天才佐伯祐三の真相    Vol.13

 

    第十一章 残されし者たち

 

 第一節 ケサヨの自殺

 昭和三年の暮れ、驚愕すべきことが起こった。

「周蔵手記」昭和三年条(かな、漢字は改めた)

十二月に入っても親父殿は戻られず、突然ケサヨを連れて帰る、と云はる。

 ケサヨは佐伯を好いてをったさふで、佐伯との間に深い関係はなひさふだが、自分の預金から一万円以上みついだ、と云ふのである。

△「金のことはよか。何もたばこの代金だ。それも、アヘン欲しさにみついでくれたこと 思へば、アヘンの金だ」と云ふと、親父殿も「太っか兄さんさふ云ふ」と、なぐさめた。然し、妻君から容姿を馬鹿にされたらしく、気が沈んでだふにもならん、と云ふ。

 巻さんの怒りの険幕には自分も驚き、また、ケサヨがそんなに佐伯にほれていたのかと、そのことに驚く。

 △佐伯の妻君云はるに、ケサヨは顔が不細工であるので、佐伯は心にも思っていないが、金が目あてのために誘っていたのだ、とのこと。現に、ケサヨのことは、一枚の絵にもしていないであろうが、と云はれたとのこと。(中略)

 親父殿の云ふとをり、何も嫌な思い出抱えて東京にをることもない。一緒に戻って、落ち着いたら又来い、と云った。

 △その時、ケサヨ明くなり、親父殿伴って戻る。

 十二月末ピ ケサヨは自殺す。

 

 「周蔵手記」昭和四年三月条。

 三月に入って、親父殿来らる。ケサヨのこと聞く。

△ケサヨは家に戻ると、即その夜に、アヘンを呑んで死んだ、といふ。その様子は、非常に楽だったやふで、おだやかだったとのこと。紙切れに、太ッカ兄サンアリガタフと、三十遍もくりかへしてあった。何の理由も書いていなかった。

△これまでの自分の人生で、これほど辛いことは、他にない(中略)。

 もし佐伯が生きてをるなら、この怒りをぶつけて何をしたかもしれないが、今は虚しい。

 又、つくづくと、女はだふしやふもない、と思ゆ。

 

 ※周蔵の女嫌いは、祖母ギンヅル、母キクノ、奥ムメオ、婚約者アサギク、佐伯米子とこれまで遭遇してきた幾多の女性から受けた経験から、醸成されたものであろう。一番可愛がっていたケサヨが、またもや、そこへ加わった。ケサヨは明治四十一年生まれで、この時二十歳であった。

 中野救命院の会計係ケサヨが、周蔵の預金から一万円を超す大金を引き出して佐伯に貢いだのは第二次渡仏の直前すなわち大正十五年から昭和二年にかけてであろう。当時の物価からして、現在の一億円近い。ケサヨの死亡は、十二月十日であった。

 

 第二節 ドーリーの病気

 ドーリーこと薩摩千代子は、母性愛をくすぐる佐伯の手紙に、手紙では答えなかったようだが、心は確かに揺り動かされていた。それが彼女の生きた証であり、「恋に恋してる」なぞと茶化すのは、いくら藤田嗣治であっても、浅見と評さねばなるまい。

 薩摩治郎八の自伝「我が半生の夢」では、昭和四年に日本に錦を飾った治郎八は、五年春にフランスへ渡るが、ギリシャ旅行からパリに帰った四月末に、千代子が肺尖カタル(結核の前駆症状)にかかる。次の手紙は、病気が秘かに進行するなかで、千代子が、夫が構ってくれない妻の不安定な心情を表したものであろう。薩摩千代子から吉薗巻に宛てたもので、昭和五年三月東京着印の手紙が残されている。どんなインクで書いたのか朦朧として字が消えてしまっているが、読めるだけ読んだみた。

( 宛先 Yoyohatamachi Toyotama Tokyo Maki Yoshisono 千代子薩摩)

雨ばかりの巴里 ■■■■■■■■巴里

いつも一人きり 手元には何もないの 書くものも これしかないの

お願いよ 迎えにいらして おねがい

佐伯さんが いなくなってしま■■ 淋しくて死にさふ

淋しくて■■■■ 死んでしまいそう

せめて佐伯さんのこと おはなしできる人■■■  ■■■■

お願いお迎えにいらして おねがい 一日も早くいらして

                     千代子

とこ■■■■■■■■いるの

よめるかしら    千代子

 

 「周蔵手記」昭和八年条で、この手紙に言及して曰く、

 「・・・なる程、こういうことであるから、妻君から手紙がきたのだと、今分る。妻君から何も書いていないような、おかしな手紙を、数年前に貰った時は、何を意味するかと随分迷ったが、亭主が見てくれないということを訴えていたのだと、今分った」

 

 千代子が巻さんと知り合ったのは、何時か。佐伯の死後、周蔵は巻を連れて再び渡仏し、佐伯の死因を調べたらしい。その際、面識ができたので、巻さん宛てとしたとも考えられるが、どうも日時が合いにくい。再渡仏の日時はいまだよく分からない。

 ドーリーの結核は進んできた。「周蔵手記」昭和五年十一月条には「薩摩から意味不明の葉書届く。一応儀礼として初台を訪ぬる。薩摩は父親と意志通ぢているわけでもないらしく、呑気な様子である」とある。

 

前略  用件のみ

ドーちゃんに困っています。内密にお願いしたい大事が生じました。

急ぎ事ではありませんが、一度初台の方へ行ってみて下さい。

ドーちゃんのために。薩摩。

 

 あいにく、切手が消印とともに切り取られているが、これがその葉書であろう。昭和五年十月ころに出したもので、結核と判明した千代子を今後どうするか初台の父親と相談してくれ、との依頼だが、明記していないので、周蔵は意味不明とした。薩摩の父は、息子の嫁の病気にも、呑気な様子であった。千代子の病気については、「周蔵手記」昭和六年九月条に以下の記載がある。

△薩摩氏から、手紙や葉書を受け取るが、妻君が病気らしく書いてある。初台には行く。この家族はお互いが淡泊にて、何の心配もしていない様子。ネクル氏のこと書いてあるが、藤田の筈ないから、誰か作ったのであろう。

 これに関連するのが、下の葉書である。

 

東京市世田谷区北沢五−七七三 吉薗周蔵様宛

 ドーちゃんに困っています。誰もがスイスをすすめます。Mネッカーもです。ドーちゃんは取り乱しています。援護お願いします。  薩摩治郎八。

 

 東京市が世田谷区などを新設したのは昭和七年のことだから、この手紙が上の「周蔵手記」にいうそのものではなく、ドーリーの病気に関する一連の手紙のうち後日(多分昭和七年)のものである。一連の手紙には、薩摩がドーリーの病気に関して、M.ネッカー医師に診せるとあったので、周蔵はとまどった。ここに出てくるネッカーが藤田嗣治の筈はないから、だれか新たに「草」を作ったのであろうと推測している。

 このM.ネケルについては、「周蔵手記」昭和九年二月条に、次の記載がある。

 

藤田はモーリス・グドゲなるユダヤと、手を組んでをる由。

その人物に、精神の相談を受けるように、薩摩の細君を指導した由。別名を、ジョルジュ・ネケルと云っている由。

 

 モーリス・グドゲは、文学者コレット女史の夫で、精神科医である。当時は死病といわれた結核に罹った千代子が、精神面でも症状が出たのは当然で、そこで藤田はグドゲを薩摩に紹介し、その治療を受けるように勧めた。ややこしいことに、そのグドゲ医師もジョルジュ・ネケルを名乗っていた。この連中の趣味かも知れぬが、ネケルの名を何人もで使うので、傍観者は煙に巻かれてしまう。流石の周蔵もこのM.ネッカーには考え込 まされているが、私(落合)の推理では、モーリス・グドゲは何かの必要で、以前からジョルジュ・ネケルと自称していた。それは、(ここからは大飛躍だが)、ネケル小児科院長の息子になりすましたので、つまり、ジョルジュ・ネケルとモーリス・グドゲは、実は同一人物ではないか。丁度、堺誠太郎が若松安太郎と名乗ったのと同じだが、周蔵はそれとは知らず、以前からネケル医師すなわちグドゲと親交があった。そのネケルを、さらに藤田が僭称したのは一種のご愛敬なのであろう。薩摩が、ここでわざわざ「Mネッカー」としたのは、M.グドゲ=G.ネケルと知っていることを、暗示したものと思う(以上あくまでも一つの考え方であり、あまり自信はない)。

 さて千代子のその後のことは、「周蔵手記」昭和十一年条にある。要約。薩摩に頼まれた千代子の療養の件は、牧野医師の世話で、正木先生に頼むことが出来た。周蔵は、一度は行かねばならぬと思い、諏訪の正木サナトリウムを訪ねた。ドーリーはここでも華やかにやっているようではあるが、所詮この田舎だし、病人なのだから、薩摩にとってはこれほど都合の良い妻はないだろう、と思った。わずかの期間に病気にかかるや、もう幽閉同様である。

