天才佐伯祐三の真相    Vol.11

 

    第九章 吉薗周蔵のパリ

 

 第一節 ネケル氏の正体

 昭和四十年頃に米子が周蔵宛に出した手紙に、「あなたもさふでしたはね。一時お上の目から隠れてらしたでせう。パリにいらした時も、日本を出るのが一苦労だったと、云ってらしたでせう。佐伯に聞きましたら、今だから云われますけど、脱獄の手助けされたらしいと、話してました」との文面がある。

 周蔵は昭和二年末頃、当局から睨まれていて、出立に当たっては問題があったらしい。誰の脱獄を手助けしたのか、詳細は分からない。伊達順之助秘匿の一件なら、とっくに時効であった筈。

 吉薗周蔵の渡仏に必要な小山建一名義の旅券は、昭和二年十二月二十四日付で交付された。旅立ったのは同月二十五〜六日と思われる。翌年四月に帰国した周蔵は、渡欧中の事項を「周蔵手記」をまとめた。

 昭和三年四月末ピ。カノ数ヶ月ノマトメの条、要約。

 周蔵は渡欧に先立って、満洲の奉天で予備陸軍中将貴志弥次郎と会い、幾つかの頼み事をした。貴志もまた上原元帥の秘密の配下で、今回の周蔵の渡欧行に関わっていた。シベリア鉄道に乗れば、前後して乗った筈の若松安太郎とはパリで会えるだろう、と考えていたら、何と同じ列車に乗り込んできた。貴志中将の手配であろうが、これには驚いた。しかし、周蔵は安太郎氏とは別行動をとり、昭和三年一月二十八日にパリに着き、一人で同志ネケル氏の家に行った。

 その時、何より驚いたのはネケル氏の恰好であった。幼女のようなオカッパ頭で、頭髪を目の上まで垂らし、揃えて剪下げていた。周蔵は、初めて会った時、自分はネケル氏が誰かは知っていたが、出てきた人物が日本人とはとても思えなかった、と後に云う(「周蔵手記」昭和九年条)。

 藤田嗣治の父嗣章は大正元年に軍医総監(陸軍中将相当)となり、大正三年に予備役編入している。藤田はもともと学校成績も優秀で、入学した東京高等師範付属中学は、佐伯の北野中学をも凌ぐ当時最高の秀才校であった。家筋と才能と学力が揃えば、道筋は自ずから決まる。藤田は、大谷光瑞師が佐伯に用意したのと同じ道を、佐伯より十年ほど早く進まされていた。大正二年、二十六歳の時、画学留学生としてパリに渡り、表の顔はエコール・ド・パリを代表する画家として豚児たちのリーダーとなり、裏では薩摩治郎八を自家薬籠中に入れて、踊らせていた。甘粕正彦のパリ在住の友人とはすなわち藤田で、大正四年頃の甘粕の秘密フランス留学の折に知り合ったものと思われる。周蔵は大正六年渡欧の帰途にフランスにより、上原閣下も欧州に草を張っているのを見たと記しているが、藤田もその一人であったことになる。甘粕の紹介で、コード名ネケルの藤田と周蔵は大正十二年以来、暗号手紙で文通していた。

 周蔵は、パリに到着した当日、佐伯のアパートに行った。今回の渡仏の建前は、佐伯の陣中見舞いなのだから、それを真っ先に終わらせたかったのである。聞くに、薩摩治郎八は佐伯の面倒をよく見てくれているらしく、佐伯は令夫人の千代子ともつきあいがあるようだ。

 呆れたのは、周蔵の顔を見るや否や佐伯が「救命院日誌」の記帳と金のことを言い出したからである。尤も記帳の方を先に口にした。佐伯は、書いた物を周蔵に渡し、「ここに分かりやすくまとめておいたから、ホテルでゆっくり記帳してくれたらいい」と云う。内容を読んだが、不可解なもので、なぜか周蔵が早くも一月初頭にパリに到着したことにされている。次に、佐伯は薩摩の妻君とは大分親しいようで、内容は前にも増して妙なものだが、分量は少ない。これくらいなら、暇を見てやれば、何とか書いてやれそうだ。

 その夜のうちに藤田は、薩摩に舵を取らせて友人たちを紹介してくれる。藤田自身はスイス側との連絡があるため出席せず、治郎八に任せて、ジャン・コクトーなどと会食した。前もってコクトーのことは、藤田から説明を受けているが、所詮は誰一人信用するなと、のことである。

 藤田が云うに、薩摩出身の画家もおり、これはなかなか只者ではないが、会わない方が良いだろう。周蔵は、自分もそう思う、と云った。薩摩(鹿児島)というからには「海」であろうから。すると藤田は、自分は関係ないと思って調べてはいないが、その画家は佐伯の妻君とは接触があるかも知れないということだ。しかし、自分は、役目以外には深入りしないようにしている。佐伯君のこと(ガス事故のことであろう)も耳にしているが、関わってはいない、とのことであった。

 薩摩治郎八に関しては、馬鹿だ、と断言した。金のあるうちは利用してやろうとばかりに、舞台を作って踊らせるだけで、馬鹿を見抜かれているから大丈夫だ、と云われた。その主役がコクトーだ、と云う。コクトーなる人物は宗教の道の主頭(藤田はシュトウと云った)であり、只者ではないとのこと。なれど治郎八に対しては、ただの呑んだくれの詩人面を見せている。自分は信用したいと思うが、思うだけでその辺りは自分で判断してくれ、とのことであった。「日本と違って、毛色の違い(民族性)をどう計るか、難しい処であろう」と周蔵は感じた。

 意外なことに、薩摩治郎八は夜が早い。千代子夫人は化粧が濃く、肌の地色が見えなかった。治郎八はパーティに招かれたと云って消えてしまい、周蔵は、千代子夫人の通訳でコクトーから絵画の講義を受けた。そのあとは、千代子の愚痴を聞くことになる。あっけらかんとした婦人で、今は岡なる学生に恋している、と云う。そういいながらも米子の悪口を言い敵対視するあたりと、佐伯の保護者のような言い分は、佐伯にも恋をしているようだ。このことを後日藤田に問うと、「それは恋に恋してるんだ。飾りものは、飾り窓の女も、一人の男の女も、飾りものには違いはない」と云う。まさにこの人物は冷静な人だと、周蔵は改めて思った。

 周蔵はこれをきっかけにコクトーと親交を結ぶようになる。ジャン・コクトーは一八八九生まれで、周蔵より五歳年長、モーリス・グドゲとも友人であった。人名辞典には、詩人・小説家・演出家・劇作家・画家など多くの面で才能を突出させ、第一次世界大戦の前後に、ピカソ・アポリネールらと結び、前衛芸術運動を起こしたとあるが、コクトーの本質が秘密宗教「ブラックマリア」の総長であることを記したものは少ない。伝記・評伝のごときは大凡、愚民作りのためのものだからか。

 吉薗家にコクトーからの仏文の手紙が遺されているが、暗号文なので真意が分からない。「周蔵手記」だけは歪めないで世に出したい、と思うが、ここから後の部分は、わが国事・国益に関係してくるから、なかなか苦労がある。

 

 第二節 オテル・リッツ

 薩摩治郎八は、周蔵をリッツなるホテルに三日間泊めてくれて、大いに幅が利くところを見せて貰った。翌日には早速、コクトーが講義した画家の絵を見せて貰いにスイスまで行こう、と決まり、二日後にはパリを発つことになった。それでも藤田は、コクトー氏を信用したいが、恐ろしいと云っていた。

 周蔵は到着当日からオテル・リッツに三泊し、一月三十一日にスイスに発った。佐伯から、オテル・リッツ内の周蔵に宛てた葉書が五通現存しており、日時と前後関係は分からないが、いずれも昭和三年二月上旬のものである。

