天才佐伯祐三の真相    Vol.9

 

    第七章  帰国時代

 

 第一節 家庭内暴力?

 大正十五年三月に帰国した佐伯はしばらく大阪の実家におり、五月まで救命院に現れなかった。上京してから「救命院日誌」を再開し、再開日以前の分を文案したことは前章に述べたが、それは、以下のようにまだまだ続く。

 大正十五年四月四日条、要約。

 米子は実家で暮らし、佐伯は救命院に寝泊まりしている。

 同月五日条、要約。

 佐伯は十時に米子から電話で呼び出され、渋々出かける。

 同月九日条、要約。

 一時五分過ぎ、電話あり。すき焼きの用意を頼まれる。六時頃、山田ともう一人を連れてきて、「ワシラ仲間デ協会ツクッタンヤ」といい、肉と野菜を持って帰った。(佐伯は里見勝蔵、前田寛治、小島善太郎、木下孝則と「一九三〇年協会」を結成、五月十五日から二十四日まで、京橋の日米信託ビルで展覧会を開催した。山田の名は見えない)。

 同年五月十二日条、要約。

 佐伯は大阪へ行き、留守に米子がヤチ子を連れて、救命院に来る。周蔵は、何故百枚描いた三百枚描いたと、友人知人に手紙を出すのか、と質問した。米子の答えは

 「アタクシモ 知リマセンハ。実際ニハ、自分自身デ仕上ゲタモノハ 十枚足ラズデスハ。サレモ、今度、持チ帰ッテ、先生ノ所ヘ オ持チシタト思ヒマスハ。焼キステルッテ、申シテイタノデスケド、結局ハ、思ヒ切レナカッタノデセフ。今回ノパリーデノ 佐伯ノ結果デスモノ」

というものだった。このとき周蔵の手元に、紙に書いた水彩画と墨絵が二十二枚、画布に描いた油絵が九枚ある。パリの佐伯から送られてきたものだが、「この絵は下手か」と米子に聞くと「下手と言える。それを百枚描いた五百枚描いたという手紙は、パリでの留学の成果が実ってきているとの自己主張だろう」と答えた。周蔵は「手紙は貴女が書かせたのではないのか」と更に突っ込むが、 「サンナ オロカナコトヲ」と否定される。

 米子は、フランスでの制作の実態を語る。佐伯が下塗りをした上に、米子が図柄を荒々しく入れる。前にあるものを大きく、奥になるものを極端に小さくする描き方が北画の形だから、風景画は描きやすい。二尺×一尺五寸くらいの大きさが、一番描きよい大きさである。それに、奥行を作らないで、正面だけを描く方法もある。「オ店ヤサンナド 一軒選ビマシテ、正面カラ描キマスノ」

 米子がいうには、佐伯はデッサンが済んだ状態で、迷ってしまう。その後は、佐伯の家庭内暴力の話になり、米子が泣き出したので、巻の発案で、四人で大京町の料亭に行く(母子が帰った後で、ヤチは牧野の子だとの噂がある、と巻は語る)。大磯の家の話になる。周蔵は、伊藤博文の別荘を買った人(薩摩)の使用人用の家だ、と説明する。米子は、佐伯が大磯に家を借りたいのは、そこへ米子とヤチ子を放して、自分は落合村におりたいからである、という。

 「救命院日誌」五月ノマトメ条、要約。

 佐伯は一九三〇年會という会合を、仲間と度々開く。その都度、救命院の手伝いのノブさんが、すき焼き材料を届けている。佐伯は外に虚勢を張り、その発現が一九三〇年協会で、佐伯は先頭に立って騒いでいる。

 周蔵は、佐伯の家庭内暴力について考察し、その原因が米子の不貞にあると推察する。佐伯の血液型はAB型なのに、弥智子はO型 である。先月のケルン大学の雑誌に、AB型からO型 は生まれない、との説明があった。しかし生物は突然変異を起こすものだとも、周蔵は考える(実際に、佐伯と弥智子の血液型は上の通りだった。佐伯がABで祐正がBだから、どちらかの親はAOである。とすると、祐正はBOでO型の米子との間にO型の子はあり得る。周蔵は、弥智子は祐正の子と考え、佐伯の死後、一旦は米子と祐正に殺意さえ抱くが、夫人の巻は、弥智子は別の男の子である可能性も高いし、何があったとしても、それは米子が神によって機会に恵まれたと解釈すべきだと周蔵を説き伏せ、思いとどまらせた。なお、周蔵は、第一次大戦中に危険を犯してケルン大学に行き、呉秀三の紹介状を持ってクレペリン教授を探したが会えず、その時知り合ったのがネケル医師だった。以上「周蔵遺書」による)。

 佐伯はパリでネケル医師にかかった時、周蔵との関係を聞き知っていたので、ここへ持ち出したものであろうか。因みに、このケルン大学云々が、武生市真贋騒動の時に祟った。武生市はわざわざケルン大学に照会して、雑誌の発行がなかったことを確認し、「救命院日誌」の偽造の証拠とした。作り物の日誌「救命院日誌」では、佐伯の筆が走り過ぎた結果、こういう矛盾点が随所にある(例えば、当時函館の谷地にいた池田巻が東京の場面に出てくるのはおかしい)。そのことは吉薗明子もよく承知しており、正面から糺された時には対応しただろうが、武生市は、疑義照会を一度もしないで、欠席裁判の形で、いきなり偽造と決めつけた。武生市が小林頼子を招聘した平成七年二月以後、美術館準備委員会の関係者たちが吉薗資料の真贋調査に名を借りて、米子加筆説を暴露する吉薗資料の抹殺を進めたことは明白で、争う余地がない。それは、あれだけ細かく吉薗資料のアラ捜しをして、あらゆる皮相的な矛盾点を列挙した小林報告書の中に、最も根本的な矛盾であるはずの「米子の加筆、代筆、代作を証する文書」に対する批判が除かれたどころか、その存在にすら触れていないからである。

 欠席裁判は、もとより意図された偽計である。吉薗に反駁の機会を与えないまま武生市役所が結論を出してしまうという筋書は、吉薗の小出し作戦を逆手に取ったわけだが、これを企画したのが、関係者全員なのか、それとも首謀者がいたのか、それだけが未解決なのである。この点の解明は、三木武生市長みずからなすべき課題ではなかろうか。

 

 第二節 パリ用の画布

 佐伯と周蔵は、大正十五年五月から「救命院日誌」の記帳を再開する。六月十日条は少なくとも、前記みたいな架空日付のものではあるまい。

 大正十五年六月十日条、要約。

 周蔵は、中野塔の山にすむ熊谷守一を訪ねる。熊谷は時計の修繕に夢中である。佐伯の絵を熊谷に評価して貰いたいと、前もって頼んでいたのだが、熊谷は自分にはよく分からないので、安井曾太郎に一九三〇年協会の展覧会の見物を頼んだという。周蔵は、安井なら武者小路さんの所で会っているから、是非紹介をと頼む。

 周蔵は、独自のものというのは、絵の場合はどういうものを指すのか、と問う。第一、絵の土台が違うではないか。熊谷を見ていると、板の上に直接塗っているが、佐伯たちは麻布、丁度赤飯ふかしの布のようなものに描いている。熊谷は、それは決まりがないのだ、いろいろやってみたら良いという。丁度良い折りなので、智恵を貸して欲しいと頼むと、熊谷は「それはまず、お前さんの云う土台を、独自にすることだよ。土台によって繪の具のつきかたが 違ってくるから、同じ人間の手とは思えないほど 違った画ができることもあるやね」と教えてくれた。

 そういうことは聞き逃すわけにはいかぬと、周蔵は、時計の修繕を眺めながら、問いただした。幸い池田巻の父の庄太郎が時計屋をしているし、その関係の岡谷さんも時計屋で、おまけにスイスのオメガの娘を嫁にしているからと、時計部品の調達を約束して、熊谷の歓心を買った。熊谷は、親友だった青木繁の話をしだす。熊谷は、佐伯の話になると、いつも青木を引き合いに出すのである。結論は、自分のように後悔しないためにも佐伯に尽くしてやれ、というのだ。それには、安井曾太郎から画才を正当に評価して貰い、胆略な独自の方法を自分で考えて見ろという。

「だが自分には絵が描けない。およそ筆を持って、絵というものを描いたことがない」と周蔵が云うと、「頭に描けばいい、それも君の得意の数学を描け、そうすればきっと良い方法が見つかる」と励まされた。(実は周蔵には画才もあり、大正九年には満洲の奉天で、清朝秘宝の陶磁器を写生した手腕はなかなかのものであるが、佐伯はそんなことを知らない)

 同六月十三日条。

 藤山サンカラ電話ヲ貰フ。午後一時ニ安井家ヲ訪ネルコトトナッタ。

 ここにいう藤山サンは、藤山雷太(一八六三〜一九三八)のことである。実業家だが美術に関心が深く、安井曾太郎(一八八八〜一九五五)とも懇意であった。安井は佐伯より十歳の年長である(後日条で、このあたりの記載の真相が分かる)。

 同六月十四日条。要約。佐伯の画の欠点はデッサン力の不足らしい。デッサンが画の基礎だとは分かったが、佐伯に今から基礎からやらせるのは難しい、と周蔵は考える。安井は、確かにデッサンから出直すのは難しいが、「君ハ ダノヤフニ シタヒノ」と周蔵に聞く。その後三時間ばかり、安井の画室で描くところを見学し、絵を貰った。

 周蔵は、佐伯の独自性のために、画布を作ろうと考える。板と布では、むろん布、それも麻布。安井は、「もし自分が佐伯なら、粗目のものを選ぶ」と云い、次に、地塗りをするのは絵の具から画布を保護するためである。地塗りには膠を使うが、画家は自分に合った地塗りを自分でするものである。適切な材料を知ることが才能の始まりである、という。