 入院して間もなく、近所に別荘という名目の家まで建てるとのことで、或いはもう建っているかも知れぬが、それは、もう薩摩家に戻る必要がないという意味だと、本人も分かっていたので、周蔵は驚いた。 離婚する気はないが、会いたくもないという意味だと分かっているようだ。

 薩摩はよほど病気が恐ろしいらしく、スイスの病院に入院した時は、一度は見舞ったが、戸口から中には入らなかった由。もう会うこともないと思うと、さすがにドーリーも淋しそうだった。また来て欲しいと、念を入れて頼まれた。

 やがて、サナトリウムを出た薩摩千代子は、別荘に移り、吉薗巻が住み込みで看病した。その関係で、フランス製の日記帳が書きかけの儘、巻に贈られた。そこに千代子の作(俳句と短歌)が八三句も詠まれている。「高原のサナトリウムに慈悲を見て」で始まるから、サナトリウム生活の徒然に、パリ時代の佐伯の思い出を詠ったものばかりである。いわゆる名句、名吟というものではないが、不思議に当時の佐伯祐三を活写している。

 

      高原と かの人思って 初句なり

      夫あるも 夢に見るは 逝った人

      置き手紙 読めばいじらし 男心       

      朝な夕な 思ひ起こすは 彼の人の 画架に向かった きびしき姿

      裏街の 惣菜屋で 彼の人は 娘のためと 夕食を買う

      己れの絵 求めて今日も苦しむは 画家の本望 俺の真実

      写生する 父の冷えた手に 息吹きかける 愛し子けなげ

 

 帰国した千代子に、佐伯祐三遺作展の開催が伝えられる。遺作(加筆品)には、藤根大庭の紹介で山本発次郎というパトロンもつき、大好評を得る。しかし、これを見る千代子の目は厳しい。加筆の真相と佐伯の心情を知っているからである。

 

      遺作展 彼の人の素顔 いづこにか

      彼の人の 真実何故 被ふのか

      「みずゑ」には 彼の人語る座談会 口を揃えて偽りぞのみ

      遺作展 彼の人の真実 何もなし

 

 薩摩千代子は、昭和二十四年に死亡した。死因は結核であった。治郎八は戦前からパリにいて、昭和二十六年に帰国した。

 

 第三節  米子の本領

 佐伯米子の奮闘は昭和三年十月三十日、北野丸にて帰国した時から始まる。まことに畏れと疲れを知らぬ女傑の本領は、ここから発揮される。光徳寺における本葬は十一月五日に終えたが、米子は、同月二十五日午後一時より二時まで、東京で告別式を挙行した。若松安太郎宛のその案内状は、当初吉薗資料に含まれていたが、美術評論家に貸し出したまま、返還されなかった。さいわい写真が残されており、場所は「築地本願寺寺中称陽寺」となっている。池田家の菩提寺たる称揚寺のことと思われる。

 周蔵宛てに何通もの手紙を出したこの女傑の、最初のものは、「先日お訪ね致しましたら、お留守のようでございましたから、告別式のお知らせおいて参りましたが、やはり、貴方はお許し下さりませんのね。私 お許し下さらない気が致しておりましたのよ」と、周蔵の胸中を観測する。前にも述べたが「病院で私の差し出すもの何一つ食べず、死にましたのよ」と、末期の状況を簡単に報告し、「一度お目もじしたく、恐れ入りますが、二三日うちにお尋ね致したく存じます」と面会を要求する。そして、「本当に残念なことですが、すべて私が悪かったのです。お許し下さいませ」と、周蔵には率直に詫びを入れている。

 これは、佐伯の死因に、米子にのっぴきならぬ責任があること、そのことを周蔵にはとても隠しおおせないことを自覚したうえで、やや開き直った姿勢である。それでは、米子が周蔵にお目もじして、訴えたかったことは何か。

 

佐伯米子書簡・昭和三年十一月十四日付・吉薗周蔵宛て(かな、漢字は変更)

封筒表  東京市代々幡町四七六 吉薗周蔵様 若松様が見えられましたので

       裏  東京芝区双葉町四池田方 佐伯米子

 告別式のお知らせ、返送して下さいましたけど、あなたの思い分かりますが、されでは、佐伯の親たちの思う壺ですは。

 お知らせは、若松様、大久保の堺様にも致しましたので(中略)貴方にだけは正直にお話しして、お許し頂かなくてはと存じまして、二三日うちに必ず上がりますから、お許し下さいませ。

    まづはお願い致します。

        十一月十四日夜  よね子

 

 米子はまず、周蔵にだけは正直に話し、許しを求めたい、という。周蔵の怒りは、告別式の案内状を返送された時、実感したことだったが、無論そんなことで挫ける米子ではない。滑稽なのは、若松安太郎の本名が堺誠一郎であることを知らず、双方に案内状を出していることである。堺屋の貿易関係の事務所が欧州にあり、何かで世話になったことを、米子は覚えているのである。或いは、渡欧の餞別と同じように、ちゃっかり香典をせしめようとの意図であろう。

 ところが、この手紙には追伸がある。

 お目に掛かってと思っておりましたが、書き加えます。その日お出で下さる方々に、絵をご覧に入れたく、少しお預かり致したくお願い致します。本当に夭折ですが、かへすがへすもお許し下さいませ。

 お式は、気が乗りませんなら おやめ遊ばして、絵のことお願いしましてよ・・・・

 日記を書く貴方に、日記帳頂き物ですけど、お使いになって、紙がなくてお許し下さい。

 

 呆れたことに、式にはこなくていいから、佐伯の絵をくれ、と本音をさらすのである。周蔵は、これに対して、無反応を決め込んだらしい。そこで次の書簡。

 

佐伯米子書簡・市外代々幡町幡ヶ谷 吉薗周蔵様 芝区新幸町六

                         池田方 佐伯米子

 要約。手紙を出しても返事なく、訪ねていっても引っ越してらして、ほんとに貴方は冷たい方ですは。

 夕方には切なくて、私は床の中で泣いている。秀丸(佐伯の幼名)のことをあれだけ良くしてくれたのに、死ぬとなぜこうも冷たくなるの。自分のことを秀丸と弥智子を死なせたと、憎んでいらっしゃるのね。(中略)秀丸は私だけでなく貴方も、親友の山田様、里見様も、それどころか兄弟一致して女を騙してきた兄さえも欺いて、うそばかりついてきましたのよ。しかし、もう死んだ秀丸のことをけなすことはできませんのよ。嘆き悲しみながらも秀丸の嘘をほんとにしていくのが、私の仕事なのですは。(中略)

 そして、もう一つお願いがあります。秀丸の望み汚さないためにも、そして私のわずかな身過ぎのためにも、いくらかまとめて絵を頂きたいのです。私が手助けしたり、書き加えました、完成しているものだけでも、下さいまし。今は何をする気にもなりませんので、出来ているものだけでも下さいまし。

 

 周蔵は返事せず、引っ越しを仮装して、米子に会わない。米子の要求は要するに二つ。第一は、夫と娘の死因に関わっている自分を、貴方が憎むは分かるが、もう忘れて欲しい。第二は、今後は佐伯の名誉のためにも加筆路線を進めて行きたいから、佐伯の絵を貰いたい。自分が手直し、加筆したものだけでもいいから完成品が欲しい。今は加筆仕上げする気力もないから、完成品を欲しい、というのである。

 ところが、これでも周蔵は無視した。そこで次の書簡。

 

 佐伯米子書簡。吉薗様宛。米子。

 あなたのおやさしいお心を、私ほんとうに良く存じてをりますのよ。秀丸の願い叶えるには、絵がなくてはなりません。どうぞお聞き届け下さいませ。貴方の事大好きで、心からお慕い致してをりますのよ。それだから、かふして甘えてしまひますのよ。(後略)

 

 呆れたことに、今度は色仕掛けである。女性恐怖症の周蔵なればこそ魔手をよく逃れ得たと、私(落合)は思う。しかし、米子がそんなことで諦める筈はない。今度は牧野に手紙を託送した。

 

 佐伯米子書簡。[昭和五年]一月三日付。市外代々幡町四七六 吉薗周蔵様宛。( 先生におねがいしました、と書き込み) 芝区新幸町六 佐伯米子。

 あなたはどうしてもお手紙を下さらないでせう。どうしてでございませう。佐伯の書き置きお目通し頂きましたでせう。私の事あわれと思って下さいましたでせう(中略)。遺作を分けて頂きたいの。みんなからおかしく思われる前にお目にかけませんと(後略)

 

 とうとう米子の念願の叶う日が来た。(昭和五年)一月二十日付の、次の手紙である。

 

  佐伯米子書簡。[昭和五年」一月二十日付。

今朝ほど藤根さんが大八車で、届けて下さいました。有りが度う存じました。あつく御礼を申しあげます。(中略) 佐伯の大事な遺作、私が手直し致しまして、展覧会でも早速致しまして (中略)

一度若松様にいらした時でも、是非銀座の御散歩おつきあい、さして下さいまし(後略)。

 