(一)巴里の街を歩いて探した書票が、俺にいろんなことを考えさせてくれた。もっと長く生きて、こういうものを作る仕事をしたいと思う。

(二)結局俺はいつも一人だ。みな俺を笑っているのだ。俺のアホが可笑しくて、笑わないでいられんのだ。俺は苦しいのに、あんただけだ。近くにいて下さい。

(三)日本のみやげにと思って、夜書票を作った。この前に送ったは古本屋で買うたものやが、これはワシノ手作りや。イシの本にはって下さい。後で届けます。

(四)この二日ばかり、よく寝た。ガス事件以来、他人が他人でしかなくなった。米子さえも信じられん。信じられるのはヤチだけだ。俺は頭がおかしい。

(五)モランに来て三日目になるが、親父だけでなく弟の夢を見たりする。一四・五才の頃に大津の寺に預けられた頃の、可哀想な弟の夢だ。佐伯。 

 平成七年の武生市の真贋騒動で、武生市はこの葉書を偽造視し、わざわざオテル・リッツに照会し、当時の宿泊者名簿に吉薗周蔵の名前がないとの回答を引き出して、贋作を挙証した。大阪の一流画商T氏は心配して独自に調べておられたが、リッツのオーナーは現在アラブ人に代わっていて、当時の記録がすでに廃棄されているのではないか、と云って居られた。そもそも小山建一名義の旅券を所持する周蔵の、宿泊者名義が何であったか、を明確にしていない。さらに、武生市役所が根拠とした「救命院日誌」は、周蔵のパリ到着をなぜか一月六日と変改しており、これに基づいて一月六〜八日の名簿を調べたのなら、最初から空振りだったことになる。尤も、武生市のこの見当違いの調査は、欠席裁判のための、意図的なものらしい。

 朝日晃作成の年譜によれば、佐伯は「昭和三年二月五日から、山口・荻須・横手・大橋とともに、郊外写生地の下見にモラン地方に行く」、とある。同行者の証言によるものだから、日付は間違いあるまい(因みに、本稿が朝日氏を評する厳しさを顰蹙されるかも知れぬが、私は、氏の考証家としての熱情は高く評価している。問題は、氏が米子説話にはまってしまい、一気呵成説などの噴飯物をいまだに持するからである。それだけならまだしも、新発見に耳を傾ける余裕なく、あまつさえ曲論を用いてこれを葬り去るに熱心する心情が、甚だ遺憾なのである)。

 それはともかく、周蔵は一月三十一日にスイスに発った。この手紙はその後二月上旬のもので、周蔵のパリでの根拠地をオテル・リッツと考えていた佐伯が、ホテル気付で出したものである。佐伯は二月五日にモラン地方に向かったから、(五)の葉書は二月七日にモランから出したことになる。これらの葉書は、後日周蔵が安宿へ移った後、薩摩治郎八がリッツから受け取って、届けてくれた(「周蔵手記」)。

 周蔵はスイスに藤田に同行した。目的の建物へは、初めに藤田が入って行き、周蔵を招き入れた。目的を果すにはここでなく、アルザスに行く必要があることが分かった。当地には、安太郎氏が先に来ていた。それも、驚いたことに甘粕と並んで、道ばたに立っていた。

 甘粕正彦は、昭和二年初頭、震災直前からの婚約者服部ミネと結婚し、七月に夫妻で日本を発ち、八月三十日にパリに着く。陸軍士官学校の同期の澄田来四郎が、大正十三年以来官費で当地に留学していたが、陸大主席の澄田にして単身赴任であった。刑余者の身で甘粕が夫婦同伴とは破格も破格で、その資金出所はいまだに謎とされている(馬野周二博士によれば、博士の祖父が一部出捐したそうである)。甘粕はフランス語の鍛錬と称し、澄田に頼んでオルレアンに移り、十二月頃にはパリに戻っていたが、昭和三年一月中旬からルアンに移ったとされていた(角田房子「甘粕大尉」)。ところが、ルアンにいる筈の甘粕が、実際には若松安太郎や藤田嗣治と、スイスからアルザスに回っていたのである。現実の甘粕は、裏側の妻君が日仏混血で、すでに二度目の渡仏ともなれば、フランス語には不自由はしなかった。それを角田が、甘粕をフランス語苦手の田舎軍人崩れのように暗く描くのは、甘粕の実態を歪めるための妖しい魂胆であろう。満州国で甘粕の信奉者だった武藤富男は、「私と満州国」の中で、甘粕が渡欧の途上、まるで鳥の囀るように流暢にフランス語を話したと記している。真相はこのように、どこかで暴露されるのである)。

 周蔵は、安太郎氏に会うために一旦建物の外に出て、そのことを伝えた。甘粕がここから仲間に入って藤田とアルザスを回り、安太郎氏はここで一仕事。あとは周蔵が単独行動で、コクトー紹介のスイスのコレクターの処にクレーなる画家の絵を見せて貰いに行く建前であるから、形式的にせよそれを実行した。結局安太郎氏はひとりでパリに戻り、藤田も一人で戻ることになった。

 周蔵がパリに戻った時、藤田も同時くらいに戻ってきたらしい。周蔵はまたも、コクトー推薦の別の画家(ルドン)の絵を見せて貰うこととなり、郊外に向かう。現地に着くと、そこに甘粕が居た。スイスの帰りに、藤田とアルザスへ回ってきたのである。

 パリに戻った周蔵が、リッツは豪華で有り難いが、立派すぎて寝苦しいので、安いホテルを探して欲しいと薩摩に訴えた。薩摩は軽蔑したような笑いを浮かべ、「僕は安いホテルなんて知らないから、タウガウ君にでも教えて貰おうか」と言った。

薩摩ハ 安ホテルハ知ラナヒカラ 世話デキナヒトノコトニテ、薩摩ラシヒ名前ノ画家ニ頼ムダ由(東郷、田郷トカヰフ 名前ヲヰッタ)。

 周蔵は、人名をよく聞き取れなかったが、東郷などという姓は鹿児島に多いからこれが先日藤田が言及していた画家かと見当を付けたが、正解で、名は東郷青児、明治三十年鹿児島の生まれで、時に三十才であった。佐伯よりは一年年長で、大正三年青山学院中等部卒。同五年に二科展に出品して入賞し、同十年にフランスに留学してきた。薩摩出身だと「海」に近いと、見て置かねばならない。

 安ホテルを望んだのは、リッツが居心地が悪いだけではなく、同志との連絡のためでもある。周蔵はホテルに着くと、夜陰にまぎれて、安太郎氏の処を訪ねた。甘粕と安太郎が連れてきたロシア人の助手がいた。荷物の運搬と仮装のためにもう一人調達しようかと、何度も話し合ったのは、甘粕は当地に残らねばならないからであるが、結局、周蔵と安太郎にロシア人助手と、三人でやろうということに決まった。

 任務はおそろしいくらい順調にはかどった。甘粕が云うには、アルザスで混血女性に会った。年齢は少なくとも三十五才には見えたが、「母は去年亡くなりましたとウエハラに伝えて欲しい」、と伝言を受けたという。最後の一件で時間を食った。相手がイタリアに行っておるとのことで、五日間待たされた。

 昭和三年一月末から二月初旬にかけてスイスを回った周蔵が、パリに戻ってきたのは、二月六日ころであろうか。佐伯は五日にモランに写生旅行の下見に出かけ、ほどなくパリに戻った。その間、周蔵がリッツから移っていたことを、やがて報らされた。周蔵は、イタリア戻りの人物を待つ間、佐伯の日誌づくりの相手となり、「救命院日誌」の記帳をして過ごした。米子とも、この時初めてじっくり話し合った。

 

 第三節 最後の「救命院日誌」

 佐伯の二度目のパリ生活の実状は、後節の「周蔵手記」の内容が正確である。「周蔵手記」には、周蔵の誤認と省略以外には、錯誤の種はない(ここで省略とは、たとえば、二階堂フサなる婦人の佐伯との密通事件と自殺の詳細である)。次いで正確なのが、「周蔵遺書」である。

 それに続くのが佐伯の「第二次パリ報告」である。佐伯が精神衛生のために内心を吐露したもので、架空の狂言回しが登場するために、やや惑わされるが、書き直しもなく、総じて見ると真実性がある。最も変化に富むのが、おなじみの「救命院日誌」である。これは元来、佐伯が大谷光瑞師に提出するための記録であるが、内容は、芸術的心境を作るために佐伯が創作した夢幻的世界である。しからば、真実のみを求める本稿の立場においては、これを無視していいかと云うと、かならずしもそうではない。けだし、嘘の中にまことがあり、真実の中に皮相がある。まして、佐伯が意識的に夢想的世界を創り上げ、その中で、自身の絵画芸術を発展させたという経過が、一通りの画家の営為として、これほど明確な例はあるまい。

