個別品公開

3・青花釉裏紅・九龍文共蓋酒会壺(奉天品番85)

 

実物と来歴

説明: C:\Users\iguchi\Pictures\ControlCenter3\Scan\CCF20100217_00003.jpg左の写真が実物で、右下は平成3年(1991)に撮影した本品と本会代表の落合莞爾である。

私(落合)が本品を初めて見たのは平成2年3月の肌寒い朝であった。和歌山市の稲垣伯堂画伯の画室に伺うと、1mほどの球体が毛布の下に蹲っていた。

「落合君、その毛布をどけてみよ」と言われて、その通りにすると、これが現れた。その時の感動は今もって忘れられない。暫くして、「エライものを見てしまったなあ」と思った。その日から私は、それまで住んでいた世界とは別の次元に移ってしまったのである。

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\Pictures\研究本の資料写真\795.jpg左図は「周蔵・三井良太郎合作図譜」の写本で、文章が紙の裏側へ続き「(同圖柄ノ)存在ハ ナイト サレテヰル」と書かれている。  

この原本は、上原参謀総長の密命で、大正9年夏に奉天に派遣された吉薗周蔵が、満鉄の製図技師三井良太郎と張作霖司令部(張氏帥府)において合作したもので、三井が作図し周蔵が測尺と文字を入れた。原本が未詳なのに、左下図をその写本と極め付けるのは、画風が三井のものでなく、筆跡が周蔵の手ではないからである。

大正9年7月の『周蔵手記』にも、始めて本品を見た時の驚きと感想が記されているので、その部分を拡大して下に掲げることにする。原本は小さい手帳に書かれていて、1行の横幅はマッチ棒2本ほどの大きさであるから、原寸ではちょっと読み辛い。

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\image005.jpg説明: C:\Users\ochiai\Desktop\image004.jpg

上田は周蔵に「・・・多分龍缸大窯」と説明したが、龍缸大窯は皇室用品を焼く御窯である。それを上田は「官窯」と謂ったが、官窯とは政府官僚が運営する窯の一般名称である。本品を製作したのは皇帝用美術品だけを焼いた特設の「御器厰」であるから、正確には「御窯」というべきであったが、上田は御器厰の実像を正確に知らなかった。師匠の孫游にしてからが、区別していなかったのであろう。

しかし上田は、文様を「彫刻又は繪筆で描いた」ことは聞き知っていて、「この文様は彫刻又は繪筆で描いたそうだ」と説明した。これは、釉裏紅の銅分が揮発せぬための工夫として器胎に波涛文を線彫りして銅釉を埋め込み、その上に青花で龍文を描いたことを意味するらしい。「らしい」と謂うのは、胎土に彫り込んだ線に欠落がなく、一見では彫ったとは見えぬからだが、かといって、銅釉を絵筆で塗った時には必ず出る塗りムラは絶対に見えない。

本品には酷似品があった。下にその「図譜」を掲げるが、器形・寸法は本品とほとんど同じで、龍が蓋の上まで攀じ登っている図柄だけが異なる。作品的には兄弟品と謂うべきだが、正面龍は皇帝を意味し、天下唯一人で対等する兄弟はいないから、兄弟品とは言えないのである。

 

説明: C:\Users\ochiai\Documents\Scanned Documents\イメージ (3) - コピー.jpg説明: C:\Users\ochiai\Documents\Scanned Documents\イメージ (13).jpg

上の写本2枚は、周蔵から原本を預かっていた佐藤雅彦教授が、学費援助を受けた古陶磁商Hに唆されて、誰かに描かせたものである(本会発行の落合莞爾著解説本に詳述)。尤も2の「魚藻文壷」とは異なり、説明文の「明 紅海青龍文壷蓋付 九龍ガ蓋ニ迄上ガッタ圖 二尺六寸一分」「コレラハ世界最大ノ遺品デアル」と謂う口調が周蔵そっくりだから、原本にもその文言があったことを感じる。とすると、「明」と明記した経緯が問題になるが、これはいかようにも考えられる。説明: C:\Users\ochiai\Documents\Scanned Documents\イメージ (4) - コピー.jpg

この蓋まで這い上がった方の壺は、高さが2尺6寸1分、すなわち791mmで、2尺5寸1分の本品よりも1寸(30mm)大きい。「コレラハ世界最大ノ遺品」とは、二つの九龍壷を指したものである。

左に掲げたのは「奉天図経」の九龍壷に関する説明文である(本会発行「原本資料本」を参照)。見易いように、下に書き直す。

 

