平成八年一月、偶々観ることが出来た『吉薗周蔵手記』の内容に私(落合)は驚愕した。手記であるから、総論ないし解説に当たる部分がなく、すべてが具体的行動と見聞の記録であるのだ。その内容が史家の通説とは微妙に、時にはかなり異なるから、内容の真否の検証から始めた。僅か一行の記載でも、公開史料に照らしつつ論理的に質すと真意が浮上してくるが、テ二オハ一つでも原文の文意が変化するから、一字も忽せに出来ない。当初は、私的感情・私的史観は固より、史的通説を一切排して文理的解読に徹し、公開史料と口碑伝聞に照して解釈を施した。これを本紙に百十八回続けたのが本稿の前半で第一部に相当する。

一年の休稿期間の後、第一部で得られた史的知見の相互間の有機的連関の追究に取りかかった。第一部の各個別知見は、より上位の史的知見の集合体に属し、その集合体がさらに上位の集合たる「歴史実体」に属するので、アーサー・ケストラーのいわゆるホロン構造である。歴史実体の解明は、まず個別知見相互の有機的関連性を明らめる作業から始めねばならない。即ち現在連載中の第二部であるが、この作業の基本は一に懸って洞察である。

洞察によって個別知見相互の有機的関連を仮定し、之を用いて公開史料や口碑伝聞を検証すると、今まで見えなかったものが見えてくる。つまり、同じ史料であっても旧来の解釈と異なる意味が観えてくるが、そうなると、荒唐無稽に見えた口碑伝聞にも実質が備わって来て、貴重な資料性が保証されるのである。一例を挙げる。

  

 『吉薗周蔵手記』昭和二年十月条(原文はカタカナ横書き)

  張作霖を弾かふと云う話が 田中(注・田中義一)の方にはあると云ふことを 自分は耳に入れている。但し、アテにはならない。 

 同・昭和三年六月中条

  張作霖死亡の事 聞く。一体 だふなっているのであらふか。誰かに聞きたいが 甘粕(注・甘粕正彦)さんをらず、話せる人はなし。(中略)

  自分は 去年の内に 張作霖始末の事、中野(注・中野正剛)の女から拾った。

  一応は種元を明かさず,張作霖始末の噂ありと、閣下(注・上原勇作)には出した。(中略)

  その女の情報だから、自分も 半分は信用できなかった。私娼窟崩れの女だし、所詮は 自分のことは裏切るだらふと思っていた。然し 女の云う通りであった。(中略)

  女の云ふには 田中義一は 蒋介石と交換条件にて 決めたと云ふ。

  張作霖がをらなくなれば、満洲を思ふままにさせると 云ふことだらふ。

 

要するに、関東軍による張作霖爆殺は、昭和二年十一月五日の田中義一青山私邸における田中−蒋介石会談で田中が決めた、と『周蔵手記』は謂う。国民党首頭を名目上引退して来日した蒋介石が首相田中義一との直談判を望み、「張作霖を消してくれれば満洲を任せる」との条件を出したので、田中は応諾した。これが『周蔵手記』がもたらした個別知見である。外務省には通訳に当たった佐藤安之助少将が作った当日の議事録が残されているが、これを単純に文理解釈するだけで、上記の知見は容易に裏付けされる。そこで先年、この件を『新潮45』に発表したが、読者の反応は鈍かったようだ。理由は幾つかあろうが、まさか荒唐無稽と受け取られたわけではあるまい。仄聞する処、某元大使が拙稿を読んで、「私もあの議事録を読んだが、そのようには取れない」と説いたと聞くが、ではどう読むというのか。

会談に先立ち蒋介石は、軍事指導失敗の負責を称して国民党委員長を辞任したが、これが真っ赤な偽装だったことはその後の行動から明白で、上記知見を支える一証である。また、『蒋介石秘録』で語る青山会談の模様は、重要部分が佐藤の記録と背馳しており、下手な作り話であることは誰にも分る。佐藤は会談の重要性に鑑み、田中と蒋のやり取りを忠実に記録したと見るべきで、文面に「張作霖を殺してくれ」の明言はないが、意図的に削除したものとは