 この故に、「救命院日誌」は佐伯芸術、ことにその究極的到達点たる佐伯祐三本格画との間に、極めて密接な内的関連を有している。これに対峙するのが米子説話、すなわち米子の創りあげた虚偽に満ちた佐伯の世界で、夫婦愛と結核の上に成り立ち、こちらの方は米子加筆作品と密接な関連を有する訳である。いわゆる公開佐伯を世間に流布する際、どうしても必要なのが米子説話であった。やはり一種の天才であった佐伯米子はそのことをよく知っていた。それを実感した大手画商の企画により米子説話を権威付け裏打ちする目的で、阪本勝の佐伯評伝が著され、大手画商の販売促進資料となった。

 佐伯の親友山田新一は、ことの真相を知る者として「告発」をする気持もあったと思われるが、一生を日本美術界の閉鎖空間に生きてきた山田には、剛直な告発をするだけの凛とした勇気は、結局なかった。それに、真相を知りながら、長年にわたって米子説話と加筆品の流布を見逃してきた山田の立場は、あたかも犯人秘匿の罪を犯したに等しかった。その潜在意識の為か、山田の評伝「素顔の佐伯祐三」は、時間的齟齬を正しただけで、真相に触れずじまいの中途半端となり、結果として、米子説話を裏打ちし、強化することになってしまった。事実の小出しは、往々にして、このように逆効果となるのである。

 山田著の後書きによれば、山田に対して評伝を書くよう勧めた者の名がある。山田は性格の優柔不断をを見透かされて、「加筆派勢力」に利用されたらしい。それは、山田の真意には反していたのだろうが。

 とにあれ、「救命院日誌」の概容を次に掲げておく。まず日本編。佐伯が東京を発った昭和二年七月二十九日より、吉薗周蔵がパリに到着した昭和三年一月二十八日までの周蔵側の事項である。佐伯は八月二日、大阪の光徳寺から下関に向かい、シベリア鉄道を目指した。以下は、実際には昭和三年二月にパリで周蔵に記帳させたものだから、「救命院日誌」の最終部分はここから始まるわけだ。

 「救命院日誌」昭和二年八月七日条。

 原文(ただし、仮名遣い、漢字は適宜改めた、以下同じ)。

 佐伯は明日パリに向かう、とのこと。手配はすべて済ませて、よく説明した。佐伯はフサの子供が気に掛かり、怖ろしさが深まり、日本から逃げ出したい気持ちにせかされているようだった。私は何も告げなかった。フサはもうそろそろ出産だろうと思っていたが、佐伯には話さなかった。

 同十一日条。原文。

 フサが女児を出産。その後、即自殺したと、二階堂家の使いが来て知る。女児は八日に生まるる。

 フサは九日夕方、首をつった由。遺書には、じぶんの命を絶つ故、子供は養子に出さないで、祖父母の元にて育ててほしいと、あった由。子の名は、妙子か伊智子としてほしい、とあった由。

 やりきれない夏だ。佐伯を呪わずには をられんが、しかるに起ったこと仕方なし。

 熊谷さん云われるに、起ったことに、収まらないことはない、との由。

 きっと、時間が終着を作り出すのであろう。

 ※佐伯祐三の不倫の(とされる)子が生まれたのは、昭和二年八月八日であった。翌九日、母親は自殺した。七月二十九日に東京駅頭を発った佐伯を、日誌の中にしろ、なぜ八月七日までぐずぐずさせたか。思うに、伊智子の誕生との関係で、翌日生まれる我が子の顔も見ずに遠路異国に発つという悲劇性を強調せんがためではないか。

 

 同十二月十三日条。原文。

 佐伯からの手紙などの内容に不安覚ゆるに、私がパリを訪ねることにする。

 昭和三年一月六日条。原文。

 昼前パリに到着。二十三日でパリに着いた計算になる。薩摩君の用意してくれた R I t z ホテルに入る(中略)。以下要約。まず、何より気に掛かる佐伯の状況を薩摩君に聞く。ブールヴァールは通りの名であって、かなり広い通りの一寸奥まった処の庭のある建物を、薩摩は準備した。新築中で、薩摩が予約してあったが、佐伯の到着までに完工せず、佐伯はしばらくホテル住まいをしていた。工事中に部屋を見た佐伯は、即座に三階に決めた。薩摩は「佐伯が家族から解放されるために別に一部屋欲しいと吉薗から聞いているが、各階は二部屋づつしかないから、三階の両部屋にしてはどうか」と云うと、佐伯は「それなら、すぐの階下に一部屋ほしい」と、これも即座に答えた。

 薩摩は、「家族と同じ階の方が良いのではないか?」と念を押したが、佐伯は迷わない。その答えが薩摩を驚かせた。「妻の米子は足がびっこです。松葉杖を突いています。三階やったら、外に出るのが、二階よりおっくうになるやろ、その方がええんです」と、大阪弁と東京弁の入り混じった、変に丁寧な言葉で言ったと、薩摩君が真似た。

 三階に家族、階下が解放用の部屋で、佐伯は三階で暮らし絵も描くが、二階で描いていることの方が多い。詳しくはドーリー(千代子)に聞いて欲しいと、薩摩は云う。千代子は二階で、佐伯の世話を焼いているらしい。周蔵はフサの一件を思いだし、「佐伯は以外に手が早いから注意しろ」と注意すると、様間は「それは大丈夫。川田家は乃木さん仕込みの軍人だから、その点は堅固だ」という。

 薩摩の説明では、千代子は、やはり留学してきている岡なる学生と恋に落ち、だいぶ苦しんだ。薩摩は岡を脅かし、千代子の前で札束を投げつけ、手を引かせた、と誇る。呆れる周蔵に、それが当地の男のやり方だ、と嘯いた。周蔵は、佐伯と千代子とのの間に、岡なる人物と同様の事態が生じても、ヤクザまがいの処置を執ったりしないように、と頼む。薩摩たちは、何が生じても金持ち特有の図々しさで、蛙の顔に小便で済ませられるが、佐伯はそうはいかない。

佐伯ハ 死ニタヒト思フ ノデハナヒ ノニモカカハラヅ、死ヌ恰好ヲ シナケレバ ナラナヒトヰフ状況ニ 己レヲ 追ヒ込ムデシマフ。望マナヒ ニモカカハラヅ、自殺ノ形式ヲ取リ、萬ガ一 サレガサノママニナル コトモアルダラフ。

 今回の旅行は、若松安太郎と一緒になったので、周蔵は、キクエなる娘の、死に至るまでのことについて、若松と話した。キクエも、死を選ぼうとしたのではなく、自殺血行の状況にまで到達することで、己の人生のやり直しのきっかけにしようとしたのではないか。キクエは何でも、米子の云うままに従っていた。会食の時ですら、米子は「キクエさんは、野菜のテンプラ付きの暖かいお蕎麦になさいな」などと、いちいち指図していた。その調子で、自分はたとい祐正の女であっても、結婚にまで結びつくことを困難とみた米子は、佐伯を牛耳って佐伯の女にすげ代わり、キクエを祐正の正妻にと手順を取り、キクエに指示したように見える。米子なら、そのくらいの策略はお茶の子だ。

 ところが、寺の側にも、キクエを妻にできない事情があったのではないか。米子よりも祐正の指示に従うことが明らかな佐伯が、キクエを諦めて米子に代わったのは、祐正の差し金であろう。若松が調べたところ、キクエは一度自殺未遂をし、追って首吊りという所業となった・・・

 周蔵は、キクエの自殺の経緯を薩摩に話し、兄と米子が如何に佐伯に関わっているかを説明した。

 「二人の関わらない状況で、佐伯を追い込みたくないから、佐伯には二つ画室を持たした方が良い。 米子の関わる画室と、解放された画室のどちらも必要だ」、と云うと、薩摩はかなり佐伯を嫌悪している様子で、「自分は関わらないから心配無用」、と答えた。「だが、千代子が佐伯の面倒みることは公認しているから、佐伯に千代子への感情を抑えるように、君からも云ってくれ」とも云った。

 以上の調子で、佐伯文学特有の名文が延々と続く。周蔵が、事実からはほど遠くいかがわしくさえある、と呆れた通りで、中には一分の真実もあるろうが、大半は佐伯の創作であるから、この辺で切り上げたい。 私が、佐伯の文章をここへ持ち出したのは、上掲(太字の部分)のように、まるで自分の死を予見する文章があるからである。佐伯は恋人大谷キクエの死に至る経緯(創作的要素も含めて)に、やがて到来する自分の死を予見しているのである。

