天才佐伯祐三の真相    Vol.12

 

    第十章 天才卒然と逝く

 

 第一節 身体に異常が

 モンマーニュの写生旅行から帰ってきた佐伯は、身体に異常を感じた。佐伯はそれを薩摩千代子宛のメモ(次節にあり)で、引っ越し直後あたりから、と云う。周蔵には、下記の手紙で訴えている。

 

(佐伯祐三書簡・三月十八日付)

豊多摩郡中野町中野−九六 吉薗周蔵様

一六二BOURG MONPARNASSE 巴里

命運尽きたり。右手が死んだ。我れ、クニにもどるべきや。

妻 この巴里に染むれば 我一人にて戻[る]べき

これも修業のうちか。なれば 今日も写生[に]逝く。これ惰性か。

来られたし。来られたし。

    佐伯祐三 一九二八 三月十八日

 

 ※この手紙の発信地が、相変わらずブールヴアール一六二番地なのは、二階のアトリエを佐伯が使って いるからである。佐伯は、突然右手がしびれた、と訴える。一体何が起こったのか? それでも勇をふるって、毎日写生に行く。それを、職業的惰性かとも考える。もう一つの手紙。

 

 (佐伯祐三書簡・三月二十日付・途中でちぎれており、後半部分のみ残る。前半部分は、武生市がとったコピーしかなく、一部判読しがたい)

この様な絵をどう思いますか。今はまだ医師にしか見せ[ら]れません。俺はあと どうして ■いるだ■■なら、アホをヂでいく事になります。

その様な己れはいやですので、今は医師の外に見せる人がいません。正直な事かいて返事下さい。

アンソル(ENSOR)という画家のものは二枚しか見てないけど、芸ジツ性を感じるのです。

今俺はこの感覚に傾倒しています。今までは広告の文字にひかれましたが、今は文字をはっきりと描かずに、そこに広告の文字が描かれていると分かるように、描くことをやってみたいです。

これは、アカデミックと再び■■前に戻ることはないと思いますが、俺にはその辺が よう

分かっとらへんから、今は医師が唯一の教師という事になりますので、仕方ないと思うて下さい。

  (中略)

それだから、悪かったら気にせんと、焼き捨てて下さい。ためしに送ります。

巴里郊外 モンマニー 巴里の町など 今は毎日、これにこってます。

          一九二八年三月二十日  佐伯祐三

                              ヤブへ

 ※アンソール風の作品十枚を送るから、周蔵の評を請う手紙である。その十枚に添えたのが、次のメモ。

 

(日時不明・荷物に入れたメモ)

ベーモント医師の家でアンソルを見て、俺の新しい画の目的としている。

これは駄作かもしれない。

俺はすごく気に入っている。十枚ばかり描いた。送ります。

ダメやったら、焼き捨てて下さい。

 

(佐伯祐三書簡・日付不明。差出地 5 RUE DE VANV FRANCE)

要約。今朝電報見ました。医師がパリを発たれてから、二十八日が過ぎました。あれから毎日写生しているが、今頃はいつも一人なので、市外にまで行きます。次のような写生行です。

一、サンピエール広場からの眺めを描いて見ました。

二、モンマニーへ行ってきました。ここの景色は思いの外、描けました。同じ所と三枚連作した。

三、ポンスリを描いてみました。

四、モンスニ通りを連作しました。

五、■ンユッサンと云うところ、行ってみました。

六、アンバリッドのドームを入れた巴里の眺めを描いて見ました。

七、田舎と村ばかり描いて見ました。

自分は、初心に戻りたい。大正十二年に始めて来たときに戻りたい。誰にも褒められないものを毎日描いています。それらをまとめて医師に送ります。今日で命運尽きた俺の 最後の画 送ります。黒にも白にも 囚われない今の俺の画です。さようなら                  

                             佐伯祐三

                  吉薗様

 

 ※まず日付の推理。周蔵がパリを発ったのは二月二十日ころ(前章参照)。とすると、その二十八日目は三月二十日ころとなる。モンマニーへ行ってきたとあることも、筋が通る。次に、発信地。5RUE DE VANV とあるのは、荻須が見つけてきた家である。朝日晃氏の作成した年譜には「四月下旬、リュ・ド・ヴァンヴ五の西向き四階三部屋の家へ越す」とあるが実は佐伯は三月十三日に引っ越していた。世間体から周囲には、四月下旬まで隠していたのである。「今頃はいつもひとりなので」とあるのは、米子が荻須のアパートに行ったきり、ということ。ひとりで写生行なら一見元気のようだが、「今日で命運尽きた」とは、ただならぬ文言である。右手のしびれ、目がよく見えない、という症状の物語るものは何なのか。

 死病を得たことを自覚した佐伯は、周蔵に三月十八日付で前記の手紙を出した。さらに、周蔵がパリに戻って来てくれるように、東京に打電した。然し、折返してきた返電は巻さんからのもので、周蔵の帰国は四月末頃の予定で今は連絡がつかない、とあった。佐伯は、その電報の着いた今日こそ己れの命運が尽きた日であると、覚ったのではないか。

 

(佐伯祐三メモ・三月下旬か)                                  ヤチはええ子や。やさしい子や。

イシに一つだけ 云うてへん事 あります。米子ハンと 兄さんは 昔からええ仲やったんです。

キクエさんは 二人の事知って 死なはったんです。ワシは 二人のこと知ったけど 死なん。

ワシは 今は死なん。今は まだ描けるから 死なん。

山田やイシの云うとおり やり抜けば きっと成功。だから死なん。

 

 ※佐伯は最期まで、キクエの死にこだわっていた。死なぬ死なぬといいながら、佐伯は一歩一歩死に近づいている。本人もそれを予知しながら、必死に死から逃れたがっている。

 

 日本近代絵画史上に忽然と現れた天才は、昭和三年三月中旬、異郷パリで、にわかに病気になった。症状は、本人のメモや書簡によれば、まず右手のしびれに始まり、舌がびりびりし、目がかすんで見えなくなった。それが一旦小康状態に戻り、また悪化、という経過を辿ったようである。

 従来の評伝では、三月末に風邪をこじらせ抜歯も影響して発熱したとするが、病名は定説なく、漠然と結核というが、今日に至るも明らかにされていない。阪本勝は、その間大喀血したと云うが、「周蔵遺書」では、吐血としている。その間も、とり憑かれたように、絵を描く佐伯祐三。

 

(日時不明)

今朝 画 丸めて送りました。届いたら開いてすぐ広げて下さい。

コモ三つにして 八十枚ばかり 入れました。友人に分けて下さい。俺はもうダメてす。

                      さようなら  佐伯祐三

 

 ※丸めて送ったのは、どんな絵だろうか? 描きたてを、絵の具が乾かない間に、吉薗に送り、この分は友人たちに分けてくれ、という。死を覚悟した佐伯は、もう迷うこともなく、どんどん描き進んでいく。

 

(日時不明)