1.膠十匁を、百二十匁くらい水で溶く(湯煎にかける)。柔らかく溶けたら、亜鉛華を十匁くらい加える。それを刷毛を使って布に一息で塗る。乾燥は日陰で行う。(亜鉛華を加えるのはキャンバスの色を白くする目的であるが、人によっては、麻そのままの色が良いという)

2.地塗りは二回やる。一回目は麻布保全のため。二回目は絵具を受ける態勢のため。

(1)亜鉛華三に対して、鉛白七の割合で、別々の容器に入れる。そこへ、リンシード油とテレピン油を同量づつのものを加えて混ぜ、後に合わせる。丁度絵の具くらいの固さになる。それを一回目の(一.の地塗り)が終わって乾いたキャンバスに、織目の穴が隠れるほどに塗る。乾いたら紙ヤスリでこする。

(2)その上に、さらに別の地塗りを施す。亜鉛華五、鉛白五の割にリンシード油を混ぜ合わせてかき混ぜたものを、薄く塗る。これはかなり油が多く、柔らかい。これが仕上げである。

 安井は云う。佐伯の作品は、現在はとにかく人真似であって、それは佐伯に限らず、先日の展覧会の作品はすべて真似であった。よって、全員から共通した誰かの匂いを嗅ぐことができる。安井は、中村屋が贔屓にしている中村彝を例としてあげ、この淡いふわっとした画をアカデミ派という。柔らかい優美な色彩を使う。現在、パリに行くと、そういう画家が年輩者として上壇にいる。そして、フォービズム派が新鋭として、新しいということを旗印にして、押しているという状態である。

 佐伯は里見なる先輩の意向で、フォービズムの方向へ走り出した。自分の頭の中では混乱している間に、先輩によって新鋭らしい方向に旗を揚げたらしい。しかし、それは所詮二番煎じでしかなく、そうなると自分独自のものとはいえないから、独断を好む佐伯としては不満であろう。同じことをする者がいるということは、比較されることになるから、佐伯の自分本位がそれに満足しないだろう、と。その話を聞きながら、結局、己しかないものを作るしかあるまい、と周蔵は考えた。

 同六月二十九日条、要約。

 佐伯も泊まり込みで、画布づくりをする。なかなかうまくいかず、周蔵のは織り目から流れてしまう。膠の水の量が多すぎるのかもしれない。

 同七月四日条、要約。

 佐伯は二十日余りも救命院に泊まり込んで、画布づくりに精を出した。

 周蔵が佐伯の絵をよく見ると、まず線が線ではない。紐のようなものである。つまりグニャグニャして、力強く芯あるべきものが、曲がっているというか、立っていられない病人のようだ。一本の線を描くにも、自信がないということかも知れない。それとも、あれでも自分では芯を通しているつもりかも知れない。(佐伯がこの文案をしたとは、到底信じられないが、これはまさしく佐伯の文章なのである)

 そこで、あれが芯があるように見えるようにする方法は、一つには、絵の具を塗る表面が、「ガンタナ方が良いのではないか」と考える(ガンタナが私には分からない)。そこで藤根が幡ヶ谷から、わざわざ左官を連れてきた。カンバスの表に薄い壁を作ってはどうか、というのである。

 同七月五日条、要約。

 救命院に二十日も泊まり込んで、画布作りに熱中していた佐伯は、夕方、友人の所へ行くと言い、出かけた。それを見ていた藤根は、「昨日は、奴さんを大京町の方まで連れていったよ。あすこにゃ 素人女が出ているからね」という。驚いた周蔵が「それでうまくいったのか?」と聞くと、「アア、満足シタト思フヨ。今日モ 今頃出カケタッテコタア、昨日ノ女ノトコヘ 行ッタンダロフ」とのことで、周蔵も同感であった。では、どうして妻君じゃだめなのか、との質問に、藤根は「仕方ガナヒヤネ アノ妻君ヂャ 俺ダッテダメダヨ。オソロシヒヤネ」。

 藤根が云うには、米子はフランスから帰国する時、有名画家の作品をたくさん買い込んできて、それを藤根や近所の質屋の親父に買わせた。周蔵は、何よりも質屋の親父に買わせたことで驚いた。「丸七の親父の助平は有名だから、近所で評判が立っているんじゃないか」と云うと、傍らにいた巻さんが「先生は世間話にうといから」といいながら、「米子さんが帰国以来、着物を五枚も買った、夏物といえども絽の着物は高い。帯も高価なつづれ帯を締めている。尤も、帯は牧野先生が買ったそうだが」、という。(佐伯文学がどこまで信用できるかは疑問だが、まるきりの嘘ばかりではない。米子がフランスから有名画家の作品、それも贋作を仕入れてきて、質屋などに売ったことは事実らしく、上高田の某質屋が引っかかった話が伝わっている)。

 同七月十八日条、要約。

 阿久津製薬の阿久津社長が、一枚のカンバスを持参する。これこそ最高のカンバス、という。佐伯が試していたが、夕方になり「コレガ今マデノ中デ、一番ヤ」と感激した。カンバスの表面はまるで壁で、それも左官が粗塗りしたようである。

 阿久津は手順を語る。

 濃いめの膠液を作る。

 膠に水を加える。

 湯煎にかけたまま、そこに粉石鹸を加える。

 様子を見ながら、白くなるまで、加えて混ぜる。

 湯煎はそのままにしておく。そこへリンシード油を加えて混ぜる。

 そこへ亜鉛華を加え、よく混ぜる。湯煎は続けている。

 膠は多い方が丈夫で、麻布によく付く筈だ、とのこと。

 周蔵は、粉石鹸に驚いて、阿久津に理由を聞く。石鹸は、分離防止剤として、入れた方が良いと思う。膠は水分が入って溶解しているのだから、そこへリンシード油を入れると、当然水と油で分離を起こす。油の付いた手を石鹸で洗うと、油が玉になって落ちるのは、油膜を切るからである。それが、この白い塗り物の中で起こっているわけだ。

 佐伯は、これは凄いと喜ぶ。「何ト言ッテモ、他ニ コノヤリ方ヲ シテイル人ガ イイヘン」

 実際に、佐伯が特有の画布を用いたことは有名であるが、「周蔵手記」によれば、周蔵がいろいろ案配して、特製の画布を安井曾太郎や阿久津から学んだというのは、まるきりのウソ(佐伯文学)である。

 第一次渡仏時代にパリで佐伯と交遊した渡辺浩三は、サロン・ドートンヌに出品したころは、「麻布に膠を引いて乾かし、リンシード油とマルセル石鹸を膠に入れて攪拌し、亜鉛華を加えたものを厚く塗り、乾燥したところで再び膠を引く」という方法で作った画布を使っていたという(『美術』昭和十二年四月)。つまり「救命院日誌」の記載とほぼ同じである。

 真相は、前出大正十三年三月十一日の周蔵宛て書簡で、画布と下塗りについて述べている。佐伯は第一次渡仏時代に、パリでそれを学んだようである。つまり、渡辺の言うように、第一次渡仏時代からマルセル石鹸とリンシード油と亜鉛華の画布を使っていたことは間違いないようだ。だが、それだとすると、別の方面からの疑問がある。

 吉薗佐伯と同じような厚塗りの本格画布を使用した作品が、従来の公開佐伯のなかに見当たらないのは何故か? この問題に対する私の見解は、次のごとくである。吉薗佐伯の本格画は最晩年の作品で、その画布は、第一次渡仏時代に比べて、かなり進化している。佐伯の帰国時代に、布施や藤根が熱心に画布作りの手伝いをしたことは「周蔵手記」にも明記されるが、彼らによって、渡辺のいうような画布を超える新兵器(それは阿久津が作ったとされる、左官が粗塗りした壁のようなキャンバス)が開発された。佐伯最晩年の遺書めいたメモでも、それらしい事を言っている(「医師と作ったカンバスは最高やった」)。この新兵器は極めて厚手で、布地や織り目がまったく見えない。すなわち、山本晨一朗氏に渡った「郵便配達夫」「ロシア娘」の画布がこれである。

 ところが、これでも疑問は半分しか解決しない。ここで第一次渡仏時代のもので、渡辺浩三の云うような亜鉛華を使用した画布を用いた作品を特定する必要がある。既に見たように、大阪市立近代美術館所蔵の山発コレクションの在仏制作品の画布には、亜鉛華を含むものがないが、これは原画が下描きだったとみれば理解できる。しかし、第一次渡仏時代の公開佐伯作品で、渡辺の云うような画布を使った作品は、どの美術館のどの作品なのか? これこそ、公開佐伯を所蔵する各地美術館の学芸課長の当然の任務であり、大阪市立近代美術館(創形美術学校)を除いて、今まで行っていないとしたら、怠慢の誹りを免れまい。

 島根県立近代美術館が買った「オーヴェルの教会」(第一章参照)の画布はどうか?

 

 第三節  薩摩治郎八と佐伯

 事実を伝える「周蔵手記」の続き。佐伯夫妻の帰国によって、再び佐伯の面倒を見ることになった周蔵は、夫妻の現状について考え込む。しきりに薩摩を紹介せよというが、何故自分であたらないのか?