 その他にも、事実からはほど遠いとは言え、何ほどか「事実を超えた事実」がある。二三解説する。 

(一)二十三日でパリに着いた計算。十二月二十五日に東京を発つと、二十三日目は一月二十八日になる。実際の日数はこれだけかかったのだろう。ところが、佐伯が周蔵の到着を一月六日としたことに、周蔵は首をひねった(「周蔵手記」)。これは、佐伯の作った筋書では、「佐伯からの手紙などの内容に不安覚ゆるに、私がパリを訪ねることにする」と決心した周蔵が日本を出立した日を十二月十三日としたから、その二十三日目で一月六日到着としたのである。なぜ十二月十三日としたのかが問題なので、やはりガス事件に関わるものであろう。佐伯はガス事件を周蔵には知らせず、薩摩から報らせが行ったと思うと云う(「第二次パリ報告」)が、とにかく東京へもたらされた(たぶん国際電報の)重大な知らせに驚いて、ほとんど即日周蔵が渡仏するという筋書に合わせて、一月六日のパリ到着となったのだろうが、旅行準備の日程がいかにも窮屈である。とは云っても、ガス事件を十月二十日頃とするのは、早すぎると思う。

(二)薩摩が契約したのは、ブールヴァール・デュ・モンパルナス一六二番地の新築アパートである。朝日晃氏の作成した佐伯年譜には「十一月熊岡美彦が越してくる。二階に薩摩治郎八がいたことを、熊岡が記録している」としているのは面白い。むろん朝日氏は真相を知らないのだが。

(三)岡なる画学生。岡鹿之助は明治三十一年生まれで、佐伯と同年。東京市麻布区で劇評家の岡鬼太郎の長男に生まれた。美術学校は佐伯の一年後輩で、大正十三年に卒業して渡仏し、翌年サロン・ドートンヌに入選した。佐伯夫妻も同時に入選した。

(四)「救命院日誌」には千代子の実家を川田家とするが、これは山田家の間違い。明治の功臣山田顕義は伯爵家を創立したが子孫がおらず、明治天皇の裁定により、会津松平家から山田家に入ったのが千代子の父で、陸軍に入り、乃木大将の副官として水師営の会見に立ち会った。有名な山田顕義の家筋を、ことに千代子と親しかった佐伯が間違う筈はなく、これは、周蔵が一人称として記す「救命院日誌」のための脚色である。事実、周蔵の方は山田伯爵には関心がなかったようで、「周蔵手記」にも、「薩摩の縁談の相手は、山田とか川田とか」としてある。

 因みに、武生市真贋騒動において、この「川田伯爵」が、吉薗明子の足を引っ張った。「そんな姓の伯爵はどこにもいない」と武生市役所は云うのである。しかし、薩摩千代子が実在している以上、その実家が会津家の縁戚山田家と知るには、ほとんど手間を要しない。何しろ市役所職員が数人チームを組んで、炭焼き木場周助と勘解由小路家の関係のごときまでも、宮内庁に問い合わせて調べた程であるから。そしたら、何だ山と川の間違いか、で済んだ筈である。それをことごとしく取りあげて、欠席裁判で資料贋造の一証拠とした。どうみても、単なる無知や誤認ではない。意図的な吉薗資料潰し計画以外に説明できない。

 

 第四節 最後の「救命院日誌」その二

 もう少し「救命院日誌」の記載をみておきたい。ここからはパリ編。つまりパリの佐伯側からみた、画業と生活の報告である。

 要約。一月六日、周蔵はホテルを出て、リュクサンブール公園に佐伯を探しに行くが、見つからないので佐伯のアパートの三階を訪ねるが、ここには米子もいない。しばらく待っていると、佐伯が大きな荷物を下げて暗い顔で歩いて来た。周蔵が声をかけると、瞬間とまどったが、やがて泣き出した。米子が留守の理由を聞くと、荻須なる画家の所に行っているとのこと。「また浮気か」、と周蔵が問うと「チャフ。画ノ指導ヤ」と、ぼそっと云った。荻須らは、落合村にいる時に、佐伯の絵を褒めてちょいちょい来ていたが、今回佐伯の後を追って渡仏してきた。当地にきたら、「えらくあの女と気が合って、絵の指導をしてやるちゅうて」「丁度、ワシが前に来た時みたいなもんや」。ぼそぼそと、佐伯は時間をかけてそのように云った。荻須は、当地で米子と気が合い、米子に北画を教えて貰うようになった。つまり、第一次渡仏の際の自分と同じ立場だと、佐伯は云うのである。

 佐伯の二階の方のアトリエへ行くと、「ココハ ワシノ カクレ家ヤ。一寸見テミイ。大分描ヒタヤロ。二百枚近クアル」と、嬉しそうだった。周蔵は、佐伯をレストランへ連れて行き、話を聞く。米子は荻須と通じ合っていて、時々モンマルトルの彼の下宿に宿泊してくる。荻須に佐伯の筆法と同じ筆法を教えているが、時々荻須に指導するために、佐伯の絵を持ち出して、手を加えるので困る。手を加える理由は、「佐伯の描き方が鋭く激しすぎるので、画の内容に柔らかさがないから」とのこと。米子は、佐伯の絵をそのように批評し、その激しさが佐伯の絵を悪くしている、と云う。米子の評としては、「荒々しすぎて日本人の好みではなく、またヴラマンクの激しさとも違う」と怒る、とのこと。

 米子は、佐伯の絵の質を高めるために荻須の所へ行き、荻須にも手直しを手伝わせている。自分は、千代子の部屋の絵は持ち出されないように、気を付けていると、佐伯はいう。周蔵は、薩摩から荻須の下宿の住所を調べて貰い、脅かす目的で、荻須を呼び出す。会ってみると、荻須は好青年で、米子の所在を知らないと言い張る。隠している、と周蔵は感じた。

 一月七日。周蔵は、佐伯のアパートを朝駆けする。米子の朝帰りを咎めるためであるが、米子は帰っていない。佐伯は、以前ガス事故があった、米子がガス栓を開いたという。三階では毎日喧嘩しているようだ。 米子に無関心を装っているが、佐伯にだって嫉妬心はある。荻須に対する嫉妬心が喧嘩の原因だろうと、周蔵は思う。「あの女が、荻須の所へワシの画を持っていくんや」というから、「あんな大きい絵を米子が持ち出すのか」と問うと、「下で荻須が待ってるんや」とのことである。周蔵は、真偽のほどを疑う。

 要するに、米子は、佐伯の画は激しすぎるから、もそっと緩やかにせねばならず、それには自分が手を入れないと仕上がらない。つまり、佐伯が粗描きして自分が仕上げるのが一番いい、と主張するらしい。

 同日夜。周蔵は、米子の帰宅を夕方まで待って、詰問した。米子の答えは、荻須ではなく、別の夫婦者の所へ行ってきた。佐伯の暴力に耐えかねての逃避である、という。

 佐伯と米子の話の結論は、とにかく金である。出国時に都合した一万二千円と、大阪の画会で作った七千円の合計一万九千円を、米子の実家と祐正に大半むしり取られ、佐伯たちは二千円弱の乏しい旅になった。再三の資金援助の要請の手紙に応じて、周蔵が送った三万円弱も実家へ逆送金となっているようだ。結局、佐伯の荒れは金欠によるもので、夫婦間は東京にいた時と大差はないと、周蔵は判断した。

 長文であるから、一休止して、蛇足ながら少々解説。内容は、周蔵の行動たる荻須との会見、米子への詰問、および佐伯との会見の日付、金額などの具体的数字はみな架空だが、佐伯が周蔵に語るパリ生活の大筋すなわち米子加筆と荻須との不義一件およびガス事故は事実である。理由は、現存する資料がすべて裏打ちしているからである。ただし、佐伯の家庭内暴力については、メモにも書簡にもないので、虚構とみた方が良かろう。

