天才佐伯祐三の真相

 

 序論 佐伯祐三の画業 2

 

 五.和歌山県立近代美術館の佐伯

 和歌山県立近代美術館は、大阪市立近代美術館についで、佐伯祐三のコレクションで知られる。大阪が山本発次郎氏のコレクションを引き継いだのに対し、和歌山は玉井一郎氏がその蒐集を寄贈したものである。 大正十一年、美校時代の佐伯祐三の「帽子を被る自画像」はじめ、その他にいろいろある。私が平成十二年三月二日に見に行った時には、次のものが展覧されていた。

        大正十一年「帽子を被る自画像」

        大正十三年「オワーズ河周辺風景」

        大正十四年「レ・ジュ・ド・ノエル」

        大正十四年「広告のある門」

        大正十四年「ポスターと蝋燭立て」

        昭和二年「カフェ・レストラン」 (受託作品)

        昭和三年「モラン風景」

 肉眼で眺めて得た印象では、「自画像」は薄く目の粗いキャンバスに、絵の具も薄目に描かれている。これはどうみても、祐三の自筆である。その他はすべて、幾つかの顕著な通有性があった。まず、画布はすべて同じ品種と思われ、目がつんでいるが厚さは薄く、画布の下塗りも極めて薄い。そのために、画面のなかでも絵の具の塗りの薄い箇所では、絵の具の下から下塗りを通して画布の繊維が透けて見える。ことに特徴あるのは画布の四隅で、ここには絵の具が塗られておらず、ちょうど「四角い座敷を丸く掃いた」ふうである。このことから、これらの前身は油彩の下描き画だったと断じて良い。下塗りを分析すれば、おそらくすべて白亜が検出されるのではないか。

 原画は祐三の自筆と観て良く、加筆者(仕上げ者)は勿論米子である。加筆の程度は原画の趣きに従い程度に差があるが、広告塔の字のごときはその最も極端なるもので、細い筆にグァッシュを利用して加筆し、リンシード・オイル(亜麻仁油)を垂らして油絵のようにみせた。米子が北画技法の手際を見せたわけであり、結果として万人を賛嘆せしむれば、何人がかりで描こうと、良い絵は良いのである。

 

 六、美術界が放置する贋作

 だが次に挙げるものは、其れとは全く性質の違う贋作である。これは茨城県近代美術館が近年市中から購入した作品で、「コルドヌリ」(靴屋)と題されている。サロン・ドートンヌで受賞した米子加筆品と同じ題材を描いたもので、類品は石橋美術館と、他に一点があるらしい。その中でも本作品を贋作と断定するのは、作者自身が自分で一体何を描いているのか判っていないことが、臆面もなく露出しているからである。むろん、北画の閨秀米子がこんな絵を描く筈はない。よほど腕の落ちる画家が、習作かアルバイトのために描いたものだ。寸法も十号くらいなのは、どこかおかしい。

 この絵を石橋美術館のものと並べて比べれば、説明の必要もなかろうが、一二点を具体的に指摘すると、扉の左側の二つの物象−−−これが何なのかを、贋作者は全く理解していないのである。このうち一つは、実はつり下げられた婦人用の靴であり、もう一つは、製靴用の革を束ねて針金か紐で押さえたものである。 石橋品は、写真を拡大すると靴や皮と分かるが、茨城品は拡大するとますます正体が判らなくなる。次に茨城品は、扉の右側の壁に、斜め長方形に朱色が刷れているが、正体が全くわからない。これは石橋品を観ると、新聞受けに投げ込まれた新聞だと、はっきり分かる。つまり、贋作者は、石橋品の画面にみえるこれらの物体が、いったい何であるのかを全く確かめようともせず、あいまいな気持のまま、画布に向かったのである。他にも多々あるが、これ以上指摘する必要もないだろう。

 さて、下に掲げるのは、平成九年七月十九日付の毎日新聞茨城版である。さきに私が記者を通じて茨城県立美術館蔵の佐伯祐三筆「コルドヌリ」に疑問を呈していたところ、県側では慌てて業者を呼び、科学鑑定せしめたということが、この記事で判った。