 「周蔵手記」大正十五年六月条続き、要約。

 結局、佐伯は自分勝手な行動を、大谷光瑞師からは許されていないのではないか。兄の祐正を通して、いちいち光瑞師に伺いを立ててからでなくては行動できず、よって薩摩治郎八とは、現状直接つきあいができない立場と考えれば、納得がいく。

 しかし、薩摩が光瑞師の工作対象でないとすると、米子は薩摩に対して何を企んでいるのか。米子は祐正の言によると、男ならば参謀本部向きの優れた頭脳だとのことである。参謀本部向きの才能が先天的かどうか、周蔵には分からないが、祐正はそう見ている。策略に富んでいると云うのだろうか。

△兄ハ告白スルト 自分ハ 弟ノ妻トハ関係ガアッタ トノコトダッタ。

結婚ヲ考ヘナクモナカッタガ、寺ノ裏方ニ向ヒテヰナヒ 怖シヒトコロガアルト思ッテ 勇気ガ ナカッタトノコト。弟ハ下宿スルト サノ檀家ノ娘ト スグ恋仲ニナッタガ、兄ガ 現在ノ妻君ニ アヒマヒニシテヰタラ、妻君ハ 弟ト下宿先ノ娘ノ間ニ割リ込ミ 実弾攻撃ニテ 弟ニ移ッタ。

浮キ上ッタ下宿先ノ娘ヲ、檀家 トクニ 力ノアル檀家デモアッタカラ、兄ノ方ガ気ヲキカシテ、サノ娘ニ積極的ニ出タトノコト。

兄ハ 本当ハ大阪ニテ マアマア決ッテヰル娘ガヰテ 母親トモウマクッテヰルト 思ッテヰタガ、アキラメタノダガ、トノコト。

シカシ、女ダカラトアナドッタ ハケデハナヒガ 自分ガ引キ受ケレバト思ッタノダガ 自殺ヲシテ シマッタ。

檀家故耳ニ入ッタトコロデハ 弟の妻君ガ 兄ニハ別ニ女ガヰルトカ自分ハ両方カラ迫ラレタトカ 子供ガデキタトカ、ヲマケニ 母親モ 何カ云ッタラシヒ トノコトデアル。

 ここは、第五章第五節で詳述したから、解説を略す。

△兄ハ 弟ノ才能トヰフ意識ニ 疲レタヤフダッタ。

結局ハ 大阪北野中学ヲデタコトヲ、頭ガ良ヒト買ハレ 大谷サンカラ指名ガアッタコトニ 問題ガアルフヤダ。

△大谷サンハ 男モ女モ両好ミダカラ 兄ノ方ハ 正ニ稚児ガ大人ニナッタヤフナ 好男子ダカラ、大ヒニ気ニ入ッテクレタラフ。

△自分ガ考フルニ 兄ハ大谷サンノ言ヲ モラスハケニハ イクマヒ。

トナルト 妻君トノ結婚ノヰキサツハ 違フノデハナヒカ。大谷サンガ現妻君ヲ 弟ニト決メタ。

弟ト檀家、下宿ヤノ娘ハ 確カニ ヲカシクナッテイクハヅト 藤根サン夫妻ガ云ハルルトコロ カラ 考ヘテモ サノ中ヲ サヒタノハ 大谷デアラフ。サレハ 故意ニデハナカッタラフガ。

△自分思フトコロ 大谷サンハ 事業家デハアルガ、閣下ノヤフナ 参謀的ナ人物デハナヒヤフダ。

サノ時サノ時ノ 思ヒコミニヤッテ 考ヘヲ決定、実行ニ移サレルト思ユルニ 参謀タル人物デハナヒハヅ。

△然シ 佐伯ハ何ヲ考ヘテヲルカ。

 前半は、これも第五章第五節に述べたから、解説を略す。周蔵は、大谷光瑞の佐伯夫妻に対する心中を忖度した。光瑞師は事業家ではあるが、上原元帥のような深謀遠慮はなく、その時の思いつきによって考えを決め実行に移すタイプで、参謀型ではない。だから、佐伯の件も現在はどう考えているのか、分からない。それに対して、佐伯本人は何を考えているのだろうか。

 「周蔵手記」大正十五年七月条、要約。

 薩摩治郎八の噂を求めて歩いた周蔵が聞いたところでは、薩摩は結婚したらしい(薩摩が川田とか山田とかいう華族の令嬢と結婚する情報を、周蔵は私娼窟を通し、薩摩の秘書から仕入れていた)。海外から音楽家を招いたりして、ここ二年ほどは忙しかったが、近い内にまたフランスに渡るようである。その薩摩が、周蔵に連絡してきたのは、新盆すなわち七月十五日のころである。

 用件は、意外なことに金策であった。例のフランスの日本文化会館の資金作りを助けてくれと云うのである。周蔵が「俺みたいな市電の車掌にそんな大金があるわけないだろ」と云うと、薩摩はニヤリと笑って、一言だけ云った。「知ってますよ」

 当時周蔵は、上原元帥の命令で、東京市電に潜入していた。労働組合の動向を探っていたものらしい。最初は運転手だったが、運転が下手で乗客から苦情がきて、配置転換されたのである。周蔵は薩摩を探っていたが、相手もこちらを調べていたのだ。隠しても仕方がないから、本題に入った。金額は思ったより低く、五万円という。パリ日本会館の資金でしわ寄せを食った遊興費に充てるらしい。五万円の金は、当時の周蔵には大した金額でもない。三日のうちに用意しておくというと、薩摩は非常に喜んだ。

 因みに、武生市の小林頼子報告書は、この五万円について、わさわざ卸売り指数を持ち出し、今は当時の八百倍としている。何をいいたいのか知らぬが、卸売り指数では貨幣価値の比較にはならない。金地金は金七百五十ミリグラムを以て一円としていたが、現在では金の同量は確かに八百円程度である。だが、消費者物価指数はおおよそ八千倍にはなっていよう。これを知らぬと、当時の一般会社員の月俸数十円を、今の五〜六万円のとみるの間違いを犯すわけである。この人たちは、経済感覚が完全に一桁狂っているようだ。

 

 第四節 画會

 さて、佐伯は「救命院日誌」に、またもおかしなことを書く。すなわち、大正十五年八月十二日条に、周蔵は、佐伯に請われて大阪の光徳寺に行く。一人で行けないと言うからである。

 同月十八日条、要約。

 周蔵は佐伯の生家光徳寺に一泊し、大阪、神戸、京都を歩いて、一緒に戻る。帰りの車中で二科会のことなどを話す。佐伯は、一九三〇年会の仲間に周蔵のことを話し、パトロンやというてある、という。

 この一件はほとんど虚偽で、「周蔵手記」には下記のように記す。

 八月 親父殿ヲ コキツカッテヰルカラ 帰ル前ニ 箱根ニ行ク。ケサヨト ノブサン親子ト。 五日モ遊ブ。

 つまり、ケシのシーズンが終わり、周蔵はよく働いてくれた父の林次郎の慰労に、箱根に連れていった。末妹ケサヨと救命院の手伝いの川合ノブさん親子も招待した。これが事実である。

 「救命院日誌」大正一五年九月二日条、要約。

 佐伯が二科展の会場へ出かけると、入れ替わりに米子が救命院に来る。話の内容は、佐伯の作品を売る方法を探して欲しい、とのこと。震災で実家が下り坂で、大阪の祐正も金が要る。さらに再渡仏の費用もいる、という。フランスではパトロンが、お抱え画家の絵を売る店を出している。展覧会も良い方法ではないかと思う、とのこと。周蔵は、相談する人がいるから、一両日ほど待つように言う。

 同月三日条、要約。

 周蔵は、昨夜夜半まで、若松宅にて話し込む。絵は若松が買ってもいい、と言うことであったが、周蔵は、買う人が他人でなくては佐伯が感激しない、といい、展覧会の段取りを頼む。若松安太郎は、丁度良い人物がいるから、二三日時間を欲しいという。

 同九月四日条。

 若松から、白川なる人物を紹介すると言ってくる。大阪市東区北浜四丁目三番地三の住所で、法曹界の人らしい。

 同月十九日条、要約。

 周蔵は若松安太郎を伴って大阪へ行き、白川なる人物に会う。変に精神病との推測をされてもまずいと思い、周蔵は、米子の実家池田家の知り合いと、自分を紹介して貰う。

 白川は、二つ返事で引き受けた。周蔵はすっきりしないが、若松の保証があるので安心する。画会を開こう、入札方式もいい、という白川は、佐伯に大阪の友人はいないか。画会を手伝わせるのだ、一人でいいという。周蔵は、子供の頃からの友人に阪本勝がいる。仙台二高から東北帝大に行ったので、絵画には関係ないから、絵の方の仲間の誰よりも適任であると思う。阪本でよければ、当方から連絡を取るという。

 さて、以上に対応する記載は、「周蔵手記」には全くない。九月条は、池田巻が函館の谷地から、復帰した記録だけであるが、全くの虚偽記載とは思えないフシがある。事実の痕跡があるのは、白川朋吉が出てくるからである。この人は弁護士で、大阪市会議長もしたらしい。実は、白川の名は早くも「周蔵手記」大正十年十月十六日の条に出てくる。大正八年に亡くなった若松忠次郎の遺児英太の代理人白川弁護士から、堺誠太郎(若松安太郎の本名)、池田庄太郎(巻の父)、阿久津製薬の三人に、忠次郎の遺産の返還請求が来たが、この問題はそのうち解決した。白川は若松忠次郎の弁護士だったから、遺産問題が解決した上は、忠次郎の跡目を嗣いだ安太郎の顧問となるのが筋道であろう。もし、米子が周蔵に持ちかけ、周蔵から若松に大阪での画会を相談したら、若松としては真っ先に思い浮かぶべき人物であったろう。とすれば、周蔵が若松に同伴して大阪へ行ったかどうかまでは明確でないが、かなり根拠のある記載内容と思える。

 白川と若松さらに周蔵が旧知とは知らず、また周蔵も余計なことを教えないから、佐伯は上記の通り文案したもので、また周蔵はそれを知りながら、言われる通りを記帳した。当時まだ救命院に復帰していない巻さんが度々出てくるのも、同様な理由に因るのである。

 第十三回二科展は、大正十五年九月四日から十月四日まで開催されたが、佐伯祐三は特例として十九点の出展を認められ、二科賞を受け、米子も出展して入選した。佐伯名義の十九点はすべて米子加筆品であるとみねばなるまい。

