9.定州紅玉・盤口瓶(奉天品番24)
実物と来歴
「奉天図経」には年代を「宋」ないし「元」と記されながら、実物は康熙の御器厰【ぎょきしょう】と見るしかないものとして、上記4から8まで5点を挙げた。
同じ立場と観られる品がその他にも数点あるが、ここでは、そうともいえないもの、つまり本当に「北宋品」と思われる定州紅玉瓶を紹介する。乃ち、下図である。
この深紅色が、「奉天図経」では同じく「定州紅玉」と名付けられた5の紅釉碗とは全く異なる手であることは、比較すれば明らかである(下図)。
その前に器形を論じなければならない。全体は一般に「玉壷春」【ぎょくこしゅん】と呼ばれる瓶の一種の形と似ているが、口造りが全く異なり、スパッと真横に開いているので「盤口瓶」の名称があるらしい。
また、ぐっと腰を落とし、下広がりの三角形を成して横に張る胴部も、玉壷春の形とは異なる。
1936年、ロンドンで開かれた中国古美術の展示会「参加倫敦中国芸術国際展覧会」の出品図説に、この形の銀瓶があったと記憶するが、ペルシャから伝来した銀器の形を時期で真似たものである。
盤口瓶は、盤すなわち皿のように真横に広がる口辺部の形状を即物的に呼んだもので、これがおそらく玉壷春の原形であろう。金属器に近い分だけ陶磁器としては製作が難しく、時代に進行とともに玉壷春に置換されたとみえ、「奉天図経」にも同じ形は他に1点しかない。(後出・奉天品番141)
下図が「奉天図経」の品番24で、本会発行資料本「原本原寸大奉天図経」から転載したが、説明文には「定州紅玉 瓶 定窯 北宋 宝物の中でも代表される一品の例。皇帝の秘宝の一品。一点しかない」としている。
右上が本品で、右下が5の定州紅玉碗(奉天品番25)であるが、ともに「定州紅玉」の名称を与えられているが、本品には「北宋」と記載があるのに対し、品番25には年代の記載はない。
両品は共に深紅色と称して可だが、品番25が透明感のある艶麗な深紅に対し、本品は紫を帯びた深みのある深紅で、ヴェネツイアン・グラスを思わせる。岸和田市の陶匠で、本会が多大の助言を得た故南宗明は、本品を観て、「この紅色は普通の銅発色やないですね。金を入れてこの色を出したのが、秘中の秘ですかな」と言った。
金を用いた釉薬には、17世紀にドイツの医師カシアスが発明した「カシアス紫」が知られるが、本品の紫紅色は銅に金を混ぜることにより得られたものであろうか。
本品の口回りが白いのは、「灯草辺」と言う紅釉の特徴で、銅分が最も揮発し易い場所だからである。灯草辺は、普通は周囲がボケるのであるが、本品は、くっきりとそこだけ鮮やかな白色となっている。恐らく工夫の産物であろう。
左図は奉天品番141で、「奉天図経」には「瓶 景徳鎮」とし、説明文には、「これはこの口が特徴。こういう形は定窯の紅の物と他この白(乳白色)色の物2品ある」と記している。
菊花文が施された地が乳白色の青花盤口瓶で、相当の珍品と見るが、神童と謳われた吉薗周蔵の注意力は半端ではなく、盤口瓶が「奉天古陶磁」の中に2品しかないことを見逃さなかった。紀州家からはすでに流出していて、現在の所蔵者は不明である。「奉天図経」には元代と明記しているが、今まで見てきた一連の品の通りで、あるいは之も、清初の康熙・雍正御窯の精作なのかも知れない。
この器形は、清朝でも倣古品を造っていて、田路周一『清代の瓷器』の97番に「郎窯系釉長頸瓶・乾隆期在銘」として挙げられている。これは28・5センチで、本品の24・6センチより多少大きい。
田路の説明によれば「銅分によって赤色を出すのは、必ずしも透明釉(土灰又は石灰)には限らない。マットや乳濁の失透釉(バリウム・マグネサイト・亜鉛華)を使った場合でも、同様に赤色は発生するとされている)とあり、このものは、郎窯系の失透性釉薬のものらしい。
器形をよく見ると、田路品は年款の通りで乾隆の風を漂わせるのに対し、本品の方は首がもっと細く胴が裾にかけて張っていて、同時代の物とは思えない。
本会には、本品を康熙の景徳鎮窯に帰せしむる見解もあるが、私(落合)は、胎土からしても、またこの特殊な紅釉技術が景徳鎮では他に見られぬ点からしても、もっと前代、即ち北宋代と考える。
平成23(2011)年9月5日
落合莞爾