天才佐伯祐三の真相    Vol.8

 

 第七節 佐伯夫妻の帰朝報告

 佐伯が神戸に着いたのは、朝日晃の年譜は、大正十五年三月十五日とする。正しい日付なのであろう。「救命院日誌」は、三月二十六日金曜日午後四時に、佐伯が玄関に立ち、「大阪デ疲レトッテ 飛ンデキタンヤ」と叫び、診察室に入ると泣き出すシーンで帰国時代が始まるから、日付としては合う。

 その「救命院日誌」は、佐伯がパリ留学の実態を綿々と周蔵に報告する体裁であるが、佐伯文学の極地ともいうべき妖気が漂う。そのまま書き付けていくと、私なぞはたちまちその毒に中てられてしまうので、ここでは簡潔に要約し、原文のごときは、修飾のために合間に示すにとどめたい。

 「救命院日誌」大正十五年三月二十六日条続き。要約。

 佐伯は、米子と子供を大阪に置いてきた、という。立て続けに「家捜シテエナ」と頼む。米子が下落合には戻りたくないと言うからである。その理由を、目下家を貸している鈴木が厭だとかいうが、はっきりしない。周蔵は家のことを了解し、大磯で良いかと尋ねると、佐伯は大層喜ぶ。周蔵は、若松も藤根も、大磯に別邸を持っているから、何とかなると思って言い出したのだが、佐伯が余り安直に喜ぶので、却って焦り、早速初台の薩摩治郎八を尋ねることにした。電話であらましを話すと、即了承される。

 三月二十七日条。要約。

 周蔵は大磯に知人の家を借りたと告げる。佐伯は相変わらず任せっぱなしで、家主には興味なし。「代筆」のことには、まだ触れないようにした。

 四月一日条。要約。

 ネケル医師の話が出る。パリでは、米子は一緒に写生に行き、自分も一応一、二枚は描くが、佐伯の後ろにいて対象物を見ながら、佐伯の画面と見比べて覚えておき、家に帰ってからタブローを仕上げる。ところが、家には画友たちが食事目当てで集まってくるので、彼らに食物とワインを出し、皆が帰ってから、夜中から朝までかかって仕上げる。その間、佐伯は階段にいた。

 夜、周蔵は、加筆に関する熊谷守一から聞いた話を、佐伯にしてやる。

 四月二日条。(午前1時から徹夜で語る)要約。

 佐伯は唐突に、パリのアパートの話をする。里見、山口、小島、前田、椎名と他に二、三人交代で来て、呑み食いし、だべり、日本とまるで変わらない生活である。

 兄が迎えに来るというので、すぐに分かった。兄はワシの絵が売れると踏んだのだ。百枚描いた百五十枚描いたちゅう手紙を、山田にでも出すように、米子から云われた。ワシ あほらし思たけど、山田に手紙書いた。兄さんは山田から聞いたんやろと思う。米子に理由を聞くと、将来のためや、絵はある程度、数描いたコトになってる方が先に行って都合が良い、という。

 ブラマンクの話もする。自分がアカデミック、と叱られたといわれるが、「ワシ 何云ハレタンカ判ランカッタ。何ヤ 気違ヒミタヒナ男ヤッタ」。

 ある日米子が言い出した。「ブラマンクの黒はね、あれは日本画なのよ。あれは北画の形式を利用なされているのよ。あたくしがお教えするわ」

 しかし自分は上手になれなかった。頭痛がして毎日原っぱで寝ころんでいると、米子は、外では景色を見ているだけで、室内でタブローにした。「アンオ人ハ 天才ヤネン」

 ある日、米子から云われた。「明日 里見さんに これ見せて。ゆうべ描いたと云って。描いた人はアタクシではなくてよ。アナタよ」。

 佐伯は修業にもっと時間を掛けたいが、米子は「それは許されない、私の意志と違うなら離婚して下さい」と宣言する。米子を偉いと思ったのは、「ブラマンクハ ソロソロ 終リニセントイカン」と決めたからである。愛弟子の里見には悪いが、ヴラマンクは大した画家やないから、もう終わりにする。里見に義理を立てるためには、「ブラマンクが マアマアや言う画を描けば良いのだ」と、言いながら、米子が一時間くらいで荒々しく描いた絵を持って、ヴラマンクを尋ねる。今度は「ずいぶん色が良くなった、上達したな」と褒められた。丁度その頃、周蔵から手紙を貰い、絵にも流行があるという、熊谷の言葉を知り、米子も同じことを言っていたので、ますます感心した。