 「救命院日誌」大正十五年九月二十二日条、要約。

 若松から手紙が来て、夕刻六時にきてくれという。

 同二十三日条、要約。

 昨夜の若松の話。画会は決定した。偶然だが、藤川なる人物が白川と同郷とかで、白川に佐伯の応援を頼んできたという。藤川は、佐伯が大勢に心配される幸せ者で、そんな将来ある若者を助けるのは誇りであるなどと、歯の浮くようなお世辞で、周蔵は気色が悪い。佐伯はキャンバス作りに精を出しているが、それを使って絵を描くことはしない。理由は、「これはパリに行ってから使うんや、こっちではヘボのキャンバスでええんや」、という。

 同九月末日条、要約。

 佐伯は二科展で特別待遇を受け、賞も得た。これ幸いと米子は画を商品にするのに奔走中である。今のところ、まだ米子の方が絵はうまいらしい。昨日も、アトリエの留守を預かっていた鈴木という画家が佐伯と写生に行ったが、とても絵になっていないと言っていたと、牧野が言う。鈴木はまた佐伯家にある絵を見て、いつあんなに描いたのだろうと驚いていた。米子は、下半身では到底貞節とは言えないが、佐伯にとっては最良の妻と言えるだろう。

 パリヘ行ってから使うといいながら、佐伯は特製キャンバスに、それでも二、三枚は描いた。フランスから持ち帰った大切な絵を白く塗りつぶして、この辺りの風景を描いたらしいが、それを巻さんはいたく気に入って、二千円で買った。牧野は、それにしても二千円は高い、という。

 阪本勝は三高から東京帝大に入っており、画は趣味でしかないが、それでも現状は自分の方がずっと良い絵を描くという。だが周蔵は、米子や八代、藤根を描いた佐伯の絵は、うまく見える。

 大阪で白川弁護士が開いた画会の次第が述べられている。「周蔵手記」にも対応記載があり、内容はあらかた虚偽とはいえず、ただ周蔵が直接関与した風に歪曲誇張されているのだろう。藤川なる人物のことは不明だが阪本勝や鈴木のことも、この通りであろう。巻さんが、淀橋あたりの風景画を二千円で買ったというのは、直ちには信用できないが、吉薗家に大福帳が遺されているそうだから、それをみればやがて分かる。

 佐伯が日本で画布を作り、それをパリに運んだというのは事実であろうが、それでは足りなかったのか、佐伯はパリに着いた直後から画布づくりを始めている。

 

 第五節 再びキクエの自殺

 「救命院日誌」大正十五年十月末日条、要約。

 佐伯の画会は、阪本と藤川と二手に分かれて開催した。

 十月二十八日の佐伯との会話で、米子に対する暴力が目立っているので、周蔵が質問すると、「キクエハンノコト、持チダスサカイヤ」と答えた。周蔵は、故人のキクエと佐伯の現行暴力の因果関係が分からず、若松安太郎に調査を依頼する。

 周蔵が回想するに、佐伯の内面で大きな変化が生じた契機はキクエの自殺である。あの時は佐伯の演技と思い、日誌にも記載しなかった。佐伯がキクエの自殺を報告してきたのは、ずっと後日だったからだ。自分は佐伯の云う通りを書いている(この点がおかしい。第五章第五節で見るように、「救命院日誌」には、佐伯は大正十年九月二十九日夜半に、キクエは昨日死んだと報告に来た、とある。それが「ズット過日」に当たるならば、キクエは一年前の同日に自殺したと見るべきことになる。実はこれが佐伯のトリックであることが、後の昭和二年四月条で判明する)。

 周蔵はさらに考える。キクエと米子は虎ノ門女学院の友人と聞いている。佐伯が大谷家に下宿が決まったとき、キクエは兄といい仲や、と云った。それは何時からなのか? 佐伯は下宿を転々とし、時には帰る所がなかったほどだった。それは、実家の寺が檀家や檀家のつてだけを頼むからで、佐伯は異常な行動のため一カ所に居付かれず、転居を繰り返していた(実際の佐伯はクールで、下宿を二カ所持って使い分けていたのである)。その頃から、祐正とキクエの交際が、佐伯の云う通りエエ仲であるなら、何故佐伯に、居辛い下宿を転々とさせる必要があるのか。佐伯が大谷家へ下宿する段になって初めて、兄が見栄を張って、それほどでもないキクエとの仲を、大げさに話したのではないか?

 (以下にも、周蔵を一人称にした「佐伯文学」が延々と繰り広げられる。それほど、佐伯にとって大谷キクエの自殺は、実際にも深いトラウマとなったようである。しかし、下宿の件も米子らとの出会いとつきあいも、佐伯が周蔵と「救命院日誌」に対して一年以上も隠しているから、日誌の上では、婚約成立が性急すぎて、前後の辻褄が合わないだけなのである)

 若松安太郎から大谷家の娘の自殺についての報告。遺書があり、両親にあてたものと、池田ヨネにあてたものの由。大谷家ではその手紙をヨネには渡さなかった。両親に当てた手紙では、自分は死んで身を引くから、米子を祐正と一緒にさせてあげて欲しい、との内容であった。因みに妊娠四〜五ヶ月であった。

 以下、周蔵が推理するのは、大正九年四月の大谷家への下宿入り直後に、一本の恋文から突然に米子との婚約に飛ぶ不自然さである。その中にこんな文章がある。「キクエノ腹ノ子ガ、アルヒハ佐伯ノト 考ヘナクモナカッタガ、月ガダフシテモ合ハナヒ。ヨネト正式ニ結婚シテカラ、キクエニ孕マセルホド、佐伯ハ器用デハアルマヒト信ジル」(これだと、正式結婚の後に妊娠・自殺したとなるから、大正十年と決まる。はたしてどちらが正しいか、後に判る)。

 いずれにせよ、これも「佐伯文学」の一環であるから、我々があまり深追いする必要はあるまい。

 

 第六節 米子と芥川龍之介

 「救命院日誌」十一月二日条、要約。

 佐伯は健康で、画布作りに精を出している。面白いのは、この画布は巴里以外はダメである、と云うからである。落合村辺りや新橋、銀座辺り、時には蒲田や月島などにまで出かけて描いて見たが、米子の方が余程うまくできているとのことである。

 同十一月末日、要約。

 画会は終わった。といってもまだ大分残っており、また開催するらしい。阪本勝の方では、白川朋吉よりも単価を高くしたが、それは友情のためらしい。阪本は白川が気に入らず、佐伯に悪口を云ったが、佐伯は無頓着で「幾ラデモ エエンヤ」とうそぶいている。それでも米子から、購入者宛に礼状を書くようにいわれ、百枚もありそうな葉書を、まるで印刷のように、同じ文句を書いていた。

 「画ヲ買ッテクレテ アリガトフ。マタ ヨロシク頼ム 」ト書ヒテアル文面ハ マルデ反物デモ売ッタミタヒダナ ト云フト 「ソヤ、ソナヒナモンヤ」ト言ッタ。良クデキタトヰフ 画デモナヒダラフシ 妻君ノ内職デモアルカラ、佐伯トシテハ 執着ガ生マレナヒノカモシレナヒ。

 どこの誰が買ってくれたと阪本が報告してきたこと、妻君ガ丹念に話すが、佐伯はそうか、と返答する。「それ どないな画 やったかいな」と時々云う。それは、もう一枚同じようなものをと言われた、という時に返事をする。妻君は妻君で、そうした佐伯に不満を感ずるのだろう。「あれは あたくしのですわね」と嫌味に言っている。佐伯は大人になったのだろう。妻君に対して大分距離を置くようになった。

 同十一月十二日条。(原文の順序のまま)要約。

 大阪の実家に、佐伯は一人で帰った。入れ替わりに祐正が上京しているが、佐伯宅に泊まりはしない。鈴木という佐伯宅の留守居をしてきた画家が云うには、祐正は結婚したらしい。

 同十一月末日、要約。

 いかにも三百代言といった白川に、周蔵は不安を抱いていたが、その画会は平穏に済んだらしい。追加注文がかなりあったようで、佐伯は精を出さないから、米子が張り切って絵を描いている。米子は牧野医師と、月に二三度の痴情関係があるらしく、出かけるときに、ヤチ子をノブさんに頼むから、分かった。

 同十二月末日条、要約。

 佐伯は、相変わらず一九三〇年会の仲間からたかられている。妻も金も友人に貸すという佐伯の性格の欠点は、いつか治さねばならない、と周蔵は考える。佐伯は、相変わらずキャンバス作りをしており、押入れに七、八十枚も貯まったのが楽しいらしい。

 何度もことわるまでもなく、以上も佐伯文学の一端であり、真偽のほどは問うところでない。しかし、大正十五年十一月三十日付の葉書が遺されている。

 

   東京府豊多摩郡中野 大字中野 吉薗周蔵様

   身勝手ナガラ 来診願イタシ 光徳寺 佐伯祐三

 

 十一月十二日条にあるように、一人で実家に帰った佐伯が、体調を崩して永逗留となり、周蔵の来診を求めたことの、この葉書は証拠である。周蔵を呼ぶからには、結核ではなく、メニエル氏病である。

 真相について、「周蔵手記」を見てみよう。「周蔵手記」大正十五年十月末ピ条。

△カノ月ノ何ヤリ喜ビハ、甘粕サンノ特赦減刑ニテ、仮出所ナサレタ。フランス留学モ一緒ニサレタトイフ妻君ガ ヰカバカリ 喜バレタデアラフ。自分モ非常ニ心強ヒ。

 まず、周蔵は親友甘粕正彦の仮出所を素直に喜ぶ。周蔵は甘粕から、女連れでフランス留学をしたことを聞いていた。陸軍戸山学校時代に膝の怪我を口実に、大正四年九月に甘粕は歩兵科を去り、憲兵科に転じたが、その後、大正七年八月に、朝鮮京畿道楊州憲兵分隊長として姿を現すまでの、軍歴がはっきりしない。

