年
41歳    
    甘粕の意を受けた上田恭輔が周蔵に模造品の製作に加わるよう勧誘。周蔵は断る。       
昭和12年 43歳    
          薩摩千代子、長野県諏訪郡富士見にある富士見サナトリウムに転地。2年ほどの退院し諏訪に別荘を建ててもらう。  
昭和13年 44歳    
5月         薩摩体をこわしフランス婦人に付き添われ帰国。  
昭和14年 45歳    
    薩摩と周蔵、時局をめぐる意見の相違で大喧嘩をしたのち、周蔵に為替を都合してもらい再度渡仏。        
1940年
昭和15年
46歳    
    杉並の方南でコウモリ傘の修繕を看板として石原莞爾のために探索活動を行う。
上田恭輔、周蔵に「三井良太郎図譜」の買い戻しを依頼。周蔵断る。
    
昭和16年 47歳 12月 太平洋戦争始まる
昭和17年 48歳    
                              小森忍木村貞造が三重県阿山郡府中村で佐那具陶器研究所発足。  
昭和18年 49歳       永仁の壷』が発見され、小山富士夫が賞賛。  
昭和21年 52歳        佐藤進三小山富士夫が中心となり日本陶磁協会が設立。  
1945年
昭和20年
53歳 8月 終戦
昭和23年 54歳     小山富士夫、国立博物館の調査勤務となる。  
昭和24年 55歳      
         薩摩千代子、諏訪の別荘で息を引き取る。  
    小山富士夫、2本の『永仁の壷』を重要文化財に指定しようとしたが、他の委員から疑念が出され保留となる。  
昭和26年 57歳    
        薩摩帰国し、箱根に落ち着く。  
昭和27年 58歳    
2月   薩摩、手紙で周蔵に金の代価として渡したルノアール2枚の返却を懇願。         
12月   薩摩、手紙で周蔵の思想を批判。追伸でルノアール他3枚の絵の礼をする。    
1955年
昭和30年
61歳 貴志彌次郎の養子重光が奉天古陶磁の資料を求めて訪ねて来る。    
昭和34年 65歳    
    大阪市立美術館の学芸員の佐藤雅彦が訪ねてくる。「三井良太郎図譜」、「奉天図経」の1,2冊を貸す。     小山富士夫、再度『永仁の壷』を重要文化財の指定の申請を行い、決定する。   
昭和35年 66歳    
2月            市場に「佐野乾山」が出回る。  
昭和36年        
3月       永仁の壷』の重要文化財指定は取り消され、小山は官職を去る。  
昭和37年 68歳    
1月19日   佐野乾山』の記事を読み、「これは犯罪だ!」と叫び、連日毎日新聞社に抗議に行く。調査中に路上で自動車に追われ、かわそうとして塀に頭を打ち、脳溢血で左半身不随となる。
退院後、厳しいリハビリを行い、機能はかなり回復した。 
朝日新聞にバーナード・リーチ佐野乾山を本物と断定と報道。真贋論争が始まる。  
昭和39年 70歳    
10月   周蔵、死去。      

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