この帳面に書いたように、ワシの画と 巴里で修業した事と 生きて来た事。

ヤチが大人になったら 話して下さい。

ワシはもうすぐ死ぬけど 米子ハンと荻須の事 許してやって下さい。

全部 ワシが悪いんやから わしの画頼みます。さようなら。

※死を覚った佐伯は、安心立命の境地か、責を己れに帰して、誰をも責めず、二人を許してやってくれ、という。佐伯には、今はヤチだけが気がかりである。そのヤチも病気だった。

 

 第二節 ドーリー

 古来、英雄はふさわしい女性から慕われる。わが天才の場合にも当然その人がいた。人形のような作られた美しさから、ドーリーと呼ばれ、パリ中の耳目を集めた薩摩治郎八の夫人千代子である。ブールヴアールのアバルトマンの二階のアトリエは、薩摩が千代子のために用意したものだが、米子から逃げ出してきた佐伯の第二アトリエになり、佐伯はここで独自の馬の目の画風を完成させていく。米子と暮らす三階から二階へ降りてくる佐伯は、ここへ通ってくる千代子と、しばしば置き手紙で通信していた。その幾つかを紹介する。

 

(昭和二年十二月十日)

たまには返事下さい。

             昭和二年十二月十日  佐伯祐三

(日時不明)

米子サンがしばらく留守やから、やちを置きに行かねばなりません。

モンマルトルの荻須なる男のところです。

時間があれば買い物頼みます。リンシード(以下略)

麻布も見ておいて下さい。

俺はやり抜きます。見ていて下さい。祐三

 

(日時不明)

新しい絵の具 買いに行ってきました。

白が新しいもん ありました。ためして見ます。

チタンという顔料だそうです。あとで。

 

(昭和二年十二月二十四日)

あなたが下にいつもいると思うから

俺は今やりぬく心があるのです。

あなたの純粋が好きです。

       愛

俺の愛を捧げます。

良いものかいてささげます。

       十二月二十四日  佐伯祐三

    千代子サマ

 

 ※前々日、佐伯は風邪を引いて寝ていた。それを心配した薩摩(おそらく治郎八)が、ロシア人のモデルを差し向けてくれた。そのロシア娘の絵の眼球に、佐伯は新製品のチタン白を用いた。

 

(昭和二年末)

荻須の事は心配ないと思います。前にパリに来たころの俺の画に良く似た タブロー描くのは

米子サンが描いてはるからやけど 心配ないです。

荻須は頭のええ男やから、その内はっきりさせるでしょう。

自分のもの 描かねばいかん事に 気が付くやろから、そしたら米子サンに 自分でしらすと思う。

それ迄 俺は気がつかん事がいいのです。

荻須がええもん描いても、心配しないで下さい。

荻須に負けたら、それは仕方ない事と思うています。

俺は 俺の画を描くときめたのです。

イシに、そないに腹をくくれと、云われました。そないに約束したのです。

そやから千代子さんも、心配せんで下さい。心配かけてすんません。

もうすぐ正月です。千代子サンはどこか行きますやろか。

なるべく行かないで下さい。近くにいて下さい。

 

 ※昭和二年十月にパリに着いた荻須は、年末すでに米子流の北画をこなし、第一次渡仏当時の佐伯(加筆画)の水準に迫ってきた。米子流の消化に関しては、素直な荻須の方が佐伯よりも上であったわけだ。

 

(昭和三年一月二日)

手紙読みました。恐ろしいなど思わないで下さい。  

今の俺は負けない、俺を信じてまっすぐにしていて下さい。

                    一月二日

             千代子サマ

 

(日時不明)

米子ハンはそういう女です。それで 前にも友達が死にました。

あの人の云うこと 聞かんようにして下さい。

絶対に心配しないで下さい。

※千代子が、米子から何か云われたらしい。

 

(日時不明)

この絵がきまったら ほんま俺のもんや。

明日できます 待ってて下さい。

 

(昭和三年五月九日付・「実は三月九日」か)

離別をするには、ここでは、よう出来んと、あん女が云います。

理由は、このアパルトマンには 見知った人が多いと、云うんです。口もきかん人やけど、一階にはスズキ、二階の この部屋の隣は 中西という人やし、藤田さんの友達もいるらしいし、米子ハンは見栄ちゅうもんがあると言います。 

荻須が家さがしたから、一旦そっちへ越してから、一人になって欲しい、と云います。

それで良いと、私は承知しました。

       ×   ×   ×

故に 一旦引っ越します。心配せんで下さい。ここは、このままにして置いて下さい。

イシには 自分で手紙書きますから。

薩摩さんには、そのように頼んでほしいのです。取りあえず引っ越します。

次のことは、それからです。離別して必ずすぐに戻りますから、よろしく頼みます。

   薩摩千代子様

                 昭和三年五月九日     

                              佐伯祐三

 

 ※引っ越しは四月下旬まで隠していたが、千代子はその前に知らされた。引っ越しの際、アパート三階の部屋を解約するには、正式借り主の薩摩の了承がいる。この手紙の趣旨は、薩摩の事後承諾を千代子に頼む処にあろう。むろんアトリエの置き手紙である。

 五月九日の日付はあるが、それでは筋が通りにくい。何しろ五月二日には、佐伯は周蔵の手配した病院に入っている。そこから千代子のアトリエに行ってこれを書いたとは、思いにくい。どうも、佐伯特有の日付の錯誤のようで、この日付をそのまま信じると危険である。健康問題に触れない内容からして、例えば三月九日なら、まったく筋が通るが、四月九日でも辛うじて筋が通る。とはいえ、史料の安易な読み替えは手控えたく、以上だけを注記しておく。

 これらの手紙は、佐伯の死後、二階アトリエの佐伯遺物一切とともに、薩摩千代子から周蔵に送られてきた荷物の内にあった。文中の薩摩の友人とは、誰のことであろうか。まさか熊岡ではないと思うが。

 

(日時不明・三月中旬と推定)

今日朝、俺は離別を決めました。米子サンに リベツの事 云いました。  

俺のリベツは、俺の画を もっと良くするためです。

米子サンから タブローのこと、口出しされないためです。

荻須と 千代子サンともへだてた 俺の仕事のためです。俺の命のためです。  

 

 ※最初は、別居するにせよ、米子風の画も描くことで折り合おうとしていた佐伯だったが、もはや画業の二本立てに耐えきれなくなった。米子風の絵はもう描く気もない。佐伯の新画風の樹立を、米子が認めないなら、別れるしかない。佐伯は今朝、それを米子に告げた。そのことを千代子に告げるメモと思われる。

 

(昭和三年四月二日)

×× 米子さんはヤチを嫌います。だから置いていきました。

やちのこと、しばらく頼めんでしょうか。

×× 俺一人ではどないもならんのです。

けど、今はリベツが先やと 思うのです。

たのみます。わかって下さい。

俺はやりぬきます。必ずやりぬきます。

たのみます。わかって下さい。

           昭和三年四月二日

    千代子さま      佐伯祐三

 

