佐伯祐三真贋事件 Q&A


●佐伯祐三真贋事件に関するQ&Aをまとめてみました。

◎質問と回答

Q1:岩手県遠野市に住んでいる主婦(吉薗明子さん)が200点もの未公開の佐伯祐三の作品を所蔵しているのは何故ですか?

A1:吉薗明子さんの父である周蔵氏は、西本願寺の大谷光瑞師から佐伯祐の東京美術学校への入学を依頼されました。祖母であるギンヅルの関係で海軍の山本権兵衛と繋がりのあった周蔵氏はそのコネを使い佐伯の入学の斡旋をしました。そんな関係から周蔵氏は佐伯の面倒を見ることになりましたが、佐伯は西本願寺の諜者としての活動を行っていたため、金遣いが荒く頻繁に周蔵氏に金をせびっていました。当時かなりの収入のあった周蔵氏は、あまり気にせずに金を渡していましたが、当時会計をしていた後に妻となるさんの助言により、描いた絵を買い取る事で金を与えることとしました。買い取った絵の中にはスケッチやメモなどそれこそ「捨てるような」絵もありました。(これが、佐伯祐三にスケッチや習作が少ない原因となる) その絵の一部は妻米子の強引な依頼によって譲与されて、米子の加筆が施されて祐三作品となり市場に出回っています。その残りを吉薗明子さんが所有していた訳です。



Q2:何故、今まで吉薗さんの事が知られていなかったのですか?

A2:吉薗周蔵さんは、陸軍の上原元帥の「草」として諜報活動を行っていたため、一切表舞台にはその名が伝わっていませんでした。周蔵さん自身も自分は表に出ないようにしていたようです。また、妻米子は祐三との離婚や加筆に関して自分の都合の悪い事は全て隠して、祐三との純愛夫婦を偽装していたため、二人に関して詳しく知っている周蔵さんの事は触れたくない事実でした。
このように二人の思惑が一致したため、周蔵さんの存在は今まで知られていませんでした。


Q3:吉薗周蔵さんは、佐伯のパトロンとなるほどの収入があったのですか?

A3:周蔵さんは当時、上原中将(当時)と関連のある久原房之助の久原鉱業の売店の扱う煙草の売上に回してもらい、ペーパーマージンだけで月収300〜400円を得、更に阿久津製薬の役員として、月給100円、年2回の役員手当て3,000円を得ていました。また、他にも煙草の小売の利益、純粋アヘンの収穫による収入で年収1万円以上はあったと思われます。これは、現在の貨幣価値で言うと年収1億円以上にあたり、かなりの資産家と言えます。これにより佐伯祐三のパトロンとなることができたばかりか、パリで現在の価値で600億円を使いまくったと言われる薩摩治郎八が不景気により資金不足に陥った大正15年、昭和2年に各5万円、6万円を融通し、対価として治郎八所蔵の絵画を得ました。


Q4:吉薗さんが、上原元帥の「草」であると言われても何だか劇画の世界のような気がしますが...。

A4:戦後の平和な現在では、諜報活動というと劇画やTVでしか登場しませんが、現在でも緊張状態にある海外の国々では日常に行われている事です。日本でもロシアや北朝鮮・韓国の諜報活動は有名ですよね。周蔵氏が活躍した大正〜昭和の日本でも日露戦争〜第一次大戦の緊張状態にあり、陸軍・海軍ともに諜報活動は非常に活発でした。特に日露戦争時の明石元二郎のロシアの後方撹乱は有名です。当時世界の大国であったロシアに対して極東の島国である日本が勝利するとは世界中の誰もが予測しなかった事です。日露戦争と言うと「203高地」、「日本海海戦」の勝利が有名ですが、これにしてもロシアにとっては局地戦での敗北に過ぎず、負けを認めて戦争を止める理由にはなりません。明石元二郎がレーニンなどを買収してロシア国内に厭戦気分と帝政に対する不満感を蔓延させ、革命の機運を高めたからこそ、ロシア皇帝は戦争の早期決着をつけざるを得なかった訳です。それ以来、日本の軍部でも諜報活動の有用性に対する評価は非常に高まっていたと思われます。
また、美術界のドンと言われた河北倫明氏は病床に臥していた時も、美術界の動向に関して非常に細かな情報まで把握していたそうです。これなども「諜報」とこそ言いませんが、情報網を張り巡らしていた証左と言えましょう。