 一月三日の書簡が功を奏したのだろうか。藤根が大八車に積んで、佐伯の遺作を届けてきた。「手直し致しまして」とあるからには、未完成品か油彩下描きであろう。堺誠太郎の事務所は内幸町で、若松安太郎としての連絡先は築地の巻さんの店であった。米子の実家は若松とは取引があったが、米子は若松の実体が堺であることを知らなかったらしい。故に、米子が若松様というのは、新栄町に事務所がまだあると錯覚しているのではないか、と思う(築地の巻さんの店なら、「奥様のお店」と表現すべきであろう)。

 

   佐伯米子書簡。[昭和五年]一月二十四日付。

今藤根さんが、また絵を背負っていらして下さいました。あけましたら、二十枚も入ってをりまして、そしてよいものばかり、びっくり致しました。こんなに■■ほど描きましても、私見てをりませんのよ。されを思いますと、佐伯の事いやな人と思って、許せなくなってしまいます。それでも もう、故人の事ゆえあきらめましたは、今度こそお許し頂き度く、存じます。さもないと、私きっと病気になってしまいましてよ。私から電話かけますので、ご都合つけて下さいましね(後略)。

 

 四日後、米子の収穫は増えた。藤根が一人で二十枚背負えるほどの重さのものは、油彩下描き用の薄い画布を用いたものしかない。それが、米子がパリでも見ていない良い物ばかりで、こんな良い作品を自分に隠していた佐伯が許せないと、一面憤慨している。

 つまり、この二十枚は、おそらく佐伯が最晩年に、ドーリーのアトリエで描いた傑作の油彩下描きであった筈である。題目を並べれば、郵便配達夫、ロシア服の少女・・・

 

 これらを裏付ける記載が「周蔵手記」昭和五年四月条にある。

△薩摩氏から、預かっていた残りの絵を送られてくる。

 この前は、妻君が帰国する前に、三回に渡って届いてきている。両方合はせると相当な枚数になるらしい。以前のものは妻君にねだられて、藤根さんが二三度運んで行ったから、今回のものだけが残ることになるやふだ。佐伯の妻君は遺作を商売道具にしやふとしているらしいとのことで、寺の方とは不仲らしいと、藤根さんは云う。

 米子が帰国する十月末以前に、薩摩から佐伯の遺作が送られてきた。絵の具が乾くまで薩摩に預けてあったものである。以前のは米子が帰国する前に、三回に分けて送られてきた。両方合わせると相当の枚数になるが、以前送って来たものは、米子にねだられて、藤根さんがに持たせてやった(前掲一月二十日、同二十四日、後述の四月一日と三回)から、今回薩摩夫妻から送ってきたものだけが、吉薗家に残る。米子は夫の遺作を商品にしようとしているから、光徳寺とは不仲になったらしいと、藤根は告げた。

 佐伯が昭和三年に吉薗に絵を送ったことに関する記載は、次の八回ある。「以前のは三回に分けて送ってきた」というが、それには下記の(一)〜(三)を含まず、三回とは(四)(五)(六)がそれに該当するのではないかと思う。(七)(八)が、薩摩に乾いたら送って欲しい、と委託したものであろう。

 (一)日時不明・荷物に添えたメモ

ベーモント医師の家でアンソルを見て、俺の新しい画の目的としている。これは駄作かもしれない。

俺はすごく気に入っている。十枚ばかり描いた。送ります。ダメやったら、焼き捨てて下さい。

 (二)郵便物ではなく、日本へ送る荷物に添えたもの。

明日は荻須の手配で引っ越しです。今までのものを送ります。図画はトランクで発送しました。

カンバスは 地が厚うて 丸めること出来ませんので 木箱を用意しておくようにしました。

昨年九月から カンバスだけでも四百枚にもなりますが 日記の通り 駄作ばかりです。

まずまずのものは 日記の通り 十作くらいやろかと 思います。

木箱五個に カンバス百六十枚ばかし 入りました。トランクに 水彩やデッサンを詰めました。

   手紙と今日発送します。三月十二日 佐伯祐三

 (三)葉書・五月東京着、おそらく三月投函。

仲の良い友達に頼んで荷造りしましたので、六十枚弱の絵送ります。仕様のない物ばかりですから、仕様がなかったら、焼き捨てて下さい。今日は元気です。

                             佐伯祐三

 (四)書簡・おそらく差出地 5 RUE DE VANV FRANCE)

まとめて医師に送ります。今日で命運尽きた俺の 最後の画 送ります。黒にも白にも 囚われない   今の俺の画です。さようなら 佐伯祐三 

                             吉薗様

 (五)メモ・日時不明・荷物中に挿入。

今朝 画 丸めて送りました。届いたら開いてすぐ広げて下さい。コモ三つにして、八十枚ばかり入れました。友人に分けて下さい。俺はもうダメです。さようなら                            佐伯祐三

 (六)メモ・六月二日付。荷物に添付。

残りの絵は、山田に届けてくれるように、頼みます。ヤチも苦しそうに寝ています。イシが早く来てくれますように。六月二日

 (七)メモ・日時不明・佐伯千代子宛

このアトリエの中の絵 万一米子ハンが取りに来たら、渡さんで下さい。今日はどうしても、その事頼もと思って来ました。イシには必ず送って下さい。良くないもんは焼くように、話して下さい。俺の事どうか怒らんで下さい。

  千代子様                        佐伯祐三

 (八)日時不明・五月二日か・「パリ案内」の地図の扉に

今日イシに手紙かきました。イシが迎えに来てくれるのを待ちます。もうここへは来れないから、画はまとめて、三井でイシのとこへ送って下さい。かわいたら送って下さい。

 

 (一)〜(三)は、三月以前に送ったもので、佐伯が元気な頃のものである。(四)は、今日で命運尽きた、とあり、おそらく三月末頃と思われる。(五)は、丸めることができるから油彩下描きで、友人に分けてやってくれとあるから、本格画ではあるまい。(六)は、リュ・ド・ヴァンヴのアパートに積んであるのを、山田が見たという絵である。米子の北画仕上げを予定されていた、油彩下描きではなかろうか。

 (七)(八)は、千代子宛に「この絵」とあるから、千代子のアトリエで描いたものである。「米子に渡さず、乾いたら送ってくれ」と、念を押すために、ブールヴァールのアトリエへ来た。当然、厚い壁塗り画布の本格画が多かったのであろう。吉薗家には、(七)(八)の他にも、(一)〜(三)の大半が残っていたのではないか。

 

 (「周蔵手記」続き)

△どちらにしても、残りは兄に呉れたらよからふと思うが、巻さんはかなり感情的になっている。

ケサヨのことである。妻君がケサヨのこと知らないならともかく、知っているのに、そのこと口を拭っているのは、不満とのこと。

されば、絵も一度は金に替えたのであるから、ねだるは厚かましい、と云ふのである。理は理であるが、味噌も糞も一緒といった考え方の夫婦であったから、やむを得まい、とは思ゆ。      (中略)

然し、佐伯に援助のことしたのは巻さんであるから、巻さんの判断を待つべきは、妻君としてやむを得まい。

巻さんは、木枠がついていないため、今にも割れ落ちそうな不安定なる絵、一枚一枚、大きな紙に包み、玄関の陰の部屋にしまわれたやふだが、二百五十枚からあるため、部屋を占領されたとのこと。

 

 周蔵としては、残りの絵の方は、兄の祐正に寄付したら善いではないか、と思うが、巻さんが感情的になり、それに反対する。理由はケサヨのことである。それに、一旦は人に売りつけた絵を、改めてねだるのは厚かましいと指摘する。周蔵は、理路整然たる巻さんに反論できないが、あの佐伯夫婦には、理論なぞ通用するものでない、とは思っている。然し、佐伯に資金援助したのは巻さんだから、周蔵を籠絡しても効果なく、米子が巻さんの判断に待たねばならぬのは、当然である。

 巻さんは二百五十枚以上ある絵を、丁寧に紙で包んで玄関脇にしまったが、部屋が一杯になった。ここで「木枠がないために、今にも割れ落ちそうな不安定な絵」とは、本格画用の厚塗り画布を用いた作品を指している。

 これだけ見れば、周蔵は佐伯作品を一枚も持っていないようだが、事実はそうでもない。大正十三年の第一次渡仏時代のものもあった。下に一例をあげるが、他にもある。

 

 (九)書簡・大正十三年十一月二十二日付。

画は、次から次へと描くだけ描いて、もう三百(デッサンも)をかぞへます中で 誰も見てもくれないものだが 俺は心があると思われる(人が何と云をうと 俺はきにいってゐる)ものなどまとめて送ります。よくないと思うものは 焼きすてて下さい。

 

 「周蔵遺書」によれば、

 「ソノ絵ハ父ガ持ッテイマス。彼カラ送ラレタママ保存シテイマス。展覧会デ見ル佐伯ノ絵ト違ッテ、勢ヤ力ニ欠ケル絵バカリデス。シカシ、父ニハ ソレガドンナニ彼ノ努力ノタマモノカ、ヨク分リマス云々」

