「奉天古陶磁」個別品公開
個別品公開
1・黒地洋彩・描金・共蓋壺(奉天品番229)
右は実物の写真である。また左は『奉天古陶磁圖經』(資料本)の本品に関する記載である。器形全体をスケッチし、文様の一部を薄い紙でトレースして原寸と原形を明らかにし、要所の寸法を記入している。この箇所を実物に当てれば立ちどころに真否が明らかになる仕組みである。コメントは、下に掲げた落合莞爾著『乾隆帝の秘宝と「奉天古陶磁」の研究』(解説本)の当該頁を引用して、下に示す。
図経P40
品番229 壺 蓋付 黒地に金襴を使い 洋花を描いたもの 赤緑など数種
の色
康煕 清
これは黒地のものの例では 最高級品の逸品である。1点しかない。他にもないであらふ。堂々たる良いもの
「紀州図鑑」U−47図 黒地描金・素三彩・花卉文・共蓋壷 紀文会
≪落合解説≫これが特製のブラック・ホーソンで、おそらく空前絶後であろう。この黒発色は紅釉とコバルト釉を混ぜて出したものらしい。
蓋の金獣の金塗りも極めて厚い。文様は当時フランスで流行していた黒ビロードに色んな花模様を刺繍した趣を現したものである。
来歴と概容
明治27年(1894)、宮崎県小林の豪農の家に生まれた吉薗周蔵は、祖母が都で仕えた公卿堤哲長の孫で、父林次郎は陸軍首脳となった上原勇作の従兄に当った。
大正元年(1912)8月、十八歳の周蔵は、時の陸軍大臣上原勇作中将から「草」になることを頼まれた。「草」とは、早く謂えばスパイのことである。少し考えた後に承諾すると、鉄道測量技師の肩書を得るために熊本の東亜鉄道学校の第2学年に入学を命じられ、上原の命令で東寮に入居したが実際には数日登校しただけで、東寮から熊本医専に通った。医專では新設の薬学研究科の助手として芥子栽培法と阿片薬理の研究に励み、鉄道学校は期日を待って首席で卒業した。
大正9年夏、上原の密命で満洲の奉天(現在の遼寧省瀋陽)に赴いた周蔵は、そこで観せられた中華古陶磁の精妙さに圧倒され、それらを一点ずつ写して『奉天古陶磁圖經』を作成した。本品の測尺数値の「2尺7寸5厘」及び「1尺45」は、実寸の830o・440oに極めて近く、器形の写生図も甚だ正確である。文様の一部を選び薄紙を当ててトレースし、それを写した和紙を綴じて帳面にしたのが『奉天古陶磁圖經』である。作成の目的は、後に模造品が造られた場合、簡単に識別するためである。
平成2年、紀州徳川家の用人格の稲垣伯堂画伯を通じて紀州家の古陶磁を受け継いだ本会は、画伯の要請に応じて直ちに『紀州陶磁図鑑』を作成した。その際、本品の名称を「黒地・描金・素三彩・花卉文・共蓋壷」としたのは、今思うと誤りで、錫を用いた不透明の「洋彩」を使っているので「黒地洋彩」が正しく、今回から訂正した。
本品の最大の特徴は地の黒色で、他に見ないこの黒色を作り出した技法が重要なのである。壺の裾の部分に鉄発色の釉上紅彩(赤絵の赤)が見えることから、紅彩とコバルト系の混合発色ではないかと考えたが、その後は本格的に追究しておらず、結論はまだない。
本品は、当時ヨーロッパの宮廷で流行した服飾の「黒ビロード地に色とりどりの花を刺繍した様子」を陶磁器上に再現したもので、色料は各色の洋彩である。要所に金彩を施しているが、蓋の紐の金獣に塗られた金はことに厚い。文様の花卉は洋花である。
本会の見解
本品は、「奉天古陶磁」の吉薗周蔵のコメントの通り、天下にこれしかない絶品で、康熙19年(1680)9月、勅命により創業した御器厰のいわゆる「臧窯」の製作と見て良い。
