建設予定の大阪市立近代美術館につい
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武生市作成の「佐伯祐三のパリ日記」資料2

武生市作成の「佐伯祐三のパリ日記」資料3
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吉薗周蔵との接点 Montmagny
急告 チタン白に関する裁判上の偽証について

吉薗周蔵と佐伯祐三の出会い

   

 1.オマンに「草」を頼みたか
吉薗周蔵は明治27(1894)年に、父吉薗林次郎と母木下キクノとの間に、宮崎県の小林で生まれました。林次郎の母は岩切家から養女に来たギンヅルで、父は公卿の正三位堤哲長でしたが、林次郎は母と共に帰郷して豪農吉薗家の家督を継ぎました。
大正元年(1912)の夏、18才の吉薗周蔵は、父吉薗林次郎の従兄に当る上原勇作に呼ばれました。上原は当時陸軍中将で、陸軍大臣の要職に在りました。上原は周蔵の経歴を詳しく尋ねたうえで、薩摩の言葉で切り出しました。
 「お前(まん)に草を頼みたか」、続けて「こん俺(おい)に、おまんの命預けてたもんせ」と謂いながら、頭を下げました。周蔵は戸惑いましたが、結局「草」を引き受けます。草とはスパイの一種で、地域に定着して信用を博しながら、諜報その他の活動をします。スパイには「草」の他にも、動き回りながら諜報活動する「犬」とか、一つの仕事にコツコツと励む役割の「歩」がいます。
 周蔵は上原から、阿片を採る植物の罌粟の栽培と罌粟の利用に関する研究を命じられ、各地の農家に罌粟の栽培を勧めて回ります。同じころ、後藤新平が台湾総督府で配給する阿片の量産を目指して各地に罌粟栽培を広げますが、それは医薬用阿片を採る量産タイプの罌粟でした。周蔵は祖母ギンヅルが親しい渡辺ウメノから、「延命のアヘン」と謂う極めて純度が高い特殊な罌粟の存在を教えられ、その種子を貰って生産に成功します。ウメノは京都の町医師の娘ですが、母の実家の丹波上田家がオランダ渡りの種子を伝えていたのです。画家円山応挙の出た上田家は、オランダ商いをしていて、血筋にもオランダ血統が入っていました。つまりウメノは、ヴェネティア・コスモポリタンの後裔のワンワールド(このHPの「狸仙経済夜話」を参照)の一員だったのです。

 2.「歩」になった周蔵
 罌粟関係の仕事は、「草」と謂うよりむしろ「歩」ですが、その頃周蔵は、医者の友人加藤邑から、血液型が人によって異なりそれが判らないと輸血が出来ないと聞き、折からの第一次大戦で日本将兵が大陸へ出征していることから、血液型分離法を陸軍が採用すれば犠牲者が少なくなると考えて、上原に具申します。上原は大いに喜び、ウイーン大学に潜入してランドシュタイナー教授から血液型分離法を学び取ってこい、と命じます。渡欧の準備として、上原の親しい東京帝大医学部の呉秀三教授について医学の基礎を学びます。
渡欧に当たり上原は、隠れた盟友の久原鉱業社長久原房之助を周蔵に紹介し、久原鉱業社員武田内蔵丞の名を用いて渡欧するよう命じます。当時、日本は第一次大戦でドイツ・オーストリアと交戦中でしたから、周蔵の行為はスパイ活動に当たり、一つ間違えば銃殺ものです。上原から「草」の先輩に当る予備役陸軍少佐石光真清を護衛に付けて貰った周蔵は、船上や停泊先でスパイ術の指導を受けながらの二人旅です。西欧へ回る石光と別れて敵地オーストリアに入った周蔵は、苦心の末、画家エゴン・シーレの従兄弟の医学生フェビューレ・シューレを通じて、ウイーン大学医学部のランドシュタイナー教室へ潜り込み、親しくなった教授から血液型分離理論を直接教わり、ドイツ語でノートを作って、大正6年6月に帰国しました。そこで欧州出張の成果を上原に報告すると、早速陸軍軍医を集めて報告させられますが、その中に後に親友になる額田兄弟がいました。
 上原に具申して、精神病治療に阿片を利用する研究を進める許可を貰った周蔵は、中野町中野96番地(中野区中央1丁目11番地)に、日本初の精神カウンセラー「救命院」を開設したのは大正6年夏のことでした。救命院は、罌粟栽培の指導で全国を回っている周蔵が周囲から怪しまれぬようにと掲げた表看板ですから、本人は留守がちで、その代わりに布施一らがゴロゴロしていました。

 3.「犬」佐伯祐三との出会い
 8月初め、周蔵は上原から「一度、築地本願寺に行って話聞いてほしか」と言われ、早速本願寺に行き、おかしなことを頼まれます。
それは、「大阪の寺の次男が美術学校に入るために上京してくるが、来春に無事入学できるように取り計らって貰いたい」ということで、早く云えば裏口入学の依頼です。
 幸い周蔵には、上原が付けてくれた少壮実業家の若松安太郎と謂う相談相手がいたので相談すると、元総理大臣の海軍大将山本権兵衛閣下に頼みに行くことになり、一発で解決します。山本権兵衛は、幕末にギンヅルが京都二本松の薩摩藩邸で女中頭をしていた時からの知り合いでしたから、造作もありません。
裏口入学は西本願寺の前法主(実質的法主)大谷光瑞師の依頼によるもので、寺の次男とは末寺光徳寺の次男佐伯祐三で、周蔵より4歳年下でした。大阪一の秀才校で知られた北野中学に合格したことで光瑞師の目に留まった佐伯は、既に本願寺忍者の「犬」として実績を挙げていたですが、佐伯の絵画の才能に注目した光瑞師は、佐伯を画壇有数の著名人にするため、美術学校(今の東京芸大)に入れようとしていたのです。
北野中学の秀才佐伯も一般教科が苦手で、この春の入試では落第したので、光瑞師は今歳こそは確実にと、上原勇作に保険を掛けたのです。後に親しくなった大谷光瑞師に、周蔵がこの時の事情を尋ねると、「君が権兵衛に顔が効くと聞いたからだ。美校は海だが、僕は海軍に道を持っていないのでね」との説明を受けました。
佐伯が救命院に周蔵を訪ねてきたのは八月の末で、以後何回か会うことになります。本願寺の要求は、佐伯が一人前の画家になるまで面倒を見てやってくれと云うことで、その代り、佐伯が周蔵のアリバイ作りに役立つというものでした。そこで周蔵は、佐伯が精神病者ということにして救命院の診察記録『救命院日誌』に佐伯の記録を記載し始めます。出張続きで現場にいない周蔵は、『救命院日誌』の記帳を佐伯本人に任せますが、佐伯は自己顕示欲なのか、それにのめり込んでいき、周蔵を悩ませます。
  
 以上が吉薗周蔵と佐伯祐三の出会いです。あとは、リンク先の「佐伯祐三の真相」でお読みいただくとします。
                         平成23(2011)年9月16日
                                               落合莞爾しるす