 ※佐伯夫婦がリュ・ド・ヴアンヴへ引っ越したきっかけは、離婚話を米子が切り出したからである。以前から米子は度々離別を持ち出して、佐伯を脅していた。今度も米子から言い出し、荻須が新居を見つけてきた。三月十三日に実質的に引っ越しをしたが、佐伯はまだ煮え切らず、結局佐伯が決心したのは十五日の朝で、すぐに単身モンマーニュに発つ。世間体のために、一応家族でヴアンヴへ引っ越し、そこから佐伯が出ていくという手筈で、引っ越しの公表も遅らせた。

 このため朝日晃など従来の評伝は、引っ越しを四月下旬とするが、荻須は、引っ越しの時には佐伯は元気で、ネクタイを締めて家主に挨拶に行ったと云うから、病臥以前であることは明らかである。里見勝蔵宛の五月二十三日付佐伯書簡(米子代筆)には、三月二十九日に病臥したとあるから、荻須の云う引っ越しは、三月二十九日以前ということになり、朝日説は破綻している。

 四月二日も世間には隠していた時期で、千代子に対しても、離別の内定を伏せていたのではないか。ところが、米子は弥智子を新居に置いたまま、モンマルトルの荻須のアパートへ行ってしまった。足手まといだからである。こうなると、惨めなのは男親で、円滑に離婚を済ますまでは辛抱するつもりで、ブールヴアールのアトリエへ弥智子を連れてきた佐伯は、会津藩の姫様に、子守を懇願する他に道はなかった。

 

(日時不明・四月中旬か)

引っ越しすぐあたりから、病気になりました。熱もあるようです。仕事のこと思っても、離別の事さきやと、気は急ぐけど、体がおかしいのです。イシに手紙書こか思うけど、今ちっと様子見て、と思ってます。

       ×  ×  

目がよう見えんのです。けど心配しないで下さい。すぐ治ると思います。

このアトリエの中の絵 万一米子ハンが取りに来たら、渡さんで下さい。

今日はどうしても、その事頼もと思って、来ました。

イシには必ず送って下さい。良くないもんは焼くように、話して下さい。 

俺の事どうか怒らんで下さい。

        千代子様  佐伯祐三

  

(日時不明・「パリ案内」への書き込み)

俺はまた狂ってきたのです。いけないと思うけど、心を止める事をできないで、困っています。

仕事の事で責めらるるより、辛いこころです。

     愛−−−千代子−−−祐三

               ユルシテ下サイ

 

(日時不明・佐伯祐三の書き込み・郵便配達夫を描いたデッサンの裏・四月末か)

俺は病中やから、ここんとこ、何も仕事せーへん。郵便届いて来たさかい、ポーズ取ってもらったのです。筆はなまってへんや。まーまーに描けました。その内送るさかい、人に画みせ[る]ときは、ニスを必ず掛けて下さい(中略)。ニス掛けると、俺の画がえろうに、よう見えるんです。熊谷さんに相談して、イシの手でやって下さい。山田でもできます。イシはやらん方がええかも知れんです。

  俺は病気や、今度は死ぬかしれん。

 

 ※この郵便配達夫の担当区域は、引っ越し先のリュ・ド・ヴァンヴではなく、ブールヴアールだった。四月末、佐伯が病身をおしてブールヴアールの二階アトリエに行った時、たまたま郵便を届けに来た、髭の美しい配達夫である。山口長男の回想だと、前年暮れに佐伯はこの髭の美しい郵便屋に目を付けていて、モデルを頼むことができたと喜んでいた。ところが、その配達夫を見たこともなく、真相を知らない米子は、評伝家に問われると「見てきたようなウソ」をついた。「その人は、後にも先にも、二度と姿を現さなかったことは、不思議なことでした」(「みずゑ」昭和三十二年二月号)などと神秘めかす。これを受けて俗流評伝家が、まるで死神の手紙の配達人のように修飾するのは、低俗文学の領域であるが、米子も彼らに劣らない。「これ(郵便屋)を描きあげてからは、また寝たり起きたりの日が続き、外出は出来ない状態でした。そんなとき、ふとアトリエの戸をノックする音に、開けてみると美しい華奢な女性が立っていて、モデルの用はないかと、おぼつかないフランス語で話しかけるのです。佐伯は喜んで翌日描く約束をすると、翌日はロシアの美しい色彩の祭り衣装を着て来ました」(佐伯米子・前掲)。

 次の日、ふらふらする身体で外出したと思うと、やがて二十号の「レストランの入り口」を描いて戻って来たが、それを投げ出すように、床の上に倒れたと、米子は回想する。佐伯の絶筆が何かは評伝家の当然気にするところで、当初は、米子と里見が「レストランの入り口」をそれだと言っていた。上の回想によるものである。ところが、前にも述べたように、四年後には、米子が前言を翻して、描いた順序を入れ替えたため、今は「郵便配達夫」が絶筆とされている。このあたりの米子の曖昧さには、祖述者の朝日晃ですら、危ながっているようである。いずれにせよ、米子の説に立てば、描いた場所はリュ・ド・ヴァンヴでしかあり得ないのだが、さて真相はどうか。   

 

 (日時不明・五月二日か・「パリ案内」の地図の扉に)

  今日この前の画を仕上げました。郵便やは四枚とも仕上げました。

  おわりにあなたの事描いてみました。郵便やは一枚づつ仕上げたから

  おのおの色が異なっているかも知れないのです。

  自分はいま目が見えないのです。あっちへ移ってから、身体が悪くなって、

  今では舌がビリビリして、味がしみるだけで、ものも食えないのです。

  そして目も見えないのです。色がよくわからないのです。

  今日イシに手紙かきました。イシが迎えに来てくれるのを待ちます。

  もうここへは来れないから、画はまとめて、三井でイシのとこへ送って下さい。

  かわいたら送って下さい。

 ※佐伯の身体にはすでに毒が回り、感覚が麻痺していた。色彩感覚もやちられているから、四枚それぞれ色が違うかも知れないと嘆く。描いた場所(すなわち「ここ」)は、ブールヴアールの二階のアトリエである。佐伯は病身を励ましてリュ・ド・ヴアンヴから、ブールヴアールアのアトリエに来て、郵便屋を描き、さらに最後に千代子像を描いた。日付の特定だが、文中にいう手紙は、後述の五(八)月二日付の周蔵宛書簡と見るしかない。つまり、佐伯は周蔵に病院を手配して貰うや、最後の力を振り絞り、千代子の思い出残るアトリエに来て「郵便屋」の仕上げをしたが、最後の最後には、愛する薩摩千代子の肖像を描いた。佐伯の絶筆は、したがって「薩摩千代子像」である。アトリエで描いた周蔵宛の手紙は、錯乱状態のなかで、日付を八月二日にしてしまった。 

 千代子の母性愛をくすぐるような、佐伯の数々の愛の言葉に対し、千代子は手紙では返事をしなかったようである。

 