 夜九時過ぎから、周蔵は薩摩夫妻と藤田嗣治と愛人、それにネケル医師と食事をした。このネケルは、おそらく、本物のジョルジュ・ネケル医師であろう。

 藤田は周蔵に、「佐伯は嘘つきだ。女房が可哀想だから、男関係などは追及するな。佐伯だって結構、男の格好を付けて、千代子さんに迫っているではないか。そこらへんはお互いだ」という。藤田はニヒルな男である。観察していると、酒を飲まないのに、充分酔っている。正確に言うと、酔うはずはないから、酔った振りをしているらしい。そして思い切り、はっきり物を云う。外人相手に得意そうにしゃべりまくり、同胞を煙に巻いている。一寸、言葉の墨にポロリと出した本音があった。「俺は本当は酒は呑まない。日本の連中はみな貧しいから、食い物にも酒にも飢えてる。俺は時々食わしてやるのだ。だが、佐伯だけは来ないね。俺も薩摩さんや吉薗さんへの義理があるから、一回訪ねて行ったけど、結局あの男は俺の所に近づいては来なかったね」

 それを藤田は、バックに吉薗がいるという安心感があるから、と指摘する。「佐伯は、女房が男と寝て、絵のヒントを得て女房に指導するという案配さ」

 周蔵は藤田に、今は何を云ってもムダだと思い、同時に米子の相手には藤田もいると思った。藤田はたぶん米子から佐伯のことを聞いているのだろう。食事の後、周蔵は千代子と話した。「藤田さんの云われることは違う。佐伯さんは千代子に言い寄ったりはしない。それに奥様が、絵のことを指導しているという事実はない」と千代子はいう。現状は、佐伯はアンソールという画家の画風に傾いている。それには米子は大反対であるが、佐伯は米子を無視している。現状佐伯は二種類の絵を描いている、と千代子は説明した。

 アンソールのことを知ったのは、昨年十月二十日頃、佐伯の部屋でガス漏れ事故があった。この事故は事故であっても故意であっても、奥様の手で生じたことである。大使館員の調査に対して、米子は「アタクシの不注意です」と云った。「だから米子の責任である」との千代子の言に、薩摩が「それは間違いない」と同調した(ガス事故は、「第二次パリ報告」の内容からすると、十二月ころと思われる。借りに、十月二十日のことなら、それを知らす手紙が十二月には着くだろうが、周蔵はがその知らせを受けた気配はない。時間を合わすために、佐伯が時期を繰り上げたのだろう)。

 薩摩曰く、「その事故の時は、自分が病院と大使館を手配した。警察の介入を排除するためである。自分は、佐伯が来てすぐに住めるように、一部屋をクラマールの近くに用意してあった。それを佐伯が気に入らないので、建築中の建物を見せ、ここがいいと云うから、完成までホテル住まいをして貰った。ガス事故の時は、佐伯はまだ二階のアトリエを使っていなかった。自分は遊び歩くことが多いから、その部屋に行くことは少ない。千代子は割合と通っているはず」と。「千代子が岡なる画家と駆け落ちに失敗し、藤田や他の日本人を嫌悪しているところがあるので、佐伯の不器用は丁度良いかと理解している」と薩摩は云う。

 岡はその後薩摩には近づかず、藤田に尻尾を振っている。そして、駆け落ち事件をすべて千代子の一人芝居であると宣伝し、おかげで千代子が変な立場になってしまったから、薩摩としては千代子を控えさせた、と説明した。

 千代子は傍らで涙ぐんでいたが、周蔵に「オ兄サンハ 判ッテ下サルト思フカラ 話シマスケド」と、弁明を聞いて欲しいと云う。薩摩は笑って、「聞いてやってくれ」、といいながら、部屋を出ていった。千代子が、お互いに百通も恋文を出し合ったことなのに、私の片思いのように云われたと、岡の身勝手さを嘆くので、周蔵は、「異境に苦労する彼の気持ちを察して許してやれ、同時に大人の態度で対処してくれる薩摩の配慮も考えて見よ」と諭した。

 千代子は、ガス事故は米子のデモンストレースションではなかったか、と考える由。その頃の佐伯は、ある意味で画風に迷っていて、パリ中を歩いては、いろいろと描いていた。前もって日本から送ってきたキャンバスは、ほとんど無駄に使ってしまった。厚ければ厚いほど良いとキャンバスに凝りながら、絵は仕上げないで、中途半端のものが多かった。しかし、立体的でない壁に張られた広告の絵や、正面から見た店構えを描いたものは、逆の面白さを出しているようで良いように思えて、千代子は初めて佐伯を批評した。

 一人きりになりたい千代子は、二階のアトリエでよく休んでいたが、時折、米子が松葉杖を抱えて、跳ねるように階段を下りるのを見た、という。周蔵は、それは佐伯が米子に言いまくられて、つい手を出し、佐伯の暴力から逃れるために米子が飛び出すのか、と訊ねると、千代子はその通りと答えた。

 荻須と米子の間には、佐伯の思うことは多少はある、と思う。しかし、米子は荻須だけでなく、佐伯の絵を売る方針を立てるためだと思うが、福島なる人物とも何かある筈、という。福島のことを千代子から幾ら聞いても、周蔵にはよく分からない。要するに外地ゴロかと判断した。話では、画家にパトロン的援助をするとともに収集をしているらしい。米子は商才に長けているから、福島のパトロン及びコレクターという点に目を付けたのであろう(福島とは、フォルム画廊の創始者、画商福島房■■)。

 千代子の話から、佐伯が米子をまったく意に介さず、そのため例のごとくヒステリーに陥ったものと、周蔵は見た。米子は外面は良いが、佐伯に対しては鬼女に変身するところがあり、佐伯もまた貝になるから、ガス事故も千代子の推察通り、米子のトリックが失敗したということであろう。階下の部屋にいた千代子がガスの臭いに気づき、家主に連絡して合鍵で開けた。千代子はまずドアを引いたが、鍵が掛かっていたので家主に頼んだとのこと。然し、佐伯が云うには、これまで鍵をかけたことがないのに、米子は何故あの夜だけ、鍵を掛けていたのだろうか。また、家主と千代子が一緒に鍵を開けて入ったとき、米子は跳ね起きて、窓を開く所だった。その折、米子は和服姿で、をきちんとしていた。羽織も着ていた由。

 佐伯とヤチ子が、シングルベッドに背を向け合って、寝ていた由。佐伯は五日、ヤチ子は七日ほど入院したが、佐伯は頭痛が取れず、ずっと後まで頭痛を訴えていた。ヤチ子は目に異常があるように思うと、千代子はいう。周囲の声が耳に入らぬように茫然としており、佐伯が指を鳴らすと、催眠術から覚めたように正気に戻る。また壁土や石を舐めたり、異常の行為が目立つ、というので、これは一刻も早く東京に戻した方が良いと周蔵は判断した。

 千代子曰く、佐伯はある意味で狂気、米子も別の方向の狂気に進んでいる。薩摩は自らをよく知ったうえで、愉しんで狂っている。藤田は狂気のふりをした凄く冷静な常識人である。千代子はこの異郷で薩摩共々自分が狂うことが恐ろしく、オカなる画学生にのめり込んだようだ。そのことから推すと、相手は大人しい品位を備えた人物であろう、またそれ故に、千代子を守り抜くことができなかったのであろう、と周蔵は判断した。

 最後に、東京に戻るか、との周蔵の問いに、千代子は、私は佐伯の画業の行方を見守っていきたい、と答えた。佐伯は厚いキャンバスと、一塗りの薄いキャンバスを使い分けて、画風が日に日に変化している。天才だなあ、と自分は信じている。恋愛ごとや、男の沽券を競う人たちの中で、一人孤独な佐伯を、見定めて行きたい。あの奥さんの作っている世界から、守っても上げたい。故に帰らない。「千代子は強くなりましたの」との返答であった。周蔵は千代子に、くれぐれも佐伯の母性を求める感情に流されないように、と強く忠告した。

 一月九日。周蔵は一日中ぼんやりして、佐伯夫婦のことを考える。当地に来てみたら、佐伯の手紙はまったく大袈裟な内容だったことが分かった。夫婦は当地でも東京時代と大差のない生活をしているのだ。こんな上等のホテルに世話になっている訳にもいかないと感じた周蔵は、今晩からでも、薩摩の別荘に移して貰うこととした。