     県近代美術館が科学鑑定

 偽物の証拠出ず 真贋問題に決着

 県近代美術館が所蔵する佐伯祐三作の油絵「コルドヌリ(靴屋)」について、贋作の疑いを指摘されたことから、同館がこの絵の科学鑑定を行ったことが、十八日分かった。鑑定の結果、偽物とする証拠はなかった。公立美術館が、真贋判断のために科学鑑定をおこなうのはめずらしいという。

 この絵は一九二五(大正十四)年ごろ書かれ、同館が八八年、東京都内の画廊から六千九百万円で購入した。これについて、九四〜五年に福井県武生市を舞台にした、佐伯の「未公開作品」を巡る真贋論争にかかわった都内の経済評論家、落合莞爾氏(五六)が、五月に出版した著書で「(靴の)踵あたりは、絵筆を握った人物が、これを『靴の踵』と知って描いたものとは到底思えない」などと記述。毎日新聞の取材にも「贋作と確信している」と述べた。

 同館は「念のために」として先月、都内の業者に絵の鑑定を依頼。エックス線撮影や、キャンバスの地塗りの電子顕微鏡撮影などの結果、地塗りは胡粉(貝殻の粉〕が主成分で、他の佐伯作品の一部にも同成分がある。下に別の作品が描かれた跡がない、などの報告書が提出された。

 加藤貞雄館長は「完全な証明は難しいが、来歴などから総合判断して真作だと言える。落合氏の指摘には事実誤認が多く、これ以上かかわらない」として、落合氏への対応は取らないとしている。(網代太郎)

 館長が業者を使役して科学鑑定せしめたことは、やらないよりはマシだ。結果として、画布の下塗りから胡粉が出たことで、私には十分だ。上に述べた通り、創形美術学校の調査では、公開作品三十二点の中に、胡粉だけの下塗りの画布は一点もない。胡粉と鉛白を混合したものが二点〔「村の教会堂」と「弥智子」)あるが、胡粉を主成分とするくだんの「コルドヌリ」をこれらと同一視するのは、加藤館長、いかにも苦しいのではないか。

 私に事実誤認が多いと館長は言うが、それなら、いかなる点が事実誤認か、そこを明示しないのでは、公共的な立場が成り立たないのではないか。誤認の主たるものは購入価格のことと思われるが、当方に分かる筈もなく、聞いてもどうせ教えてくれないと思い、記者を煩わせて、上掲記事という「成果」を得たのである。念のために、記事の後にも館長に質問の手紙を出してみたが、やはり梨の礫であった。回答お断りの返事もない。

 網代記者の記事内容は、従来から吉薗佐伯に対して悪意が目立つ毎日新聞にしては、公平であると思う。しかしながら、「真贋疑問に決着」というサブ・タイトルに、この新聞社の一角に今なお潜む、一部画商と通じた徒輩の存在が窺える。ならば君たちに問うが、こんな調査結果と粗雑な論理だけで決着がついて、贋作説が退けられる位なら、武生市の真贋騒動は元来あり得なかった筈ではないのか?

 胡粉は佐伯も使ったことがあるというが、ごく初期の美校の頃である。いやいや、こんな作品の画布なぞ詮索する必要もない。それよりも調査すべきは、素人でも一見で判るこんな贋作を、安易に購入した経緯と美術館側動機の方ではないのか?

 それに、同県内には笠間日動美術館もある。同館事業部長安井収蔵氏におかれては、本品に対するご高見を公開されたいものである。

 

 七.絵画修復家の見方

 吉薗佐伯に関して、実際に修復に携わった絵画修復家の意見を、ここに紹介したい。

 修復家は芸術家ではなく、一種の高級職人のように世間から受け取られているが、実際の修復作業には、画布素材、絵の具、油、ニカワ、ニスなどに関する広範な化学的・物理的知識を必要とされる。また、修復作業の一環として、加筆と同類の作業もしなければならないから、画業の時代的変遷や各作家の画風にも通じていなければならない。このように絵画に関する高度な知識を要求される絵画修復家の地位は高く、大学教授として招聘されている人も多い。また現実にも常に直接名画に触れているから、実地に鑑賞・分析した経験も豊富である。こうした職業的性格からして、実際の絵画鑑定能力は、画商や評論家よりも優れている場合が多い。