 第三節 天才の末期

 佐伯は、リュ・ド・ヴァンヴに引っ越した三月中旬頃から体調を崩し、周蔵の来仏を願うが、周蔵はその時にはシベリアを回っており、四月末に東京に着く予定だったから、連絡のしようもない。迫り来る死への不安におびえながら、最後の勇を振るって、佐伯は毎日描いていた。帰国して佐伯の手紙を読んだ周蔵が打った手は、在仏日本人医師の紹介であるが、誰をどう紹介したのか、詳細は判らない。

 

(書簡・五月二日受付印・到着七月一日・周蔵の字にて、書き込み有り)

本文要約。日本からの病院の手配して貰う俺を 俺は何と思えば良いいのか。

俺はパリに来て、思い切り絵をやった。もう俺はダメやろう。先に発たして貰います。

今、俺は何を思うかというと、藤田さんをエライと思う。あの人には欲がある。ああでないと

イカンのかも知れん。

終わりがないから、病院で静かにしています。さよなら。 一九二八年八月二日

(裏面)でも俺は、藤田はきらいだ。ああは生きられん。

                       [周蔵の書き込み]

 

 坂本という医師に転院したため、誤診と病院の治療の誤ちから、病気が悪化し、死亡したものと思える。交錯状態があるように思える。この手紙は七月一日に届いたものだが、中に八月二日と記されている。また、別便で届いた書票にも、八月の日付が記されている。思考錯誤の状態と思える。

 ※周蔵は四月下旬に東京に帰り、佐伯の急病を知って驚く。早速、国際電報で藤田か薩摩に頼んで、病院の手配をさせた。名は伝わらぬが、多分ネケル医師の関係する病院と思われる。それに対して、五月二日付のこの礼状となった。佐伯がここで、藤田嗣治にこだわっているのは、直前に何かで藤田との接触があったからだ。

 吉薗資料の中に、ドイツ語の手紙が二通ある。筆跡も用紙もすべてジョルジュ・ネケル氏の大正十三年十一月十二日付周蔵宛て書簡と同一である。そのうち、五月二十九日付書簡の略訳は次の通り。

 

 サエキ・ユゾウ氏に関する報告。

 患者は心の安定を失っている。精神病ではないが、心が荒廃している状況にある。治療を求めているが、打開策はない。今、彼を助けることが出来るのは神だけである。彼が今熱烈に望んでいるのは生きることであり、必要とするのは生きる力である。

 彼は長期間孤独であり、闇の中で必死で戦ってきた。命(Leben)と愛(L i e b e)が彼のキーワードであるが、彼自身幻滅を味わい、周囲を騙したのであった。彼にとって、愛は女性を意味し、女性は妻を意味したが、それは悲劇的な結果であった。妻の助けにより、彼は花開いたが、彼自身の力によるものではなかったため、妻は彼を底なし沼に引き込んだ。なぜ彼女はそんなことをしたのか? お金のためなのか? 私は彼女の動機が理解できない。

 彼は自己本来の可能性に目覚めたが、遅すぎた。妻はそれを認めようとせず、離婚すると脅かした。彼は気が弱く、嘘をついてその場を凌いだ。世間に嘘は必要だと、彼は確信していた。

 彼が究極的にやり遂げたかったのは、妻とともに愛のある暮らしを送ることであった。なぜ彼がそれを望んだのか、私にとっては謎である。その暮らしの中の夢がなかったら、彼を助けることが出来たであろうに。 もし、妻と別れさせることができたら、才能の華を咲かせることが出来たであろうに。

 その理由は、彼は本当に自分自身で達成する力を持っていたからである。彼は自分の誤りがどこにあったかに気づいたのであった。

 しかし、それは短期間で終わってしまった。妻と友人たちは彼を認めなかった。特に妻と男友達の一人はそれに反対した。妻はこの男友達に対し、夫以上に信頼の情を持っているような印象を受けた。妻とこの友人は常に行動を共にし、私の行動を見張っていた。彼らは、私が一人だけで患者と会うのを許さない。

 妻の、このようなネガティブな態度は、患者自身の努力の結果が作品に現れ始めたからである。 妻は、二つの別々の真実/純粋は存在してはならない、と言いたかったらしいが、この美学は私の理解を超えるところにある。私は患者に対し、「妻の意見がそんなに通用するものではない」と言って勇気づけたが、結果は明らかになった。患者は負けた。私の努力が無に帰したのは残念である。後見人としての貴方に幸福と健康を祈る。敬具

        ジョルジュ・ネケル

                         ヨシソノ様

           29・5・1928  

 

 ※ジョルジュ・ネクルとは、周蔵が大正六年ケルン大学で知り合った医師で、小児科で有名なネケル病院の息子だという。だが、この手紙は、「コード名ネケル氏」すなわち藤田嗣治が周蔵に出したものである。ネケル医師(多分グドゲの方)が内容をしたため、誰かが独訳して、藤田が周蔵に送信したのである。

 大意は、そもそも佐伯の命がここに至った経緯を述べているが、その内容は、佐伯が「第二次パリ報告」で言うのとほとんど変わらない。総括すれば、佐伯が独自の「馬の目」画風を完成したことが妻の冷たい態度をもたらし、それが佐伯の病状に直結している、と判断している。さらに、米子と荻須が、ネケル医師を異常に警戒し、結果として佐伯は負け、ネケルの努力は無に帰した、という。問題の焦点は、佐伯の画業のあり方が、なぜ佐伯の病気と直接関連するのか、という処にある。

 米子と荻須が、ネケル医師の行動を見張ったり、一人では会わせないというのは、ネケル医師の病院内では不可能であろうから、佐伯はすでに自宅にいたと見るほかない。佐伯の病臥が友人の間に伝わると、米子は例の世間体から夫婦愛を仮装せねばならず、病人をリュ・ド・ヴァンヴに引き取り、看病を始めた。

 佐伯は佐伯で、すでに覚悟を決めていた。佐伯と米子との間に深刻な葛藤があったが、佐伯は病臥するや一切を許した。そのことは前掲書簡、メモ等でも充分察することが出来る。だが、そのような真相を、米子はできるだけ周囲に隠した。これでは、評伝家が惑わされたのも、仕方がなかろう。

 

(六月二日・吉薗周蔵宛の佐伯メモ・絵画の写真の裏面に書き込む) 

俺は病気にとりつかれてしまいました。今度の病は、今までのもんと違って、ほんまの病気です。

今度はほんまに、俺は死ぬと思います。昨日、巴里に来た山田の夢を見ました。

医師はまだ来てくれられんでしょうか。山田に早く会いたいのです。山田に会って、話さんならん事が、山ほどあるのです。

山田が間に合わなんだときのために、俺はこれを書きます。やり残しが苦しくて、死んでも死に切れんさかい、書き置きします。

イシと作った画布は一番やった。気に入ったもんも描いた。山田に届けて貰います。けど、一つだけ気になる事があります。あの画布と、仕上げにニスを塗る一回の、次のもう一回、必ず塗って下さい。ニスは乾いたらもう一回塗るのです。