 さて、何しろ長文であるから、ここらでまた一休止して、蛇足ながら解説を少々。

 まず、私見として、佐伯文学はなかなかのものと、感嘆を久しうする。「周蔵手記」に、若き日の佐伯から「救命院日誌」の文案を見せられた周蔵が、絵の才能は判らないが、文章は武者小路さんよりは上だ、と驚嘆するところがあるが、まことにその通りである。自分を主人公(第三人称)にして、やや露悪的に描くが、本人が創った文章とは到底思えないほどである。千代子の心理描写も面白い。何より構想力が凄い。佐伯が文学者になって本格的に打ち込んでいたら、芥川などを充分に超えたのではなかろうか。

 ガス事故を十月下旬というが、実際は十二月初旬ではないか。深夜に千代子が発見したというのも、ウソである。周蔵に再会した佐伯がいきなり言い出したのは、日誌と金のことで、しかも日誌が先であった。それほど佐伯が大事にした「救命院日誌」の総括をする責任を感じるが、周蔵が、その内容のくだらなさは言語に及ばず、と評するほどのものであるから、克明に掲げることは辞め、興味深い点だけを紹介することとする。

(一)一月十日。薩摩治郎八が、政府が見捨てたものを自分が何とかすると約束したので、五萬ばかり援助しろと、いう話。若松にも援助を頼むから、承諾させて欲しいとのこと。

(二)同日。米子がアバート四階の部屋に出入りしているのを見つけて、一体、四階に誰が居るのか、といぶかる話。

(三)同日。里見サンにも知らせたけど、まともなもんが百七十枚はできたと、佐伯が自慢した話。自分の作品に点数を付けるなと叱ると、全部では三百枚描いたという。

(四)同日。薩摩の話に「以外なのだが、あの夫人は一部の学生を煽動する力があるのだ」とのこと。「煽動に再三説明を求めたが、適当なところでいいにしておけよ」とのこと。

(五)一月十二日。薩摩はモニソーという公園の隣地に邸宅あり。ブローニュにも邸あり。ホテルにも部屋を借りている。

(六)一月二十二日。若松の店に堺誠太郎さんが来ていたので、周蔵は金策を頼んだ。日本円五千円ばかり都合が付き、佐伯家は円満となった(若松は貿易業をも営み、ロンドンに支店があったらしい。堺誠太郎は若松安太郎の本名であるが、佐伯はそれを知らず、ここに出したと思う)。

(七)一月二十三日。薩摩の紹介してくれたジャン・コクトーなる詩人が、絵画コレクターたる医師夫人を紹介してくれたので、ルドンの絵を二十点ばかり見せられた。自分は、絵は分からないが、深い魂を感じるとコクトーに云うと、もう一人の画家の絵を見せるということになり、明日、薩摩君とスイスに行くことになった。スイスにて、クレーなる画家のものを見て感動した。

(八)二月二日。薩摩に頼み、ルドンのコレクターの老女宅を訪問。コクトーが同行。上手く剪ってルドン作品を入手した。

(九)同日。スイスより戻る。クレーを譲って貰えた。早速若松の事務所に行き、佐伯作品もルドン、クレーと一緒にして、日本へ送って貰うことにした。

(十)二月四日。佐伯と友人たちとのモラン行きが決まったようだ。自分は薩摩君に依頼し、再びスイスに行くことにした。自分は、スタンランなる下町の三文画家に感心して広告の絵を剥がして取ってきた。藤田は、スタンランよりロートレックが云いと言い、スタンランを評価しないが、自分はスタンランを良いと思い、薩摩にできるだけ収集してくれるように、依頼した。

(十一)二月十日。スイスへ行こうと思ったが体調を崩し、薩摩の別荘で休暇を取って数日を過ごした。見舞ってくれた千代子の話を総合すると、佐伯はモランから何度も戻っていた。画布を取りに戻ったらしい。どうも佐伯は千代子に相当傾倒している。二人の仲が心配だから、薩摩に忠告したが、薩摩は放っとけ、という。本人が承知なら、大丈夫だろうと思って、帰国することにした。

 (以上は、繰り返して云うが、佐伯の完全な虚構文学である。)

 最後の「救命院日誌」は、モランに行っていた佐伯が、画布の補給のために、パリに帰ってきた時、偶然会ったら、またしても記帳ということになった、という(「周蔵遺書」)。それは、日誌の最後の日付二月十日より数日後、おそらく二十日前後のことではないか。佐伯は、画布の補給もさることながら、薩摩千代子に会うことが眼目であったようだ(「薩摩千代子宛メモ)。

 

 第五節 周蔵パリを発つ

 周蔵はパリで、初めて米子とじっくり話した。「救命院日誌」には、それまでにも米子が周蔵と懇談する場面が度々出るが、あれは佐伯の虚構である。米子の言では、佐伯は性格の通り仕事にムラがあり、描きかけた絵を最後までやり抜くことに困難がある。然し、中には最後まで仕上げるもののある。勝手な男であるから、続きを米子に仕上げておけ、と示唆すると言う。周蔵はその説明を理解した。佐伯は根がケチであるから、描きかけの絵でも仕上げないと、損をしたような気がするのであろう。

 ところが、米子が仕上げた絵を他人がほめるという、予定外の結果が生じた。嫉妬深さも手伝って、米子を嫌うということらしい。これは、周蔵は、その言葉通りには受け取らない。米子は米子で、海軍関係の役目があろうし、当然何かを考えているだろう。日本でも結構難しい夫婦であったのだから、当地に来ては余計に分からない関係であろう。

 そこで、佐伯が記帳を要求する「救命院日誌」について考えてみたが、内容はまことに現実からほど遠いものである。パリでの行動を問われたから、コクトーの講義とその絵を見に行ったことを話すと、佐伯は早速それを日誌に取り入れた。尤も、周蔵が、スイス行の真相を全く伏せたから、記載内容の肉が薄くなっていたので、丁度良くなった。

 佐伯は、「代金相当分を送るから、追加の絵をまた買って欲しい、と巻さんに伝えて貰いたい」と頼む。 モランという田舎に行くのに、費用が底をついてしまった、というのである。周蔵は望み通りの二千円を与え、薩摩には絵を受け取って三井(船舶か?)でも使って、日本に送ってくれるように頼んだ。薩摩は、佐伯の絵を見て「あまりの下手に呆れる」と、正直に言った。米子は周蔵に、「自分ガ手ヲ入レテ、マタ書キ加へ描キシテアルモノハ 充分良ヒ絵ニナッテヰルガ、サノ絵ヲヒキトラナヒカ」と持ちかけてきたが、巻さんは「下手デモ良ヒカラ 本人ノモノヲ」と云っていたので、その通りに引き取った。

 佐伯のことをややこしい夫婦だとは思うが、考えてみれば、自分の処も夫婦別居だし仕事も別々だから、人のことを云えたものではない、と思った。佐伯のアパートに行ってみると、階下にも部屋がある。それはもともと薩摩が妻の千代子に使わせるために用意したものだが、佐伯はそこで仕事をしていることが多いようである。また、幼いヤチ子は、白痴のように見えた。この子は日本にいた時は利発であったが、と怪訝に思った。部屋の中は、家具やストーブに占領され、米子が居る分の所帯道具があるから、佐伯が仕事をしようにも、狭くてやりきれないのであろう。階下の部屋は、純然たる仕事部屋だから、佐伯がここに逃避に走るのもやむを得まい、と周蔵は思った。

 薩摩千代子は、亭主が放任主義にしているらしく、自由気ままである。治郎八は、奥方のいわゆる見た目が美しければそれで善し、ということらしい。千代子の話を聞いてみると、どうせ中身は空っぽで、佐伯の絵筆を取ったり、洗ったりを手伝って、愉しんでいるらしい。佐伯のような汚い男の方が、ある種の心を動かすものがあるのであろう。千代子本人は母性だと言っている。

 佐伯にも、そこの処が変に分かっているらしく、また千代子から治郎八のことが筒抜けなこともあるのだろうか、いざ記帳を始めたら、あれこれ急に注文が増え始め、内容はいかがわしくさえある。おまけに佐伯は、周蔵よりも国語力が強いから、誤字を指摘したり、ここは略字を使えとか云われて、周蔵は疲労した。

 任務の相手がイタリアから戻る迄、そうして待っていると、佐伯の葉書が数通オテル・リッツに届いていたと、薩摩が持ってきてくれた。なるほど薩摩はパリの上流階級には相当の力量らしく、夕飯をご馳走になるにも、どこでも殿様扱いである。尤も、金に頭を下げて貰っているにすぎないのだが。

