個別品解説
7・釉裏紅・龍波濤文梅瓶(奉天品番148)
実物と来歴
左図が実物で、釉裏紅で波濤を描き、白堆にやや正面を向いた龍文を彫り込み、親龍の脚下に一匹の子龍を配している。
平成2年に紀州家古陶磁を譲り受けた本会は、その際に条件とされた『陶磁図鑑』の編纂に直ちに取りかかった。
本品の年代に関しては、清初倣古品との説がでたが、最終的に元末から明初にかけてのものと判定した。
その5年後に出現した「奉天図経」は、ページの上部に横向きに瓶全体を描き、「瓶 紅色の波地 色柄。龍がをどる圖 景徳鎮 明(元から)」と記し、その下に縦向きに親龍の顔付近をトレースしている。
さらに「紅い波の柄 龍は五本爪 下の方に小さい龍」とし
「時の皇帝の祝い事に使う配り物にしたと、古いものに残ってをる由」と付け加えている。
本会の判定が図経と一致したわけで、まずは祝着と謂うことになった。『陶磁図鑑』の編纂に際して本会が判定した年代が、その後出現した「奉天図経」の年代とほぼ同じで喜んだ例は、本品だけでなく、個別品解説でこれまで登場してきた各品では全てそのような経緯がある。
ところが最近になり、清初御器厰に関する見識が進むと、「奉天図経」の基礎となった孫游先生の知識自体に疑いが生じてきた。その結果、本会が到達した結論は、これらがすべて清初期の御窯品であると謂うものである。
本品よりかなり小さいが、器形紋飾が酷似したものが小学館『世界陶磁全集13』に掲載されていて、矢部良明の解説は「梅瓶の形、波濤文様の構図は明初の官窯に倣っていて、かなり忠実な写し」としている(左図)。
雍正年製の款銘が入ることから、年代が明らかな雍正官窯の精作であるが、これを基準にして本品を観れば、どの時代に帰すべきか。実は、本会発行の解説本、すなわち『乾隆帝の秘宝と「奉天古陶磁」の研究』を著作中は、落合の判断もまだ帰趨が定まらず、本品を孫游先生の教示通りに解した。乃ち明代初期としたのであるが、今は説を改めて清初御窯説を表明し、解説本の読者に落合の不明を謝す次第である。
左図の雍正在銘品は、龍の指の太さや玉縁風の口作りなど、明初の風格を忠実に摸したものであるが、それに比べて本品は龍の指が細く口作りは薄い。どうも、オリジナル品を積極的に模倣しようとしていないのである。
この技術を以てすれば造作もない忠実な模倣を、敢えて避け、玉縁作りを避けて薄手の口作りとし、龍の指を細くしたのは、それが監陶官の美意識であったからと思われる。デザインにおいてオリジナルを脱却した監陶官は、釉調において明初窯を追い求め、宝光釉という底光りのする分厚い釉を採用した。それを焼く窯も、康熙朝から登場した新技術のイチジク窯を用いず、明代と同じ登り窯をわざわざ設けたのであるが、釉と胎の伸縮率が合致せず、釉に後貫入が入ったが、御器厰の監陶官は全く意に介さず、この手の倣明初品を次々に作ったものである。
むろん1品種を一対か一品造ればそれで終わりで、仕掛品は廃棄して後を絶ったのである。この辺りの芸術家的感覚は、一般官窯の工業家的感覚と全く違うのである。乃ち清初の景徳鎮には、同時期に製作動機の全く異なる二つの窯が存在したのである。
ついでに右上図を見て戴きたい。これは本品の一部分を拡大したものであるが、青緑色を帯びた透明釉に貫入が入っている。上釉が分厚く、胎土との間の伸縮率の差から、生じたものである。
ここで釉裏紅の波濤模様を見るに、前出の「3・九龍壺」の出来とはかなり異なることが分かる。それでも、この波は絵筆で描いた物ではなく、彫り込んだものと考えられる。製作の前後を言えば、九龍壺が康熙中期なのに対して、本品はそれより下る康熙後期ではないかと思う。
以上
平成23(2011)年9月1日
紀州文化振興会 代表理事落合莞爾