 クラマールは悪い土地ではなかったが、隣の川口軌外が家に入り浸りで、米子が好悪どちらか判らないが落ちつかないので、モンパルナスに引っ越した。仲間が毎日集まってきた。その頃、周蔵から手紙が来て、「馬の目」の説明を受けたので、思い当たったのは、米子が熱心に教えてくれても自分は上達しないのは、実は米子の絵が自分にはちょっとおかしく見える。たとえば通行人の形など、米子ははっきり画くが、自分にはあんなにはっきり見えない。これでは米子を真似てもダメだ。

 そこで気が付いて写真機を買った。周蔵が、写真は嘘を写さんと言ったことを、思い出したからだ。外で写生もした。外では描かない米子に代わって、自分が屋外で写生した。

 そんな時に兄が迎えに来た。米子は画を見せて、入選は間違いないから、展覧会に出す、と言い出した。「展覧会ハ ヤメタ方ガエエト ワシハ何回モ言ウタ。サレハ ワシノ立ツ瀬ガナヒモンナ」。アカデミックやフォービズムやと、いろんな事があったし、どうせ入らんやろと思っていたら、全部通ってしまった。フランス人の女画商がドイツ人の客を連れてきて、米子の話では、四枚で八百円で売れた。

 米子は俄然強気になり、祐正と儲け話に熱中した。画商をやる気らしい。自分に絵を描けと言いながら、兄は帰る来客を送って夜の町に消え、その間に米子はタブローを仕上げた。

 周蔵の送金もつかってしまい、芹沢に絵を売りに行かされたが、この人だけには売りたくなかった。自分が街頭で描いているところを見ていて、小品しか描けず、大作は米子が描いていることを知られているからであるが、米子が平気だと言うから、自分は売りつけた。

 早く大磯に移りたいと云いながら寝てしまう。(朝十時就寝)

 四月二日条(注・日中のこと)要約。

 昼過ぎ、米子から周蔵に電話あり。夜六時、牧野医院で会うことにする。米子は勝手に上京していたのである。

 周蔵は、行った時からの状況を、思いつくままでいいから話して欲しい、と頼む。

 応じて米子は喋り出す。マルセイユまで小島という画家が迎えに来てくれたが、奇妙なことに、誰に頼まれたかを言わず、自分たちとも会話をしなかった。それは佐伯が不機嫌だったからである。実は神戸を発つ前に、先生(周蔵)から大金を頂いたようだが、あれはお幾らでしたか?(周蔵は、忘れたと答える)

 その金で、せめて自分と子供だけは一等にして欲しいと頼んだが、佐伯は「大した金やない」と言うだけで、とうとう一等切符に変えてくれなかった。冷酷な男である。不機嫌な佐伯を怖がって会話をしなかった小島は、淋しく別れていった。

 少しして里見を尋ねると、他の日本人画家とは一寸違ったものを描いていた。佐伯はすぐ、それに興味を持ち、無理に頼んで、ヴラマンクを紹介して貰った。日頃から自信のある裸婦の絵を持参して見て貰ったが、里見の前でけなされた佐伯は自信を失い、描けなくなってしまう。

 ヴラマンクの絵は丁度北画のような絵で、墨を使って描くような、筆力に激しさのある一息一筆描きのような絵であったから、佐伯にその運筆を教えた。佐伯は喜んで、毎晩「さあ稽古や稽古や」と楽しんでいたが、筆に力量がなく、写生に行って説明しても、結局ダメだった。佐伯は突然、里見に頼んでヴラマンクに見て貰ってくれと言い、私の描いた絵を持っていった。何とか及第した。