 藤田が云うには、佐伯も薩摩の権勢を見聞し、真似ようとしているとのこと。正にそうであろう、と周蔵は思った。日本では大谷光瑞、フランスでは薩摩治郎八の傍らにいるのは、踊る人間にとっては目の毒であろう。

 周蔵がパリにいたのは、正味二週間であった。ハバロフスクにて用意していた車に荷物を載せ、ニコライエフスクに着いたとき、正に夢だったような気がした。その後は、安太郎氏の北星組の漁船に乗り、鮭や蟹と一緒に大連までは船旅である。荷物は閣下に命ぜられた物を、周蔵が東京へ持ち帰り、残りは大連まで迎えに来た貴志弥次郎中将と町野武馬大佐に渡した。荷物は、奉天政権張作霖の支援に役立つものである。

 上原閣下の大森邸に荷物を届けに上がると、褒美を下さろうとした。とんでもない、始めに三万五千円を頂戴している、それを自分たちで分けた。安太郎氏が五千円、ネケル氏五千円、甘粕さん一万五千円、自分も遠慮なく五千円頂いた、と断りを申しあげると、閣下は「善ヒカラ受ケ取レ」と更に云われた。

 遠い昔のような気がするが、遠藤と名乗られた石光真清さんから、船の中で人生を教えて頂いたことを周蔵は懐かしく思い出した。こうして国事に携わってしまったからである。

 石光さんは云われた。色々の事が心の中に残ってしまい、矢も盾もなくて居られないことがある。それはノートに書いた方が良いよ。告発しないでいられないことがあるかも知れない。軍人でないから、告発してもそう大した力もないから、握りつぶされるのもわけないことだから、せめて自分の中で正確にしておいた方が良いよ。その君の友人(加藤邑)が云うとおり、書いて置いた方が良い。

 このとき、「告発」という言葉が、周蔵の印象に残った。「大勢の無知な国民の中の、わずか一握りの人に報らせるために、告発しなければならない時はあると思う。軍人も政治家も、自分たちほど苦しいことをしていない」と云われた。自分はその時、大したこともせずにいたから、その言葉を恥ずかしく思って聞いたが、国事に携わった今では、懐かしく思う。また、甘粕さんからも教えられた。

 自分は正真正銘の軍人であるから、軍人として行うことの半分は軍の責任である。だから名前を変える必要はない。然し、君は自分を自分で守るしかないから、名前は貰った方が良いよ。君が万一失敗しても、その人物は武田内蔵丞であり、小山建一である。最終的に吉薗は助かる。また、それは上原さんの為でもあるのだ。今の自分は個人として話せるから、教えるけど、あの人ほど用心深く、微々細心に注意する人は珍しい。ご自身でも事を行う時は、その表の行事も作られる。表の行事に目を向けさせて、裏を見張っている。上原閣下ほど参謀本部向きの人も珍しい、と云うのである。

 そこで周蔵は、山本権兵衛閣下の言を思い出した。周蔵は、権兵衛閣下とはできるだけ会えるようにしており、薩摩県人会にも出るようにしておるが、この所会えなかった。権兵衛閣下は薩摩弁をつかう者には非常に優しいから、夜陰にまぎれてのつもりで、夕刻ふいに伺うと、会ってくれた。

 周蔵の顔を見るなり、「ヤツレタネー」と云われた。舌ガンのことかとも思ったが、それは告げず、フランスに行くというと、上原元帥を指して「アン男ハ マッコト 汚カトコアルカラ、オマンモ 気ヲツケント イカン」と細かく注意して下さった。やはり、策をするときは、何かの会議をしているように見せて、自分はとんでもない処で指示したりしている、とのことである。後になれば「あの時は、この会議に出席していた」とアリバイを立てることが出来るからである、とのこと。

 「救命院日誌」は二月十日で終わっている。「周蔵手記」昭和十一年七月末条に曰く、「あの折、驚いたのは、帰る二三日前に佐伯と会い、佐伯は郊外に写生に行ってをったが、一〜二枚描いては材料を取りに戻ると言う不便なことをしてをったらしく、運良くか悪くか出会って、飯を食い、また記帳となった。あの折、こいつは自分のことをどうして調べたのかと思ったが、薩摩の妻君に出会って分かったことは(藤田嗣治に)伝うる。薩摩の妻君があの折の夕食会の状況、その後の自分が絵を買うと、一応建前として絵を買いに行くと言ったいきさつを、佐伯に逐一話していた事を、薩摩の妻君から聞いたことも、(藤田嗣治に)伝うる」と。

 これを見るに、周蔵はパリを発つ二三日前に、偶然佐伯に会った。佐伯は二月中旬から下旬に掛けてモランに写生旅行に行くが、カンヴァス補給のためにパリに帰り、その時ルーヴルでたまたま中山巍と会ったことが伝えられている(補給を、朝日晃は一度とするが、「救命院日誌」は数度とある)。いずれにせよ、周蔵が最後に佐伯に会った日は、二月十日から後である。その数日後、周蔵はパリを発った。後述するように三月二十日ころとみられる手紙に、医師がパリを発って二十八日目とある。三月二十日の二十八日前は二月二十日であるから、周蔵は二月二十日ころ、パリを発ったことになる。

 幡ヶ谷の隣家で待っている新妻の巻さんに宛てた葉書では、帰路はシベリア鉄道で、東京着は四月末頃になる、と書いている。シベリア鉄道でハバロフスクまで行き、そこから荷物を車に載せて尼港に渡り、漁船で大連に航海し、大連で引き渡しの後、帰国した。これには二か月余の日数を要したのであった。

 帰国した周蔵は、巻さんと藤根から、佐伯のことを問われた。図らずも佐伯について語ることとなり、周蔵は自分の知らない佐伯のエピソードを二人から聞いた。二階堂フサのことを佐伯から問われたので、自殺のことを伝えたというと、藤根は佐伯に同情していた。

 他では、フランスの薩摩治郎八から、絵が七枚届いた由。口上は「先日の金子に対しての代物にて、不服であれば、何か言ってこい」といったことらしい。周蔵としては、不服も何も、絵が判らないのだから、これで良し、とした。作者は、ゴーガンの他、ゴッホ、ルノアールなどとのこと。巻さんは誰かに見せて、満足のようである。

 

 第六節  破局

 周蔵がパリを引きあげた後の佐伯夫婦はどうなったか。すでに「救命院日誌」が尽きた以上、これを窺うのは「第二次パリ報告」の続きと、佐伯書簡およびデッサン等に残されたメモしかない。まず「第二次パリ報告」から見ていく。

 

日時不明(二月末頃か)。

こないして俺は思うたままの事、あっちこっちの帳面に描いてきました。俺の心の中に何や弱いもんがあるさかい、ええ画家になるには、腹の中に何もためんと、帳面やデッサンなんぞの紙に、思うたこと 何でもどんどん書いてしまうことや、とヤブに云われた時、ほんまにそうする方がええやろかと、本気にせいへんかったけど、こない何でもかんでも書いてしまったから、画が描けたんやと思う。

ワシの書き方やと、手紙も筋が通らんと兄さんには文句云われたけど、ヤブはよふ読んで返事もくれるし、必ず何ぞ送ってくれて、空けるのんが楽しみや。兄さんが手紙届くと、本まのとこ、何ぼ描いてるんやと、えろに文句つけてきたけど、俺を嘘つくなや、と怒ってきたけど、俺はウソはついてへんのです。

 千枚描けたとしても、一等十枚くらい、

(挿入の形で)下地作りをマメにやれば、ええもんができますわ。あとは、アンソールの技や。

その画が一等です。十枚くらいになりました。

一等二等になれるんは、下地の出来です。ヤブの云う通りです。他の人と違うも

のを編み出す事やと云わはった、ヤブの云う通りです。

二等百二十枚くらい、

三等百五十枚くらい、

四等五十・六十枚くらい

仕様のないもんもあります。

仕様のないもんは、この間、前に住んだクラマールの方へ行った時、やきました。

けど、ワシの画をほんまに 見る事のできる人は ヤブだけや。

米子はんの手伝うてくれはったもんは、いかによう出来ていても三等やと ワシはおもってる。

米子はん えろに大切にしてますけど ワシはそないに思ってます。

それは正しい事やと思ってます(中略)。

ヤブが帰って十日になる。さびしいけど、俺はクタバランから。

 