 周蔵は、甘粕がその頃、妻君を連れて渡仏していたと聞いていたから、仮出所の後、渡仏ということになれば、奥方はどんなに喜ばれるだろう、と思った(御用伝記屋の甘粕伝を信じておられる読者は、ここでおかしな感覚に囚われるであろうが、それは後に判る)。

 「周蔵手記」十月条、要約。

 佐伯は帰国後、周蔵に頼んで「救命院日誌」の記帳の再開を希望したが、十月になって、またもおかしなことを言い出した。渡航前の「救命院日誌」は大谷光瑞師に提出しておいたが、このほど返却して貰ったので、修正して欲しい箇所があるというのである。

 さらに、兄への借金返済のためと再度の渡仏のために、絵画展を開いて絵を売りたいと云ってきた。妻からも宜しくお願いします、とわざわざ米子の名まで出した。藤根にそのことを告げると、あいつは狂っておる。完全に女房の下に敷かれちゃったんだ、と憤慨している。周蔵は、大谷光瑞師の判断を仰がねば、と思うが、日本にいないらしい。呉秀三医学博士に尋ねると、佐伯は画家としての才能はあると云うし、巻は一生の賭で佐伯の絵に投資している気分だから、反対者はいない。そこで周蔵は、本人の望み通りに個展に協力することにした。それにしても、いまさら記帳の修正とは、実におかしな注文で、変わった人物である。

  「周蔵手記」続き

△然シ 外国学校ノ売人カラ 妙ナ話ヲ聞ク。

佐伯ノ妻君ハ 芥川龍之介ノ 手デアルト云フノダ。

トナルト ヲカシクナル。大谷サンハ 海ニ無関係ノハヅ。

芥川ハ海ノ発信専売トヰフカラ 売人ヲ妻君ハヤッテヰル コトニナラフガ 佐伯ハダフナル。

 周蔵は、上原の命でこのところ通っている外国語学校の「売人」から、おかしな話を聞いた。米子が、芥川龍之介の手下だというのだ。しかし、それは、周蔵のこれまでの理解とは違ってくる。光瑞師は海軍とは接点がない筈だ。芥川は海軍の情報発信専門というから、米子はその下で情報売人をやっていると理解せねばならぬが、そうすると、大谷の下で働く佐伯の役目をどう解釈すべきか。

 「周蔵手記」続き、要約。

 現状の佐伯を見ていると、絵に対する能力こそあるやも知れんが 何も見えておらず、考へてもおらん と覚ゆ。大谷さんが幾ら衝動的だといっても、もう懲りたであろう。とすると、佐伯でなく、米子があるいは大谷の草ということも、あるかも知れない。大谷が日本にいなくて意見が聞けないのでは、判断しようもない。仕方なく、巻の賭に任せて、周蔵は画会を開くことに決めた。

 佐伯が何のために「救命院日誌」の記帳を望むのか、量りようもないが、云われるとおり「佐伯文学」を記帳していて、その内容のくだらなさは、言語に及ばないほどである。まったく、天才と狂人は紙一重、という所以かも知れない、と周蔵は思った。

 

 第七節  「救命院日誌」の真相

 「周蔵手記」昭和二年正月条(大正十五年が昭和元年となる)。要約。

 周蔵は大晦日から、佐伯と首っ引きで、「救命院日誌」の記帳づくりを始めた。藤根が多少メモして置いてくれたので、それを読み聞かせながら、佐伯の希望を聞こうとした。そこへ布施一がやって来た。救命院に集まるのは、自分以外は妻帯者だが、その実やもめのような連中である。佐伯の記帳は気を入れてやらねばならぬから、今年の垢を取ってからにしようと、周蔵は誘った。自分と違って妻帯者を二業地に引き連れるわけにもいかず、大森の額田の母さんの料亭へ連れていった。

 周蔵は無頓着だから、こういう所の女性には厄介がなくていいのか、よくもてる。昼間から上がって九時過ぎまで遊んだ。布施さんはさすがに芸者の経験はあろうが、佐伯は少ないらしい。飲むと性根が出るというが、佐伯は芸者相手に法螺の吹き通しで、女にもてる話もしていた。それを観察していた周蔵は、佐伯はそう単純ではない、皮を剥けば三重四重に剥けそうな所がある、と日頃の見方を修正した。

 佐伯の希望通りの記帳づくりに正月五日までかかった。まことに妙な人物で、以前のものをまた書き直した。出会いの時の状況をやや変更し、自身を悲劇的に描くところ多く、また己を批判する箇所も増えた。

 不可解に思った周蔵は質問してみた。何のために日誌を書き直すのか。これはもう大谷さんに見せたのだから、書き直しては却って不都合ではないのか。

大谷サンハ読マンハ トノコト。返事ラシヒ返事モナヒ。

思フニ 呉先生云ハレル通リ 自分ノ為ノ記帳デアラフカ。英語ノ プレッシャー トヰフノヲ 求メテヰルノデアラフカ。

 佐伯は「大谷さんは これ読まへんのや」とぶっきらぼうに云ったきり、答えらしい答えもない。周蔵はこれは呉博士が云われる通り、佐伯が自身にプレッシャーをかけるための記帳なのか、と感じた。

 記帳していて気が付いたことは、佐伯が周蔵を実によく観察していることである。少なくとも周蔵の交遊相手には深く注目していることが分かった。佐伯文案の「救命院日誌」には周蔵の友人が出てくる。画家の熊谷守一が頻繁に出てくるが、周蔵には熊谷の絵が巧いのか否か分からない。父から日向の土産が届くと、熊谷にもそれなりに届けるが、深入りしていない。また、大磯の借家を紹介してくれた石田さんのことを、佐伯は日誌に書かない。会ったことがないからであろうか。

 薩摩治郎八のことは、やけに詳しい。フランスで会ったことがあるのかと思い、聞くと、米子からの情報だという。芥川の道かと思いながら尋ねると、やはり米子は芥川を知っているという。

 藤山雷太を周蔵は、若松安太郎から紹介されたが、別に大谷光瑞師の所でも会ったことがある。しかし、藤山の知人の安井曾太郎という画家は、名前しか知らない。多分、以前に白樺関係で会ったと思うが、白樺は所詮股ぐら膏薬で、深入りしても無駄と思い、つき合わないようにしている。それなのに佐伯が日誌に、いかにも自分が親しいように作るのが、不可解であった。

 さらに、周蔵が紹介したことのない若松安太郎の名が日誌に出てくるので不思議に思い、佐伯に問いただすと、藤根に手紙が来ているし、米子も若松を知っているから、という。米子が安太郎と知り合いなのかと問うと、知り合いかどうかは分からぬが、名前を知っていたと云う。安太郎氏は海軍に多少関係があるから、米子が知っていても不思議はないが、何しろ自分の周囲を佐伯はよく観察している。

 とにかく佐伯の望むままに記帳しながら、観察して思うに、日誌の目的の一つは大谷光瑞師に対して意図があるのではないかと思った。大谷の美少年趣味の噂が本当かどうか分からぬが、佐伯よりも兄の祐正に目を掛けているようだ。佐伯は大谷に接近するため、ホモ的傾向があると見せようとして、この日誌を創っているのではないか。

 然し、大谷が金に甘い筈がない。佐伯は非常に突拍子がなく、思いつきばかりである。大谷の機嫌を取るには、もう少しマメでないと無理であろうし、物の言い方もぶっきらぼうだ。兄はその辺は巧いだろうが、佐伯は大谷には不向きであろう。フランスにまた行きたいと云うし、当然金は要るが、佐伯は湯水のように浪費するから、少々では不足するだろう。

 また、周蔵が日誌の内容を噛み分けて見ると、「絵ヲ描ク時ノ台ニナル物」の詳しい説明があり、これに阿久津まで関わらすが、念のため藤根と布施に聞くと、佐伯は阿久津には会ったことがないらしい。

△モット深ク考フルナラ、カノ記帳ハ 我々ノ手紙ト同ヂ役目カト思フガ サノ必要アルハヅガナヒ。

自分ハサコマデ 重要ナル人物デハナシ、ケシノコトナド 分ッテヰナヒ。マシテ 記帳シタ後ハ ココヘ ヲヒテヰクノデアルカラ。

単純ニ考フルナラ 呉先生ノ云ハルルコトデアラフ。

 もっと深く考えてみて、この日誌は、周蔵たち「草」の暗号手紙と同じ役目のものかとも思うが、そんなことする必要があるはずもない。周蔵はそこまで重要人物ではないし、ケシのことなどは、佐伯には全然分かっていない。まして、この日誌は記帳した後は「救命院日誌」に置いていくのだから。単純に考えるべきで、やはり呉秀三先生の云われる通り、佐伯自身のための日誌なのだろう。

 帰国した米子が「ヴラマンクはお猿さん。お山の大将になりたいのよ。藤田さんも同じ」と毒づく場面があるが(本稿では省略した)。そこへ藤田嗣治の名前が出てきたから、周蔵はさりげなくフランスのことを聞いてみた。佐伯は、藤田は大嫌いだというだけで、理由は云わず、大した答えもなかった。芹沢光治良のことを口にするから、真相を聞くと、「ワシの手紙、読まなんだか」と不満気であった。