 

とある。武生市に一旦寄贈された三十八点は、現在は大半が代物弁済として山本晨一朗氏に渡ったが、これらや、阿王桂氏が謝礼として吉薗明子から貰った数十点などは、(九)や(一)〜(三)のうちから選ばれた「やや軽いもの」ではないかと思う。ただし、「モンマニー風景」は、当然ながら(八)に含まれていたであろう。

 一方、大阪の画商T氏が仕入れたり、山甚産業の山本氏が武生市に入れる予定で買ったり、代物弁済で受領した絵は、前記(七)(八)のうちの本格画や、(一)〜(三)のうちの、良いものなのであろう。

 

 第四節 牝狐跳梁す

 (佐伯米子書簡・日付不明[昭和五年])周蔵宛て(かな・漢字は改めた)

 ことづて聞きましたは。他の方にあんなこと頼まれて、ほんとにあなたは意地悪な方ね。

 私がどんなに悲しいか、お分かりでせう。秀丸そのままの繪では誰も買っては下さらないのです。

 私が手を入れておりますのよ。秀丸もそれを望んでおりましたし、あなたもそのことよくご存じでせう。秀丸そのままの繪に一寸手を加へるだけのことですのよ。こつがありますから。

 私、苦労いたしましたが、のみこめましたのよ。それは見違へるほどになりますから。

 画づらの絵の具や下地が厚いものには、ガッシュといふものを使い、画づらを整へ、また秀丸の絵の具で描き加えますでせふ。少しも変はりなく、善くなりますのよ。一度お目に掛けますから、お出下さいませ。山田様に聞いてなどと、言はないで下さいませ。それでは私悲しいですは。       (中略)

 私のことお許し下さいませ。返す返すもお願いしましてよ。この頂いた繪、よく見て下さいませ。どんなにか、よくなりましたでせふ。

 あなたのお手元にあるもの、私が仕上げれば、すぐに売れる画になりますのよ。すべての繪を手直しして、きちんと画会をしたいのです。

    あなたと私で致しませふよ(後略)。

 

 ※周蔵は、誰かに言付けて、加筆を辞めるよう、米子に忠告した。これに対して、米子が反論したもので、文中に加筆の方法を具体的に述べる貴重な資料である。誰に言付けたのかは、不明だが、私はそれを次の書簡の宛先である芹沢ではないか、と思う。

 ガッシュ(グァッシュ)とは不透明水彩絵の具のことで、原画にグァッシュを塗って「画づらを整え」、その上に佐伯の遺品の絵の具で加筆すると、グァッシュが原画の絵の具と加筆の絵の具を結合する役割を果たす。そして、次に油や油性ニスを塗れば、油絵の具と見極めがつかなくなってしまう。

 この方法できちんとやれば、原画の色彩を損なわないで加筆が出来る。山発コレクションの修復にあたった創形修復学校の歌田氏が、吉薗佐伯を見て「山発品よりも色が鈍い」として修復を断ったことが贋作説の支柱となった(当時の新聞)が、これには首を傾げざるを得ないのは、私が他の修復家から聞いた処と違うからである。鍵はニスにある。

 武生市寄贈品の修復に当たった杉浦勉氏は「武生市寄贈品は、絵の具は退色していない。ニスを掛けていなかった。おそらく佐伯は、ニスを掛けないで吉薗に送ったと思う」と語る。ニスの仕上げ塗りは、佐伯祐三は生前たびたび強調していた。昭和三年六月二日付周蔵宛てメモに「あの画布と、仕上げにニスを塗る一回の、次のもう一回、必ず塗って下さい。ニスは乾いたらもう一回塗るのです。これが俺の発見した俺の画風です。前に送ったもんの中に、ニスの仕上げしてへんもんが、ぎょうさんあります」とあるのが、杉浦氏の見解に正しく対応する。

 むろん、ニスを塗ったものもある。それは公開佐伯作品である。黒江光彦氏(前東北芸術工科大学教授)もまた、佐伯のニス(「郵便配達夫」のデッサンの裏の書き込みにある)まで見抜かれていた。「自分が修復した公開佐伯作品にはニスが施されていたが、長年月の経過により黄変し、さらに経年劣化を生じて粉化して白っぽくなり、絵の具の色の見え方を変えてしまっていた。修復の過程で画面をミネラルスピリット等で拭いて濡れ色にしてみると、同じ黒のなかにもさらに濃い黒がみえたりして、経年による色調の変化の著しさがわかる」とされる。「なかには制作中にうけた損傷を画家自身が直す工程で、淡黄色の膠を広い部分まで塗りひろげて、光沢を出してニス替りにしたと推定される作品もあるが、その塗膜は経年により黄褐色に変色してしまっていた。

 したがって、修復に当たっては汚れや古いニスを丁寧に除去し、ニスを再塗布すれば(強い光沢の仕上げニスを二度塗りすると色調が全開するように思われる)、画面は元の色調を取り戻す」とのこと。すなわちニスの劣化のために変色した繪は、修復によって元の色調を取り戻すのである。したがって、この点を修正してみれば、米子が佐伯と特に異なる色調を用いたことはない、と云える。ところが、山発佐伯は、元来が下描きために、ニスは薄く、米子も仕上げにニスを多用しなかったらしい。また、加筆品は元々商品だったから、修復額装もされており、ニスの経年変化による変色も歌田氏が見た以前に、すでに手当がなされていたのではないか。とすれば、吉薗佐伯とは一見色調が異なっていて、当然なのである。(文責・落合)

 

 (佐伯米子書簡。[昭和五年]四月二日付。市外落合村上落合  芹沢光治良様宛)

 お手紙書きたいと、思ひ続けてをりましたところ、あなたの御本拝見いたし(中略)おしたい致してをります。

 あなたはずいぶん冷たく、私はきらいなの、存じてますのよ。でもあなたも、パリの事忘れておりませんでせう。私、忘れられませんゆえ、今もあのころと共の生活でございます。

 佐伯は天心堂先生のお友達の方に、描いてはどんどん送ってしまいましたの。あなたは、それが一番正しいと、思われますでせう。でも、あなたもお気がつかれた様に、私が手伝いますと、良いものになりますから、そのこと(中略)お許しくださいませ。

未だ苦しい生活の私の事を思われて、昨日吉薗様が返して下さいましたのよ。(中略)

 文芸関係人に、私の様なものがいろいろ云いますと、あなたの事けなす様な気がして、何も誰にも申してをりません。だってさうでせう。

 私あの夜のこと、言葉に申されませんもの。佐伯をだましたことは、がまんのつもりで、をりますのよ。あなたの良い御家庭みだして、あなたのお嘆きをおなぐさめ致すの、たへられませんは。(中略)あの夜のあなたが触れられた私のこと、わすれず思っていて下さいまし(後略)。

      四月二日

            大すきなあなた    佐伯米子

      芹沢様

 

 昨日、吉薗様が返してくれた、というから、それが三度目の佐伯遺作の返却であろう。この手紙は、第一次渡仏時代に、米子の加筆を見抜いた上承知で買い取ってくれた芹沢が、加筆をしないようにそれとなく苦言を呈したのに、米子がパリの情事をネタに、口封じを図ったものらしい。この手紙が明らかにするのは、芹沢があの時パリで、加筆画と知りながら買ったのは、米子の手管も影響していることである。

 周蔵は昭和三年パリに赴くや、直ちに芹沢を訪ねた。それは、「救命院日誌」のなかで佐伯が加筆に関して、芹沢にひどく拘っていたから、確かめようとしたらしいが、芹沢は案の定、米子の加筆を見抜いていた(「周蔵遺書」)。

 この手紙が吉薗家にあったのは、情事をばらすと脅されて不安になった芹沢が持参して、周蔵に相談に来たからである。つまり、芹澤は周蔵に頼まれて、加筆に苦言を呈したのだろう。芹沢から処理を頼まれた周蔵は、ただちに何らかの手を打った。次の書簡で分かる。

 

  (佐伯米子書簡)五年?月一日付。市外代々幡 幡ヶ谷救命院  吉薗周蔵様宛

 あなたのお手紙拝見致し、なみだがとまりませんでしたは。ずいぶん冷たいお言葉なので、胸が苦しくなりましたは。芹沢様は、あなたの思っていますやうな方ではありませんは。

 もう決してあんな手紙かきませんから、お許し下さいませ。

 もう致しませんゆえ、わすれて下さいまし、お願いしましてよ(中略)。

                               米子

      吉薗様

 芹沢様からの手紙 私がかいたものだけでも お手元にありますから 私に下さいまし。

    おねがいしましてよ。

 

 何のかのと謝りながらも、証拠物件の手紙をそろっと回収しようとする、牝狐の抜け目なさである。

 

 「周蔵手記」昭和五年四月末ピ条。

 佐伯の地主を訪ぬ。妻君は挨拶にいっていないやふだが、絵を一枚進呈すること約束す。牧野さんの医院で会ったが、先方は、わざわざ、と恐縮された。佐伯の妻君は筆まめのようで、自分にも追いつ手紙も来るも、肝心の地主には、挨拶はやはりなかったやふだ。