 当初のホテル住まいは、ヤチが泣き虫で近所から嫌がられていたので、先生(周蔵のこと)がクラマールに家を手配してくれた時は、本当に嬉しかった。しかし、佐伯はクラマールが嫌であった。それは中山巍のせいかもしれない。クラマールの家の説明をしてくれたのは中山だが、そのとき小島も一緒だった。後日、藤田嗣治が小島に家を捜させていたと聞き、佐伯は私に言った。「藤田は薩摩治郎八から頼まれただけや」と。家を捜してくれたりしたけど、本当は皆、どこかから申しつかっていただけと判った。中山も、その後とても親切になり、買い物を手伝ったりしてくれた。佐伯はそれが嫌だったようだ。

 (周蔵は、佐伯がネケル医師に移転を頼んだようだ、と判断した)

 クラマールを移ることは、とても気の重いことだった。家主のドモリニールは、先生(周蔵)のことを時々話されて、それで親しくなったのだが、先生のことよくご存知であった。(周蔵は、クラマールの家は薩摩が用意したから、大家が自分をよく知っているというなら、薩摩がそのように話したもの、と推定した)

 モンパルナスの家には、友人たちが毎日押しかけて来た。佐伯が「メシ出スヨッテ 来ヒヤ」というからである。みな大喜びで来たが、乞食のようで、しかも下品で、私はとても口に出せないほど恥ずかしかった。遊郭に遊びに行く金まで、佐伯は出してやった。

 十五区は親しみやすい下町で、毎日二人で写生していたが、ある日佐伯は私に言った。「アナタハ、繪ヲ描カナヒデホシヒ。ツマリ 写生ハシナヒデ下サヒト。ソノ夜、マタ言ハレマシタノ。少シ教示シテホシイト」

 それで私は、佐伯の描いた絵の手直しをすることになった。佐伯について、どこへでも行き、佐伯が写生をしているはたで、ヤチと私が待っている。夜手直しするには、佐伯の描く場所を見ておく必要があるからである。だから先生(周蔵)が、写真機や絵葉書のことを手紙で教えてくれたのは、大変助かった。

 (周蔵は、芹沢に絵を売った話を聞く)

 芹沢氏はそもそもが祐正が船中で知り合い、マルセイユまで迎えに行った時に、祐正から芹沢夫妻を紹介された。その時、私は身に余る言葉を頂いた。久しぶりで、美しくたおやかな日本女性を見たと。その上、いつも佐伯の後ろに潜むようにして、慎ましい、とも褒めてくれた。

 (周蔵は、その言葉通りなら、芹沢は牧野のような好色家だと思う)

 祐正が芹沢を家に誘った。芹沢は尋ねて来た理由を、とても佐伯の妻として似つかわしくないと申しますか、お気の毒に思えて、一度伺いたかった、と言った。

 ある時、佐伯が金策を芹沢に相談すると言い出す。「アノ男ハ アンタニ気ガアルサカヒ 用立テテクレハルヤロ キット。アルヒハ 繪ノ一点ヤ二点 コフテクレハル ヤモシレン」

 (それから周蔵は牧野と話す。牧野は、米子がヤチは貴方の子だと言ってきたことがある、と言いだし、周蔵は驚く。牧野は更に、米子から聞いた佐伯の性的障害のことを話す)

 (周蔵は再び、米子からパリ生活の詳細を聞く)

 佐伯は友人を伴って写生旅行に出かけたが、費用はすべて佐伯が出した。そのくせ自分は絵が描けなかった。兄がパリに来てからは、やや描けるようになり、パリ十五区の下町のお店を、一軒づつ描いていった。私が佐伯を手伝ったのは、時によって違うが、ローマ字を描いてやったことは多い。