 ただ、画商は顧客として、また評論家は美術館管理者として、修復家に発注する立場にあるから、社会的・経済的関係で修復家に対して優位に立つ。絵画の鑑定や批評に関して最大の実力を有する修復家が、美術界の表面になかなか出て来ないのは、まさにその関係のためである。世間に顔を出して物をいう役割は、評論家や画商が独占しているが、彼らはたいてい裏側の実力者である修復家の見識に頼っているのである。

 現に、画商側から武生市に吉薗佐伯の贋作疑惑が突きつけられたとき、美術評論界の天皇と呼ばれた河北倫明が、いの一番にしたことは、修復家杉浦勉氏に電話で「君はどう思う」と、確かめたことであった。むろん杉浦氏は正確に伝え、河北氏は納得した。また、東京美術倶楽部の鑑定委員会が、吉薗佐伯を贋作と断を下すに当たり、最大の心証となったのは、修復家の歌田真介氏(創形美術学校)が「過去に修復した山発コレクションは、筆捌きも速いし、絵の具の発色も凄くいいし、緊張感もある。だけど吉薗佐伯は、鈍い色を使って描いている。だから自分は依頼された修復を断った」という処にあった。

 吉薗佐伯の真贋をめぐって正反対の立場に立つ河北氏(当初の武生市委員会)と東京美術倶楽部が、修復家両氏の見識にそれぞれ依存したが、真相が判ってみれば、両雄の言には何も矛盾はない。すなわち、祐三の油彩下描き原画に米子が加筆したのが山発コレクションなのだから、北画の筆捌きと緊張感に注目して、これとは違うと指摘した歌田氏の観察も間違いとは云えまい(真贋に踏み込んだのは早計だったが)。これに対し、佐伯の画布に関する評伝を研究したうえで、「やっと、本物の佐伯が出てきたと思います」と答えた杉浦氏の見識には、まことに脱帽せざるを得ない。

 平成七年十月十六日、私は杉浦勉氏からお話を伺った。概容は下記の通り。公開佐伯作品を十点ほど修復したことがある。佐伯の作品は本来粗野なものが多いが、上に細かいタッチの層があり、直感的に女性を感じさせる。下に男の手があり、描き始めとフィニッシュの差違が大きく二重人格を感じさせる。また筆も、最初は固い筆、ディテイルは柔らかい筆と使い分けており、非常に不自然である。武生市から預かった吉薗佐伯(「郵便配達夫」)の破片を取って、自分が教えている大学の卒論用の資料にして、分析したら、阪本勝の本に書いてる通りだった。これで真作との確信をいっそう強めた。

 佐伯の時代に現在の絵の具は出そろっていた。だから、佐伯と断定する科学鑑定はできないが、佐伯でないとの鑑定もできない。テトロンは論外である。吉薗佐伯が七十年経ったとの証明はできないが、ここ十年や二十年のものでないことは、素人が見てもわかる。

 ガッシュ(不透明水彩)は、表面の絵の具と加筆の絵の具を接着する役割を果たす。つまり、加筆部分の油絵の具が剥落するのを防ぐためである。さらに上から油や油性ニスを塗ると、油が染み込んで、色が透明に変わり、見た目には塗ってあるのが判らなくなる。キャンバスに油彩を塗ると、表面には酸化皮膜が出来るが、その下の油迄完全に乾くには十年かかり、五十年経つと自然に痛んでくる。いままで佐伯の公開作品は十点くらい修復してきたが、クリーニングは埃を拭き取るくらいしか出来ない。表面を水で拭くと、絵の具の上の層が落ちてくるからだ。これは経年変化でガッシュの接着能力が落ちているからで、こんなことはガッシュを用いないと起こりえない。

