1.キッチナー元帥と江豆紅

2.キッチナー元帥と奉天宮殿磁器庫


3.清朝宝物の運命(1)

4.清朝宝物の運命(2)

5.清朝宝物の運命(3)

6.清朝宝物の運命(4)

7.清朝宝物の運命(5)

8.清朝宝物の運命(6終)

アマルナ衆考

フルベッキ群像写真と小栗上野介

「キッチナー元帥と奉天宮殿磁器庫」のもう一つの見方 南郷美継
ランチェスターの法則 南郷美継

    日本近現代史

堀川辰吉郎1880〜1966
(明治13年〜昭和41年)  


醇親王(1883〜1951)


辰吉郎の祖父・孝明天皇
1831〜?(公式記録1867)


醇親王の子宣統皇帝溥儀(1906〜67)

序 本会の日本近現代史研究について
 本会が日本近現代史の研究を始めた契機は、紀州徳川家に伝来した中国古陶磁を引き継いだことにある。その日本伝来にまつわる事情を追求した処、終に到達したのが奉天特務機関長貴志彌次郎少将と陸軍特務吉薗周蔵であった。
孝明天皇側近の公卿正三位堤哲長は維新政府の参与に挙げられた直後に庶子林次郎を残して急逝する。林次郎の長男吉薗周蔵は、大正元年(1912)に林次郎の従兄の陸軍大臣上原勇作中将(のち元帥参謀総長)から「草」(私設特務)となることを依頼され、その密命の下に数多くの国事に携わり、自分の活動とその時の心境を忠実に記録した膨大な『吉薗周蔵手記』を残した。
本会のHPに彩りを添える『奉天古陶磁圖經』もその一つである。平成8年(1996)、本会は縁あって『吉薗周蔵手記・本紀』『同・別紙記載』とともに『奉天古陶磁圖經』を入手し、以来その解読に勤しんできたが、その過程で上原勇作の真相を知るに至った。
上原勇作は島津藩の下士階層が幕末に結成した一種の秘密結社「薩摩ワンワールド」に属しており、しかも三代目の総長であった。英国を本部とする世界海洋勢力の薩摩支部というべきその結社は、淵源が薩英戦争にあり、英国艦隊に惨敗して世界の大勢を知った薩摩藩士らが、国家社会の保存のために、敢えてワンワールド(ヴェネツィア・コスモポリタン)傘下の海洋勢力(在英ワンワールド)に加入して、その薩摩支部(薩摩ワンワールド)を結成したのである。
その初代総長に就いたのは、西郷・大久保と並び薩摩三傑と称せられた吉井友実(宮内次官伯爵)であった。明治維新の中心人物で一人生き残った吉井は、維新後は世を謀り、新政府の参議・卿・大臣に就くのを故意に避け、宮内省に潜んで、大輔・次官として明治天皇を直近で輔翼すると同時に、薩摩ワンワールド総長の職務を貫いたのであった。
二代総長を継いだ高島鞆之助(陸軍中将子爵)は、陸軍薩摩派の中心人物として陸軍大臣に就き、日清戦争の戦備を整えながら、開戦が近づくと長州派に実権を委ねて予備役に入り、日清戦が終わるや直ちに現役に復帰して台湾副総督に就き土匪平定を果した。さらに、拓殖務大臣として台湾統治策の根本を定めながら、その実施を児玉源太郎(陸軍大将伯爵)と後藤新平(伯爵)に嘱して功績を悉く譲り、自らは戦勝を含めて一切の進級・昇爵の恩賞に与らなかった。日露戦に際しても全く同じで、陸相として戦備を進めながら開戦前に予備役に編入、枢密顧問官として戦中を過ごし、戦後は参謀総長と朝鮮総督、果てはジーメンス事件後の首相などの最高職に擬せられながら、故意に栄職を避けたと観られるのは、国家指導の立場よりも、薩摩ワンワールド総長としての職責を重んじたからと推察される。
明治初年、吉井友実から宮内省へ招かれて侍従番長に挙げられた高島鞆之助は、夙に眼を付けていた上原勇作を従弟の野津道貫(元帥侯爵)に預け、フランス語を習わせた後、工兵学を学ばせるために仏陸軍に派遣したが、その真の目的は在仏ワンワールドに正式加入することであった。現地女性ジルベール・ポンピドーとの間に一女を成した上原は、帰国して「日本工兵の父」となる。
日露戦で岳父野津道貫の参謀長を務めた上原は、陸軍改革を叫ぶ青年将校に推挙されて大正元年に陸軍大臣に就く。これを機に、高島から薩摩ワンワールド総長を譲られた上原は、従来の軍務一本から脱却するために、私設国事掛が必要となり、吉薗周蔵を迎えたのである。
「薩摩ワンワールド」のその後の経過、及びワンワールド勢力の淵源と現勢などについては、本会の落合莞爾が『ニューリーダー』『月刊日本』に永年に亘り連載してきたが、こぼれ話も数多くあり、このHPにより追々説明していきたいと思う。
さて、上原勇作の行蔵から「薩摩ワンワールド」の存在を推定した本会は、高島鞆之助の軌跡を辿って行くうちに、彼らが一介の黒田浪人杉山茂丸によって政治的に誘導されていた事実を発見し、その背景を探ることにより、杉山が在英ワンワールドの密命伝達使であると同時に、謎の貴公子堀川辰吉郎に仕えていたことを確認した。
そこで堀川辰吉郎を探究したところ、浮上したのが驚愕の史実であった。
明治13年に堀川御所で生まれた堀川辰吉郎は孝明天皇の直孫で、皇太子睦仁親王の実子であること。孝明天皇が明治維新を早めるために自ら崩御を偽装され、睦仁親王と倶に「堀川御所」に隠れて秘かに京都皇室を建て、やがて辰吉郎の生誕に至ることを、示唆されたのである。
要するに、明治天皇として国民に仰がれ、維新日本を世界の強国に導いた希代の英主は睦仁親王其の人ではなく、之に代わった人物、乃ち巷説に囁かれていた大室寅之祐であった。そのような大事が、なぜ人民に隠して実行されたのか。今なぜ、それを公開せんとするのか。答えはこのHPにある。

平成23(2011)年9月5日改訂

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