△尚、マッタク妙ナ人物デアルカラ、立派ナ日記帳ヲ出シテ 見セテクレタ。頁ヲトバシテ 所々ニ 鉛筆ヤ筆ナドデ、文字ガ書ヒテアル。サレモ大文字デ。

カノ人物 自分ノ書クモノニ、マット大キク、大キクト云フハ、理解デキル。右デ書ケバ 自分モ 多少 大キヒノデアルガ。

サノ立派ナ日記帳ノ頭ニ 自分ニ 文字ヲ入レロト云フ。サノ能書ニ 感心ス。

正ニ カノ人物ハ 天才デアラフ。自分ノ癖ヲ 知リキッテ ヰルヤフダ。

マヅハ何トカ 正月ノ間ニ 済マスコトデキルモ、早速ニ 額田ノコトヤ 母サンノコトモ

加ユルアタリ 抜ケ目ガナヒ。

少ナクトモ 佐伯ニトッテ 自分ハ、カノヤフナ人物デアッテネホシヒト云フ、望ミガ アルノデアラフコトハ 察スル。

 これが(多分そのうち有名になる)「黒革表紙のパリ日誌」である。私が厳重に保管していたが、先日山甚産業山本晨一朗氏が吉薗明子に対して示談品の一部として強く要求し、私の手を離れた。周蔵が、パリに発つ佐伯に贈った日記帳の形にしてある。

 飛ばし書きの文字はべらぼうに大きく、佐伯が平生周蔵にもっと大きく書け、というわけが分かった。周蔵は幼時の肩の怪我のため、右手が充分に使えないからいつも左手で書くが、それだと微小な字しか書けない。右手だと多少は大きく書けるが、すぐ疲れるのである。日記帳は、前書きにあたる部分の場所を、空けて置いてあった。そこへ、これを書いてくれ、と渡された紙片を見て、周蔵は驚いた。「心のゴミを書き砕け」など、まるで自分が言ったような文言である。この人物は正に天才なのであろうと感心した。

 まずは正月のうちに記帳を片づけたが、大晦日に連れて行った料亭の額田の母さんのことを、もう加えている辺りの抜け目なさも相当の物である。佐伯が創る日誌の主人公の周蔵は、少なくとも佐伯から見て、斯うあって欲しいという人物像であることは理解した。

 昭和二年正月六日付の佐伯からの葉書が遺されている。東京府豊多摩郡中野大字中野 吉薗周蔵様 医師 に宛てたものである。文面は下記の如し。

 「医師の尽力尊きナリヤ 体調良好 今年中ニ 再度渡仏予定ス 医師の渡仏 幾重ニモ 願望スルノミ  十遍二十遍 願望スルノミ 佐伯祐三」

 「救命院日誌」の記帳を終えた翌日のものだが、佐伯がこの葉書を出した意味は、まだ分からない。

 

 第八節 下落合風景

 佐伯文学というべき「救命院日誌」の内幕は、上に述べたようなものだが、世には嘘の中の真ということもあるので、それを承知で、もう少し佐伯文学におつき合い頂きたい。

 「救命院日誌」昭和二年一月十六日条、要約。

 周蔵は米子を連れて幡ヶ谷の渡辺という産科医を訪れ、堕胎させる。出血がひどく、米子は渡辺宅に一晩泊まる。佐伯には婦人科の病気と偽った。佐伯は堕胎と知ってか知らずか、巻さんに「あの女、今度は誰が相手や」と聞いたとのこと。

 一月二十日頃、京城の高等学校教師として赴任した山田新一が、周蔵に立派な白磁の壺を贈ってきた。赴任の時、夫人同伴で挨拶に来た山田の話から、奇しくも周蔵と同郷と分かった。父方が薩摩人で、都城中学出身だから周蔵の後輩である。しかし、周蔵もよく知り内竹の縁戚でもある上原勇作と親交があるらしい。

 佐伯は、落合辺りを風景を板に描いたりしたものを、大分作った。板を使うのは、熊谷さんに対抗しての精神であろうか。

 同二月ノマトメ条、要約。

 佐伯は落合あたりの雪景色をよく描いている。周蔵は、六月頃にはパリに発つようにしたらどうか、と話す。二月二十日過ぎ、周蔵は安井曾太郎の紹介で、清水焼の職人に頼んで作らせた雛人形を携えて、米子を訪ねる。米子は一応喜んだが、自分への届け物がないとさほど喜ばないという悪癖を顔に出す。母親としてはまったく話にならぬ薄情さである。周蔵の目的は、米子に佐伯の代筆を止めるよう、忠告することにあった。米子は、佐伯の画が下手であり、また思うほどに数を描かないからと、くどくど言い張って居たが、周蔵は「マフ ヤメルヤフニ」と強力に言い放ってきた。

 それは、佐伯が描いている落合辺りの画の状態を見て、巧いかどうか分からないが、絵が生きていると周蔵には思えるからである。画の中に血が通うようになった。逆に米子のものには勢いがなく、血の通いが見えないと、周蔵は判断した。佐伯の作品がよくなってから、米子が下手なものを出しては、却って佐伯の名折れになる。女賢しくして牛売り損なうと言うことになりかねないと、周蔵は強く言い放った。

 周蔵は、佐伯のために、米子には厳しいことを云わないようにしている。米子とは佐伯はいつか別れることになると、周蔵は思う。その時、米子は今行っている代筆を、脅迫の材料にするであろう。その時佐伯を守護するためには、米子の不貞は格好の防御盾になる。だから、絵のこと以外には忠告する必要がない、と思っている。その時には牧野さんには迷惑をかけるが、やむを得ない。

 同三月末条。要約。

 米子は佐伯の代理画を辞めたようだ。牧野の言では、米子は絵を描かず、牧野以外との浮気に熱を入れている。

 以上、米子と周蔵のやりとりがあるが、すべて虚構である。周蔵は、昭和三年パリで、米子と始めてゆっくり話しをする。

 

 第九節 不倫騒動と出立

 幡ヶ谷の周蔵の家は、五百坪ほどの地所に建つ二軒長屋で、壁を合わせた隣に、 管野敬三(仮名)という陸軍軍属が住んでいた。管野の父は、戊辰戦争の頃、会津藩の戦死者が街中に放置されていた時、三番家老町野主水が死体取り片づけのために、秋田から呼んできた内の一人と伝わる。以後、親子二代にわたり、陸軍の下で特殊な役目を負っていたい。現に管野の長男は、陸軍官舎で生まれている。

「救命院日誌」昭和二年四月二日条。

 ケフハ 仰天スルコトガヲコッタ。管野敬三ノ妻君ガ 佐伯トノ浮気ガ発覚シテ 離別シタノデアル。

 その妻 由利子(戸籍名フミ)が、管野が軍の用務で遠方に行ったまま一年も帰宅しないうちに、佐伯と出来た。三月三十一日朝、妊娠していることが夫に知れて、自分で離婚を申し出た。家を出たが、行き場がないので、巻さんの家に身を寄せている。周蔵が、子供の父親は誰かと聞くと、巻が怒ったように、「佐伯さんです」と云った。以上が「救命院日誌」の要約である。

 因みに、会津藩筆頭家老田中土佐の子孫が、弘前高校生の共産主義者で、以前からしばしば上京していた。この三月に高校を卒業して東大に入り、管野家を訪れてくるようになった。夫人の実家二階堂家が会津藩士で、田中家の親戚だからである。やがて隣家の周蔵と親しくなるその東大生は、名を田中清玄という。ところで「周蔵手記」同年三月条に、巻さんが、函館の女学校を出て東京で裁縫の職についた妹チヤさんを引き取り、幡ヶ谷の隣家を借りて一緒に住む、という記載がある。隣家とあるが、正確には近隣ということであろう。

 同月四日条、要約。管野は由利子と離婚すると断言し厳しい状況であるが、相手をさほど憎んでおらず、妻君の不貞のみを怒っている。問題の由利子は周蔵と同じ年格好(実際は明治三十年一月十八日生まれで、周蔵より三歳下)だが、管野との間に二児がある。

 同月七日条。要約。

 周蔵は、由利子を若松に頼むことにして、京橋に同伴した(若松は函館にウロコボシ北星組なる商標で沿岸漁業の会社を作り、いわゆる表側の方も盛んにしていた。巻は救命院に戻らず、京橋に水産物の店を出し、若松と故郷の大畑から魚介を仕入れて、築地で売ることを始めた。そこを若松が、何かの必要から連絡事務所にしていたのを、佐伯が勘違いしたのであろう)。

 若松は、以前の大谷キクエの話に、多少違いがあった、と言い出す。キクエは佐伯の結婚(大正九年十一月)以前に自殺していたのを、調査人が違って報告していた由。然し、聞いてみると、キクエと佐伯と、祐正と米子の関係に変化はなく、キクエの腹の子の父が、祐正でなくて佐伯である方があり得ると強調した。キクエは腹の子のことを佐伯に打ち明けたのに、どうやら無視されたとのことである。(大正九年か十年かずいぶん迷わされたが、内幕はこんなことであった。佐伯は「救命院日誌」を何遍も書き直しながら、こんな複雑なトリックを創って喜んでいたのであろう)

 同月八日条、要約。

 布施一、牧野夫人や巻さんは、口を揃えて佐伯を批判した。つまり、周蔵に報告なしに、米子を大磯に移しているというのである(この意味がよく分からない。朝日晃作成年譜によると、「七月、神奈川県大磯山王町四一八番の借家で、一時、米子と弥智子と静養する」とある)。

 余りうるさく云うので、周蔵は正午、佐伯を下落合に尋ねた。米子はおらず、佐伯はふてくされていた。 家の様子からも、妻子はいないようである。戻った周蔵は、この非常識ぶりが天才たる所以であるというので、女どもは唖然とする。周蔵は、妻子を音磯に移したのは、由利子と逢い引きする目的だったのか、と推量する。