九龍の壺の事は、別紙に三井さんが圖柄を加へて下すったので、ここには龍の二頭だけを記す。今回の美術品の中の最高のものが、この九龍の壺である由。

尚、上田さんと(全ては浜面なる関東軍参謀との間でやってをる事)考への行違いにて、九龍の壺、入れたり出したりして調べてをる内に、貴志さんの誤りにて一点を割る。貴志さんの責任となるに、自分は協力す。然し、一点残るに二点の必要なしと自分は思う。

張作霖氏は貴志さんの怒りに同調し、金で済む。

 

上田恭輔が平野耕輔と小森忍を招いて始めた、満鉄窯における「奉天古陶磁」の倣造工作に、関東軍参謀長浜面又助少将が加わったのは、関東軍の圧力で倣造品を販売し、そこで得た利益を戦費弁償として粛親王に給付する目的と考えられる。

大正5年(1916)関東軍旅順派と通謀して第一次満蒙独立運動興した結果政商大倉喜八郎から巨額の借財を負った粛親王に対し、負い目を感じていた関東軍の浜面参謀長は、粛親王に公金50万円を支給したが、なお不足で、秘密裡に粛親王に補填する財源を探していたから、満鉄窯における「奉天古陶磁」の倣造工作を聞きつけるや、その利用を陸軍中央に具申し、大正9年春に許可を得たものらしい。

陸軍首脳の一人で参謀総長の上原大将は、満蒙独立よりも張作霖支援を重視する奉天派で、粛親王支援に反対であったが、陸軍部内では表立って発言せず、配下の貴志彌次郎少将を奉天特務機関長に任じ、「換金工作では上田と共同しつつも、秘かに浜面工作を妨害せよ」と密命した。

換金工作の真相は大正7年に奉天兵工廠を創立した張作霖に対する日本からの支援資金のロンダリングであった。溥儀の父で愛新覚羅家の中心の醇親王は隠れ奉天派で、張作霖支援資金のネタとして「奉天古陶磁」の放出を決め、大正5年に堀川管理下の国事資金から幾許か支払われて実質的所有権は辰吉郎に移った。日本側はそれを張作霖の強奪と装い、奉天北陵の秘庫から張作霖の管理下に移したのは、列強からの内政介入との非難を避けるためである。その時に立ち会わされたのが大谷光瑞師配下の上田恭輔で、以後は満鉄総裁特別秘書を兼ねながら張作霖司令部に出向し、顧問に就いていた。

孝明天皇の孫として、明治13年(1980)に堀川御所に生まれた辰吉郎は、革命に敗れて来日した孫文の秘書となったが、その傍ら、愛新覚羅家の実質的中心の醇親王と慇懃を通じ、その要請で明治43年に紫禁城に入って小院を寓居とし、相談に与ったが、さらに奉天に赴いて張作霖と昵懇になり、息子の張学良と血盟を交わしてその義兄になった。正に清朝・孫文・張作霖との等距離外交で、これが皇室外交の真骨頂である。

辰吉郎の意を受けて政治活動に携わった玄洋社の杉山茂丸が、薩摩ワンワールドの軍人と政治家を動かしていたが、外に京都の宗教勢力があり、その頭領が西本願寺の法主大谷光瑞師であった(本会発行の落合莞爾著解説本に詳述)。

上原は、私設特務の吉薗周蔵を奉天に派遣して貴志の秘密支援を命じ、さらに盟友大谷光瑞師にも周蔵に対する協力を依頼した。もともと「奉天古陶磁」の倣造を発案した光瑞師にしても、関東軍の介入は想定外で、倣造よりも重要な換金工作に支障を来す惧れを感じた光瑞師は、直ちに周蔵に対する何分の協力を上田に命じた。

ここに、貴志・周蔵組と上田・浜面組が陰に対立することとなったが、旅順の浜面を除く奉天の3人は、上辺は仲睦まじく「奉天古陶磁」を前にして陶磁器談義を楽しんでいた。

大連の料亭で満鉄窯の倣造品を見かけた周蔵は、素人目では本物と区別が付かないと感じ、これが貴志の換金工作にとって阻害要因になることを畏れた。換金先の第一候補は紀州徳川家で、紀州藩士出身を買われて紀州家との窓口になった貴志は、満鉄倣造品が将来真贋問題を惹き起こし、「奉天古陶磁」の所蔵者となった主家に迷惑をかけることを最も憂いた。