 

 米子は筆まめのようで、周蔵に向かって紙爆弾を相当撃って来たが、肝心の所には挨拶をしていない。米子の極端な自己中心性を見抜いていた周蔵は、どうせ地主に挨拶もしていないだろうと踏んで、下落合の佐伯アトリエの地主酒井億尋氏を訪ねた。牧野医院で会ったのだが、却って恐縮され、佐伯の絵を一枚贈呈することにした。さて、酒井氏は前述したように、もとは画家志望で中村彝の友人であったが、荏原製作所に入り、社長、会長、相談役を歴任した有力財界人で、たまたま私(落合)の同僚三国陽夫の岳父に当たる。

 

 「周蔵手記」昭和八年条。

 佐伯の妻君から、今回も、貰い物だというこの手帳を貰ふ。

 今年から、つけるのは辞めやふと思っていたが、手帳が来たので、つけることにす(中略)。

 女子と小人は養い難しとは、よく云ったものだ。佐伯の残した絵に欲を張っているのであらふ。

 佐伯の妻君は、そのために自分に近づこうとして、貰い物の手帳や、珍味を手に入れたと云っては届けてくるのであらふ。

 然し、佐伯から本当のことを耳に入れてをらなったのか、或いはこの妻君は頭が良いと云うから、上手の手から水が漏るのたとへの通りか、自分に向けて届くるは意味をなさぬに、と思ふるが。

 巻さんの懐の痛むだものを、自分が何を云ふすべもないものを。それとも、巻さんは女子ゆえ、苦手であると云ふことか。

 米子が、周蔵にときどき届け物をしてくるのは、残っている絵を貰いたいからだが、あの二百五十枚は、全部巻きさんが買ったものであり、周蔵を攻めてもムダなのに、と周蔵はいぶかる。

 

 「周蔵手記」昭和八年条、続き。要約。

 米子と牧野医師の間はとっくに切れているが、米子が接近して行くと、断ることなど出来よう筈もなく、よく相談に乗っているようだ。

(原文)その一つが子供のことである。佐伯がをらなくなって早くも五年も過ぎた。けばけばしいあの妻君の事であるから、子を孕む話も不思議ではあるまいが、牧野さんに相談して、自分にも云ってくる所に、あの妻君の考へがあるのであろう。何の目的が分からぬが、関係した男でない所に、処置の相談を頼むは頂けないが、おそらく算盤を入れての事であらふ。

佐伯亡きあと、佐伯の兄貴分だった里見と云う男の、子を孕むだとのことで、一周忌も来ぬうちに処置した筈。その後、牧野さんが世話をし、又、そのようなことを自分にも頼んで来てをる。

女の又の力が、努力であるさふだが、正にその手本であらふか。

何でも、佐伯は大分名を上げ、残した絵は引く手あまたとのこと。妻君の又力ということであらふか。故に、妻君は佐伯の絵を欲しいのであらふが、巻さんは頼まれもしないものを、自ら出す筈もない。

 

 この記載に該当する書簡が残されている。

  (佐伯米子書簡)。日付なし(昭和八年と確定)。吉薗周蔵様宛。

 要約。先日手紙を差し上げて五日しか経たないが、心配で生きた心地もない。おそろしくて自分の腹を見ることができない。その節、お目にかかった中井様ではない産婆さん・・・にお連れ下さいまし。妹に分かったら大変ですし、前にも申しあげたが、うるさい嫌な家で、本当にみんな嫌な人ばかり、思えば悲しくなる。そして新宿のあそこいらは、誰も厚かましくて、みんな美術の会の仲間のような事云って、本当はあさましい人たちなのですもの。あんな人たちに、怖ろしくて。

 この子をあなたのとまでは望めませんが、せめても[牧野]三尹先生の御子なら、私ほんとうに喜んで、大切に見守って参りましてよ(中略)今日は思ってをりますことすべて書いて、恥ずかし事済ましてしまいたいと思いましたのですもの。

 

 ここまでが前半で、要するに産婆を紹介して貰いたいのと、「あなたは所詮ムリだろうが、できれば牧野医師の子として認知して貰いたい」と持ちかけているのである。「関係した男でない所に、処置の相談を頼む」のは、まことに「周蔵手記」に評するように「頂けない」話である。さて後半は、絵の話になる。

 要約。

 あなたは今後とも佐伯の展覧会には来て頂けないのでしょう。せめて今度の遺作展だけでもと思い、会期中待ちわびていましたのに。あなたが、あんなに遺作をお送り下さったからこそ出来た展覧会であった。あなたは優しく、私の望みを必ず叶えて下さいます。わけても、先日大阪の兄に絵の借用証を示して下さったので、助かりました。由子さんに書付を頼んでおいて、ほんとに良かったと思っています。あれがあったので、大阪の兄に十五枚しか取られずに、済ませることが出来ましたのよ。(後略)

                        佐伯米子

          吉薗様御許に

 

 この間の事情は「周蔵手記」にある。周蔵が紹介した渡辺という産婆の所に、米子が直接行って堕胎してきたらしい。「今度の遺作展」とは、昭和八年暮れころに開催したものらしい。

 

 (「周蔵手記」昭和九年正月二日条)

明けて正月二日、年始に

△牧野さんに行くと、佐伯の妻君と何年ぶりかで会った。

 前に子が出来たと、処置のことで云はれた時は、渡辺さんに頼んで、直接行って貰った。絵は藤根さんが運んでくれた。葬儀には出ない事にしてをるから、佐伯の時も出なかった。故に、大分会ってをらなかったが、なる程、女給のやふに赤い。かふなると、牧野の先生の好みでもないのか、閉口しうてをられるやふだ。

 

 (以下要約)

 牧野は過去の因縁があるから、米子を粗略に扱えない。牧野は数多くの女のうち、クラタ由枝だけは囲ったのであるが、その由枝が米子に味方するという。米子のことは事あるごとに口を挟んで、今回も米子が祐正に展覧会の絵の売り上げを巻き上げられそうになったので、絵は借用物だと、証文を示して、難を逃れたとのことである。

 それも、貸し主が、牧野先生ではなく周蔵になっているとのことであるが、祐正は本当に金を巻き上げようとしたのであろうか、疑問である。牧野が云うには、祐正は売り上げだから、多少請求したのではないか、理由は、開催までの費用の事であろう、とのこと。牧野もその費用として、米子に多少ねだられたようだ。然し、牧野の云うには、俺の出した金を開催費などには使っちゃいねえわさ。周蔵もそう思う。

絵は展覧会をするには、額装したり会場費、案内状発送など、きりなく元手が掛かる、とのこと。さもあろうと、周蔵は思う。その金はおそらく祐正が出したであろうから、売り上げから何ぼか返せ、と云うのは、やむを得まい、と牧野さんは云う。それを、由枝と示し合わせて裏を作り、結局祐正が泣いたのであろう。その位は、米子なら朝飯前だと牧野医師は苦笑した。

 「それにしても、多少なら、祐正には絵を分けてやれるものを、自分の所に云ってくれば好いに」と、周蔵 は牧野に云った。「もし、展覧会を見に行くなら、祐正に会ったら、そのこと伝えて欲しい」と云うと、牧野は「それは辞めた方がいい。巻さんが金を出したことを多分知っているから、祐正は云って来ないのだろうし、また、祐正にそれを云うと、後家の気持が収まらなくなるであろう」とのことである。牧野は米子を後家と呼ぶ。触らぬ神に祟りなし、ということか。

 周蔵はふと、牧野さんの看護婦由枝の手の組み方は、自分の祖母のギンヅルと、相手の公家堤哲長の本妻とが手を組んだのに似ていると思い、牧野にその話をした。牧野は周蔵の父林次郎を贔屓であるから、興味深げに聞いていたが、「なる程、林次郎氏は田舎者とは思えない品の良さがある」と答えを出した。

 

 「周蔵手記」昭和九年条。要約。

 祐正は米子を避けてをるように思う。位の高い寺だから、そう困ることもなく、米子を避けることにしたのであろう。

 祐正の妻千代子が、周蔵の留守の間に、大阪の老舗の昆布を、みやげに持ってきた。本人が来ずに妻君に来させたのは、祐正の逃げであろう。布施さんが受け取った由。

 この所は、自分も米子からは遠ざかること第一と思う。

 

 「救命院日誌」によれば、佐伯と米子との離別話のとき、日本に帰って最終的決着と決まったが、その時米子が相談相手の一人としてあげた「良サン」が、この由枝のことらしい。