 同七月十三日条、要約。

 由利子は管野家から離縁して、二階堂フサとなった。臨月が近くなったので、周蔵はフサ を生国の会津まで送った。実家でも大変な騒動で、怒った父親に家に入れて貰えず、母の実家の喜多方の寺に行き、農家の土蔵を借りて生むこととなった。あまりの悲惨さを見かねて、周蔵は再び上京して、私の所なり、牧野医院なり、京橋で生むようにと勧めるが、本人は頑として聞かない。佐伯はパリ再渡航の準備で夢中である。

 以上、どれくらい信じられるものか、分からない。真相を記す「周蔵手記」四月条にも、由利子(フサ)のことは見えず、代わりに次の記載がある。

△私娼窟ノ情報ニハ サル人物ノ 悪癖ナドモ分ル。安井ナル画家ノコトモ 拾フルガ 無関係。

芥川龍之助ノ 性癖ノコトモ 噂アリ。佐伯モ 歌舞伎横町 訪レテイルラシヒ。

 当時、歌舞伎横町と呼ばれていたのは現在の新宿一丁目である。大黒座の横町にあった私娼窟には、文士や画家が盛んに出没していた。周蔵は私娼の抱え主を買収し、漂客に関する私娼らの噂を集めていた。

 真相を記す「周蔵手記」六月末ピ条、要約。

 中村屋で集会したら楽しかったとかで、行こう行こうと佐伯に云われてつき合ったら、何のことはない、菓子を喰らい、西洋の茶を飲むだけである。

 同六月ノマトメの条、要約。

 佐伯は正月からずっと、再渡航の資金作りに忙しく、周蔵は資金の協力をするが、絵の方でも知人をいろいろ紹介した。弁護士白川朋吉とは、あれ以来大谷光瑞師のところでも会ったりして親交があり、大阪に事務所と住居あるのも好都合と思い、佐伯が今描いている絵の売却などを依頼した。然るに、なかなか弁護士ならぬ三百代言で、佐伯で一儲けを考えていたらしく、口銭を欲しがるので、周蔵は口銭相当分として一千円を贈呈した。

 巻さんは割り切っていて、佐伯が今描いている絵は買わず、フランスへ行って描く絵を買うからと、渡した金子を前払い金にしたという。それで何とか、佐伯の再渡航資金はできたらしい。

 管野の一件は、「周蔵手記」にも、七月末ピ条に記載される。

仰天スル事件起ル。佐伯ト、幡ヶ谷隣家ノ S家妻君トノ間ニ 密通事件ガアッタラシヒ。

△巻サンガ、管野サンガ 大変ナコトニ ナッテシマッテヰル トヰフ。聞ヒタトキハ信ジ難クモ、管野サン妻君 巻サンノ家ニ 出テ来テヰレバ 疑フベクモナシ。

子供モ孕ムデヰル トノコト。サレガ佐伯ノ子 ト云フ訳デモナカラフ ト云フト、管野サン軍族ニテ、カノ一年 戻ッテヰナヒノ由。妻君ハ 管野サン戻ラルル前ニ 実家へ移ル由。

佐伯トダフシテ サフナッタノカ疑ヘド 九六番ニテ 偶然知リ合ヒ、美人デアル故 モデルニト 云ハレ、サノ内ヅルヅルト 云ッタコトノ由。

 事実、密通事件があったことだけは間違いない。これだと、夫にばれたというより、妊娠が進行して隠しきれなくなり、子を始末する気がないので家を出た、ということであろう。由利子はたまたま、中野字小淀九六番地の救命院に来たとき、そこにいた佐伯が美人なので声を掛け、モデルになって貰ったのがきっかけのようである。

 ところが、私が調べてみると、意外なことが判った。確かに、福島県石城郡K村の二階堂家の次女が、大正九年に管野敬三(明治二十五年七月生まれ )の妻になっている。しかし、この人の戸籍名はフミで、その後もずっと生きていたし、その母の実家も福島県安達郡二本松町である。また、戸籍の上では、子供もいない。世の中、戸籍などでは真実は判らないのが実情と知る私は、これ以上の追究をやめた。

同続き

マッタク 分ラナヒモノデアル。佐伯云フニ ヤチ子ナル娘ハ 兄ノ子供ト云フガ 妻君トノ争ヒノ時 妻君ガ サノヤフニ口走ッタラシヒガ サレモ分ラナヒ。

大躰、女ガ子ヲ孕ムハ チョヒノ間ノコト。娘デモアルマヒシ ダチラニ 点ヲツケヤフモナク 聞クニ耐ヘナヒ。然シ、S家ニトッテハ 大事件ノヤフデアル。 

 男女のことは、まったく分からないものである。佐伯が云うに、ヤチ子は祐正の子で、それは夫婦喧嘩のときに米子が口走ったから間違いないと云うが、それも真相は分からない。大体、女性が子を孕むのに時間はかからない。生娘でもあるまいし、どちらのせいでもない。しかし、管野家にとっては一大事である。

 同続き、要約。

 今年のケシは上作だった。世の中、辛気くさい労働に疲れて、夕食を摂ったらすぐ眠りこける人もいれば、その隣では絵など描きながら、女と心中スレスレの男もいるのは不思議で、まことに佐伯は理解しがたい。理解しがたいと云えば、兄の祐正も最近は佐伯を気に懸けていないようだ。祐正は相変わらず大谷光瑞師の信用が厚いのに、佐伯のことを無視しているのは、光瑞自身の影響だろうか。天才の特質は凡人には甚だ理解しがたいから、実兄ですら佐伯の天分を分からないのであろう。

 同続き、要約。

 フランスに渡る前に、「救命院日誌」の続きを書くようにと佐伯がいうので、周蔵はくそ暑い中を記帳した。出来上がると、大谷光瑞師に届けてくれという。周蔵が断ると、自分で届けに云った。戻って云うには三百円の餞別を下されたそうである。光瑞師はおそらく祐正から集金するであろうに、貰って喜んでいるのは愚かである。大谷さんは決して甘くはない。

 同七月末ピカラ八月ハジメ条。

佐伯ハマタモヤ 記帳ノ変更ト追加ガアルトノコトニテ 二日バカリ サレニ費ス。マッタク 不思議ナ人物デアルガ 中村屋ニ通フ間ニ 感動スルコトニブツカッタラシヒ。

 中村屋での感激の原因は後日条に出てくる。朝日晃作成の年譜によると、佐伯は七月二十九日に、東京駅で、里見勝蔵と藤川勇造に見送られて、実家に向かった。とすると、佐伯は出立の日ぎりぎり迄「救命院日誌」の記帳にこだわっていたわけである。佐伯にとって、この日誌の意味は、想像もつかぬほど大きい。私がなるべく省略しないようにつとめるのも、そのためである。

 同八月条、要約。

 佐伯は再びフランスへ発つ。酔って泣くが佐伯を、周蔵は相手にしない。続き原文。

△佐伯ハ悔ヒ、酒ニ酔ッテ泣クモ 管野サンノ妻君ハ 行為ガ ダフヰフ結果ヲ生ムカ ヨモヤ 分ラナカッタ トイフコトハアルマヒ。何ノ忠告 必要アラフカ。

 周蔵は、文言では上のように冷淡に記すが、内心では由利子(フサ)に同情しているとみえる。 記載の内容が、珍しく重複しているからである。七月二十九日に西下した佐伯のことを、八月条に記すのも、草の日誌では不思議はないが、どこか解せぬ所がある。

 

 第十節  薩摩家の資金枯渇

 佐伯の出立から三か月遡って、これは「周蔵手記」昭和二年五月条、要約。

 佐伯は資金作りのため、絵を売ることに積極的であるという。然し、才能あるも遅筆のため、売るための絵が少ないらしい。フランスで描いた作品を、巻さんは二〜三十枚買ったらしい。最近は落合から大久保あたりと、大阪にまで行って、描いているらしい。何が本当か分からないが、米子の言では、佐伯は独りでは描けず、米子の手伝うこと多いという。

 巻さんは佐伯の絵に賭けている。呉先生は佐伯に才能あると云われるし、米子が下手だと云っても、自分は佐伯の作品を買うというのが、巻さんの行動である。佐伯と実際に会ったことのない呉先生の判断が正しいとは断定できないと周蔵は思うのだが、そういうわけで、米子加筆品は買わないが巻さんが佐伯の資金作りの一番手のようだ。この頃は一時のことが嘘のように、周蔵に金のことを云ってこない。

 「周蔵手記」六月条、要約。

 薩摩から手紙が来る。内容は簡単なもので、初台の父親に会って欲しい、用件が分かるというので、周蔵は薩摩邸に出かけた。まず、去年の貸金に相当する絵だということで、フランスから送ってきたものを、封も開けずに渡された。内容は、ゴーギャンとルノアールとのことで、薩摩の父がいろいろ説明してくれたが、周蔵には分からない。別紙に記載することとした。

 用件の二つ目は、フランスの文化事業は大分予定より金額がかかり、追い金のことで四苦八苦している。 金策を頼まれた周蔵は、半月ほど待ってくれと伝えた。その代わり、五万円を調達しようというと、どうでも八万要るといい、結局六万と決まる。薩摩家の資金も底をついてきたらしい。女子供でもないのに、八万に慌てるのは底が見えてきたからである。

 巻さんに協力を求め、父の林次郎にも頼み、藤根さん、北海道の阪井さんにも頼れば、八万はできようと思う。周蔵は五万ならと云ったが、薩摩の父は不動産の処分も考えて計算したのか、六万となった。周蔵はすでに調べておいたが、薩摩の不動産にはすべて抵当が付いており、売っても作れる金は少ない。それにこの不況では、買いたたかれるのは必定である。

 周蔵は、亡き加藤邑が、草をやるには、いつでも必要となるから現金を貯えて置かねばならぬ、と教えてくれたのを思い出した。巻さんに巨額の借金をしてしまった。薩摩が返さないならば、自分で返すと周蔵は決めた。