思えない。蒋の真意は、根回しの段階で田中側に正確に伝えられており、青山会談は田中がそれを直接確認する場であるが、現場で用いる語の真の意味を予め打ち合わせていたと洞察すべきである。即ち佐藤記録は、表現には通謀虚偽表示的要素があるが、文理上意味は充分に通じるのである。某元大使は、あえて曲解することで何かを守ろうとしているのか。

蒋の依頼を受けて田中との会談を根回ししたのは参謀本部第二部長松井石根中将である。明治四十年から四年間の清国差遣中、孫文の大アジア主義に傾倒した国民党シンパの代表格で、蒋介石とは親交あり、一方で田中義一側近として大正十四年五月から現職に就き、この難事に最適任であった。おまけに実弟松井七夫は、大正十三年から張作霖顧問で、張の動静を把握出来る立場であった。親中派の松井石根は、国際政治の見識を買われて予備役中に召集を受け、上海派遣軍司令官に補せられ、戦後南京事件(いわゆる南京虐殺)の責任を取らされてBC級戦犯として絞首された。松井の無実を陳情された蒋介石は、「閣下は日本軍全体の責任を被られたのでやむを得ない」として動かなかったが、後に訪台した岸信介に対して、「冤罪であった」と、泣いて其の死を悼んだという。洞察と謂うより想像するに、強引な戦犯容疑による松井の死刑は、青山会談の口止めであろう。

ところで、『周蔵手記』による本件知見と矛盾する史料が最近出てきた。張作霖暗殺を赤軍特務が実行したとする旧ソ連の秘密文書である。暗殺現場の状況が関東軍犯行説の強固な物証であるから赤軍説は俄かには首肯し難く、出先諜報員の赤軍本部に対する誇大な功名話に過ぎぬと謗る筋もある。ところが意外にも、私(落合)の重要情報源がこれを支持しているから、丸きりの作り話でもなく、何らかの実はあるのだろう。

上記は公開史料の話だが、本件に関する口碑を最近仄聞した。維新の功労者で明治末まで日本政界の最上層部にいた人物の末裔で、尊父も大正政界を往来した方が、「蒋介石が満洲を呉れると言った」と端的に言われたと、知人から聞いた。面白い事に、この方の父と某元大使の親族は大正時代に貴族院に座を占め、政治的にも極めて近い間柄であった。本件の真相を知りながら公言を避けるのは、おそらく何かを守るためで、それは某元大使と共通する階級的利益であろう。つまり両氏の差異は程度の差ではないかと思う。同じような口碑伝聞は、注意を払っておればどんどん集まってくるから、それらを整理・統合して歴史実体が掴むのが、本稿第三部の作業であるが、さすがに私(落合)一人の手に余る。

第一部で得た個別の史的知見は相互に矛盾せず、密接に関連している。例えば上例ではどうか。周蔵は、在仏ワンワールドの一派に傾倒する薩摩治郎八の動静を探るため、薩摩の秘書を尾行したところ、新宿の私娼窟いわゆる歌舞伎横町に入ったので、一計を案じて娼家の主人を買収し、秘書の馴染みの敵娼から秘書のピロー・トークを引き出した。偶然にもその私娼窟で遭遇したのが、病気のために中野正剛に捨てられ、身を落とした多喜である。周蔵は、多喜に客を取らせぬよう主人に頼み、二百円で身受けして奥多摩の寺で療養させた。病気を治して容色以前に勝る多喜を、妻の水産物店の店員として抱えた周蔵が、再び中野の前に多喜を出したら、中野は忽ち焼け棒杭に火を点けた。周蔵が中野正剛の動静を探ったのは上原の命令ではないが、「必要と思ったら何でも自発的に調査して良か」と上原から言われていたので、試みたらこの結果になったのである。そもそもは、軍人政治家上原がシベリア砂金事件の際に、「議会工作は中野正剛一人居れば充分」と豪語したので、中野に関心を抱いたのである。