 因みに、この時由枝が偽造した佐伯作品百一点の借用書(昭和八年十二月二十六日付)が、武生市真贋騒動の折に筆跡鑑定に供された。変体仮名の筆跡は、素人が見ても米子のものには見えない。このようなものを提出されたら、武生市が吉薗資料の真偽を一応疑うのもムリはない。しかし、その場合でも、いきなり詐欺呼ばわりすべきでなく、「他の可能性」について、慎重に考慮するのが公正な態度である。私{落合)は一見して、住所の「落合」が「落会」になっていたし、三文判を使っていたから、他人が書いた文書(これが「他の可能性」)と推定したが、はたして後になって、このような「周蔵手記」の記載にぶつかった。武生市委員会も、本当に公正だったなら、あのような贋造扱いには、絶対にしなかった筈である。

 佐伯千代子が昆布を手みやげに来た時の礼状の日付は一月五日と読める。もとより、昭和九年である。

 

 長々のご無沙汰まことに申し訳なく存じ上げます。此の度は祐三のために、たくさんの作品お手放し願いまして、誠に有り難く恐縮に存じあげます。(中略)。厚かましくたくさんに頂ひて了いまして、誠に恐縮に存じます。記念展には何卒お出かけ下さいますよう願い上げます。(後略)

 

 今般たくさんお手放し頂いた、というのは、例の偽造借用書にいう百一点の所有権を周蔵が放棄し、うち十五点を祐正が与えられた(という筋書き)お礼と考えるべきであろう。もともと周蔵が与えたのであるから、礼を言われて当然である。記念展に出てくれ、というからには、その記念展は、昭和九年初頭の開催での筈だから、米子が、周蔵の来るのを心待ちにしていた「今度の遺作展」とは別の画会ということになる。

 生前佐伯の最大の理解者であった藤根は、請負師から金融業に転身していたが、帰国後の米子から頼まれて、佐伯作品の売り先をみつけてやっていた。その売り先の一人が、佐伯作品(といっても大半は米子の加筆品だが)の最大のコレクターとなった山本発次郎だった、と「周蔵遺書」にある。佐伯絵画に没頭した山本発次郎が、佐伯の唯一のスポンサーだった吉薗夫妻の存在を認識していたのは当然であって、それを証するものが吉薗家にある。すなわち、山発コレクションをおさめた豪華画集で、その扉に、山本発次郎が署名して吉薗に献呈されている。むろん藤根の周旋によるものであろう。こうして、佐伯遺作の換金処理が周蔵の手を離れたこの頃から、周蔵は米子から確実に遠ざかっていった。

 

 第五節  最後の無心

 その後も、米子には何かにつけ面倒を見させられていたようである。戦後間もなく米子から周蔵に問い合わせがあった。下落合の佐伯アトリエは借地だったが、底地を買い取るべきか、という問いに、そうした方が好いと教え、ついでに若干の援助をした(「周蔵遺書」)というが、問い合わせに名を借りた無心と察したからであろう。

 周蔵は昭和三十九年に尿毒症で亡くなるが、その一、二年後、米子から久しぶりの手紙が届いた。「お二人様お元気ですか。ずいぶん長い事ごぶ沙汰いたしておりますが、あなたはお元気でせうか。あなたのことは誰からもうかがへないのでわかりませんけれど、まだお元気でせう」で始まる長文の手紙である。次いで「七十一、二になられたでせうか。佐伯より四才上でございましたでせう」とあるので、日時が昭和四十一、二年と分かる。

 

 「戦時中、戦後といろいろありがたく存じてをります。随分忘れられず思ってをります。

 おかげ様で土地も私のものとなり、気がかりも減って安心いたしてをります。

 先日、下町でサツマさん見かけましたは。あの方も変わりましたはねえ。随分みじめに思いましたもの。相変わらず見栄が目立って、もう身についてませんものねえ。

 パリの男達の玩具の様な奥様は、早くに日本へ帰っていらっして、あなたが長野のサナトリウムに入れられた事は聞きました。もう亡くなられたそうですはね。当時は佐伯を中に、私も心を鬼のようにしたこともございましたが、今では懐かしく考えます(略)」

 

 以上が前置きで、米子はここから本論に入る。

 

 「実は、今日お手紙したのは、残っている絵を頂きたいのです。まだ、たくさんあるでせう。今なら佐伯の美術館作れますし、私も未だ手を入れるくらいは出来ますから、間に合います」

 

 米子は極めて明快に、目的を伝える。説明の必要もあるまい。次にもう一つの目的。

 

 「それに先日いやな事聞きまして、気になって、お手紙致しました。 あなた方が私の描いたの、買ってらっしゃると。そして佐伯と違いすぎると、おっしゃってる。不思議だと思いまして。人形の絵とシベリアの汽車の絵のことでせうけれど、今になってあなたが申しませんはねえ。単なる脅かしと思ったのですが。あなた方の事は安心致してをります」

 

 さすがの米子も、加筆と代作のことが噂に上がることを、始終気にしていたようである。シベリアの汽車の絵というのは分からないが、「人形」と題する絵は山発コレクションにある。序章で述べたように、その画布は亜鉛華の一層塗りで、山発コレクションの他のどの公開佐伯作品の画布とも異なっている。画風を見ても女性的で、これは加筆というより、代筆ではなかろうか。いずれにせよ、この手紙で口止めを図っているのである。さらに、佐伯芸術をめぐる最近の状況を、米子は説明する。

 

 「ところで、今になって佐伯が有名になって来たこと、ご存じでしたか。芸術界が今頃になって、佐伯を語りますのよ。もう話し尽くされた事にあれこれ言われ、佐伯も随分変わりましたは。絵が売れるには、文学的な条件備へたいのでせう。

 今では、貧乏を苦にして死んだとか、狂って自殺したとか、外でしか絵を描かないとか、もうどんどん勝手に偶像化して、実に滑稽ですのよ。私は逆らいませんの。

 私の様なもの、何申しあげても、今では分からない様で、めくらに絵を見せる様なもの。時代が変わりましたのねえ」

 

 今頃になって絵が売れてきた佐伯のイメージは、実在の佐伯とはかけ離れたものになってきた。絵の商品価値を高めるには、文学性が必要なのである。それにしても、米子が、「外でしか絵を描かない」という伝説などは「勝手に偶像化したもので、実に滑稽」と評するのには恐れ入る。佐伯の偶像化を朝日晃などの俗流評伝家に押しつけ、それを滑稽な仕業と嘲笑しているのは、呆れたものである。

 

 「佐伯は案外明るい性格で、自分勝手な処もあるから、何も気にしませんし、絵が良いのなら私の手伝いも気にしなくて、野放図な人でしたねえ(中略)。ご存じのように、私描いたのもありますし、友達のものもありますし、その他画廊もいろいろ、世の中思い通りには行きませんもの」

 

 要するに、米子は、加筆など祐三自身が認めていたもので、何も気にすることではない、とほのめかしているのである。加筆品だけではなく、米子の代筆品もあるし、友達(横手貞美)の代作もある。画家サイドだけでなく、画廊サイドでも、何かをしている。そんなことを今更とやかく云っても世間は問題にしない、と開き直っているのである。

「あなたは佐伯のもの、まだ百枚からおありでせう。あんまりせびると佐伯が怒ると思って、自分で描いておりましたのよ。それが今では気になってをります」

 米子の手紙は、また原点に戻ってきた。佐伯の原画に加筆したものなら、夫婦合作ということになるが、百パーセント米子が描いたものは、そうもいかない。また、画風にも違いがはっきりしているから、何時だれから指弾されるかも知れない。剛胆果断な米子も、気になるのであろう。

 この後の部分を要約する。こんな手紙を書いた相手は、他には荻須位のものである。佐伯夫妻の真相を知る者は、吉薗夫妻と薩摩千代子そして荻須だけであるから。他は何だかんだと云っても、遠くから見ていただけであり、分かる筈もない。あの頃のことは、皆がいい加減で、周蔵にしても一時官憲の目から隠れていたようだ。パリに来た時も、日本を出るのが一苦労と云っていた。佐伯に聞いたら、脱獄の手助けをしたらしと話していた。あのころのことは、今の人たちには話せない。

 それでも、この間、PAXホテルのことをしつこく聞かれて、思い出して泣いている。あの時のことは、佐伯は死にたかったのでも、千代子を思ったからもない、と思えてならない。あの時の佐伯は、永く病床にいたので友人に迷惑を掛けるのが辛くて、床を抜け出したのだと思う。あの後、訳の分からない手紙が何通も出てきて、自分は死にたいと思った。だが、あれは遺書ではなかったと思う。(締めくくりに入る)

 

 今また絵を描くようにと、先方からきつく云われていますけれど、私はこの頃、佐伯の絵を描けなくなりましたのよ。遠いなつかしい思い出になりましたのよ。少しでもい頂かして下さいませ。それではもうお別れ致します。     御身お大切に  さようなら                 

                                米子

 

 返事は、巻さんが書いた。それに対する再返信は、お悔やみの他は簡単なもので、またもや無心である。 佐伯の描いた「黒皮の手帳」と、パリに来た周蔵を描いた肖像画を、形見に頂けないかという。

 因みに、その肖像画は「エトランゼ」と題されて、佐伯の画集に載ったが、所蔵者は不明である。

 