 「肥後橋風景」も直したが、ガッシュを使った加筆はなかった。「下落合風景」も同じだ。日本での作品には、加筆はしていないと思う。

 吉薗佐伯と山発佐伯の差異は、画布と画風と色調にある。画布の謎は解明され、グァッシュを利用した加筆の事実も証明されたが、あと一つ、色調の問題がある。

 真贋騒動の折、贋作派の支えは、山発コレクションの修復に当たった創形美術学校の歌田所長の上記の一言であった。歌田氏がウソを言っているわけでもなく、比べてみると、たしかに色調が違う。要するに、吉薗佐伯の方が「くすんで」いるように見えた。これは、米子(周蔵宛書簡)の「グァッシュを用いて画づらを整え、佐伯の絵の具を使って手直しする」との説明と矛盾しないか。山発品の大半が米子加筆品と決まったからには、米子は加筆に際して色調を変改したかどうか、という点を検証せねばならない。

 杉浦勉氏は上記談話の中でこう云われた。ニスが掛けてあれば、ニスを落とせば汚れも落ちる。武生に贈られた作品は、「郵便配達夫」以外はニスをかけていなかった。おそらく佐伯は、ニスを掛けずに、吉薗に送ったのだろう(注・確かにそれを証する佐伯祐三の周蔵宛手紙がある)。絵の具は退色していないが、ささくれていた。佐伯は、絵の具を塗る前にキャンバスにニカワを塗っているが、日誌にもある通り、下描き用と、アトリエ用では、地塗りを変えているでしょう。

 次にもう一人のトップクラスの修復家で、以前に多数の公開佐伯の修復に当たり、最近では吉薗佐伯の修復に当たった黒江光彦氏は、下記のように語られる。

 佐伯の画は、仕上げにニスを大量に用いている。ニスの使用方法は、ピクチァー・バーニッシュとペインティング・バーニッシュとに分かれる。前者は絵の具に混ぜて光沢を出すのに使い、後者は絵の具の表面保護と定着のためであるが、佐伯はペィンティングだけだろう。米子はグアッシュにメジウムを入れて使ったものと思われる。ニスは歳月により経年変化を生じ、変色して色調が変わる。したがって修復に当たっては、ニスを丁寧に除去すれば、画面は元の色調を取り戻す。なお、作品によっては佐伯の工夫で、仕上げに「黒ニス」を掛けたものがある。これによっても、色調は大いに変化する。この点を修正すれば、米子が佐伯と異なる色調を用いたとはいえない。(文責・落合)

 山発佐伯の画布は、元々商品だから修復額装されており、ニスの経年変化による変色も、歌田氏の手元に来る以前にすでに手当がなされていた筈だから、吉薗佐伯とは一見色調が異なっていても当然。これが結論である。

 だから、もしも歌田氏が、あのとき吉薗佐伯を実際に自分で修復していたとしたら、以上のことが自然に理解できたろう。また、歌田氏配下の宮田氏が吉薗佐伯の画布を分析していたら、評伝通りの結果が出てきたであろう。そしたら、事態は相当に変わっていたのではなかろうか。

 同じように山発佐伯の修復に当たった杉浦、歌田の二人の修復家は、画布の下地が評伝中のものと違うという事実を把握していたが、もともと山発佐伯の二重人格性に不審に感じていた杉浦氏は、吉薗佐伯を見たとき、「やっと本物が出て来たか」と受け取った。逆に歌田氏配下の創形美術学校の宮田順一氏は、「佐伯の生前の言にある酸化亜鉛は、山発ものには使われていない。だから、あれは白亜のことだったのではないか?」と、全然別の方向へ走ってしまったのである。史料の安易な読み替えは、かくも危険である。

 しかし、いずれにせよ、山発佐伯が加筆品であることは、今や歴然としているではないか。

      石橋美術館蔵 「コルドヌリ」(靴屋)

 

  茨城県近代美術館所蔵 「コルドヌリ」(靴屋)

 「コルドヌリ」(靴屋)部分拡大写真はここをクリックして下さい。

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