勇敢だが清廉で正義感に溢れた軍人の貴志を尊敬する周蔵は、老婆心から、真贋の判別に役立つ資料作成を思い付く。満鉄の製図技師で絵のうまい三井良太郎を奉天に招き、1点ずつ写生させ、測尺と品名を書き込んだ「合作図譜」を450枚ばかり作ったが、やがて、これらは所詮絵画であって真贋判別には役立たぬと感じ、自ら考案したのが「奉天図経」である。

上掲の文章に「別紙に、三井さんが圖柄を加へて下すったので、ここには龍の二頭だけを記すとあるが、「別紙」とは「合作図譜」のことで、「ここには」とは「奉天図経」を指している。

また、上田さんと考への行違いにて、九龍の壺、入れたり出したりして調べてをる内に、貴志さんの誤りにて一点を割るとあるのは、「奉天古陶磁」の最高品九龍壺の倣造を試みた上田と浜面が、製造の秘法を小森忍に習得させるため、「龍が蓋まで這い上がった方の壺」を、貴志の反対を押し切って外部へ搬出した時、不幸にも割れてしまった。それが、たまたま貴志の管轄下だったので、貴志の責任となったのである。

困惑する貴志を救うため、周蔵は手持ちの3万円を張作霖に提供し、不足分の支援を宮崎の父林次郎に仰いで貴志の責任解除を図ったが、張作霖が貴志の立場を理解してくれたため、周蔵手持ちの金銭で済んだ。

因みに大正9年(1920)当時の国内物価で見ると、当時の1円は現在の1万円近かった。上田恭輔『支那陶磁雑談』に、キッチナー元帥遺愛の「桃花紅太白尊一対」が大正5年頃に落札された時の価格が、今日の邦貨で4億円を超えることが記されている(本会発行の落合莞爾著解説本に詳述)。

奉天宮殿に164件もあった官窯品の桃花紅とは異なり、康熙御窯の九龍壺ともなると、商品性を超越した高貴品であるから、張作霖への弁償が現在の数億円で済んだのは、極めて寛大な措置と謂うべきである。尤も、張作霖にしても、元々タダで戴いたものに、余りな欲を張れなかったものであろう。

 

 

本会の見解

二角五爪の龍が皇帝の象徴となったのは宋代であるが、正面龍の土台となった九龍図の発祥が何時ころなのか。まだ詳しく調べていないが、今までに知り得たところでは、焼物では、北京故宮博物院蔵の「宣徳銘青花九龍碗」(下図)が最古と思う。宣徳期の文様は端正で知られるが、正面龍は描きにくいためか、やや横を向いている。

説明: C:\Users\ochiai\Documents\Scanned Documents\Documents\故宮宣徳碗.jpeg

説明: C:\Users\ochiai\Documents\Scanned Documents\Documents\出光萬歴染付正面龍.jpeg皇帝自身を象徴する正面龍は想像上の存在であるため、どうにも描きにくいらしく、よほどの画師でないと漫画になってしまう。嘉靖・萬暦あたりの器物には多く登場するが、並みの陶画工が描いた萬暦赤絵の正面龍ともなると、皇帝に備わるべき威厳と品位を自ら破壊しているのが痛ましい。

左図の「蝙蝠君」はまだ良い方で、説明: C:\Users\ochiai\Documents\Scanned Documents\Documents\台湾故宮闘彩正面龍.jpeg大抵は「マントヒヒさん」である。

清代に入っても龍図の禁制は続くが、王朝が交代して、さすがに龍の顔付も一変し、正面龍の品位も向上した。

説明: C:\Users\ochiai\Documents\Scanned Documents\Documents\台湾故宮乾隆正面龍.jpeg左上図は「大清康熙年製闘彩九龍皿」、左下図は「大清乾隆年製青花加彩九龍瓶」である。ともに台北の国立故宮博物院の所蔵になるもので、勿論「康熙官窯」「乾隆官窯」の精作には違いないが、正面龍の顔をご覧になり、本品の威厳ある正面龍と比較して戴こう。

 

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\Pictures\9龍\9dragon2.jpeg

本品の正面龍は、時の有名画師を景徳鎮に招聘して描かしめたもので、この絵だけで御窯製品と知れるから、問題は時代をどこに当て嵌めるかだけである。本会が当初、明代初期に当て嵌めたのは、清初の官窯品に類例がないからであった。つまり、遺品の多い清朝官窯品に類例がない以上、ミステリアスな要素のまだ残る明代初期の御窯に当て嵌めたのだが、今では清初期の御器厰以外に有り得ないと考える。しかも菫青色(ヴァイオレット・ブルー)の青料からして、康熙御窯品と断定して善い。 

                         以上       

平成23年(2011)9月1日

  紀州文化振興会代表理事 落合莞爾