 私は自分でも結構描ける自信があるが、佐伯を手伝ったのはローマ字だけである。

 ローマ字は、横線が細ければ縦線を太く描く。平筆を使い、ただ筆の形の通りに描けばいいのだが、それが佐伯にはできないのです(といって、ニヤッと笑う)。

 (周蔵は米子に、「アナタガ思フニ、現在ノ佐伯君トアナタトデ、画ノ力量ハ ダチラガ上ト思ヒマスカ」と聞く)

 それは判らないが、でも夫の絵はまだ小学生の絵である。文字を入れてみたら、それだけで絵が生きてくる。考えてみても、資生堂の文字を描かないのは、おかしいでしょう。そこに点や△や×印を描いたのでは、模様になってしまうでしょう。

 ユトリロという画家の絵が丁度同じように、パリの街並みを描いているが、店の名や内容などを、壁などに描いてある。それを見て私は考えた。ユトリロはとても華奢な上品な絵である。美人画が風景画になったようなものである。でも何となく物足りない。白を基調に上品に描いている。

 ところがマチスやドランなどを見たら、とても大胆で、丁度、アカデミズムとフォービズムの違いのようなものがある。これを佐伯に勉強させたい。私は帰路の船中でずっと考えてきたが、これまで佐伯に使った金を無駄にしないため、もう一度パリに行かせて欲しい。今のままでは、佐伯は何も描けないペテン師みたいな画家になってしまうからである。

 パリで私は、佐伯の反対を押し切って展覧会に出品した。佐伯の写生を私が手直しして、看板や屋号などのを文字をきちんと入れた絵で、北画を上品に現したものである。

 (周蔵は、米子が牧野との浮気がばれているのに、平気な顔で夫人から茶菓や食事の接待を受けるのが理解できない。そこで巻に聞くと、女とて十人十色、百人百色、と笑う。牧野は周蔵に、今後も佐伯の画業を援助するように勧める。周蔵は夜、米子との会話を読み直してみて、佐伯の不能症が気になった。女性に聞きたいことがあるが、未婚の巻には失礼と思い、明日、「額田ノ母サン」に尋ねようと思う)

 四月三日条。要約。

 周蔵は大森の額田医学博士の妾宅を訪ねる。妾の母の女将が近くの寺の櫻見物に誘ってくれた。周蔵のメモ(「救命院日誌」)を何回も読んでから、言う。

 「コノ夫人ハ本来 男サンガ好キナンデセフネ。貴男ニハダフデスカ、オ誘ヒサレマシタカ?」

 周蔵は、「そういう雰囲気の時はあったが、何となく避けたので、はっきりと誘われたことはない」と答える。額田のお母さんは、米子は心と肉体が別で、夫に対しては強い忠誠心があると思うが、肉体は心とは別に求めてしまうのだ、という。何故との周蔵の問いに「サレハ、強烈ナ極地ヲ 知ッテヰル人ナノデセフ。サレハ仕方ノナヒコトデスヨ。夫カラ覚ヘタコトナラ 夫ヲ求メレバ良ヒケレド 夫デナヒ対象カラ覚ヘタ場合ハ 道ヲハヅシテ シマフノデセフヨ。

 以下、男女間の機微について、教えてくれた。

 夜七時。牧野から電話があり、新宿内藤の旅館からというので、当然昨日あれからずっと米子と一緒だと覚る。牧野が米子から聞き出したのは、佐伯は間違いなく、米子にはデキナイとのこと。関係は一度しかない由。佐伯に確かめると、その通りであり、米子が他人とデキテも構わないと言う。

 佐伯は「大磯ハエエ。絶対ニエエ」と云い、理由を聞いても、ニヤニヤするだけである。

 

 第八節 二年半ぶりで記帳再開

 さて、ここらで明確にしておかねば、読者から不公正の誹りを受けるだろう。実は、「救命院日誌」はすべて、後日になって佐伯が文案したもので、内容の真実性はともかくとして、この時点では佐伯はまだ周蔵に帰朝報告をしていないのである。すなわち、