 ※佐伯の画業を知る上で、これは特別に重要な記載である。後にみるように、ベーモントという医師の家で見た二枚のアンソールに傾倒した佐伯は、アンソール風に出来た十枚を自分の最高傑作と考えたらしい。もう一つの点は、下地(画布)が作品の優劣を決める、と断言していることである。言い換えれば、画布も作品の重要な一部であり、絵画的表現の本質的要素に含まれている、ということである。かるが故に、佐伯作品の研究に当たっては、画布そのものを検討することがもっとも肝心である。佐伯作品の所蔵者・美術館は、今からでも、この方面の研究を始めていただきたいものである。

 

日付不明(葉書・五月東京着、おそらく三月投函)

仲の良い友達に頼んで荷造りしましたので、六十枚弱の絵送ります。仕様のない物ばかりですから、仕様がなかったら、焼き捨てて下さい。今日は元気です。

                             佐伯祐三 

(裏)俺もこのごろでは、文字(英文字)も人物も、やや描けるようになっています。 なれましたんや。

 ※佐伯は、米子がいないと独自の画境が進み、苦手だった文字も人物も、描けるようになってきた。ことに、文字は「文字があると分かるが文字として読めない」ように描く工夫をした。

 

日時不明(三月上旬か)

イシが帰らはってから、米子はんが えろに荒れてからに、米子はん ゲロ吐いたりしてからだ 悪いらしい。

ワシに イシに何でも云うたらいかんと 何度も 云うたけど

ワシ 何も云わんと云うたけど それが気いになるらしいわ。

帰らはってから イシに何云うた 云うた 聞かはって

告げ口したやろ 汚らしい云うて 何や 気くるうた みたいになって

わしら もうあかんかもしれん うもう いかんわ

荻須が 知り合いに聞いて ええとこあるから 引っ越ししよ 云わはる  

米子はん もう決めましたよ 云わはる。

 

 ※米子は、周蔵が帰国の旅に就いてから、えらく荒れ始めた。独自の画風を確立していく佐伯と、米子が進めてきた加筆路線が両立しなくなり、やがて破綻につながる予感である。米子は、佐伯の唯一のパトロンで本格画のコレクターとなった吉薗夫妻の存在が気に掛かり、佐伯が周蔵にどこまで加筆一件を漏らしたかを探ろうとした。吐き気などの症状はツワリかも知れず、その場合、相手は荻須しかない。荻須も腹を固めたので、佐伯夫婦は一挙に離婚・別居の方へ進む。これを証する手紙とメモがある。

 

日時不明 

ほんまに ありがとうございました。ワシ 今は毎日 南無阿弥陀仏を 唱えてから 画かきはじめます。ワシを このアホなワシを 守って下さいと 云うんや。

帳面 もうすぐ終わるけど 死なんでいたいな。

ヤチも元気です。

一回だけ 昨日米子ハンを なぐりました。えろ叫びはって 荻須呼びにいって 失敗やった。

失敗やった。

 

 ※冒頭は資金の礼だろうか。佐伯は苛立って、一度だけ暴力を振るった。これが離別の遠因になったかも知れない。「救命院日誌」には、佐伯の家庭内暴力がしつこく出るが、あれは完全な虚構であろう。  

 

三月十二日(郵便物ではなく、日本へ送る荷物に入れたものらしい)

明日は荻須の手配で引っ越しです。今までのものを送ります。図画はトランクで発送しました。

カンバスは 地が厚うて 丸めること出来ませんので 木箱を用意しておくようにしました。

昨年九月から カンバスだけでも四百枚にもなりますが 日記の通り 駄作ばかりです。

まずまずのものは 日記の通り 十作くらいやろかと 思います。

木箱五個に カンバス百六十枚ばかし 入りました。トランクに 水彩やデッサンを詰めました。

手紙と今日発送します。

米子はんにしたがうて また新しい所でやってみます。又来て下さい。

俺はやり抜く。今に必ずやり抜く。それまで守って下さい。

くたばらんから、見ていて下さい。

                   三月十二日 佐伯祐三

 

 ※荻須が見つけてきた家は、リュ・ド・ヴァンヴ五番地にあった。佐伯と米子が別居する前に、一旦家族ぐるみで引っ越すための家であった。朝日晃作成の年譜では、「四月下旬、リュ・ド・ヴァンヴ五の西向き四階三部屋の家へ越す」とするが、真相は、実は三月十三日に引っ越しており、世間体から四月下旬まで発表しなかったのである。佐伯は、アパルトマンを出るに当たって、描きためてあった絵を吉薗に送った。米子はんに従ふて」の意味が 分かりにくいが、当面の画業は従来通り二本立て、ということであろう。

 元来佐伯は米子に依存心が強く、離婚したくなかった。佐伯の友人たち、ことに準当事者の荻須などが口を揃えて「佐伯が家賃の安い家に移り、滞在期間の延長を狙った」とするのは、世間への建前である。ではなぜ、引っ越したか。真相を物語るのは、佐伯が薩摩千代子に出した昭和三年五月九日付の手紙(第九章)である。

 

 「第二次パリ報告」に戻る。

日時不明(三月十六日ころ)

モンマニー 油で ざっとスケッチしたんや。

ワシ スケッチすると いつも思うんや 米子ハンのおかげやと。

油でスケッチ できるようになったんは 米子ハンのおかげやから。

ほんまにワシは 才能も何もない どないしようもない やつやった。

スケッチしてから 本画に入るのんも 米子はんが 教えてくれはった。

タブローとしては スケッチが よう出来てれば 本画が楽やねん。

今日スケッチ 四枚ばかり描いた。これは ほんまのこっちゃ。

今まで イシや山田に 百枚とか七百枚とか 大ほらふいたけど

それを これから描けば ええのんやね。イシにそない 云われて楽になったわ。

七百枚も描くの えらいこっちゃけど やるしかないわな。

イシの買うた フランの絵の具 ええみたいや。

伊藤博文みたいになればええ と云われて そやと思いました。

大木のでかいのは のぞみますわ。比例がでかくなるやろ。

モンマニーの画 届いたら イシは ええところやと云うて また来てくれますやろか。

ワシ 今は 黙ってやってみます。イシの云う通り 今は黙ってやってみます。

心配せんで下さい。

 

 ※絵の具とか伊藤博文は、我々には分からない。米子に離婚を言い渡した佐伯は、心機一転のためにモンマーニュに来た。だが、離婚のことを、周蔵にはまだ言い出せない。 

 

 昭和三年三月十七日

 今日が十七日やから、今日でモンマニに来て、三日になります。イシには早うしらせなあかんと、思うてますけど、何ちゅう(て)しらしたらええか、いまだ書けん事です。

 モンマニに来る朝、米子ハンと離別の事 決まりました。米子ハンは、兄さんと良サンと、荻須に相談するちゅう事でした。離別にあたっては、絵を五百枚欲しい云わはったけど その事、俺はいまだ返事してしまへん。日本に帰ってからにするつもりです。

 モンマニの朝の景色を色に出来ました。今までの茶を青にして、黒を濃い青にして、濃い茶を緑にして描いたのです。これから、この描き方やったろと思うのです。すがすがしい画になったように、思えるのです。

 

 ※佐伯が米子に告げた離別が、一応合意に達したのは三月十五日の朝であった。離別するなら、佐伯の原画を五百枚貰いたい、と峰子は云う。佐伯はそれには返答せず、日本に帰ってから返事すると答えた。米子の相談相手は、佐伯の兄の祐正と、由(良と当て字)、荻須の三人である。クラタ由(由江とも)は、牧野医師の看護婦上がりの愛人で、米子の友達であった。

 モンマニ風景は何枚か残っている。大阪の一流画商T氏が吉薗明子から入手したリンゴ畑の遠景は確かに清々しい朝の雰囲気をよく映している。拙著「天才画家[佐伯祐三]真贋事件の真相」の表紙は、油彩下書き用の薄手の画布を使ったものだが、出来がいたく佐伯の気に入ったようである。自分で完全に仕上げ、隠し文字でサインを入れた上、背面に「一九二八年早春 モンマニー風景」と自筆してある。遠路モンマニーまでは、本格画用の画布を持参しないで下書き用の画布に描くが、出来がよいと、そのまま本格画に仕上げてしまった訳である。                                

                                 (続く)

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