 周蔵を恩人として尊ぶ多喜を通じて、張作霖暗殺計画に関する中野正剛の情報を知った周蔵は、半信半疑のまま、情報源を秘して上原元帥に報告した。上原が中野を秘かに使っていたのは、中野の属する玄洋社そのものが上原の配下だからである。『周蔵手記』にも明記せず、いかなる史書・史料にも載らないこの秘密関係を証明する一例は大連アヘン事件に関するものである。大正八年秋に上原から大連アヘン事件の調査を命じられた周蔵は、辺見こと牧口某に二千五百円で調査を丸投げするが、辺見は期待に応じ、元樺太庁長官平岡定太郎をアヘン携行容疑で

現地官憲に逮捕させた上、重要な報告をもたらした。即ち内閣拓殖局長官古賀廉造が、アヘン統制政策を悪用して大連の売捌人に不当利益を得させている実情で、周蔵はこの報告を四十三枚に記して上原に提出した。それが上原から玄洋社の頭山満に回され、政友会総裁・首相の原敬が腹心の古賀を使って政友会の資金作りをしている証拠としてを見た利用され、憤激した憂国青年中岡艮一が原敬を殺害したのである。昭和八年十一月八日、上原は他界したが、裏の配下の立場上、表立って葬儀に出られなかった周蔵が、翌年の命日に上原邸を訪ねると、同じ立場の大物が二人来ていた。

 

『周蔵手記』別紙記載(原文カタカナ/縦書き)

   閣下の葬儀には 堂々と出る訳にもいかん と思ひ、翌年の今 自宅を訪ねると 偶然中野と頭山が来てゐたのに驚く。こいつらも 全く表にはやふ見えんから、今頃閣下の墓に腹探りの挨拶だらふが、金目の物でも捜すつもりか、何ぞ 家捜しをしたらしい。

   帰りがけ 「お前の調査だったらしいな。あの原敬事件の基は。上原さん あれ 俺に流して呉れて 俺が一寸動いたよ」と云はる。

   調査によって あんな立派な首相を死なせたかと 後悔す 後悔す

 

玄洋社の巨頭頭山満と議会政治家として鳴らした中野正剛が、上原の一周忌を待って秘かに故人邸を訪れ弔意を表したのは、それほど玄洋社が上原ないし薩摩ワンワールドとの関係を表面に見せたくなかったからである。これが、私(落合)が洞察によって得た史的知見の上位集合たる薩摩ワンワールド論の一証を成すが、薩摩と玄洋社の秘密関係を裏付ける事実は、この他にも『周蔵手記』中に断片的に出てくる。即ち、玄洋社軍人明石元二郎が上原の股肱を自任し長州閥を心底無視していたことで、日露戦争時の秘話がこれを証明する。

 スエ―デン大使館付武官明石大佐がロシアの後方撹乱に費消した工作資金は、優に一千万円を超えた。ほとんどは西本願寺の大谷光瑞師から出たもので、参謀総長山縣元帥はじめ長閥が支配する参謀本部に対しては、光瑞師資金を伏せた上、百万円しか要求しなかった。光瑞資金を全額費消した明石は、参謀本部資金を二十五万円を使い残して、返金した。

 つまり表面上参謀総長山縣元帥に服従したかに見せていた明石大佐が、心底で真の上官と仰いだのは別人であった。その後の人間関係から観て、其の人は上原勇作(当時、少将で野津第四軍参謀長)と見るしかない。この知見から洞察されるのが、後に上原を首頭と仰ぐ薩摩ワンワールドの存在である。そこで上原の経歴を閲すると、上原を育てた高島鞆之助中将が浮上してくるが、高島に焦点を当てると、高島こそ明治中期以後の薩摩ワンワールドの首頭であったと断ずるしかなくなり、更に遡れば薩摩三傑の生き残り吉井友実に行き着き、これにより、史的知見の上位集合体として、薩摩ワンワールドの具体像が把握されたのである。

 薩摩ワンワールドが在英海洋勢力の一角を担い、英露の地球的規模での地政学的対決、いわゆるグレート・ゲームとして日清・日露の両戦役を遂行したことは容易に洞察されるが、両戦役に至る過程を閲すると、これに大きく関わった怪人物が目につく。即ち杉山茂丸である。