 「周蔵手記」大正十五年五月条

佐伯ハ 戻ッタヤフダ。トヰフノハ マダ會ッテヰナヒ。

戻ルナリ 三十枚カラノ繪ヲ 買ハサレル。巻サンノ教ヘニ従ヒ 金ヲ貸ス時ハ 繪ヲ出サセル コトニシテヰルガ、藤根サンガ サレヲ取リヲコナッテ クレタラシヒ。

金額ハ二千圓近ヒトノコト。

△何故マトマッテ金ガヰルノカト 聞イテミルト 借金ヲシタラシヒ トノコト。

△行ク前ハ 実家ノ寺ト我々カラ ケッコフ巻キ上ゲテ ヰッタヤフダガ 不足ダッタラシヒ。

尤、大谷サンハ出シテクレル訳デハナク、逆ニ大谷サンハ 色々ナ名目デ集金ヲスルノデアラフガ サレハ 兄ノ方デアッテ 佐伯ガ払フモノデハ アルマヒカラ 不可解ダト思フ。

難シヒ性格ヲシタ 男デアルカラ 自分ニ分カラナヒ所ガ アルノデアラフ。

然シ 兄貴カラ聞ヒタ所デハ 自分ノ尾行ノ命令ハ 出テナヰヒラシヒカラ、自分ガ 薩摩ニ疑問ヲ 抱ヒタノト同ヂヤフニ 自分ヲ疑ッテヰルノデアラフ。

繪ノ代金ハ 本人モサルコトナガラ 妻君ガ決メタトノコト故 問題ハナカラフト思フ。

何ト云ッテモ 自分ニハ 繪トヰフモノ何タルカ、又 サレガ価値感ノアルモノカ否カ 計リ知レナヒノデアルカラ 云ヒ値デ了解スルノガ 一番角ガタタナヒハヅ。

 この文章にあるように、帰国した佐伯が上京したらしい。救命院に来たが、周蔵はまだ会っていない。佐伯の上京を知ったのは、いきなり三十枚の絵を買わされたからで、巻の教えに従い、金を貸す時は絵を出させることにしているが、周蔵の留守中に藤根がその金を立て替えておいてくれたのである。三十枚で二千圓弱の金額というから、一枚六十円強になる。資金使途を聞くと、どこかで借金したらしく、その弁済だというが、周蔵にはなぜ そんなに借金するのか、見当がつかない。

 周蔵の顔は見に来ないで、金だけせびりに来る佐伯の動静が、どうも怪しく思える。折しも、アメリカ回りの船に乗った祐正が、佐伯に三日遅れて神戸に着いた。そこで祐正に会って確かめたところ、佐伯には周蔵尾行の命令は出ていないと云う。だとすると、自分が薩摩に目を付けたように、佐伯は自発的に自分を怪しんでいるのであろう。

 絵の値段の方だが、佐伯との間は曖昧で、売買か貸借だか判らないところが周蔵には気になっていたが、先方の言い値による限り、もめることはあるまいと思った。

 「周蔵手記」大正十五年六月条

佐伯ハ家ニ落チツカヅ、貸家ヲ捜スコトトナル。

丁度 閣下ニ會フ機會ノ時ナノデ ウカガッテミル。丁度 ヨカ人物紹介デキルト 石田サンナル人物ト會フ。正シク奇縁デアル。佐伯トハ 引ッ張リノ関係ラシク 大磯ニ良ヒ家ガアル ト云ハル。運ノ良ヒ男ダ。

佐伯ハ 石田ナル親類ハ 知ラヌトノコト。然シ大磯ハ 即マトマル。

 佐伯は下落合の家に落ち着かず、貸家を捜してくれという。上原元帥に会う時機なので、伺ってみた。閣下は、丁度よか人物がおるので紹介してやろう、と云われ、石田なる人物を紹介してくれた。石田に会ってみると、まったく奇縁で、佐伯とは縁戚になると云い、大磯に丁度良い家があるんだがと云われた。佐伯に伝えると、石田なんて親戚はおらへん、と言い張るが、大磯の借家の件はすぐまとまった。