 第六節 真相中の真相

 昭和六年、フランスの藤田嗣治から周蔵に一度連絡があった。オノラなる人物は、秘密結社のドアマンとのこと。秘密結社は階段型になっており、薩摩はオノラなる人物しか知っていない。オノラは薩摩を洗脳する係であり、オノラを動かす役目がその上におり、さらにその上は、との順になっていて、頂上を知らないという方式の、奥の深い思想結社である。コクトーの結社は、それとは別で、宗教が基盤である(「周蔵手記」昭和六年条)。オノラは、薩摩が自伝「わが半生の夢」で、自分の唯一の親分という人物で、フランスの文部大臣の後、パリ学園都市の総裁になった。

 昭和八年十一月八日に上原元帥が亡くなるが、病床で手を握った周蔵に二度も云った言葉は、「これからはアラキを頼れ」というものであった。荒木貞夫は陸軍士官学校第九期の卒業で、昭和六年から陸軍大臣の職にあり、十月に大将に進級していた。つまり、荒木が上原派(陸軍九州閥)を引き継ぎ、それが後の陸軍皇道派となったわけである。

 

 「周蔵手記」昭和八年条。

 薩摩が十月ころから、何度か来る。阿片を手に入れたい由。取り合わぬが執拗である(中略)。

 又、妻君のことも相談さる。だふやら日本に連れ戻ったらしい。臆病者め。妻君を連れ戻るのに、一緒の船でありながら、一度も会わなかったらしい。

 妻君のことは、だふしたらよいか分からない、と相談さる。

 牧野さんに聞いて、金持ちでもあり、正木先生の所が よいとのこと。

 しばらくは大磯にて、牧野先生などにも診てもらって、長野に移すのがよいだろうと伝う。

 ※この後に、前掲の謎の手紙についての感想「なる程、こういうこと・・・」が続く)

 

 帰国した薩摩が十月ころから度々訪ねてくる。モルヒネ中毒の友人のために、必要だからという。周蔵はケシからはもう手を引きかけており、取り合わなかったが、あまりに執拗なので、知人に頼んでやった。

 薩摩は、千代子を日本に連れ戻った。結核の感染を怖れて、同じ船に乗りながら一度も顔を会わさなかったことを、周蔵は憤慨している。千代子の今後を相談された周蔵が、牧野医師に聞くと、正木先生の所がいい、と教えてくれた。正木不如丘(明治二十年〜昭和三十七年)は上田市生まれで、昭和四年以後、サナトリウムの富士見高原療養所を経営していた。大磯とあるのは、薩摩の別荘である。

 周蔵は、「周蔵手記」昭和九年二月条で、藤田嗣治のことを記している。藤田は、薩摩の帰国について日本に戻ったのである。薩摩が昨年十月から、周蔵に阿片の入手を頼んできたのは、藤田が伴ってきたマドレーヌがモルヒネ中毒だからであったとのこと。また、例のモーリス・グドゲのことも、この時聞いた。

 周蔵は、薩摩の主催する晩餐会に呼ばれ、出席はせぬが挨拶に行くと、遠目のつもりが目の前でオノラを見たことを、藤田に伝えた。藤田は、オノラは自分と薩摩が大物だと思っているだけで、実際には使い走りしか出来はしない。然し、フランス人は悪智恵が働くから、油断は禁物と云われた。

 藤田は、祖国に戻ったにも関わらず、薩摩に甘えて頼るポーズを取っている。因みに藤田は、日本一の画廊、といっても画廊らしきものはそこしかないが、日動画廊で二月に展覧会を開いたという。周蔵は、どんなものか見たかったが、やはり近づかないに越したことは無いと思い、遠慮した。それが残念である。

 オノラは満洲を視察するために離日した。周蔵は心配するが、荒木陸相は、何も隠すことはいらん大っぴらに見せたらいい、と太っ腹である。荒木大将に藤田のことを報告すると、グドゲのこともコクトーのことも知っており、自分は英国に道を作ってある、ということであった。

 「周蔵手記」昭和十一年条。

 藤田は、マドレーヌという女を連れて日本に帰っていた。昭和十年春ころ、何とか女をフランスに戻したが、嫉妬からまた日本に舞い戻った。藤田には後釜が出来ていたが、人の悪い奴がおって、マドレーヌにわざわざそれを説明したそうで、嫉妬も頂点となったのだろうが、さすがは藤田で見たくもなくなった女であるも、自宅に伴った由。「離れてくれない、だふしやふ」、藤田とも思えない情け無い様子であった。

 藤田は荒木閣下との道は作らずにおるようだった。理由は分からない。宇垣の方を選んだのかも知れないと思うに、それ以上は知る由もない。自分よりかはるかに物を見、考える人物であり、また、佐伯などとは比較にならない鬼才の画家でもあるに、必要以上の事を云う訳にはいかないと思う。

 そうするうちに、事故が起きた。モルヒネ中毒が進んでいたのか、マドレーヌが入浴中に死んだ。六月二十九日のことである。牧野医師が駆けつけた時は、もう手遅れであった。何しろ変死、しかも外人である。牧野は、布施一の処に行って善処を頼めという。布施さんにどういう力があるのかと聞くと、「行ッテ話セバ分ルヨ。特高ノ諜報部ダヨ」と云われ、周蔵は目を剥いた。

 急いで布施の所に行き、すべて解決した。周蔵は、時に厄介と思ったこともあったが、乞われるままに、布施に金を貸しておいて良かったと、つくづく思った。藤田は一応、警察で調書を取られたが、担当官は一文字も書かなかったという。

 七月の末頃、藤田のことを話していると、牧野医師は驚くべき事を言い出した。

 

 「佐伯はあれでも、布施さんの手伝いをしながら、やる事はやったんだよ。あれは大谷から逃れて、もう一歩前進しようとしたんだ。理由は、目の上のたんこぶの兄貴から、離れたかったんだ。

 兄貴と出来ていた妻君は、女の意地で佐伯を引っかけたらしい」

 

 つまり、布施一が警視庁特別高等警察の諜報をしていたが、佐伯はそれをたすけて相当の働きをした、というのである。兄の祐正が大谷光瑞師の覚えめでたく諜報活動にも携わっているが、何時までもその下をやらされるのが嫌だった佐伯は、何とか大谷配下から逃れようとした。そこで特高との道を選んだ。

 これだと、佐伯が無政府主義者椎名其二に接近した背景も理解できる。椎名がパリで佐伯の面倒を見たのも、逆の真なのかも知れない。藤田が「佐伯は毎日友人たちの行動を記帳していた。それを見てしまった人間がいて、そのことで佐伯を憎んだようだ。それで私刑にあったのではないかと思う」と云ったことが、すこぶる肯綮に当たる。だが「佐伯は薩摩と同じで、兄が大谷の手伝いをするのを見て真似をしたかったのではないか」というのは、少し違っているようだ。「真似事ではなかった」という点において。

 また、兄の祐正が「佐伯が帰国時代にプロレタリア派に走ったので、光瑞猊下に切られた」、というのもそれなりに理解できる。特高のことをプロレタリアと言い換えたのである。

 周蔵は、布施さんに、佐伯のことを教えてくれるように頼んだ。布施曰く、記帳の件は、もともと上原閣下から大谷光瑞に依頼した(これは甘粕の先年の言と同じ)。そこで、北野中学出ということで佐伯が選ばれた。大谷は佐伯には興味がなく、万一周蔵に不利なことが起きた時には、佐伯が一緒に飯を食っていた、と証明できればいいと思い、救命院にまめに行くようにと命じていた、と思う。佐伯からもそう聞いた。

 ところが、佐伯は二番手では嫌で、兄貴がうとましく、兄貴より前に出ようとして、工作するところがあった。周蔵に対しても、変に凝りだして、記帳もそうだが、凝ってしまった。それが災いしたとのこと。

 佐伯は絵だって、随分凝ってしまって、藤根さんと自分とで、随分手伝ったよ、との事。画布、画布と言って、布の上に塗るものを凝ってね、との事。

 あの男は理論がなかったから、凝るだけだから失敗したのではあるまいか、絵の事はよく分からないが、と布施さんは云う。だけど佐伯は周蔵には感謝していた。巻さんが先付けで絵を買うのも、ケサヨが貢いでくれるのも、すべて周蔵の差し金と思っていたからである。布施が云うには、佐伯は米子に仕上げをしてくれ、と頼んでいた。ところが、巻さんは他人の手で仕上げた物は、その最後にやった人の作品になると云って、頑として譲らないのだよ。あれだと二束三文らしい。二束三文というのは米子の言かと聞くと、まあそうだが、佐伯は生きて居るころから、米子に仕上げをさせていたよ、と布施さんはいう。それは周蔵も知っているが、飼い主は巻さんなのだから、余計なことを云う必要もあるまいと、周蔵は思った。

 何事も、何が正しいかは、時が過ぎて見ないと分からない。その時も十年、二十年ではなく、時には百年も二百年もの時を必要とする事さえあると云わるるは、上原閣下であった。巻さんは巻さんの用心深い流儀がある。黙っておる方が良かろうと、今は思う。