 その事績は、明治期のどんな大政治家、いかなる大実業家よりもよりも広範囲で、しかも国事に偏っている。異例は、元老井上馨の協力を得て安場保和を福岡県知事に就け、石炭の大鉱区を払い下げさせて玄洋社の財源を作ったことだが、玄洋社は本来、政府や正規軍が表向き関与できぬ大陸政策の実行部隊として作られた民間国事結社であるから、その財務基盤を創ったことは、やはり国事中の国事である。更に特筆すべきは、日本の工業化を進めるための興業銀行創設を叫んだことで、渡米した茂丸は金融王モルガンに直接会って、巨額の融資予約を取りつけた。外交政策では、軍備拡張を唱えて薩摩派を支援し、敢えて選挙大干渉を行わしめた。

しかも戦後の講和談判において、伊藤内閣の方針たる遼東半島領有に反対を唱え、外相陸奥宗光の宿舎に押し入って、講和案の動向を監視した。

以上すべてが一介の黒田浪人の着想すべき事ではなく、仮りに着想したとしても当路や周囲が相手にする筈がなく、茂丸の本姓の鑑識が必須となる。以下は私(落合)の洞察でなく、さる筋からの伝達である。洞察だけでは細部を特定できず、最後は伝達を仰がざるを得ない。

茂丸は、実は福岡藩主黒田長溥の実子、したがって島津重豪の実孫であった。つまり茂丸は裏の黒田藩主として玄洋社のオーナーとなり、国事を推進したのである。島津氏から養子に入った長溥が藤堂家から養子を迎え、実子茂丸を竜造寺氏男系の杉山氏に入れた所以は、「明治維新」というヨリ高次元(上位)の史的知見集合体に属するというから、目下の本稿の範囲でなく、ここで述べることが出来ない。

 かくして、『周蔵手記』から得られた薩摩ワンワールドと謂う史的知見の集合体を、更に上位に進めるには、杉山茂丸を洞察する外ないことが分かった。そこで杉山の事績を閲する時、特異な位置に在るのが、謎の貴公子堀川辰吉郎である。幼時玄洋社で育てられ、長じて学習院に入学した辰吉郎は明治三十二年、弱冠二十歳にして、日本に亡命してきた清国の革命家孫文の秘書となった。以後は形影相伴う辰吉郎を、孫文が「日本皇子」と紹介したため、孫文に対する清人間の信用が飛躍的に増し、革命の実現性が高まったことが知られているが、孫文を支援した玄洋社の計らいであることは明らかである。

ここで辰吉郎の本姓鑑識が必要になるのは当然である。結論から説くと、辰吉郎は明治十三年に堀川御所で生まれた。実父は孝明帝の血筋である。堀川御所は堀川六条の日蓮宗本圀寺の旧境内に明治天皇の京都行在所を名目として設けられたが、その実は、維新後も京都に留まった孝明帝の京都皇統の住居であった。明治二年、宮廷改革を図った薩摩三傑即ち西郷隆盛・吉井友実・大久保利通により、孝明帝以来の古参女官が宮中から追放されて京都に留められたとされるが、実は京都皇統に奉仕するため堀川御所に住んだのである。辰吉郎は井上馨の兄重倉の五男として戸籍を作ったが、生地に因み堀川姓を称した。以上は、私(落合)の洞察ではなく去る筋からの伝達である。さらに興味のある人は月刊情報誌『みち』の栗原茂論文を参照されたい。

明治以後のわが国体は、明治皇室と京都皇統の二元方式によって運用された。京都皇統こそ薩摩ワンワールドと杉山茂丸、玄洋社などを下部集合として含む史的知見の上位集合である。薩摩ワンワールドは在英海洋勢力の一角を占めるが、本質は国策遂行団体で、英国筋からの伝達を、杉山茂丸を通じて受けていた。茂丸が薩摩ワンワールドの誘導者になったのは、辰吉郎に最も近かったからである。

京都皇統に属する下位集合として、他には大谷光瑞師が率いた京都社寺勢、孝明帝と同系の鷹司家を初めとする旧堂上の一部、光格帝の生母大江巌代(大鉄屋岩室氏)に由来する丹波大江山衆(穴太上田氏・大本教)、公武合体を進めた会津松平氏・紀州徳川氏が存在した。その実態と活動を追究するのが、今後始まる本稿第三部の作業である。