これが俺の発見した俺の画風です。前に送ったもんの中に、ニスの仕上げしてへんもんが、ぎょうさんあります。俺はもう、やることができませんさかい、イシが仕上げのニス塗りして下さい。山田が来てくれたら山田に、日本へ帰った時、やりに行くよう頼みます。

イシはぶきっちょさかいに、やったらあかんで。残りの絵は、山田に届けてくれるように、頼みます。ヤチも苦しそうに寝ています。イシが早く来てくれますように。            

                           六月二日

 

 ※四月末に帰国して佐伯の病臥を知った周蔵は驚くが、自身舌ガンを患っており、再度の渡仏は到底無理なので、急遽日本から病院を手配してやった。病院は、多分ネケル医師が関係する病院ではないかと思われる。佐伯は、五月二日にブールヴアールのアトリエへ行って、「郵便配達夫」の仕上げをし、薩摩千代子の絵を描き、さらに「八月二日付の手紙」をアトリエで書いた。それから周蔵が手配してくれた病院に入院した。その根拠は、その手紙の中で「終わりがないから、病院で静かにしています」との文面が入院前と受け取れるからである。あるいは、これは未来形であり、事実は別の展開(つまり、最初から自宅療養)をしていたのかも知れぬ。ずれにせよ、六月二日には、佐伯は リュ・ド・ヴ アンヴの自宅で寝ていた。

 もう一つ注目したいのは、佐伯が「イシと作った画布」と言っている点である。「周蔵手記」にはこれまで記載が見つからぬが、周蔵や藤根たちが、帰国時代の佐伯の画布研究を手伝ってやったことを証明している(佐伯は藤根と布施の行為を周蔵とみなしている)。 

 周蔵は、前掲五月二日投函の佐伯書簡に、「坂本という医師に転院したため、誤診と病院の治療の誤ち」があったと、書き加えている。ここで「坂本という医師」とは、当時パリ大学付属病院で精神医学を研究していた坂本三郎である。周蔵の指摘は、それまでの医師が佐伯を精神病的症状と診断したので、坂本という精神科医に代わったが、坂本医師は意識混濁の原因を精神病と診断して精神病院に転院させた、という意味であろう。それでは、「誤診と病院の治療の過ち」とは何を指すのか。従来の評伝を見てみよう。

 六月四日、佐伯の親友山田新一がパリに着いた。シベリア鉄道で来た山田は、途中のモスクワから電報を打って置いたが、パリ北駅の駅頭に親友の姿を見なかった時、ただならぬ寂しさを感じた。さらに佐伯が病臥してすでに二月余りと聞き、いよいよ胸騒ぎがし、旅宿に荷物を置く暇もなく、リュ・ド・ヴアンヴの佐伯のアパートへ向かった。

 病床には、ひどくやつれて眼窩の落ち窪んだ佐伯がいた。山田は佐伯に死相を感じた。アパートへ毎晩来て看護していたのは、椎名其二であった。フアーブルの「昆虫記」の完訳者として知られている椎名は明治二十年に角館に生まれ、渡米してミズリー州立大学の新聞科を出たが、大正二年に渡仏して無政府主義者になる。大正十一年マリー夫人を伴って帰国し、早稲田大学文学部の講師になるが、夫人は渡仏前の佐伯にフランス語を教えた。無政府思想のために日本に居づらくなった椎名は、昭和二年ふたたび渡仏し、パリでも佐伯と親交があった。

 このころ、佐伯は日本医師数人の診断を受けていた。最初の診療は五月で、中山巍が紹介したパスツール研究所の中村拓であるという(阪本勝「佐伯祐三」)。中村が「これ位ならば治ると、南仏への転地を勧めた」と云ったのは、さほど重くない結核と診断したのであろう。もっとも、阪本が「それから親切なフランス人の探してくれたヴァンヴの安アパートに、荷物を置くために移った」とするあたり、まるきり米子説話の祖述であって、南仏転地の話もすぐには信じられない。

次が佐藤淳一医師。この人は東大稲田内科の医局長だったが、助教授を目前にしながら、フランスへ私費留学してきた内科の臨床医である。山田は、佐藤はもともと弥智子の結核の医者だったが、死にたいと漏らすようになった佐伯が、「お前は俺が死のうとするのをじゃまするのか」と中村医師を殴ったために手を引き、代わりに友人たちが佐藤医師に頼んだという。しかし、阪本勝は、佐藤医師が佐伯と結びつく線が判らないと言う。米子が真相を教えない以上、それも無理もない。なお、阪本は、佐藤が女子医専教授だったという説も紹介しているが、それなら額田兄弟の配下であり、周蔵とは関係があって当然である。佐藤医師が弥智子の診療を頼まれたのは、周蔵の線だと、私には思える。

 その佐藤医師が渡仏の際に同船したのが、精神科医の坂本三郎医師である(阪本勝は「阪本」とするが、一応「坂本」としておく)。二人は、毎日船上で話し合い、佐藤は当時まだ珍しかった精神医学の話を聞いたということである。

 もう一人の宮田重雄は、医師兼画家で、もともと佐伯の友人であり、宮田医師が坂本三郎を最初に佐伯のアトリエに同行してきた(阪本勝の言)。しかしながら、宮本医師自身、どうして坂本医師と知り合ったか記憶にない、と言明していた由。以上四人の医師がそれぞれ果たした役割を、従来の評伝家はなんとか描きだそうとするが、何度読んでもよく判らない。大本が抜けているようだ。

 ここで、もう一つのネケル書簡を披いてみよう。六月十二日付で、内容を翻訳すると、次の通り。

 

 サエキ・ユゾウ氏の健康状態と病状に関する現在の短い報告

 結核と内科的な病気については、病状は進行しておらず、心配はない。患者は罪悪感からくる強迫観念が発達し、夫人と友人たちに、もはや信頼を置いていない。夫人と友人たちは、おそらく方策を見い出せないだろう。患者はサカモト医師やナカムラ医師にも診て貰っているが、彼らは内科医なので、精神的な安定化をもたらしうる可能性はあまりないだろう。患者は看病人を信用していないので、治療に長い時間を要することは確実であろう。患者は、夫人と友人たちから後を追われていると信じており、精神状態はさらに悪化することが見込まれる。

 私は、これ以上の治療を、夫人から禁じられてしまったのが残念だ。また、彼の娘の治療も禁止された。娘は別の病気で、明らかに薬物中毒に陥っており、症状は重篤と見るべきである。

 私はあなた方を助けられないことを、とても残念に思っています。これで報告を終わります。

                             敬具 

                          ジョルジュ・ネケル

   ヨシソノ様へ 12.6.1928

 

 この手紙は、佐伯の病気を精神的なものと診断している。内科医のナカムラ医師やサカモト医師(ここでは内科医とされている)では、有効な手が打てないだろうと云いつつ、米子から診療を禁じられたことを残念がる。弥智子も別の病気に罹っていた。それは明らかに薬物中毒で、症状は重体だというのである。このネケルは文面内容からして精神科医であるが、本名グドゲのネケルなのか?)。