Q5:現在公開されている佐伯祐三の絵は妻米子の加筆だと言う事ですが、ちょっと信じられません...。

A5:まず、現在公開されている佐伯祐三作品を良く見てください。(特に広告の文字が多い絵が良いと思います)下地に野太い描線があり、その上に細かい筆で文字が描かれているのが分かると思います。これは良く見てみるとかなり違和感を感じると思います。この細かい描写が妻米子の加筆と言われています。加筆に関しては、米子が周蔵さんに出した書簡でみずから告白しています。また、米子加筆に関しては、美術界には20年位前から噂としては伝わっていた事は、美術評論家の坂本満 聖徳大学教授(美術史)や千葉成夫東京近代美術館主任研究官などの言で分かっています。聞く所によると、米子に加筆させた画商、その担当者の名前まで特定できているそうですから、今後の展開によってはそれらが公表される可能性はあると思われます。


Q6:妻米子と祐三は最後には離婚するまで険悪であったとの事ですが、米子の手記などで書かれている純愛夫婦とのギャップが大きすぎますが...。

A6:もし、あなたと奥さんの仲が非常に悪かったとします。その場合でも、あなたにかなりの資産があれば、あなたの死後、奥さんは世間に対してあなたと非常に仲睦まじかった思い出話をいやになるほどするでしょう。


Q7:武生市の選定委員会の座長である河北倫明さんって、どんな人なんですか?

A7:河北倫明さんに関しては、。百科辞典を紐解くと、『福岡県出身。京大卒。京都国立近代美術館,横浜美術館各館長,美術館連絡協議会理事長などを務めて美術館活動の基礎を築いた。近代美術史学の確立に寄与し,1991年文化功労者。』(日立デジタル平凡社) と書かれています。実際には、日本の美術行政を牛耳る美術界のドンとして君臨していました。美術館の館長の人選は、実質河北さんが握っていたようで、ある年齢になると多くの美術界関係者は館長の職を求めて河北氏の周りに集まって来たようです。実際に絵を買う権限を持つ美術館長の人選に対してそのような実権を持っている河北氏ですから東京美術倶楽部などの画商達にも大きな影響力を持っていました。そのため、河北氏が元気な時には真作派が優勢でしたが、氏が病床に臥した時から贋作派が盛り返してきました。


Q8:従来の佐伯作品がたとえ妻米子との共同制作でも別に贋作ではないので問題無いと思うんですが...。

A8画商から美術館に納める時には、疑惑があった時には購入価格で返却するとの約束がなされているそうです。夫婦での共同制作であっても、購入時には佐伯作品として購入しているため疑惑品として返却を要求される可能性があります。一度に多くの美術館から佐伯作品の返却を要求された場合、画商達は金銭的に破綻する可能性があるため必死になって贋作にする必要がある訳です。


Q9:吉薗明子さんは、佐伯作品を担保として借金をしたという事で裁判で有罪となったと聞いています。ということは、裁判できちんと真贋論争がなされたと言う事ではないのでしょうか?

A9確かに明子さんは裁判で有罪となりましたが、その時にまともな真贋論争はなされていません。武生市が発表した「小林頼子報告書」は、落合莞爾氏が著書で論破していますが、それを一切無視して裁判は進められました。裁判では真贋論争は「小林頼子報告書」で決着が着いているとの考えで進められました。このように「小林頼子報告書」は、その内容とは無関係に真贋論争には決着が着いているとの話が一人歩きしています


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