上田恭輔著『支那陶磁の時代的研究』(昭和4年発行)によれば、景徳鎮の陶政官として知られる臧應選が、康熙18年から18年間江西陶監の職を奉じて、独特の創意と経験と不屈不倒の研究心を発揮し、之がため康熙60年の長い在位中における夥しい御窯官窯の作品中でも、とりわけ中期のもの(臧窯)が最も異彩を放つ。中でも、「臧窯には金銀の上絵を焼き付ける妙技を発見し、精巧極まる金襴手の焼物を製作した」とあり、本品の特殊な金彩を臧窯のものと看るのが最も自然である。
一般にいう「黒地五彩」は、黒地に五彩釉を施し緑がかった透明釉を懸けたもので、「ヘーウーツァイ」と呼ばれて西欧人の好尚に投じ、当時は市価が極めて高く、上田前掲にも
「最も高価の黒地五彩の名器、若し高さ二尺位の円錐型の花瓶で完全に一対揃ふて居るものならば、十萬乃至二十萬円の市価を呼ぶ七宝焼に似た黒釉象嵌模様の焼物」
というが、今日でも決して安いものではない。
「奉天古陶磁」にもその種の黒地三彩(左図・奉天品番227)が4点あるが、本品はその手とは全く異なり、素地を黒地にして洋彩と金彩を施した珍しいもので、随所に試作的要素が残っている処から、臧窯でも初期の作品と見られるが、この技法は終に再現可能の域に到達しなかったと見え、これ1点だけが遺り、世上に類品はない。御器厰は工業施設ではなく芸術工房であるから、原則として、1点を製作すればそこで辞めた。臧應選が本品を以て完成品とした理由は、製作の困難も勿論あるが、「これ以上の完成品をもはや必要としなかった」からであろう。
御器厰開設以前の景徳鎮は、すべて民窯で、民窯品を買い上げて官需を満たしていたが、明朝年号の偽款を入れていた民窯の商慣習を正すため、康熙16年に年款の記入をすべて禁止した。以後の景徳鎮では、民窯の一部が監陶官の派遣を受けて官需品を焼造し、康熙官窯を称するようになる。
しかし、康熙御器厰はそれら一般官窯とは根本的に異なっていた。愛新覚羅家が、歴史の流れから自家の支配下に入った漢文明の中核文物たる陶磁器を対象に、人類の宝たる古陶磁の再現と後世に誇るべき新作品の創出を目的として直接経営した芸術窯であったから、量産化は固より複数生産の意図もなく、1品が完成すれば目的を達成し、(極言すれば)重複品は故意に破却したことも考えられる。
外務省に残る奉天からの外交電報を観れば、辛亥革命当時、奉天宮殿の磁器庫には康熙・雍正・乾隆三代の「年款入り官窯品」が各代数万点ずつ秘蔵されていた。2年前の宣統元年(明治42・西暦1909)、奉天を来訪したキッチナー元帥が、宣統皇帝溥儀(実質は父の醇親王)に一品頂戴をせがみ、天下の名品「江豆紅太白尊一対」をせしめた逸話が知られるが、その時に奉天宮殿磁器庫には同じものが148件も在ったことも、当時の文書に明記されている。
康熙御窯品は、そのような「官窯品」とは性格が異なる「皇帝作の芸術品」として、宮廷での使用は固より大臣使臣に対する賜与も不可とされ、原則として皇帝以外の眼に触れない禁制の下に、一品一対しか存在しなかったのである。本品に「康熙年製」の款銘がない理由も、当時施行の年款禁止令のためと看るべきでない。雍正・乾隆の御器厰品にも無年款が多く、これを見ると明代倣古品などは別として、御器厰品には元々、時の年款を入れる発想がなかったと推察される。
このような「無款御窯品」の存在が今まで世上に知られなかったのは、誕生後直ちに紫禁城に秘蔵された御窯品の実態は、世の知るところとならず、さらに乾隆帝によって秘かに奉天北陵に移され、以後はその存在さえ厳重に秘匿されたからである。
以上
平成23(2011)年9月1日
紀州文化振興会 代表理事 落合莞爾