 ところが、米子は後年「悲しみのパリ」(「婦人の友」昭和三十年九月号)で、弥智子の病気について、次のように書いている。「祐三が入院しましてから、母娘は最初のグランゾムのホテルに戻りましたが、弥智子はそこで寝ておりました。はじめは日本人の医師に診ていただいておりましたが、そのころ、小児科の名医として知られたフランス人の方にも診ていただきました。その方は、弥智子を診察なさった後、私に納得のいくように、レントゲン写真を見せて、『お子さんは私が夏の旅行から帰って来るまでは生きて居られないでしょう』といわれるのでした」

 レントゲン写真は結核の説明に使われる。つまり米子は、娘の病気が結核であった、と主張しているのである。祐三の入院は二十三日だから、十二日には佐伯一家はまだリュ・ド・ヴァンヴのアパートにいた。当時、弥智子を診ていたのは、佐藤淳一であった(上述佐藤医師の条を参照)。その後に診てくれたフランス人医師は「小児科の名医として知られた」とあるからには、ネケル小児科医院の筈であるが、本物のネケル医師だったのだろうか?

 精神科医ネケルは、十二日より以前に、米子から、佐伯と弥智子について、それ以上の治療を禁じられたとしている。だから、ネケルの診察は、祐三が入院する前のことで、米子のいうような佐伯入院の後ではない。精神科医ネケル(多分グドゲ)の手紙の内容が正しいことは当然だが、それに対して、米子はアリバイを作ったのか、あるいは、その頃になってから、本物の小児科医ネケルに診て貰ったのか?

 ネケル医師が周蔵に書簡を書いた翌日、六月十三日には芹沢光治良が、佐伯を見舞った。その部屋には、大勢の日本人の男たちが押し掛け、まるで佐伯の死を待っているようで、中村博士もいた、という(「カンバス日本の名画二十三佐伯祐三」)。この時点では、中村医師はまだ手を引いていなかった。

 周蔵は、佐伯の書簡(五月二日)に書き込みして、重大な誤診があったと指摘している。誰がどう誤診したのかは、はっきりしない。だが、佐伯の症状は、結核でも内科的なものでもなく、精神科的なものであったことは確かであろう。しからば、精神病の原因そのものがどこにあったか?

 周蔵は、そこにこそ誤診があった、と言いたいようである。椎名、山田を筆頭に友人たちが毎日訪れ、医師が往診していたが、そのうち佐伯には顕著な妄想状態が現れた。中村が手を引いた後を、友人たちの要請で引き受けた坂本医師は、宮田医師に伴われ、リュ・ド・ヴァンヴの佐伯家に行った。それは宮田医師の回顧談によると、佐伯の家出(六月二十日)から一週間ほど遡る頃というが、六月十二日付ネケル医師の書簡に、すでにサカモト医師の名があるから、もう少し前である(ネケル医師はサカモトを内科医と間違っているが、これはミヤタと取り違えたのかもしれない)。

 「宮田君とだけなら会うが、医者には会わん」という佐伯に、一言もしゃべらない約束で、坂本医師は入室した。病床の佐伯は天井を見上げて時々「お父さん」と叫ぶので、幻覚幻聴とみた坂本が、思わず「食欲がありますか?」と尋ねたところ、約束違反と佐伯は怒りだした。この初対面で坂本医師は、佐伯を精神分裂症と判断した(宮田医師の書簡)。ここに誤診があったのだが、中村医師や坂本医師に対する佐伯のかたくなな態度は、病気の真因を覚られないためではないかと、私は思う。関係者を庇うためである。

 その後も、佐伯の精神病的兆候が高進していくように見えたので、診療は専門医の坂本三郎に任されるようになった。友人たちは毎日、枕元にいた。

 

 第四節 首に索溝

 それから数日して、六且二十日、佐伯はリュ・ド・ヴァンヴの自宅から失踪する。その日の模様は、従来の評伝が得意とする処であるが、米子と山口長男の証言が食い違っていて、何が本当なのか判らない。そんなものを詮索しても仕方ないことが後に判るから、ここは一応、四十年経った後、荻須高徳が、当時付けていた日記を発見して米子に報告したという、当日のメモ(阪本勝「佐伯祐三」)だけを見てみよう。 

 十九日夜を徹夜のつもりで、佐伯の病室の隣の部屋にいたのは、山田新一、山口長男、荻須と椎名の友人室本なる男の四人で、朝の四時まで話していたが、早朝うとうとしていたとき、米子のあわただしい声でみな飛び起きた。佐伯の姿が消えていた。

 手分けして調べるが、何の手懸かりもなく、一同リュ・ド・ヴァンヴに戻ってきたら、夜八時ころ、パックスホテルに先月から泊まっている二瓶夫妻がやってきて、「今朝僕の処に佐伯が来た。ホテルのマダムに五フラン借りて、クラマールへ行くと言った」という。急ぎホテルに行くと、マダムは佐伯の手紙を見せた。「米子を愛している。パックスで五フラン借りるから、返してくれ」との内容であった。米子ら数人が ヴァンヴの家に引き返し、荻須らはタクシーでクラマールへ向かう。クラマール役場前のキャフエで顔合わせしたときには、総勢十二人いた。一同がクラマールに向かって走っているとき、ブローニュ警察から佐伯宅へ電話が入っていた。「森に倒れていた佐伯を保護してあるから迎えに来い」とのことであった。警察で見た佐伯は、護符を首にかけて、水の入ったコップを拝んでいた、と伝えられている。

 翌二十一日早朝、一同がクラマールへ再捜索に行こうとしている処へ、大橋が「佐伯が見つかった」との知らせを持ってきた。ただちに佐伯宅に行くと、佐伯は客間に寝かされていた。

 二十二日、椎名が一日中、病院捜しをしたが、今日中入院の運びに至らず。

 二十三日、病院車が迎えに来て、米子の他に椎名、荻須が便乗して病院へ行く。

 ここで問題は、警察で見つかった佐伯の首に、無惨な索溝があったことである。これをはっきりと証言したのは、山田新一と伊藤慶之助であった。他はこれを否定するか、或いはあったかも知れないと言うだけの画家たちで、中で最も否定的だったのは米子である。

 阪本は幾つかの心証を並べたうえ、縊死未遂はあり得ない、と断定する(阪本勝「佐伯祐三」)。それでは、なぜ首に索溝ありという恐ろしい噂が流れたのか。これを調べようとした阪本は、荻須から、前田寛治が「中央芸術」に書いた一文が原因と聞かされる。一件は、小寺健吉→中山巍→前田と伝わったが、火元の小寺は、誰かからの伝聞だが、相手が判らないという。つまり、佐伯の失踪の夜、若い画家の誰かが、「佐伯さんは首でも吊ったのではないか」と言ったところ、興奮している若い画家たちは「佐伯が首を吊った」と早合点してしまい、互いに言いふらすうちに、本当のことになってしまったのだ、と阪本は断定した。失踪の動機も、芸術的焦慮による、と推定している。