 「周蔵手記」昭和二年七月条。

フランスニ手紙書ク。大分馴レタカラ、単刀直入トヰフコトニナッタ。

△佐伯ハ 身ニ余ル買ヒ物ニ フウフウシテ 僅カ八圓ノ金ニ子困リ、面子モアッテ 急場ノ援助 求メテ来タ。ウンヌント書ク。

 これが「草」同士の暗号電報なのである。佐伯=薩摩、八圓は八万円。文の意味はお分かりでしょう。

 同七月末日条。

△フランスカラノ手紙ニハ、薩摩ハ有頂天ニテ、子供ヲ集メルヤフニ 画家ヲ集メテ ガキ大将ヲ キメテヰルラシヒ。スベテ予定ノママ トノコト。

△佐伯ハ 妻君ガ フランスニ連絡ヲトッテヰルラシヒト 藤根サンハ 云ハル。

然シ 海軍ハ 意外トズサンナヤフデアルカラ、連絡ガ ウマクトレテヰルカ ダフカト思ユ。

芥川ナド 自滅ニ近ヒトヰフ人モヰル。性病ダトカ 精神狂ダトカ イロイロ 云ハレテ ヰルトノコトダ。

末日。芥川ハ ヤハリ死ンダ。

 フランスのネケル氏(暗号名)からの連絡では、薩摩は有頂天で、画家を集めてガキ大将を決め込んでいる。すべて予定の通り物事が進んでいる。佐伯については、米子ガフランスに連絡を取っているらしいと、藤根が報告してきた。しかし、海軍は意外と杜撰だから、連絡がうまく取れているかどうか。

 芥川の自殺は七月二十四日未明のことである。自滅に近いという人がいる。性病とか精神病だとか、色々云われている。(芥川ハ ヤハリ死ンダ と繰り返したのには、今は未詳だが、必ず意味があろう)

 同九月条。要約。

 周蔵は額田から薬学研究所を作るから、ケシのこと協力してほしいと云われる。研究室の名目でケシの栽培、モルヒネの製造をしたいようだが、自分は公的な職は向かないと断る。結局、研究科は作らず、となった。東京市電も退職する。共産主義が強くなり、組合にいぶかられる立場であるからには早いうちに退くに限る。上原元帥も、その通り、と云われた。

 

 第十一節 周蔵の渡仏

 上原閣下は、今年暮か来年にかけて、フランス、スイスに行って貰いたか、と云われた。仕事の内容を聞いて周蔵は驚いたが、実行計画を自分で立ててみます、と伝えた。

 同十月三日条。

親父殿戻ラルル前ニ ト云フコトデ 一応形ヲシタ。ナレド当分ハ、今迄ト変化ナシトス。

自分ハ考フルコトアリト 巻サンニ伝フルト、サフデセフ ト云ハル。有難ヒ。

又、妹ガ病気デモアルタメ 住ヒハ今迄ト同ヂ 隣同志トヰフコトデ サレモ変化ナシ。

 照れて遠慮して書いているが、これは周蔵と巻の婚儀のことである。林次郎が日向に帰る前に、内々で形ばかりの祝言をした。周蔵は上原の命令を果たすまで動けず、それは巻も分かってくれた。また、巻さんも病身の妹チヤを抱えており、住居も今まで通り、周蔵とケサヨ、巻とチヤが隣り合わせで住む形は変えなかった。

  同条続き、要約。

 周蔵は上原元帥からの命令の実行計画を練る。去年は、仮出所した甘粕さんは八月ころフランスに行かれたので、甘粕さんに依頼しても良いかと聞くと、上原は「甘粕には別口を命じてある、いずれ合流とはなるだろうが」、とのことであった。(ここに、甘粕の留学なるものの真相がチラリと見える)

 若松安太郎氏に頼むのは大いに良か、とのことである。周蔵は、新妻の巻さんに、安太郎氏との連絡を依頼した。安太郎氏からついでに聞いたのは、米子は抜け目なく安太郎氏に餞別を催促する手紙がきていたとのこと。内幸町の事務所で安太郎氏と会えるのは、十月十二日と決まった。

 今回の目的地はスイスのベルンで、必要な人物については、ネケル氏が手配してあるとのこと。パリでネケル氏を尋ねることが出来る。連絡は済んでいて、少なくとも一月下旬にパリに到着予定とする。あとはネケル氏の指示に従って、スイスに入れば良い。障害があるとすれば、外人よりもむしろ邦人である。佐伯すら、本当のアタマ(上部機関)が誰なのか分からない。少なくとも米子が海軍筋であること間違いなしとだけは、若松も一致した。問題は、上原元帥に対抗する田中−宇垣の線である。田中−宇垣は、今回の工作をどこまで知っているだろうか?

 注意を怠らないが、佐伯以外に自分を尾行する者はいないと、周蔵は思う。徳田球一は、自分の正体がつかめないために、百姓を束ねてケシで儲けている悪党と思っている。布施一がそう云うからである。安太郎氏のことも、そう思っている。佐伯も同様に思っており、自分には金があると思っているはず。佐伯が「救命院日誌」という変な日誌を自分に書かせるのは、悪く考えるならユスリとも思える。記帳の内容として、ケシのことを入れたためしがない。しかし、佐伯が布施とつきあいがある以上、ケシのことをまったく知らない筈がない。藤根さんは絶対に喋らないが、しかし藤根さんにしても、布施の云うことを否定し続けることは、とてもできない。もう、こんな状態で何年にもなるから、当然佐伯には、分かっているはずである。

 妙ちくりんな手帳は、それも時々書き換えする記帳は、自分にケシのことを見逃してしてやっていると云う示唆、とも受け取れる。その証拠というほどではないが、自分の顔をみれば、佐伯はすぐ金の話。それも以前と違い、指を丸めて示すだけというほど、厚かましくなってきた。せいぜい百円、二百円のことだから、黙殺しているが、このことは、大谷さんか閣下に、そのうちに報告せねばならぬ、と伝えた。安太郎氏は「話シタラ チョンダネ。パリー土饅頭ダネ」と、恐ろしいことを言う。

 以上からして、佐伯以外に自分を怪しむ人間は居らんと思う、と周蔵は云った。安太郎氏は、妻子と離れて暮らすこと多く、つまり正体を知られたくないために、意識的にそうしたとのことで、正体を知っている者は数人しかいない、とのことであった。それから二人は任務の背景について話した。極めて重大な歴史的証言だが、国益にも関する話であり、佐伯の画業の追及にはあまり関係がないので、ここでは割愛させて頂く。このとき、若松安太郎は「張作霖を弾こうという話が、田中の方にあるということを自分は耳にしている、ただしあてにはならないが」、と云った。

  同十月末ピ条、要約。

 周蔵は舌の根に、米粒大のしこりができたのを発見。みると白くて固い。牧野に見せると慌てて、癌研に行けという。舌癌とのことで、即手術しないと、後二年の命と云われる。二年あれば当面の任務には充分と思い、放置することにした。しかし、やや痛みがあるため、よくよく自分で見たり、巻さんに見て貰うと、歯が当たっていることが分かった。よって奥歯を四本抜く。逆に抜歯によって体力が低下し、十日弱休んだ。歯の根がしっかりしていすぎて、歯医者が苦労した。

 折から、北海道の阪井さんが上京して来て、手術の意味なし、と反対された。阪井は胃ガンにかかり、半ばやけになってアヘンを使用したら、不思議にガンが治ってしまったという己の経験から云うのである。

  同十一月条、要約。

 安太郎氏と打ち合わせ済ませる。助手に頑丈なロシア人を雇ったという。

  同末ピ条、要約。

 渡航の旅券の名義をどうするか、上原閣下に相談す。しばらく考えておられたが、煙草屋が良かろうが、と云われる。周蔵は、数年前から小山建一名義でたばこ小売商を開業し、久原鉱業内に売店を出してトンネル商売をしている。小山建一は実在の人物で、周蔵と同業だが、会ったこともない。

 因みに外務省外交資料館には、昭和二年十二月二十三日起草、同二十四日発送の「外国旅券下付協議に関する件」と題して、通商局長名の許可書類がある。小山建一は明治二十九年一月十三日生まれで、学歴は関西大学中退とある。

 周蔵は上原閣下から、資金にと三万円を頂く。よもやと思うが命がけだよ、と云われた。ついでに、祖母のギンヅルのことも聞かれた。ギンヅルは今年八十八才になり、流石に大人しくなったと父は云っていた。

 周蔵には、今回は何となく自信はある。こうして上原閣下宅に出入りしていても、疑われている所が少ないようだから、成功する自信があった。何と行っても、尼港の大虐殺事件に際し、ニコライエフスクから、島田商会の従業員と一般人を合わせて数十人を連れて逃げ切った、若松安太郎(本名堺誠太郎)が一緒だから、いざという場合の機転はきくであろうと思うからである。パリのネケル氏は、手紙からしても相当の人物であろうと想像され、会うのが楽しみであった。

 渡航名目は、タバコ屋の店舗拡張のための欧州視察ということで通った。名義人の小山健一に合わせて、明治二十九年生まれとなる。ひげを落としたら、結構若くなったと云われた。

 安太郎氏とは一月十日に会える予定。佐伯からの送金依頼が来ており、周蔵の健康のこともあって、巻さんは取り越し苦労をしている。

 薩摩治郎八が、自分の渡仏を疑問に思っていないか。米子と身近で、何かしていないか。みんな薩摩は海だと思っているようだが、薩摩が近い前田利為侯は田中義一と親しいと聞いているから、宇垣−田中の線で薩摩はその繋がりではないか、と周蔵も取り越し苦労にきりがない。

 薩摩は自分を使っているつもりだと、周蔵は確信している。それに、薩摩を操って踊らせている周蔵の同志ネケル氏は、薩摩を田中義一の線と繋がるとは見ていない。

                                  (続く)

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