 藤田は昭和十一年十二月、新しい女と結婚した。大洗の辺の海の女で気が強く、藤田は周蔵に「丁度巻さんのやふだ」と説明した。その女性のためにも大金が必要だった藤田は、秋田の財閥平野某から借金をして面倒になったが、絵の方で解決した(「周蔵手記」昭和十二年条)。

 周蔵が薩摩のことを藤田に聞くと、薩摩は周蔵のことは何とも感じていないが、自分(藤田)のことは、名誉の敵と思っているようだ。マドレーヌに「藤田は日本で新しい女に夢中だ」と告げ口したのは、どうやら薩摩のようである。周蔵は疑問に思った。以前佐伯と千代子のことで「薩摩は紳士だ。汚い手を使わない」と云ったのは、他ならぬ藤田ではないか。それをマドレーヌにだけは使ったのか。

 

 「それがどうも薩摩は、俺が睨んでおったよりか脳味噌が入っているらしい。つまり、オノラは薩摩の親類の唯一であるから、オノラを薩摩に預けておる訳だが、オノラがコクトーに云ったのであるから、間違いない。

 自分は、あの男の頭には、思考、脳味噌が入っていると思っていなかったから、真っ向から馬鹿にしていたのだが、そうでもなかったのだ。君をかなり騙しておる。あの男はね、日本では前田侯とつながっているんだ。君は薩摩の言いぐさだから、前田がフランスにおると思ったようだが、あれは薩摩の索だったんだよ。薩摩は、前田がフランスに居るように、君には話していただろう。

 薩摩は前田に動かされているんだ。前田だけらしい。それで前田のことは煙にまこうとして、前田の名前を出しながら、違う事を云う」

 

 藤田によれば、薩摩の云う前田の話は、みんなおかしいのだのことである。薩摩を見くびりすぎていたことの反省で用心深いが、周蔵はその通りには受け取らない。薩摩は自分が一番になりたいのだから、前田侯でも西園寺公でも、金で押さえて自分の下と見ていたいのだから、そう気にする必要はない、と考えた。

 満洲に渡った甘粕正彦のことは、たとい表半分だけにせよ、世上によく知られているから、ここでは詳しく書かない。「周蔵手記」によると、甘粕は石原莞爾と結んで満洲事変を企てたが、一方では東条英機と手を組んでいて、石原の情報を東条に流していた。藤田嗣治は、上原の死後は荒木とは繋がらず、やがて海軍と結んで、独特の迫力ある戦争画を遺した。真の愛国者であった藤田は、戦後の日本社会と日本人、日本画壇ら一切に見切りを付けて日本を去り、カトリックに改宗し、レオナルド・フジタと改名し、フランスに帰化した。離日の際に横浜港にフジタを送ったのは、画家の鶴田吾郎と周蔵だけだったという。

周蔵は、昭和六年舌ガンの手術をし、あと三ケ月と云われた命をとりとめた。

 周蔵はその後をどうしたか。「周蔵手記」昭和十一年条に、「タバコ屋ノ家主小川サンカラ清水ナル坊主紹介サル。千葉ノ花島トイフ所ニ畑ヲ借リル 七月」とある。その清水和尚の紹介により、千葉市の郊外犢橋にある真言宗明星寺という無住の寺に疎開し、戦後を暮らした周蔵は、昭和三十九年に亡くなる前に、幾つかの遺書めいたものを残している。「周蔵遺書」と名付けたものはその一つで、本稿に度々引用したが、内容は周蔵と佐伯祐三との関わりと、所蔵の佐伯作品の来歴を述べ、将来、明子が処分するに当たっての心構えを説いている。

 米子が死ぬまでは、この絵は処理できないし、自分は数ヶ月しか命はなく、腹膜に癌のある母さん(巻さん)の生きているうちに処分の機会は来ないと思う。だから、明子にこの処分を頼まねばならないが、息子の緑に頼まないのは、緑は米子と同じ性格だからである。誰かに相談するなら、画商や出版社、記者はやめろ。作家に頼むことは良いと思う。もし芹沢光治良という人が生きていたなら、彼を訪ねなさい、という。 遺書の内容はほとんど、本稿でこれまで述べてきたものに尽きるが、今ひとつ輪郭が明白でないのは、佐伯の死後に周蔵夫妻が渡仏して、佐伯の死因を探求した事実である。「周蔵遺書」の中に、重大な記載がある。

 

 シカシ、父ハ佐伯君ハ、ヨネトイウ妻君ニヨッテ、少量ヅツ 砒素ヲ投与サレテイタモノト、判断シテイマス。彼ハ昭和三年、パリノ精神病院デ 飲食ヲコトワリツヅケテ 衰弱死シマシタ。(中略)

 砒素ニ関シテハ、父ハ雑貨屋カラ確認ヲトリマシタ。

 

 昭和三年初春の渡仏の際は、佐伯はピンピンしていたのだから、砒素もくそもない。だから、周蔵が、パリの雑貨屋で米子が砒素を買ったことの確認を取ったのは、後年パリに行って、自らしたことである。

 それでは、渡仏の時期は何時なのか。ここで簡単な周蔵年譜を作ってみる。

 

昭和三年四月末。  欧州から満州経由で帰国。

    六月中。  張作霖死亡のこと聞く。

    十月。   佐伯死亡のこと、佐伯の兄より聞く。田中清玄、磯子署か

          ら脱走。

   十二月初。  林次郎、ケサヨを連れて故郷に帰る。ケサヨ自殺す。

昭和四年三月。   林次郎上京す。ケサヨのこと聞く。

    九月。   藤田嗣治帰国す。薩摩と佐伯のことを聞く。

   十二月。   甘粕、日本に戻らず、朝鮮に落ちつく。

暮れから正月。   毎度、中村屋で飲み食いして過ごす。   

昭和五年三月。   薩摩千代子から巻さんあてに、読めない手紙届く。迎えに

          来い、とのこと。

    四月。   満洲へ発つ。甘粕を訪ねる、二ヶ月の予定。薩摩から佐伯

          の絵が届く。

    十一月中。 巻さんの申し出で、難産児の栄を入籍するが即死ぬ。北海

          道に行く。

昭和六年 九月。  満洲へ甘粕を訪ねようとしていた時、満洲事変起こり、延

          期。

          癌研で舌ガン手術。三ヶ月の命といわる。

          薩摩から葉書が来て、千代子の病気のことを告げた。

          藤田嗣治(ネケル)からオノラについて手紙。

昭和七年十二月。  藤田に連絡したいが、旅行すると手紙届いたので、手紙出

          さず。

昭和八年。     薩摩が千代子を連れて帰国。三年前の手紙の意味ようやく

          分かる。

 

 再度渡仏したのが何時なのか、正直言ってよく分からない。しかし、藤田嗣治の帰国(昭和四年九月)よりは後であると見て良いのではないか。再渡仏の名分は、薩摩千代子の病気見舞いだったと伝わるが、昭和五年の謎の手紙を契機にしたものとは思えない。この手紙の時は、まだ千代子の病気が発現していないからである。ところが、手紙の後とすると、千代子が何故会ったこともない吉薗巻に宛てたのか、そこが分からない。千代子の発病が分かった昭和五年四月の満洲行きが臭いが、これくらいでは渡仏の名分には足りないと思う。

 いずれにせよ、再渡仏した周蔵は、パリの町中の佐伯一家が住んでいたあたりの雑貨屋で、砒素入りの殺鼠剤が売られており、それを米子が買ったことまで、突き止めた。云われてみれば、佐伯の症状は、吐血、しびれ、譫妄状態など、典型的な砒素中毒である。また、弥智子も、砒素中毒と見ておかしくないし、現にネケル医師がそれらしい報告(薬物中毒)をしてきている。真相は、米子が父子を毒殺をしたのか、それとも・・・これについて、周蔵は結論を出していない。それは、周蔵が可能性は高いと感じるように、佐伯が本格的な精神分裂症だったなら、自分でやっておきながら、身近な者になすりつけることが大いにありうるからである。佐伯が分裂症予備軍だったことは確かだが、果たして本物の分裂症患者だったか、周蔵は友人故にそこまで踏み込めなかった、と明子に告げている(「周蔵遺書」)。結局、真相は分からない。

 

 あとがき

 「周蔵手記」の以下の文を再度掲げて、あとがきの代わりとする。

 「巻さんは、他人の手で仕上げた物は、その最後にやった人の作品になると云って、頑として譲らないのだよ。あれだと二束三文らしい」

 二束三文というのは米子の言かと聞くと、「まあそうだが、佐伯は生きて居るころから、米子に仕上げをさせていたよ」と布施さんはいう。

 それは知っているが、買い主は巻さんなのだから、余計なことを云う必要もあるまいと思った。

 何事も、何が正しいかは、時が過ぎて見ないと分からない。その時も十年、二十年ではなく、時には百年も二百年もの時を必要とする事さえあると云はるるは、上原閣下であった。

 巻さんは巻さんの用心深い流儀がある。黙っておる方が良かろうと、今は思う。

 

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