 阪本とは正反対に、山田新一、椎名、朝日晃は首の回りの傷痕の存在を認めている。山田は自らはっきり見たと云い、椎名は佐伯自身から聞いた自殺未遂の模様を書き残している。朝日は根拠を明示しない。結局天才の末期に当たって椎名が一番立ち働き、これには山田も感嘆している。

 失踪から帰った佐伯は狂乱状態であったが、その傍らには、常に山田と椎名がいた。佐伯自身は狂乱状態であったにも関わらず、瞬時冷静になり、二人を前に反省、悔恨、懺悔をした。ことに米子に云いにくい一事を、二人に明かした。山田によると、それは帰国時代に出来たある女性との関係である。相手は周蔵の住んでいた幡ヶ谷の隣家管野家(仮名)の妻君で通称 由利子(本名フミ?)のことと考えられる。山田は、「今日も尚、存命であり、立派な主婦として幾多の子女を育て上げたこの女性のひととなりを知っているだけに、ここに詳しく記すことを憚る」としている。調べたところ、 フミは最近まで存命だった。しかし、「周蔵手記」には「自殺サレタリ」とあり、誰かが死んだことは間違いないようだが、これ以上詮索すべきではあるまい。

 これら佐伯の失踪に関わる真相の一端は、いずれ後述するが、しばらくは従来の評伝にしたがって、天才の死去までを見ていこう。阪本によれば、坂本三郎博士の折衝により、佐伯はセーヌ県立エブラール精神病院に収容されることになり、六月二十三日、ヴァンヴの家から運ばれた。一方、朝日晃は、椎名が佐藤淳一医師と相談のうえ奔走して、同病院に入院手続きを済ませた、と違うことをいうが、真実は知りがたい。

 精神病院ともあれば、厳しい規則により、一般見舞客が入室することはできず、妻女とて簡単に入ることができないという説が、後に日本で流れた。たしかに米子は臨終の席にいなかったし、佐伯の周囲にあれだけいた友人たちはほとんど病院に佐伯を見舞っていないのだが、この説は米子と友人たちの言い訳で、現に山田と椎名は何度も見舞っていた。山田は、佐藤淳一博士や椎名と同道して、数回も佐伯の病床を見舞ったと述べているが、最後が佐藤医師と同道した八月十四日で、この日は弥智子の見舞いから転じて病院へ訪問となったものであった(山田新一「素顔の佐伯祐三」)。二人が天才の最後を見た日本人になった。

 看護人によれば、佐伯は八月十五日の夜を一人でさめざめと泣き明かし、翌日午前十一時に、誰にも看取られることなく、一人で世を去った。山田は死因を医者から聞き、入院日からの食事拒絶のための衰弱死、と明言している。察するところ、病院規則説は、山田らの発表した佐伯看病記の信用を失墜させる目的のため流布されたもので、発源地が米子とその周辺であることは疑いを容れない。真相の暴露をおそれる米子周辺の意思がこんなところにまで、強く働いている。俗流評伝はそれを何ら批判することなく、安易に祖述したものである。そこに私があえて「俗流」の名を冠する所以がある。

 佐伯の失踪事件の後、米子と病気の弥智子の母娘が、椎名の手配により、リュ・ド・ヴァンヴの家から諸事便利なオテル・グランゾンムの一室に移ったのは、夫と娘を掛け持ちで看病せねばならぬ米子のためである。米子はネケル医師に診せたことは隠さないが、診療を拒否したこと及びその理由を伏せた。いずれにせよ、主治医は再び佐藤医師に戻り、オテル・グランゾンムで弥智子を診療したのは、近隣に住む佐藤医師であった。だからこそ山田は八月十四日、弥智子を診た後の佐藤医師に同道を請い、精神病院に佐伯を見舞ったのである。

 半月後の八月三十日、薄倖の少女は、オテル・グランゾンムで父の後を追った。椎名は死因を結核としている。しかし、ネケル医師(グドゲか?)は、弥智子を薬物中毒の重症と診断していた。その診断を流布されることを避けるために、米子はネケルの診療を拒否したのではなかろうか。

 真相を確認するには、まず「周蔵手記」を開くほかない。「周蔵手記」昭和三年十月末条には、次のように記す(第一項だけ、かな、漢字は改めた)。

 

佐伯死亡のこと 佐伯の兄より聞く。

○詳しくは分らないが 病死のやふだとのこと。

大谷さんは 佐伯は 予定とは別、自分で行動したることが 分ったので、フランスへ行く前に切った とのことである。予定外ノ行動トハ何カ、と問ふと、プロレタリアの派に転向したらしく、妻君から そのことを伝へてきている とのこと。 

△自分が見ていた限り、ブロレタリアなどとは縁が薄いと思ふ と云ふ。確かに 徳田球一の他に自分が聞いている限り その方向の小説家とつきあいのことは 聞いているが、妻君が つきあいのことはさばいていたと思ふるがと云ふ。

 

 ※プロレタリア作家が誰を指すか分からぬが、椎名は間違いなく無政府主義者である。周蔵が佐伯の「予定外行動」の真相を知るのは後年のことである。

 

△兄モ トップリト サレニツカッテヰルトハ 信ヂラレナヒ ト云フ。

自分ハ 佐伯ハ サンナニ 芯ノ強ヒ人間トハ思ヘナヒガ、フランスデハ 少ナクトモ 絵デ上ラフトスル 芯ノ強サヲ見セテヰタ。妻君ヤリ、薩摩ノ妻君ニ 色気ヲ持ッタト思フカラ、絵ノコトダケ 考ヘテヰルフウダッタ ト云フ。

兄ガ云フニ 日本ニヲルトキモ 兄ノ妻君ニ 兄嫁以上ノ甘サデ頼ッテヲリ サンナ プロレタリア ナドト云フ 確タル意識ハナカッタト思フ ト云フ。

然シ、マフ死ンダモノ ショーモナヒ トノコトデアッタ。

大谷サンハ マッタク、佐伯ノコトナド 意識下ニナク、サレ以上ノ追求ハ 難シカッタ。

 妻君ハ 海デハナカッタノカ?

 

 ※周蔵は祐正に会う前に大谷光瑞に会っている。ところが、光瑞師は、佐伯のことなどまったく意識下になく、それ以上追究しても、何も出そうもなかった。そこで佐伯の兄に会ったのである。プロレタリアの件は兄も同意見だが、「もう死んだものはしようもない」という。

 この一言に周蔵は疑問を感じた。米子を海軍筋とばかり決めていたが、そうではなかったのか? 