 ところで、ここからが私(落合)の関与した奇談である。私は二十年ほど前に政治家の故石田博英さんの令嬢京子さんと知り合い、ついで博英さんにもお目通りし、ヨシ夫人とは懇意になった。石田先生は美術品に詳しく、蒐集も評判であった。ヨシさんを多少お世話したことがあって、お礼だと云われて与謝野晶子の書を頂いた。その時、ヨシさんと博英先生の遺品のお話をしていて、佐伯に全く関係のない時期だが、名前くらい知っていたから、「お宅に佐伯祐三なぞはありませんか」と質問したら、「佐伯は実家の親戚ですから、以前は二枚ありましたが・・・」と、たしかに聞いた。また、その後、ヨシさんの実家は京都のお寺と聞いた気もする。それなら間違いないと思い、今回電話で確かめてみようとしたら、ヨシさんでなく京子さんが出られて「いや佐伯とは親戚ではありませんが、ただ米子さんとは知り合いで・・・」という話のなかに、どこか迷惑そうな気配を感じて、それ以上追及しなかった。

 別に調べてみたら、ここに出てくる大磯の家を紹介してくれた石田は、たしかに秋田の資産家石田家の人だそうである。だが、「周蔵手記」でも佐伯が縁戚関係を否定したように、何か仔細があるものと察する。

 ところが 佐伯はおかしなことを云った。また例の記帳のことである。また怠らず付けてくれと云うのである。もう自分を餌にして 大谷さんから 経費稼ぎなどして欲しくないと云ったが、分かった分かったという様は 変更の意志のないことを現していた。

 然し 変更の意志のないことより 大磯のことに関する記帳の内容が 愉快であった。

 大磯の家を貸してくれたのは薩摩にして欲しいと云うのだ。フランスで 薩摩の豪勢な遊興ぶり見聞したが、そのお大臣ぶりは想像もつくまいと云う。薩摩とはその内どうしても知り合いたいと、妻君共々声を大にした。薩摩は大磯に立派な別邸あもっていると云うのである。

 それを知る理由は何故なのか。薩摩に近づきたい理由は何なのか。

 それとも もう知り合あっているとする可能性も高い。

 とにかく家は 石田さんの紹介で うまくいった。

 借家の話が済むと、佐伯はまたぞろ、おかしなことを言い出した。「救命院日誌」の記帳のことである。またも怠らずに記帳してくれ、と云うのである。大正十二年秋に佐伯が神戸に向かって以来、二年半の間、全く記帳していないから、お役御免と解釈していた周蔵は、面倒臭いことになったと思った。もう自分をダシにして、本願寺から経費をごまかすのはやめて欲しいと抗議したが、佐伯は判った判ったと、口では云うものの、取り合わない。云っても無駄のようで、やむなく記帳を始めることにした。

 大磯ノコトニ関スル記帳とは、三月二十六日条のことである。大磯の借家の件で、佐伯は注文を付け、貸し主を薩摩治郎八にしてくれと言いだした。フランスで薩摩の遊興ぶりを見聞したが、その豪勢さは、日本からではとても想像もつくまいという。薩摩とはそのうち、どうしても知り合いになりたいと、夫婦が声をそろえて希望した。その際、薩摩が大磯に立派な別邸を持っていると云うので、三月二十六日条では、周蔵が薩摩に電話で依頼する場面を創作したわけである。

 記帳しながら、周蔵は考え込む。フランスから帰ったばかりで、なぜ、こんなことを知っているのか。夫妻は薩摩に近づいて何をしようというのか。いや、もうフランスで薩摩と知り合っている可能性の方が高いのではないか。

 因みに、「救命院日誌」のうち佐伯の第一回渡航の前後の記事は、翌年正月に書かれた。大正十二年に救命院を去って大畑の実家へ帰っていたままの池田巻の名前が何回か出てくるが、これは文案者の佐伯の錯覚で、巻が周蔵の呼び出しに応じて救命院に戻ってきたのは、この年の九月末のことだった。

                                  (続く)

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