 これは佐伯の死に光瑞師の意思が関わっているのかと疑い、とすると米子は大谷の手下だったのか、という疑問であろう。周蔵はすでに佐伯の死因を探知していた。

 佐伯と弥智子の仮の弔いを、現地で済ました米子が、遺骨を抱いて帰国したのは十月三十一日だった。光徳寺での告別式は十一月五日と決まる。米子は告別式の案内状を幡ヶ谷の周蔵宅に届けるが、留守だったので、手紙を置いていった。その中で「あんな遠い、それも気違いばかりの病院で、私の差し出すもの何一つ食べず、死にましたのよ」と明言している。故に、病院規則説は嘘で、米子が介抱をしに行っても、佐伯の方が拒否した。しかも、米子の料理を嫌ったのである。山田のいう衰弱死が正しい。

 

 再び、「周蔵手記」の昭和四年九月条。

 藤田氏帰国サル(中略)。

 幡ヶ谷ニ寄ラレ、薩摩ノコト聞ク。マヅハ 薩摩ニ文化事業ヲアテタコトハ、金ヲ使フニ最良ダッタトノコト。アンタハ資金援助シタラシヒガ、自分ハ絵ヲ描ヒタヨ、トノコトデアル。

△薩摩ニ対シテハ 逆ラフ方策ヲトルカラ、サノツモリデヰテクレ ト云ハル。(中略)

薩摩ハ バカダカラ 金ヲ使フコトニ意義ガアルノダカラ、アマリ細カクナラナクトモ、薩摩ニ対シテハ 大丈夫ダヨ(中略)。

藤田氏ガ 思ヒダシタヤフニ 薩摩カラ 日本ニ行クナラ 預ッタ佐伯ノ絵ハ ヤット乾ヒタカラ 折ヲ見テ送ルト 言ヅカッタ ト云ハル。

サカデ、佐伯ノ死ノコト 耳ニシテヰルコトアルカ ト問フ。

聞ヒテハヰルガ アレハ 誰カニヤラレサフニナッテ 家ヲ飛ビ出シタラシヒ トノコト。

 

 ※藤田嗣治が久しぶりに帰国したのは、張作林爆殺後の日本陸軍の方向を確認しに来たのである。幡ヶ谷の周蔵宅を訪れた藤田に、周蔵は早速薩摩のことを聞く。それで思い出して、藤田は、「佐伯の絵がやっと乾いたから送る」という、薩摩の言づてを伝えた。佐伯の名が出たのを見計らって、周蔵は佐伯の死亡の経緯を聞き出そうとする。藤田は、あれは自分も聞いているが、「誰かにやられそうになって、家を飛び出したらしい」と云う。

 索溝の痕は、友人たちが佐伯を査問にかけたとき、誰かが脅かしのために、佐伯の首に縄を巻いたものらしい。異郷で閉鎖社会を作って集団生活をしている若い画家たちの心情として、芸術と思想との違いはあるが、戦後の赤軍派などと比較しても、ありそうなことである。他の友人たちが否定する索溝の存在を、山田新一だけが強く主張するのは、山田だけが共犯心理を抱いていないからである。ことによると、山田は秘かに佐伯の脱出を助けたのかもしれない。

 

(「周蔵手記」以後要約)

 そこで周蔵は、「救命院日誌」を取り出した。「これは佐伯に書いて欲しいと云われて、自分が記帳してきたものである。佐伯が死んだことを聞いて、これを大谷光瑞師に届けた。ところが、大谷師は読むどころか袋から出しもせず、『あいつはダメだよ。迷惑をかけたね』と云われただけであった。兄の祐正にも会ってみたが、『弟がああなって、自分は立場上困っているが、さいわい光瑞猊下は自分のことを信用してくれているから』と曖昧なことを云われて、終わった」と告げたうえ「佐伯はこの記帳に対して一種の情念があった。内容を何度も書き直し、前後を入れ替えてまた書き換えるという、執拗なところがあった。少なくとも、佐伯にとっては何らかの目的があったと思う。それを考えてみて欲しい」と頼んだ。さらに「何のために佐伯は、パリの生活の内容をこのように書いたのか、不思議だ。全く無いことを書いている場合の方が多い」と付け加えた。

 藤田は、読みにくい「救命院日誌」を読んでくれたが、「佐伯のことは結局分からない。実の処よく知らないが、佐伯は友人たちから憎まれたのではないか」と云う。藤田が言うには、「聞くところによると、佐伯は街頭に出ていることが多く、いかにも絵を描いているようにカンバスを立ててはいるのだが、実際その絵を見たという人はいない。カンバスを立ててはいるが、中の絵をのぞかしてくれた事は、郊外写生でたった一回あっただけだ、と仲間の数人が言っているそうだ。これを自分に伝えた荻須という男は真面目で、自分は信用しており、陰で面倒も見ている。あの寒い冬の間も、佐伯は雪の中を街頭で写生していたが、薩摩に聞くと、雪の絵はなかったとのことだった。

 自分は、佐伯は薩摩と同じだと思っている。兄が大谷の手伝いをするのを見て、真似をしたかったのではないか。大谷がこの日誌を要らないというのは、意味がないからだ。佐伯は、仲間から突然憎まれた。理由は丁度これ(日誌)だよ。つまり、佐伯は毎日友人たちの行動を記帳していた。それを見てしまった人間がいて、そのことで佐伯を憎んだようだ。それで私刑にあったのではないかと思う」

 藤田の話は続く。「自分は米子からは聞いていないが、仲間の連中からは聞いた。部屋から逃げ出したというのは、私刑をやり損ねて、目を離したうちに逃げられたのではないか、と思う。首には紐で締めた痕が残っていたらしいけど、そのことを口に出せないようだ。仲間内で口裏を合わせたであろうが、それぞれ自己本位になるから、言うことが違ってくる。そこで問題は米子だ。それは夫婦間が終わりそうだったのではないかと思う。佐伯は薩摩の千代子と近かった。それ故に、薩摩は千代子のことを見放したよ」

 周蔵は「それなら、薩摩が手を回して佐伯に、ということはないか?」と尋ねた。「薩摩はそんな男ではない。もっと紳士だよ。女に対してそんな執拗さはないさ」と藤田は答えた。

 それでは、米子は仲間たちにどういう立場を取ったのだろうか、と周蔵は考え込む。藤田は、米子は変な噂だけをよく聞いた、という。日本でも牧野医師の相手になっていたし、佐伯の画家仲間にも何人か相手がいるとのことだ。そんな関係から、米子は仲間の私刑を黙認したのであろうか?(注・ここで、「救命院日誌」に、「藤田が、米子は学生を煽動するところがある、と云う」場面を私は思い浮かべる)。

 米子は昭和三年十月に帰国するや、牧野を通じて周蔵に「救命院日誌」を届けてきた。周蔵は、それを大谷光瑞師に届けたが、断られるし、始末のしようがない。それにしても、佐伯は光瑞師から、一体何の疑いを掛けられたのであろうか、と周蔵は考えこむ。

 後年の条で、それは判明するが、それにしても藤田の観察はさすがに鋭い。

                                  (続く)

page:【表紙】【目次】【前頁】へ戻る

  【次頁】へ続く